優先出走権を得られなかったヒシミラクルを、菊花賞へと出走登録するための抽選に入れるまでの過程について、鷹木は大いに片桐トレーナーからの助けを借りることとなった。
片桐は今年の春、若葉ステークスが八着という結果に終わり優先出走権を得られなかったノーリーズンのため奔走し、狭き門である抽選をくぐり抜けてどうにか皐月賞へ出走させた経験がある。
その結果ノーリーズンは、15番人気から勝利した皐月賞ウマ娘というドラマティックな肩書を得ることとなったのだ。
「とは言いましても、最終的には運次第ですからね。僕ならば担当の抽選を通させるための裏工作の一つや二つ、やってそうだと期待されたかもしれませんが、そんなこともしておりませんし。」
「分かってますって、あくまで実際の手続きがどのように進んだのか、参考にさせてもらうためだけでして……。」
優先出走権無しの状態から、クラシック級GⅠの一角たる菊花賞へと挑まんとする者たちのために残された出走枠。勝つ見込みがあるウマ娘は一握りだとはいえ、競争率が低からぬことは言わずもがなである。
片桐に連れられ、彼が自前で整備している練習場脇のプレハブ小屋へと向かう鷹木。
さすがに9月、あまりにも広大に過ぎる練習場の雑草を刈り尽くすのは個人では無理があったのか、背が高い草が密集しているエリアは残されていた。給料を貯めて買ったのか、ちょっとした小型車両サイズのエンジン式芝刈り機が小屋の横に停めてある。
トレーナー達が話し合いをしている最中、その担当ウマ娘たちは連れ立ってジョギングしていた。彼女らの背を見送りながら、鷹木は済まなさそうに片桐へ告げる。
「申し訳ないです、ノーリーズンは既に菊花賞に出るのも確定しているでしょうに、貴重な練習時間を俺からの相談に乗るために割いていただいて……。」
「いえいえ、お気になさらず。なんなら、併走練習でもさせていようかと考えましたけれど、共に同じレースに出る可能性を現時点で考慮しないわけにもいきませんし。」
「そう、ですね。ミラ子が菊花賞に出走できることを前提で、来させてもらっているわけですから。」
「そちらだけの問題じゃなくてですね、ウチのノーリーズンも菊花賞に行かない可能性があるんですよ。」
「えっ。」
鷹木は信じられないものを見るような目を片桐へと向けた。
が、片桐の目の下に薄っすらと黒く隈が浮かび上がっている様、昨日から剃らずに無精髭が伸びている様……それらを見るに、片桐が昨晩から十分に眠れもせず、彼なりの考え事に没頭していただろうことは明らかだった。
ウマ娘を担当するトレーナーが眠れぬほどに悩むことといえば、ほぼ限られている。
「……もしかして、ノーリーズン自身が、菊花賞への出走を望んでいない……ということですか?やっぱり、シンボリクリスエスが、天皇賞へと進むから……。」
「鋭いですね、鷹木さん……だなんて言ったら、皮肉になっちゃいますかね。そう、ウマ娘たる存在、思うところは同じです。そりゃあ、あれだけ差をつけられて負けた以上、自分を負かした相手が居ないレースに気分が向くものかってところです。」
その思いは、鷹木にとっては昨年のジャングルポケットに見出すところであった。
弥生賞、そして皐月賞と続けてアグネスタキオンによって悠々と勝たれてしまったジャングルポケット。雪辱を果たすべくレース熱を高めていた矢先、タキオンは無期限の休止を宣言したのだ。
そのまま引退はせず、無事に現役復帰したタキオンはジャパンカップにてジャングルポケットと対峙。覇王世代の半数が引退したGⅠにて激闘を繰り広げ、ついにジャングルポケットは悲願の勝利を果たした。
トレーナーや周囲のウマ娘たちからの助言もあって、ある程度はタキオンの判断に理解を示していたジャングルポケット。だがその胸中にギラつく闘争心が冷めぬ様は、タキオンの担当トレーナーである鷹木にも伝わってきていた。
今、シンボリクリスエスがクラシック路線から去ることを知らされたノーリーズンもまた、再戦がおあずけとなることを諾々としてはいられないのだろう。鷹木は、声を低めて片桐に尋ねた。
「俺との話、早目に切り上げたほうがいいでしょうか。やっぱり担当ウマ娘との話し合いの時間を、しっかり確保する方が優先でしょうし。」
「いやいや、ノーリーズンとの話し合いは、神戸新聞杯が終わった直後から十分に繰り返しました。それが煮詰まった結果、彼女の意を翻すことは未だ出来ていないわけです。となれば今は、ちょっと時間を置いて熱を冷ますべきですし、それに……」
鷹木をプレハブ小屋内へと招き入れつつ、片桐は練習場のコースを並んで駆けていくウマ娘たちを見やる。
ノーリーズンを挟んで、タップダンスシチー、アグネスタキオン、そしてヒシミラクルがゆったりとコース上を流していく。何だかんだで面倒見がよく、性格も明るい部類の面々に囲まれている時にだけ、ノーリーズンも語れることがあるだろう。
「ウマ娘同士でなければ、成立しない話し合いもあるでしょう。ま、本番レースをひとつ終えたばかりです、ゆったり脚を休める必要もあるでしょう。ささ、鷹木さん、座って座って。クラシック追加登録に担当をねじこむコツを伝授して差し上げましょう、まずはお偉いさんに気に入られる振る舞いですが……。」
「あ、あの、あくまでも公正な手段で……。」
男トレーナー同士で密室でのレクチャーが行われている一方、担当ウマ娘たちは爽やかな初秋の風を浴びながら練習コース上を軽く駆けていた。
まだ残暑は肌を汗ばませたが、渡りくる風は既に秋の気配を運んでくる。刈られたばかりの草の匂いも頭を澄み渡らせたのか、先ほどまで何やら難しい顔をしていたノーリーズンも口調が軽やかとなっていた。
軽やかとなった結果、片桐へのダメ出し武将と化していたが。
「なにぶんワシの軍師殿は頭が固い!多少なりとて譲歩の姿勢を見せればよかろうに、何が何でもワシを天皇賞へと行かせまいと頑なじゃ!ワシの思いが分かっておらぬわけではないだけに、いよいよもってタチが悪い!クリスエスと当たれば即ち敗れると、侮られて黙っておられるワシではないことも軍師殿は分かっておられように!」
「Ha!だいぶグチに勢いが出てきたな!ムッツリと黙り込んでるよりは、そのほうがオマエらしいぜ、NoReason!」
「いいんじゃないだろうかねぇ、自信を失って塞ぎこむのとは正反対、自信あるがゆえの意見の齟齬であれば、行き詰まることもあるまいねぇ!」
タップダンスシチーとアグネスタキオンは、そんな愚痴まみれのノーリーズンを前にして、ウマ娘らしい負けず嫌いがしっかり残っていることにむしろ安堵していた。
ウマ娘として現役レースを走っている以上、どうにも覆しようのない現状を前に心折られる可能性は常に付きまとう。しかし、現状のノーリーズンは身体能力も現役ウマ娘として最高潮、敗れたとはいえ同期の中ではシンボリクリスエスの背に唯一追いすがれるほどの走りを示しているのだ。
それこそ、比べられてしまえば歴然たる能力の差が露わとなるヒシミラクルは、ノーリーズンからタキオンを挟んで、コースの一番外側を進みつつ口を開いた。
「わ、私からすれば、菊花賞って時点で、出走できるだけでもう夢のような舞台だよ……今一番、菊花賞で勝てそうなズンちゃんが出ないの、もったいないよ。」
「ワシも菊の冠をないがしろにしようというハラではないが、しかしクリスエス不在となれば、強敵は誰ぞ残っておるのか?」
「神戸新聞杯の前に行われた、こちらも菊花賞への優先出走権を得られるセントライト記念では、トーセンオーパスくん、ホーネットピアスくんが一着二着で勝利している。レース映像を見たが先行の位置をキープし続け最後まで失速しない、実に持久力に富んだ走りだったねぇ。それに、神戸新聞杯にて根性で大外を駆けあがり11番人気から三着に入った、ナムラサンクスくんを忘れてはならないねぇ。」
ここでスラスラと、菊花賞への出走が確定しているウマ娘たちの名を挙げられるのは、さすがタキオンといったところであった。
いずれの面々も、今までGⅠタイトルを獲ってきた強者に挑み、自分こそ菊花賞の歴史に名を刻まんとする野心と実力を兼ね備えたウマ娘には違いない。しかし……今、タキオンの口から語られた名前が、シンボリクリスエスほどの重みを以て響いたかといえば、肯定しがたい。
やはり変わらず表情が曇り続けているノーリーズンを見やり、タキオンは言葉を続ける。
「とはいえ、ノーリーズンくんはシンボリクリスエスくんに勝つことを強く望んでいるのだから、そのような連中は既に眼中になし、といったところかねぇ?」
「そうは言っておらん、言っておらん……が……ワシの気持ちが、秋の天皇賞出走に向いておることに、変わりはない。」
「So,let's have it up!じゃあハッキリさせちまおうじゃないか、クリスエスはここに居ないが、クリスエス並みの実力者がここに居るんだからよ!」
再び俯きだしたノーリーズンの顔を上げさせたのは、割って入ったタップダンスシチーの言葉であった。
クラシック級では余裕で勝利してしまうシンボリクリスエス、だからこそ秋のGⅠ戦線はシニア級に殴りこむ形となったのだが……確かに、今年のシニアGⅠレース、最も戦績を期待されるウマ娘のひとりがここにいる。
アグネスタキオンは、タップからの提案を耳に入れてすぐ、この場でノーリーズンを説得する算段を組み上げたようであった。
「いいねぇ、やはりウマ娘同士、走りでケリをつけなければねぇ!言葉で納得いかずとも、走れば腑に落ちるだろう!せっかく片桐トレーナーがせっせと草刈りしてくれた、この練習コースもあることだ、この私と芝2000m、秋の天皇賞と同じ条件で勝負してもらおうじゃないか。私にすら勝てないようであれば、クリスエスくんとはマトモな勝負にならないものと諦めたまえ。」
「し……しかし、じゃが、タキオン先輩も、天皇賞へ出走するのじゃろう?同じレースに出走する者同士が、互いの走り方を見せ合うような真似は、避けるべきじゃと聞いたが……。」
ノーリーズンから聞き返されて、アグネスタキオンは目を見開き、同時に大きく口角を吊り上げる笑みを示した。
そう、タキオンは秋の天皇賞へと出走する。そして、同じレースに出走するつもりならば、レース前の今の時期に互いの走りを見せ合うような真似はすべきでない。だからこそ、今はまだジョギングにつき合う程度で済ませているのだ。
本気に近い併走練習を行う上での懸念を見過ごさないということは、ノーリーズンはいよいよ本気で天皇賞に出走するつもりであるということだ。タキオンは否応なしに昂揚を覚えていた。
「厳密にルールとして定められているわけじゃないねぇ、あくまで同じレースで競う相手の作戦を覗き見ることがマナー違反とされているだけだ。それに、私は……ノーリーズンくんが天皇賞に出走することなど無いと確信している。」
「……何が、言いたい……。」
「ノーリーズンくん、キミは……芝2000mで、私に勝てるはずがない。ここで私に完敗し、天皇賞へ進む道を諦めるほかにない、ということだねぇ。」
きっぱりと言い放つタキオン。相対するノーリーズンはいつもの武将っぽい喋り口調が鳴りを潜め、すっかり目の色が変わっていた。
相も変わらず、他者を挑発する手管ばかりは一品のタキオンを前に、タップは肩をすくめて笑い、すこし距離を取ってついてきていたヒシミラクルはピリつく空気を前に、あわあわと一同を見比べるばかりであった。
無論、この状況に火がつかぬタップダンスシチーではない。
「Okay、わたしも参加させてくれ!どっちにしろ、わたしはしばらくGⅡに出る予定が決まってるからな!先頭に立って引っ張っていく奴も必要だろ、な、ミラ子!」
「え、えぇぇ、わ、私も一緒に走るんですかぁ……?」
「キミは併走しても全く問題ないねぇ、ヒシミラクルくんが今年の天皇賞に参戦する可能性は完全にゼロなのだし、抽選の結果次第では菊花賞にすら顔を出せないのだからねぇ!」
「そっ、そんな言い方しなくたって……わ、わかりましたよ、私だって走りを見せてやりますよ。」
先輩ウマ娘たちに乗せられる形で、ヒシミラクルもまたこの突発的な併走に加わることとなった。
鷹木と片桐、両トレーナーは未だにプレハブ小屋の中で話し合いを続けている様子であったが、スターター役を探す必要はなかった。
以前、タキオンがタップのために寄贈した、手作りのスターター装置が今なお現役だったためだ。キッチンタイマーを改造して、数秒後に金属フレームがガシャンと音を立てるだけのシンプルな装置である。
完全な公平を期すため、タップダンスシチーがスターター装置を準備しつつ、あらためて競争条件を確認する。
「Let me confirm to make sure、距離は芝2000mだな?じゃ、ここから一周して来て直線を更に進んだ先のラインがゴールだ。散々練習する条件だから、固定のマークが地面に埋められてんだ。」
「ふぅン、菊花賞ならばさらに1000m先、そこからコーナーを回り切った先、というところだねぇ。」
「今は関係なかろう、2000mがゴールじゃ。タキオン先輩、手を抜いて走るような真似だけはせんでもらおうかの。」
「無論だねぇ。」
何故かこの期に及んで菊花賞と同じ条件になる距離の確認をしているタキオンの発言を遮り、ノーリーズンが念を押す。
どこか不安げな表情のままのヒシミラクルもスタートラインに並び、まもなく本番のゲート音よりは少々軽い金属フレームの音が響いた。
『ガシャンッ!!』
本番とは音こそ似ていないとはいえ、ターフ上に並んでスタート音を聞けば、否応なしにも競走のスイッチが入るのがウマ娘という存在である。
走る気満々であった面々は言うまでもなく、すこし気持ちの上で押され気味であったヒシミラクルも、弾かれるようにスタート位置から駆け出していた。とはいえ、流石に初速は他の面々の方が圧倒的に上である。
後ろから追い上げる位置につきつつも、ミラ子はさほど差のない前方にノーリーズンの鹿毛の尻尾が揺れているのを見ていた。
(タキオンさんから挑発されてたけれど、落ち着いてるなぁ、ノーリーズンちゃん……やっぱり、こないだみたいに、一気に差し切って勝つつもりなんだ……。)
いくら煽り立てられても、そう易々と冷静さを欠くノーリーズンではない。
むしろ勝利を確たるものとするため、最善手を実行しているのだ。皐月賞でも、ダービーでも、そして先日の神戸新聞杯でも、ノーリーズンが最も本領発揮しやすいのは、最終コーナーから上がっていってゴール前直線で差し切る形であった。
先頭はやはりタップダンスシチー、背後からアグネスタキオンがじっくり観察するように一定の間合いを保っていることなどお構いなく、完璧に自分のペースを保って既に2コーナーを回っている。
もとはと言えばノーリーズンを説得するために始めた併走であったが、目の前を完璧な速度維持で駆けていくタップの走りに、タキオンは内心、舌を巻いていた。
(ますます走りが磨かれているじゃないか、タップくん!クリスエス君が今世代の最強ウマ娘かと思われたが、なかなかどうして独走態勢とは行かないものだねぇ!)
逃げというよりも、スタートからゴールまで精密なペースを維持して走るため、他のウマ娘が速度を控える区間では結果的に先頭に出る形になるタップダンスシチー。
以前はその正確なペースを利用されて最後に追い抜かれる展開もあったが、最終直線で加速を上乗せできる余裕まで身につけた今、いずれGⅡやGⅠで勝利を収めるのも時間の問題かと思われた。
コーナーを回り切って向こう正面の直線、ヒシミラクルはじわじわと前へ間合いを詰め始める。
神戸新聞杯では思うようなコース取りを易々と許されることはなかったが、4名だけで走っている今ならば最終直線で好位置につくことはしやすいはずだった。が、ノーリーズンの背との差が縮まらない。
(そりゃそうだよね、私がここで上がっていくのは分かってるよね……まだ本気じゃない状態で、ここまで追いつけないだなんて……!)
ノーリーズンもまた、3コーナーに入る前には既に先頭との距離を詰めていた。
視野に迫ってきたのは、軽々とコーナーを回っていくタキオンの背。その身軽さを最大限に活かして、直線を走る時とほぼ変わらぬ走行フォームのまま回っていく滑らかさはずっと健在であった。
(わかっておる、同じ皐月賞ウマ娘とて、ワシではそう涼しい顔して駆け抜けるような真似は出来んじゃろう、だが……!)
11番人気で皐月賞に出走した時も、同じ思いだった。
十分に勝ちを期待される能力ではないのならば、出来うる全ての策を試し、誰も監視していない穴から抜け出し、ごく細い梁の上を渡って本丸を獲る他にない。
ノーリーズンは、いかにも全力を出して仕掛けているように、タキオンへと急激に間合いを詰めていった。これ以上の速度は出せない、と相手に錯覚させるかのように。
そして4コーナーの出口、ゴール前の最終直線へと向く直前に、更に加速する。
(いかに超光速を名に冠していようと、出遅れれば届くまい!ワシは本気じゃ、秋の天皇賞、一帖の盾を獲るために……)
確かに、タキオンに先んじて仕掛けたノーリーズンは、順調に最高速へと達し、失速する恐れもなく飛ばしていく。
……が、真隣りで併走しているタキオンの蹄音は、遠ざからない。ばかりか、まるでこちらを値踏みする余裕までもあるかのように、ぴったりと真横につけたまま、ノーリーズンに速度を合わせている。
それだけではない、前方、ずっと先頭を走り続けていたタップダンスシチーとの差も縮まらないのだ。こちらも、耳を後ろに向け、背後に神経を集中させ、後ろから迫ろうとしている面々の位置取りを常に意識しているようだった。
(……こんなにも遠いのか……?一年の経験の差、というものは……)
脚色こそ鈍っていないはずであったが、ノーリーズンの心に翳りがさしたのを見てとったかのように、タキオンは急加速した。
無敗で皐月賞を獲った、そしてジャングルポケットに消えぬ執念の炎を燃え上がらせた、あの走りは更に研ぎ澄まされ、鋭く空間を切り裂いていく。
まさに次元の違う走り。神戸新聞杯で見せつけられたシンボリクリスエスとは質が違う速さであったが、いくら己の脚を急かしても縮まらない差は、あの時と同じようにノーリーズンの思いを挫きそうになっていた。
前方では、タップダンスシチーがタキオンに並ばれ、なおも粘っている。
同期よりも一年遅れで入学し、三年間ずっと条件戦やオープン戦で鍛錬し続けていたタップの粘りは、流石に年季の違いを見せつけていた。
(強いのぅ……シニア級の猛者は。)
既に数バ身ほど離されていたノーリーズンの位置からは、正確にどちらが勝ったのかは判断できなかったが……両者の走りはほぼ互角、ゴールラインをほぼ同時に通過していた。勝敗がついていたとしても、ハナ差程度であったろう。
……が、併走はここで終わりではなかった。
一瞬だけ減速しかけたタップの肩を叩き、タキオンは腕を伸ばして向こう正面のあたりを指さし、そして大声で叫んだ。
「菊花賞のゴールはあっちだねぇ!さぁ、私は2000mで勝った!ついでに3000mでも、勝ててしまうだろうか!!」
「Seriously!?先に言っといてくれよ!もう2000走り切るペースで来ちまったよ!」
タップダンスシチーは笑いながら、汗をぬぐいつつあらためてタキオンを追い始める。タキオンもまた、本来は2000mのラインで終わるはずだった練習コースを、更に駆け続けている。
一瞬、この先輩ウマ娘たちが何をもくろんでいるのか、ノーリーズンは推し量りかねたが……自分の脚は走りを止めなかった。
タキオンは最初から、菊花賞の3000mではノーリーズンの方が有利だ、と示すつもりだったのだ。片桐トレーナーは、シンボリクリスエスとの対決を回避する意図も勿論あったろうが、担当ウマ娘の適性のほうが出走レースのの選択要素として優先したに違いない。
とはいえ、タキオンはタップと共に2000mを走り切るペースであったため、流石に更に1000mを走り切ろうにも失速は免れない。
ここから先、張り合いの無い併走で自分を説得するつもりか……と眉根を顰めかけたノーリーズンだが、背後から迫ってくる蹄音を聞き、ハッと思い直して気を引き締める。
(いや……そうか、まだおぬしがおる、ミラ子!)
ノーリーズンの位置からさらに遅れて皆の後を追い続けていたヒシミラクルだったが、流石の彼女にも自分に課された役割がなんとなく察せていた。
ミラ子の目から見ても、もはやタキオンとタップには余力が残っていない。ただでさえアグネスタキオンに関しては、鷹木がたびたび故障を気にしているし、これ以上の無茶をさせるわけにはいかない。
そして何よりも、3000mもの長丁場となればヒシミラクルの得意分野である。
(じゃあ、ノーリーズンちゃんを満足させられる、菊花賞での相手は……私、ってことか……出走枠の抽選に通れば、だけど!)
丁度良くと言うべきかどうか、タキオンとタップの実力を見せつけられた瞬間のノーリーズンは、僅かに脚を緩めており、完全に力を出し切ってはいない。
新たに設定されたゴール、コーナーを更に回って向こう正面の直線へと向かいながら、ヒシミラクルはじりじりとしか近づいてこないノーリーズンの背を追い続けていた。
既にタキオンとタップは息を切らして、後方から辛うじて追いかけるばかりである。合間合間に呼吸を入れながら、なんとか激励の声を飛ばしている。
「Go!Noreason!その位置からなら逃げきれるぜ、二冠目とっちまえ!」
「2000mの時点で余力を出し切っていないじゃないかヒシミラクルくん!それでは有馬に出られないねぇ!」
既に本番レースではあり得ない変則的なペースとなってしまっていたが、むしろ好都合であった。
ノーリーズンとヒシミラクルが、共に菊花賞に出るのであれば、最初から3000mを走り抜くペースでの併走はすべきではない。本番で競い合う者同士、手の内を明かしあうべきではない。
すなわち、タキオンはノーリーズンに対し天皇賞の条件での併走を宣言しつつ……その実、本番での作戦を明かさない状況を保ちながらもヒシミラクルと菊花賞で競い合う想定での併走へと持ち込んだのだ。
(超光速の科学者め、とんだ食わせものじゃのぅ!このワシを担ぐとは……よかろう、ミラ子よ、ワシの背に近付けると思うでないぞ!)
とっくに彼方背後へと去って聞こえなくなったタキオンとタップの蹄音に代わり、ヒシミラクルが迫る音が大きくなってくる。
2000mを走り切るつもりで駆けつつも、まだまだ余裕のある様は、芝地を踏みしめる足音の重さが示していた。当のミラ子は、すっかり必死であったが。
(私が、私が居るなら、菊花賞だって走り甲斐がある……って、思ってくれるかな、ノーリーズンちゃん!)
ヒシミラクルもまた、ノーリーズンが菊花賞の場から去ってしまうことを、今さらながらに恐れ、厭っていた。
優先出走権こそ得られなかったものの、競いたい相手が続々と別のレースへ転向してしまうのが、どれほど寂しく、物足りないことか。
気迫を伴ったヒシミラクルの追い上げは、想定外の速さでノーリーズンの背に迫りくる。
(にゃっはっは!すまん、ミラ子!ワシもすっかり失念しておった!菊花賞には、おぬしが居る!共に駆けよう!そして勝ちは譲らんぞ!)
ヒシミラクルはノーリーズンの隣に並びかけ……その瞬間、ノーリーズンは隠し持っていた余力を以て僅かに突き放す。
3000m地点のゴールは、そこで越えていた。
もはや本番では考えられないほどにバテきった面々は、大汗を流し、ゼェゼェと荒い息を吐きながらも、見合わせた笑顔は止められなかった。
大抵の練習では疲れた様を見せないヒシミラクルでさえ、マトモに喋りはじめるまで多少なりと呼吸を整えなければならなかった。
「ハァ、ヒィ……ちょ、ちょっと、タキオンさん、大丈夫ですか、鷹木トレーナーから無茶はするなって、あんだけ言われてるのに……。」
「は……ハハハ!心配は要らないねぇ、私が本気で走ったのは2000mまでだ!そこから先は、キミたちの独壇場だったよ、ヒシミラクルくん、そしてノーリーズンくん!」
既にマトモな勝負が成立している状況ではなかったが、大幅に遅れてきたタキオンは律儀に3000m地点のゴールラインを踏んで、ミラ子とノーリーズンに拍手を送る。
タキオンと共に走りながら、タップダンスシチーもすっかりこの併走の狙いを読み取ってしまったらしい。こちらもタキオン共々、ノーリーズンたちに大差をつけられながらも、満足げであった。
「Phew!Can't beat professional、分かったろNoReason、クリスエスの奴は長距離を避けて天皇賞に行ったんだ。菊花賞で勝てんのは、お前だけだ!」
「にゃっはっはぁ!ワシだけが勝てると言いたいところだが、ミラ子のことは忘れるわけにいかんぞ!ワシの背をこれほどまでに脅かすとは……おぬしこそ我が好敵手よ、ミラ子!」
「そ、そう言ってくれると嬉しいけど……そもそも私は、出走枠の抽選に通らないと、だし……」
俯いて頭をかきながらヒシミラクルがそう言ったことで、ようやくこの場の面々はヒシミラクルの菊花賞出走が未だ確定していないことを思い出したのだった。
先ほどの併走、その熱闘を味わっている内に、ヒシミラクルの菊花賞出走が既に決まったものであるかのような錯覚を覚えてしまっていたのである。
それもまた、可能性世界による既定の運命が干渉した結果であったろうか……数日後、鷹木はヒシミラクルの菊花賞出走枠が確定した報せを、喜びやら興奮やらが極限状態に至って蒼ざめつつ、手を震わせながら持ってきたのであった。