アグネスタキオンは、敢えて騒動を引き起こし、その渦中にいたウマ娘として目立つことまでも計算の内だったようだ。問題行動を取り、放っておいても真っ当に授業や練習に来なさそうなウマ娘を担当させられるとなれば……それは鷹木の仕事であった。
騒動に溢れた入学式の日から一夜明けて、鷹木が出勤したトレセン学園の敷地内には、未だあの騒ぎの残滓が漂っているようにも感じられた。
あの騒ぎを引き起こしたウマ娘が今後も登校してくることが間違いなかったため、学園のどこかしらで今日も爆発が引き起こされるのではないかとの警戒が鷹木の中で先走っていた、と称した方が正確であったが。
「おはようございます、鷹木トレーナー。そうキョロキョロなさらずとも、今朝から騒ぎらしい騒ぎは起きておりませんわ。」
「あ、あぁ、おはよございます……とはいえ、例のウマ娘たちがトレセン学園へとついに入学してしまったことは事実だし……。」
「そう過度に不安視する必要はありませんわよ、トレセン学園に入れる時点で、こちらからの指導に応じられるだけの常識は少なくとも備えている子ではあるはずですもの。」
早朝から出勤していたのだろうキングヘイローからそう告げられてようやく、鷹木はひと時の安堵を得た。思えば以前担当したテイエムオペラオーも、奇抜な言動でトレーナーを翻弄することこそあれど、鷹木が提示したトレーニングはきちんとこなしていた。
新入ウマ娘たちがやって来るよりもさらに早くからトレセン学園内の様子を窺っていたこと自体、キングヘイローも不穏な予感を拭い去れなかったことの証拠であったが。
前日に引き続き、トレーナー用のスーツに身を包んだキングヘイローは、鷹木と並べばなお立ち居振る舞いに初々しさなど無く、既にベテランのトレーナーめいた風格を備えているようであった。
「そういえば、昨日は例の面々が引き起こした騒動のために探しあぐねてしまいましたが、例のウマ娘さん、確かに今年度のトレセン学園へと入学なさっておいででしたわ。」
「例のウマ娘って……?」
「ほら、昨年の有馬記念のレース開始前、鷹木トレーナーがお見かけになったという奇妙な振る舞いのウマ娘ですよ。」
キングヘイローから言われて、鷹木はその話をようやく思い出した。
有馬記念へと出走するナリタトップロードを見送った後、レース場の手前で佇んでいた黒尽くめの小柄なウマ娘と鷹木は会っていた。ただ出走ウマ娘用の入り口をじっと見つめていたそのウマ娘は、レース観戦に向かうでもなく、背を向けてそのまま帰っていったのであった。
当時、鷹木と共に居あわせていたアグネスデジタルも、彼女の奇妙な行動にただ首をひねるばかりであった。
その後行われた有馬記念のレース中、最終コーナーで加速するアドマイヤベガが、まるで別のウマ娘のような容姿と走り方へ変貌したかのように見えた……という、奇妙な現象が起きたのであった。
「そうだった、例の不気味な現象に、彼女が何か関わっているかもしれないと思っていたんだ。」
「当然のことではありますが、そのウマ娘さん自身の経歴には何ら不審な点はありませんわよ。」
キングヘイローは、抱えていたタブレットの画面を手早く操作して鷹木へと差し出す。今年度の入学ウマ娘たちのリストから、入学手続きで提出された顔写真付きの書類の文面が表示されていた。
確かに、その写真の顔は、あの有馬記念の日に鷹木が会ったウマ娘に間違いなかった。真っ黒な長髪を伸ばし、長く顔に垂れかかった前髪の隙間から、印象的な黄色い目が画面越しにこちらを見つめていた。そのウマ娘の名は……。
「マンハッタンカフェ、か。こうして写真の形で見せられると、単におとなしい雰囲気のウマ娘という印象だな……実物は、なんというか、もっと独特の雰囲気を纏っていたんだが。」
「私もまだ、この書類の顔写真でしかお見かけしておりませんので、早いところ実際にお会いしたいものです。性格を受け継いだのか、マンハッタンカフェさんはご自身のお母上と似てかなり大人しく真面目そうだというのが専らの評価ですわ。」
実際のところ、昨日のように奇天烈な行動を取るウマ娘たちとは雰囲気もまるで似ず、グラウンドで騒ぎを遠巻きに見つめていたウマ娘たちの群れの中に、マンハッタンカフェが埋もれていてもおかしくはなかった。
これといってアドマイヤベガに起きた異変を解く手掛かりにはなりそうにもない情報に、キングヘイローもどこか拍子抜けした様子であったが、鷹木としては彼女のフットワークの軽さ、リサーチ力の高さに舌を巻く思いであった。
「ごく平凡なウマ娘の来歴、アドマイヤベガさんが抱えている走りの枷には、あまり関係が無さそうですわね。」
「アドマイヤベガに関しては、本当にこちらの気のせいに過ぎないかもしれないから……だが、入学前からのウマ娘の評価を知るというのは、トレーナーとしても大切な取り組みだな。」
「トレーナーになるための勉強に専念し始めて3年目です、私もそろそろトレーナー業の現場に本格的に踏み込むため努めておりますの。先ほどの評に関しては、トレセン学園の入学試験時、面接官をなさっておられた職員さんにお聞きしましたわ。」
未だ自分が担当するウマ娘が決まっても居ない中、キングヘイローは鷹木から知らされたウマ娘の詳細を探るため、入学試験の面接官にまで話を聞きに行ったのだ。
当の鷹木は、新年度から自らの居場所がトレセン学園にあるのか、そればかりを案じるので精一杯だったというのに。
今のところは桂崎トレーナーのサブとして働いてはいるが、もしも担当ウマ娘が存在しないままであれば、少なくともこの1年はあちこちのトレーナーの下にお邪魔して手伝いを続けるのが主な仕事となる。肩身の狭さは、常に感じ続けることになるだろう。
昨年、鷹木を呼び出したトレセン学園理事長、秋川やよい自身の口から『担当すべきと判断されるウマ娘が見つかれば、こちらから通達しよう』と告げられてはいたため、鷹木の懸念は杞憂に過ぎぬかもしれないが……。
「……あ、通話だ、トレセン学園、りっ、理事長室……か……ら……」
着信を示して震えはじめたスマホを取り出し、画面を確認した鷹木の顔がみるみる蒼ざめていくのを、キングヘイローも目の当たりにしたのだろう、他者想いの彼女は心底から鷹木を案じる表情を浮かべる。
鷹木の顔を見ておらずとも、彼が止めようもない震え声を発している様は、耳に入ったろうが。
「し、深呼吸ですわよ、焦っての言い間違いなどは、更なる焦りを呼びますわ。」
「あぁ、す、すす、すぅう……ふ、ふぅふふ、ふぅぅう、よし、も、もしもし……?」
全く落ち着く事の出来ていない鷹木が早めに通話開始のボタンをタップしてしまったため、彼が不用意に発した『よし』までも向こうには聞こえてしまっていただろうが、それを懸念する余地など無かった。
鷹木を瞬間的に緊張の極致にまで追いやる存在、秋川やよい理事長の声がスピーカーを割らんばかりの声量で飛び込んできたのだ。
〈招集ッ!鷹木トレーナー、今すぐに理事長室まで来るように!〉
「い、今すぐに、ですか?」
〈無論!どうせヒマしているだろう!〉
それだけ告げられて、鷹木の返答を待たずに通話は切られた。
やりとりだけを取り出せば上司からのパワハラとも取れかねない発言ではあったが、相手の実情や性格をよくよく理解している理事長であるが故の、最も効果的に鷹木の躊躇を断ち切って即座に腰を上げさせる手段でもあった。
鷹木の方も、理事長が伝えようとしている用件には察しがついている。入学式が昨日あったばかりだというに、早くも自分にあてがわれる担当ウマ娘が決まったのだ。
傍から見ていたキングヘイローも、いよいよ血色を失いつつある鷹木の顔色をチラチラと案じながらも励ましの言葉をかける。
「さすがは鷹木トレーナーですわ、理事長から直々に担当ウマ娘の指名が来るだなんて。それも、新学期が始まるとほぼ同時ですもの、よほど強く期待を寄せられておいでなのですわね。」
「…………そうかもな。……いってくる。」
キングヘイローからの気遣いを心底ありがたく感じていたからこそ、極度に膨れ上がった緊張が喉をほぼ塞いでいたにもかかわらず、鷹木はどうにかそれだけの言葉を彼女へと返せたのであった。
もちろん、鷹木の立場としても、担当ウマ娘を学園の方から見定めてくれるというのは、大いに感謝すべきことであった。
学園内での様々な業務を通じてトレーナーとしての能力を売り込んだり、あるいは自ら担当したいウマ娘を指名できる相応の実績を積み上げたり、と本来はもっと地道な努力の末にようやくウマ娘との専属契約を得たトレーナーになれるものだ。
そういったプロセスなしに自らの担当ウマ娘を得るということは、それだけ他のトレーナーが担当したがらないだけの理由があるウマ娘をあてがわれることに他ならない。
(事あるごとに不良ウマ娘たちと絡んで騒ぎを起こしていた子か、その騒ぎに嬉々として参加していた子か……まさかあの入学式の日に爆発を起こした子じゃあるまいな……。)
鷹木は脳裏に、昨日の入学式の日までに悪目立ちしていた新入ウマ娘たちの顔を続々と思い浮かべながら、キングヘイローと別れて年季の入った学舎の階段を上り、理事長室へ震える足を運んでいく。
彼の緊張は、単に理事長から直々にウマ娘をあてがわれる事実のみならず、あの問題児たちの誰かが確実に自分の担当となるだろうという、ほとんど当たるだろう悪い予感によっても大部分を占められていた。
震えの収まらぬ深呼吸を幾度か繰り返した鷹木は、理事長室の磨きこまれた重い木製の扉をノックする。
「失礼します、鷹木です……」
「翹望ッ!待ちわびていたぞ、入れ!!」
こちらからの挨拶を言いきらぬうちに、部屋の内側から鋭く飛んだ言葉によって、鷹木の声は上塗りされる。
与えられた指示の通りに勝手に腕が動くような感覚で、鷹木が扉を押し開ければ、秋川理事長は既に席を離れて外套を着こんでいる最中であった。既に、腰を落ち着けて話すべき議題は過ぎ去り、通達事項のみを残して次の予定へ向かうといった出で立ちである。
鷹木が何と喋ろうかと言葉を探す暇もなく、秋川理事長は口早に告げた。
「深謝、慌ただしい中で済まない!私は間もなく次の予定に向かわねばならぬから、用件だけ告げよう!鷹木トレーナー、きみに担当してもらうべきウマ娘が決まった!」
「あ、ありがとうございます、まさか、入学式の翌日に早くも決めていただけるとは……。」
「慮外!私とて、本来は入学後の振る舞いや成績から、見定めるつもりであった!君に対してだからこそ遠慮なしに言うが、好成績の大いに望まれるウマ娘ならば、結城トレーナーに見ていただきたいからな!」
その点に関しては、鷹木も何ら文句はない。結城トレーナー、URAの歴史と共に歩んできたレジェンド的人物が有望なウマ娘を担当しなければ、それはほとんどウマ娘レース界の損失を意味することとなる。
むしろ、将来を有望視されるようなウマ娘を鷹木にあてがわれては、万が一そのウマ娘が思うような戦績を上げられなかった際、全ての責任は自分が負うこととなってしまう。
「で、では、自分が担当することとなるウマ娘は?」
「推察、鷹木トレーナーも凡そ見当がついている事と思うが!彼女の入学前からの振る舞いをも考慮し、そして入学式当日での行動で、ほぼ決定した!」
秋川やよい理事長が『彼女』と言いながら指さす先が、自分の背後であることに鷹木は少々遅れて気づき、慌てて振り返った。
先ほど鷹木が開いたドアの影に立っていたため、そのウマ娘の存在に彼は気づいていなかった……いや、気づかなかった一番大きな要因は、当初の印象とは全く裏腹に、そのウマ娘が静まり返って大人しく立ち尽くしていたためでもあったが。
制服の上に羽織った白衣姿だけは変わらず、アグネスタキオン、彼女は理事長秘書である駿川たづなに伴われているためか、ごく従順に待ち続けていた。
秋川理事長の声が、大会開始時の宣誓が述べられるときのごとく、室内とは思えぬ声量で響く。
「通告!鷹木トレーナー、君の担当ウマ娘をアグネスタキオンとする!互いに、礼!!」
「ど、どうも、トレーナーの、鷹木です。……よろしくな、アグネスタキオン。」
「あぁ、よろしく。」
アグネスタキオンからは、ごく短い言葉が鷹木へと返されただけであった。
彼女の背後でニコニコと笑顔を浮かべて頷いている駿川たづなから、昨日タキオンが引き起こした爆発事故のことを余程こっぴどく窘められたのか、少なくともこの場においてタキオンは従順そのものとなっていた。
この室内に立ち込める独特の緊張感の正体にようやく気付いた鷹木の背後から、秋川理事長が続けて口を開いた。
「激励ッ!これより諸君らが歩むは、URAの大舞台へ続く道!互いの存在が、共に栄光へと弛まぬ研鑽の励みとなること、私からも祈ろう!以上!!」
「あ、ありがとうございます……では、失礼いたします。」
「さぁ、アグネスタキオンさん。担当トレーナーさんについて行って、練習場所の案内をしてもらってくださいね。」
理事長へ深々と頭を下げて退室する鷹木の傍らで、駿川たづながアグネスタキオンにも移動を促す声が聞こえる。
タキオンと共に廊下へと出た鷹木は、暫しのあいだ無言で彼女と並び歩いた。
初対面時、ほとんどアグネスタキオンが喋っている言葉の内容を理解できなかったこともあるが、今こうして借りてきた猫のようにおとなしくなってしまっているアグネスタキオンの存在も不気味であり、どう関わればいいか分からぬことに変わりはなかったのだ。
鷹木がチラチラと横目で盗み見るタキオンの横顔は、無表情であった。彼女が思考内でどんな思惑を巡らせているにせよ、かの駿川たづなの存在が近くにある場所では、余計なことは引き起こせないと判断しているのだろう。
明瞭な変化は、理事長室のある棟を両名が揃って出た後に起きた。
「……ときに鷹木トレーナー、私の担当となった以上、私の実験に付き合うことも決定づけられたわけだが。」
「……へ?」
何の脈絡もなく、唐突に喋り始めたタキオンへと鷹木は視線を向ける。
先ほどまでの大人しそうな振る舞い、変化に乏しい表情はどこへやら、彼女は途轍もなく楽しげで、そして悪だくみを一杯に隠し持った悪童のごとく、無邪気なようで邪気に満ちたような笑みを一杯に浮かべていた。
「あんな堅苦しい挨拶が、我々の初対面というのも物足りないじゃないか。ここはひとつ、挨拶代わりに、私が開発した薬品を飲んでみないか?」
「え、や、薬品……?」
どこに隠し持っていたのか、アグネスタキオンは栓のされた試験管を取り出していた。
彼女の手元の影から出された時には深い青色だったそれが、屋外の陽光に晒された途端に鮮やかな緑の蛍光色へと変色した様を、理解しきれぬ情報が同時に押し寄せてきた鷹木はただ茫然と見つめるばかりであった。