9月も中旬、神戸新聞杯への出走が決まり、迫りくる本番を見据えたヒシミラクルの鍛錬がいよいよもって一心不乱なものとなりつつあるのは言うまでもない。
この機を逃せば……この機を逃してしまう実力ならば、ヒシミラクルにとって最初で最後の大舞台となってしまいかねない。諦めずに現役を続けたとしても、GⅡやGⅠのレースへと出走するチャンス自体、そう得られるものではないのだ。
先輩や同期の面々との合同での練習を経たことも相俟って、当初は夢物語のようにGⅠの舞台を感じていたヒシミラクルも、現在は菊花賞の前哨戦へと赴く自らのイメージがそれなりに固まりつつあるらしい。
言うまでもなく、鷹木もまた真剣そのものである。熱心にミラ子のトレーニングを進めた結果、予定していた休憩時間を過ぎてしまうこともあった。
そんな時、彼にスケジュール遵守を促しに来るのはアグネスタキオンであった。
「トレーナーくん、先ほどキミのスケジュールノートを覗かせてもらったのだが、トレーニングメニューを1分オーバーしているねぇ。ただでさえヒシミラクルくんは今、通常よりも負荷の大きい練習をしているのだから、休憩に入るタイミングも厳密にすべきだねぇ。」
「あ……そう、だな。ミラ子、すまん!休憩に入るのが遅れた!一旦中断して戻ってこい!」
タキオンから促され、鷹木は慌ててヒシミラクルに休憩時間を告げる。
自身以外のウマ娘についても強く関心を持ち、トレーナー顔負けの観察力を有しているタキオンだからこそ、担当ウマ娘の大舞台を前に没頭している鷹木を冷静へと引き戻すことが出来るのであった。
「助かる、タキオン。結城トレーナーからも、ミラ子がオーバーワークにならないようにと忠告されていたのに……トレーナーが夢中になっていては良くないな。」
「気を付けたまえよ、ヒシミラクルくんは実際の負荷にかかわらず、疲労を感じづらい体質のようだからねぇ。見たまえ、予定よりも長く走り込まされたというのに、ケロッとした顔で来るじゃないか。」
確かに、練習コース上からこちらへと戻ってくるヒシミラクルの足取りは軽やかであった。
精神面も安定し、さらに肉体的にもへこたれず努力を続けられるというのは大きな才覚ではあったものの……本番でもトレーニング時でも身体に蓄積する負荷は、思わぬタイミングで致命的な結果を招きかねない。
とはいえ、ミラ子の限界はまだまだ先である。
休憩場所で待っている鷹木の表情に、自責と申し訳なさの片鱗が薄く浮かんでいたのを見てとったのか、ヒシミラクルはここぞとばかりに疲れたような演技を始めるだけの余裕があった。
「ひぃー、やっぱりですよぉ、なーんか妙に脚が重いなぁと思ったら。そりゃ休憩なしにぶっ続けで走ってたら、この私だってヘトヘトになりますよぉ。これは休憩時間、本来の倍ぐらい取らないと疲れが抜けませんねぇ。」
「オーバーしたのは1分だ、休憩時間を1分延長するだけだ。」
「いそいそと休憩場所に駆け戻って来て、無駄口を叩けるだけの余裕があるなら問題ないねぇ。さて、私はそろそろ練習に戻るとするかねぇ。」
ヒシミラクルと入れ替わるように、アグネスタキオンが休憩場所を抜けて練習コース上へと駆け出していく。
基本的なトレーニング方針の打ち合わせさえ済ませれば、タキオンが自主的に練習スケジュールを立てられるだけのウマ娘であることも相俟って、練習タイミングをタキオン自身に委ねていた鷹木。
それはヒシミラクルの指導に熱を注がねばならないためでもあったが、そんなタキオンは意識してヒシミラクルの休憩時間を促せるタイミングで鷹木の傍に居られるよう、自らのトレーニング時間を決めているようであった。
戦績のみならず、指導の現場でも頭の上がらぬ思いを抱いている鷹木に並び、タキオンの背を見送るヒシミラクルはのんびりと語った。
「前もいいましたっけ、タキオン先輩ってトレセン学園で一番ヤバいウマ娘じゃないかってイメージもありましたけど、こうして見ると、後輩を育てるのが一番うまいウマ娘かもしれませんね。」
「まぁ、今のは俺の不注意のせいだが……確かに、後進の面倒を見るのには向いているのかもな。キングヘイローのように、トレーナーになったら……いや、どうだろう……。」
「そりゃタキオン先輩は独特な方ではありますけど、ハマる子にはハマるんじゃないです?」
そう喋っている当のヒシミラクル自身が、駆けていくアグネスタキオンから視線を外していない。
今年の初頭は、完全に進学する気満々だったミラ子。
その意志を進路指導の教員に告げる直前、ミラ子の前に現れて現役レースの道へと引き込んだアグネスタキオンという存在は、当初は平穏を乱す嵐そのものであるようにも感じられたことだろう。
しかし、それから現在に至るまでの9か月間、タキオンの走りを目の当たりにし、同時に独特とはいえタキオン流の気遣いを受けとった今、ヒシミラクルは傍から見ての印象以上にタキオンのことを理解し、慕う思いを抱いているのかもしれない。
「ミラ子……菊花賞で結果を残すところまで行けば、タキオンと同じレースで走れるかもしれないな。それこそ、有馬記念あたりで。」
「ファインモーションちゃんも同じこと言ってましたけど、ホント気軽に言ってくれますよねぇ、トレーナーさん。自分だって、人間のオリンピックに出場すればあこがれの選手に会えるぞー、だなんて言われて実感わきます?」
「いや俺と比べられるものじゃないだろ……何よりもミラ子、お前は既に、全国の頂点にかなり近いところまで来ているんだ。条件戦クラスとはいえ、中央のレースで3勝できているんだから。」
口先では今まで通り、GⅠレースに不釣り合いな自分の像を描いていたヒシミラクルであったが、もはやその頂点の舞台で勝ちを獲るのも不可能ではない圏内まで実力はついている。
ひょっとすると勝てるかも、ではなく確実に勝てる算段があるがゆえに、鷹木もミラ子に菊花賞への優先出走権を獲らせようと決断したのだ。
その日の練習も、昼を過ぎて気温が落ち着く時間帯にまで続き、やがて9月の陽射しが真夏よりも早く傾き始める頃、タキオンとミラ子は並んで休憩場所に戻ってきた。
先ほどまでと違い、今になってタキオンがヒシミラクルと休憩タイミングを合わせたのには、むろん目的があった。
「さぁ、トレーナーくん!分かっているだろうねぇ?」
「えっ?……え?」
「どうしてピンとこないんだい、そこで!まぁ、ヒシミラクルくんのトレーニングに夢中だったのは仕方ないが……私が催促すると来たら、観戦したいレースがこれから始まる、と決まっているだろう!」
「……あぁー……えっと……あっ!ファインの出走日か!」
全く思い至るところが無い状態から、数秒の間が空いたとはいえどうにか脳内からレーススケジュールを捻り出した鷹木を前に、タキオンは多少満足げに頷き、ミラ子はお構いなしに水分補給用のドリンクを飲んでいた。
その日、9月15日に阪神レース場で行われるのは、関西TVローズステークスである。
GⅡクラス、阪神レース場の芝2000m、という条件は、まさにヒシミラクルが今月末に出走予定の神戸新聞杯と全く同じ条件であり、ミラ子にとって大いに参考に出来る資料になり得た。
阪神レース場からの公式配信ページをノートPCの画面に表示しつつ、鷹木はミラ子が見やすいように向けた。
「よく見ておくんだぞミラ子、ファインモーションはまた1番人気だ、混戦になりがちな状況でどうやって抜け出していくのか、学べるところは多いはずだ。」
「完全にファインちゃんが勝つ想定で言ってますねぇ……ま、実際そうでしょうけど。」
もはや圧倒的な1番人気であるファインモーション、おそらく2番人気との間には数倍の票差がついていることだろう。
GⅡ以上のレースで披露される、勝負服姿のウマ娘たちが地下バ道を出てコース上に姿を現すたびに場内の歓声は高まるが、中でもファインモーションが純白のブレザーにアクセントをあしらった勝負服姿で現れた時は、レース終盤の勝利争いもかくやと思わせるほどの大盛り上がりとなった。
生まれながらにしてスター性を備えているかのごときファインモーションの振る舞いに視線が釘付けとなりつつ、タキオンはボソッと呟いた。
「そういえば、なんだが……このローズステークスは、秋華賞への優先出走権を得る前哨戦だねぇ。」
「あぁ、そうだな。神戸新聞杯はクラシック路線における菊花賞のトライアル競走だが、ローズステークスはそのティアラ路線版ってとこだな。」
「ティアラ路線とは、何だろうねぇ?」
「……ん?何って……え?」
鷹木は、タキオンが何を問おうとしているのか、聞いた瞬間には分からなかった。クラシック路線とは何か、と問われても、それはクラシック路線だ、としか答えようがないのと同じである。
しかし言われてみれば、ティアラ路線に出走しようとしているファインモーションが、なぜクラシック路線に来ないのか、判断基準は明瞭ではない。もしも神戸新聞杯の方に来ていたら、クリスエス、ノーリーズンに続く強敵となり、三着以内で得られる優先出走権をヒシミラクルが手にするのは至難の業となっていただろう。
むろん、ティアラという名前が付けられた来歴などは、資料をくまなく調べれば由来が判明するのだろうが、今はそんなことをしている余裕はなかった。画面内では着々とゲート入りが進み、発走時刻が目前となっていたのだ。
「まぁ、問うても仕方のないことではあるかねぇ。さてさて、ファインモーションくんはまたも勝利するのか、はたまた大方の予想を覆すウマ娘が出るか。後者が出れば、それこそ特異点たりうるだろうねぇ。」
「また“特異点”ですか。いっつもそればっかり言ってますね、タキオン先輩。」
ヒシミラクルはテキトーな返答を口にしつつも、レース配信画面を見つめる目の色は徐々に真剣さを増していった。
阪神2000mのGⅡレースから学ぶべきであるとの自覚はあっただろうし、いずれ全てが期待される通りに進めば、ファインモーションはかつて約束したとおり、有馬記念で競う相手になり得るのだ。
〈今年のティアラ路線、その最後を飾る秋華賞へと繋がる前哨戦であります、関西TVローズステークス。いよいよ発走の瞬間が目前となりました。芝状態は良、全ウマ娘、ゲートイン完了……スタートしました!まずは先行争いに入ります、外から一気にウチへと入るようにビーポジティブがまずは行きました。続いてユウキャラットも2番手の位置まで上がっていきまして、あとはニシオノーブル、トリプレックス固まって先団四名ほぼ一団、その直後に今回も1番人気、ファインモーションがつけています。〉
コーナーをしっかり4回まわるコース、率先して好位置を取ろうと前に出るウマ娘たちの立ち回りは息つく暇もない。
ファインモーションはといえば、そんな先団のウマ娘たちのすぐ背後に落ち着いた足取りで収まっていた。やはりマークが集中しているのか囲まれてはいるものの、中団より前で抜け出せるコースを確保した、絶妙な位置取りである。
「いやぁー、うんまいなぁ、あの位置取り……私にも同じことが出来たらなぁ……。」
「無理に苦手分野で競り合うことはないねぇ、ヒシミラクルくんは粘り勝ちするほうが得意なのだから。しかし、どの位置につけたウマ娘が有利にレースを運ぶかは、一目瞭然だねぇ。」
タキオンは、画面内のファインモーションの位置のみならず、その周辺を軽く指さしながらヒシミラクルに告げる。
スタート直後に率先して前に出た面々、そして中団の前につけたファインモーションは各々が想定していた通りの運びを実現している。が、少々出遅れて上がっていこうとするウマ娘たちは、既に固まった集団の外を回るか、あるいは上がるのを諦めて後方待機するしかない状態に陥っていた。
〈さらにここで、大きくコーナー外側を回って、アローキャリーが行きました。1コーナーを回っていきますが、ちょっとコースが外に膨れすぎでしょうか、距離のロスが痛いところ。さて中団ウチ側にはシュテルンプレスト、そしてマイネミモーゼと追走して、タムロチェリーがその後、下がりましてカネトシディザイア、バハムート、最ウチに沿ってメジロベネット最後方、さぁ先頭ではビーポジティブ、2番手ユウキャラットとほぼ並んだ形で、早くも向こう正面へと入っていきます。〉
やはり阪神の2000mでは、先頭から最後尾までさほど大きく広がりはしない。
極端に大外を回るという奇策でどうにか先行の位置につけたアローキャリーも中団に加わり、必然的にバ群は密集隊形となっていった。
「ファインちゃん、位置はちょっと上げましたね、5番手から4番手のところに顔を出してます。」
「やはり身体能力に余裕があると、立ち位置を選べる強みがあるねぇ!本来はもう少し先頭の様子を見ながら息を入れるつもりだったのだろうが、リスクを避けて多少なりと前に出る判断を下したのだろうねぇ!」
最初の1コーナー、2コーナーを回るあたりは、本来ならば極力スタミナの浪費を避けるため、最初の直線で定めた位置から敢えて動くようなことをしない。
だが、ファインは中団が密集しつつある気配を的確に察知し、前方へと接近していた。当然、まだまだゴールが遠い状況でペースを敢えて上げようとするウマ娘はおらず、ファインが包囲される恐れはない。
〈さて先頭から3バ身ほど開いてトリプレックス、そのすぐ外にファインモーションが追走しています。危なげのない落ち着いた走り、今回も圧倒的な実力を見せて今年度の女王の座を揺るがぬものとするのでしょうか。その後ウチをついてマイネミモーゼ、その外にアローキャリーです。1バ身差でニシオノーブル、少し間が空いてシュテルンプレスト、タムロチェリー、メジロベネットとこの辺り完全に並んで固まっています。先頭から最後方までは12バ身ほどの差となって、各ウマ娘これから3コーナーへとかかります。〉
ここまでは緩やかな上り坂が続く区間でもあり、位置取りは各々動くことなく進めてきている。
が、阪神レース場の3コーナーから先は緩やかな下り坂、勝負所でもあって全体のペースがあがっていく。やはりファインモーションがじわじわと前方との差を詰め始め、観戦スタンドからの歓声も大きくなり始めた。
「レースは最後まで分からぬもの、と言いたいところだが……ファインモーションくんの圧倒的な強さを前にしては、この時点で勝負は決まったも同然だねぇ。」
「もう確信がきちゃったんですか、タキオン先輩。私もファインちゃんが勝ちそうだなーとまでは思いますけど、まだ残り800を通過したばかりですし確信するほどでは……。」
「脚運びを見れば一目瞭然だねぇ、まだ仕掛けどころには早いというのに、他の面々は既に必死そのものじゃないか。」
キミならばわざわざ言葉にせずとも分かるだろう?と、言わんばかりにタキオンから横目で見られ、鷹木も口を閉じたまま頷いた。
ここまでかなりのハイペースでレースが進んできていたが、それは全てファインモーションのペースに合わせて他のウマ娘が走ってきたためである。
先行の面々はファインに距離を詰められないように、後方はファインから引き離されないように、あわよくば包囲できるように……と付いてきた結果、もはやゴールまでに余力を残せるかギリギリのところまで来ているのだ。
実際、序盤に大外から回り込んで先行の位置につくといった無茶をしたウマ娘は、既にバテはじめているのが走りから見てとれた。
〈さぁ先頭はビーポジティブ、あらためてリードを2バ身とりました、ユウキャラットが続きまして、その後をファインモーションが3番手へと接近してきた!じわじわと上がってまいります、ここから仕掛けどころという局面ですが良い位置についている!ビーポジティブ、ユウキャラット、再び差が詰まって並んできましたが、やはり強いファインモーション!既に先頭に並んでいます、まもなく4コーナーを抜けて最後の直線へとむかいます!〉
ここまで来れば、ヒシミラクルにもタキオンと同様の確信が得られた。
既に先頭に並びかけているファインモーションは前を塞がれるリスクもなく、コーナー内側には2名しかいないため大外回りになってしまう心配もない。
「うん、さすがに、こりゃ負ける要素ないですねぇ、ファインちゃん。」
「どうして、こうも安心して見ていられるのだろうねぇ、彼女のレースは……既定の可能性が、彼女の勝利を確約しているのだろうかねぇ。」
それはタキオンが言うところの“可能性世界”によって定められた運命でもあっただろう。
ウマ娘レースの展開や結果が、どこか別の世界で既に決まってしまっているという仮説は認めがたいものだったが、しかし実に気持ちよくターフの上を翔り、先頭で突き抜けていくファインモーションのレースは、あえて塗り替えられねばならない運命であるとは見えなかった。
〈さぁファインモーションが加速してまいりました!もうすでに先頭ですがファインモーション更に加速!これが本気の末脚か!ビーポジティブ、ユウキャラットがウチ側に並んで、さらに外からトリプレックス、サクラヴィクトリア追い込んでくるが、先頭は抜けた!完全に独走態勢だファインモーション!リードは更にぐんぐん広がっていく!何という強さ!何者も並ばせない!先頭は、ファインモーションで今ゴールイン!やはり強い!ファインモーション!〉
むしろ、塗り替えられること自体があり得ないものと感じられるほどだった。ファインモーションが勝利するという歴史、運命そのものは。
歓声が小さく聞こえるといった異変も無く、幾万人が轟かせる歓声を浴びてファインモーションは気品ある笑顔と共に手を振っていた。あまりにも歴然たる実力を見せつけた圧勝劇の直後とは思えぬほど、柔和であり余裕もある笑みであった。
「こりゃ有馬記念……来ますね。私はさておき、ファインちゃんはもう確実に。」
「当然だろうねぇ、異国の王女が颯爽と現れ、これほどのレースを見せつければファンにならぬ者などいないだろう。さて、来週にはヒシミラクルくんの番だねぇ。神戸新聞杯から菊花賞へと進み、ファインくんとの約束を果たさねばねぇ。」
「はい、もちろん、やります……えぇ、やりますとも……だいぶ、ヘビーな約束ですけど。」
プレッシャーを振り払うように立ち上がり、今日ラストの練習メニューへと向かうために軽い体操を始めているミラ子。
彼女をGⅠへと導く役割を担っている鷹木もまた自らに重圧を課している思いが無いわけではなかったが、あれほど運命的な勝利を獲ているファインから告げられた約束が、叶わぬこともまた無いのではと思い始めていた。