ヒシミラクル、今年度菊花賞への出走が決定。
出走枠を奪い合う抽選に通ったという一報を鷹木が持ち込んだ時、アグネスタキオンが我が身のことのように大喜びしたのは言うまでもない。当のヒシミラクルはと言えば、いつも通り自信なさげに頭をかくばかりであったが、既に意は決しているのか目は泳いでいなかった。
クラシック追加登録の手続きを済ませてもなお鷹木は忙しい日々を過ごすこととなるわけだが、担当トレーナーが所用に奔走している最中でもタキオンがつきっきりでミラ子の鍛錬を続けていた。
「あのー、私に目をかけていただけるのは、ありがたいんですけど……タキオン先輩だって、天皇賞に向けての練習時間を取ったほうがいいのでは?」
「私のことを気に掛けている余裕があるのかい?先日披露した通り、私は万全の状態だねぇ、そんなことよりも脚を動かしたまえ!先日の併走から全く進歩せぬまま本番を迎えては、ノーリーズンくんの勝利が確定するも同然だねぇ!」
担当トレーナー不在の練習場でもタキオンによる叱咤の声は飛んだ。彼女自身が、かつては気まぐれな理由で授業出席やトレーニングをサボっていたウマ娘だとは思えないほどの張り切りぶりであった。
神戸新聞杯で余裕の勝利を示したシンボリクリスエスが天皇賞出走へと舵を取り、同じく天皇賞へ行こうとしていたノーリーズンは先日の説得もあって菊花賞出走の意向へと落ち着いている。当然、これまでの戦績をもってしても世間的な評価は圧倒的にノーリーズンが1番人気であろう。
一方で、現時点でようやく条件戦を3勝したばかりのヒシミラクルは、GⅠの舞台ではほぼ確実に人気度は最下位近くだ。
「だが今に至るまでの走りを見るかぎり、現状のヒシミラクルくんは元より適性のあった長距離レースでの走りに更なる磨きがかかっている!苦手とする位置取り駆け引きも、相応に場数を踏んできたのだから対処可能な局面も増えただろう!」
「えぇ、まぁ、野分特別では、混戦時にも前へと抜け出す盤面をそれなりに掴めた感じはしましたけど……。」
「そこに来て、ほぼ確定したも同然の人気度下位だ!ほぼマークされずに進めることだろう!勝ちを獲るためのピースは揃っている、万が一に賭けるフロック勝ちではなく、確たる実力に裏打ちされた走りで、菊花賞の勝利を手に出来ることだろう!分かったら脇目もふらず走りを磨きたまえ!殊に末脚を鍛えるべきだ!負け筋があるとするなら、最後の最後で急加速した相手が差しに来た時だからねぇ!」
タキオンがまくしたてる迫力よりも、この短時間で立て板に水とばかりにスラスラと口を突いて出てくる言葉の洪水に感服させられるような形で、ヒシミラクルは練習に打ち込んでいった。
鷹木がその日に対処すべき用件をようやく終えて、練習場に戻ってくる頃にはちょうどヒシミラクルが休憩に入ったところであった。いつになく熱の入ったトレーニングとなったおかげか、常日頃は疲労を表に出さないミラ子も薄っすらと汗ばんでいる。
休憩スペースのベンチに腰掛けるミラ子の隣では、タキオンがいかにも良い仕事をした、とでも言いたげな笑顔でくつろいでいた。鷹木が大いにアグネスタキオンから助けられていたのは、事実ではあったが。
レース研究の的確さは言うまでもなく、思いのほか後輩への面倒見が良いことが今年に入ってから判明したこともあって、タキオンは後進を育てるトレーナーとしての適性がますます高いものと思われた。
「こちらのノートPCで今日のヒシミラクルくんの練習データはまとめてあるねぇ、あくまでもデータをこの場で放り込んだだけだから、より見やすいレイアウトで整理したものをご要望ならば時間をとらせてもらうが。」
「いや、いい、トレーナー業の手伝いに感謝する、タキオン……ところで、タキオン自身はちゃんと練習してたのか?」
「それがですねトレーナーさん、タキオン先輩、私を練習コースで走らせておきながら、ずっとパソコンいじってばかりだったんですよ。私も、タキオン先輩自身は走らなくていいんですか、って何度も言ったんですけどねー。」
ヒシミラクルは口を尖らせて鷹木へと告げ口し、その口のままに水分補給ドリンクをグビグビと飲んでいる。
しかしタキオンはミラ子に告げ口されても困るというワケではないらしかった。鷹木から問い質される前に、この状況を既に想定済みであったのだろうタキオンは自前のノートPC画面を示しながら喋る。
「私はヒシミラクルくんのトレーニングを見つつ、とある観測対象にも注目しなければならなかったからねぇ、サボッてヒマを持て余しているわけではないのだよ。トレーナーくんは、見れば分かるかねぇ?」
「これは、中山レース場と、京都レース場、それぞれからの配信画面か。無線Wifiで同時に二つの配信を閲覧しているのに、ここまで高画質なのか。」
「トレセン学園の回線の強さに感心する思いは私も抱いているがねぇ、トボけていないで答えたまえ、私が観測対象にしようと思っているレースが何なのかキミは理解しているのかい?」
「あぁ、分かってる。今日は毎日王冠と、京都大賞典が同時に行われる日だからな。」
10月に入って最初の大舞台ふたつは、全くの同日、そしてほぼ同じ時刻に行われる。
中山レース場の第11レースは毎日王冠、これにはダンツフレームが出走する。東京レース場が改修工事中であるため、今年は代替として中山での開催となった。
そして京都レース場の、これまた第11レースは京都大賞典、こちらはナリタトップロードとタップダンスシチーが出走し競い合うこととなっている。
発送時刻の差は、たかだか10分程度の差ではあったが、毎日王冠の方が先であった。
「むろん久々に本番出走するダンツくんの調子を見ておきたくもあるし、今月末の天皇賞に参戦するだろう面々の、京都大賞典での走りを確認するつもりもある。だが、これは歓声の大きさを比較できる好機でもあるんだ。どちらもGⅡクラスのレース、さらには同じくURA公式による配信ゆえに収録環境はほぼ同じだろうからねぇ。」
「あぁ、歓声の大きさ、か。それは確かに、気になる所だな……」
「ん?タキオン先輩も、トレーナーさんも、なんでまた歓声の大きさなんて気にするんですか?そりゃGⅡレースともなれば、どえらい大歓声に決まってるじゃないですか。」
きょとんとした表情で尋ねるヒシミラクルであったが、タキオンも鷹木も、あえて返答を与えることはしなかった。
あくまでタキオンによる仮説にすぎない、可能性世界による既定から遠ざかるほどに世間からの関心も薄まっていく説……など、今さらになって説明しても納得させられる内容ではない。
それに、多少なりと歓声が小さくとも、これまで条件戦にしか出走していないヒシミラクルは異変に気付く機会もなかったろう。
何の先入観も無い状態のウマ娘が、この現象に気づくか否かについても、タキオン、鷹木は共に関心を寄せていた。話題を流すかのように、タキオンは出走者たちのリストに視線を走らせる。
「ふぅン、さすがはGⅠレースの常連、サンライズペガサスくんが1番人気か。さらにはマイルのベテラン勢も揃っているねぇ、マグナーテンくんに、エイシンプレストンくんも。これはこれはダンツくん、よほど巧みな走りをしなければ、前に抜けるコースすら拝ませてもらえないだろうねぇ。」
「他にはアメリカンボスにアクティブバイオにビッグゴールド、去年のダービーに出たトラストファイヤーに……うわ、3年前の天皇賞秋に出たサイレントセイバーまで居るのか。GⅠ出走経験者しかいないじゃないか。」
「文句なしの晴れ舞台だねぇダンツくん、楽に勝たせてはもらえないだろうがねぇ。」
言いながら、タキオンの耳は中山レース場からの配信を映しているPCのスピーカーにずっと向けられ続けていた。
鷹木も、人間の聴力で拾える限り、歓声がどの程度か掴もうと集中し続けていた。今のところ観客席の雰囲気は随分落ち着いている様子であった……既に出走ウマ娘たちが枠入りを進め、発走の瞬間が間近となっている割には、確かに喧噪は小さすぎるようでもあった。
さきほどから妙に無口になっているヒシミラクルはと見れば、こちらも歓声の小ささが気がかりとなっているのか、耳を動かしてPCのスピーカーから出てくる音を懸命に拾っている様子であった。
〈上空は薄曇り、良バ場となりました中山レース場、今年は東京レース場改修工事によりこちらでの開催であります。出走ウマ娘9名、正面スタンド前のスタート枠に全員が収まりまして……ゲート開いて今、スタートが切られました!サンライズペガサス、ちょっと出遅れたか、ぐいぐいと押してまずはアメリカンボスが先頭へと行きました。ウチにはマグナーテンが並び、先頭争いの様相であります。約200mを駆け抜けて早くも最初のコーナー、マグナーテンが最ウチの先頭で集団を引っぱって行きます。〉
改修工事のため東京レース場から中山レース場へと開催場所が変更となった今年度であるが、同じ1800mであってもコースの構成は中山と東京でまるで異なる。
直線の長さに定評のある東京レース場ならば、2コーナーのポケットからスタートして緩やかなカーブを過ぎた後、長大な向こう正面の直線を通るのが1800mの構成である。3コーナーを回り始めるまで、約750mもの余裕があるため位置取り争いはそこまで激しくならない。
が、直線の短い中山レース場の場合、正面スタンド前のスタート地点から僅か205mで1コーナーへ入ることとなる。そのままコーナーを4つ回り、ゴール前の上り坂もあって最後に差し切る形では勝利を得づらい。
「完全なる先行有利のコースだねぇ、初手で好位置を取ったウマ娘がアドバンテージを得られるわけだから、アメリカンボスくんが少々脚を使いすぎたようであっても、先頭に並びに行くのは悪手ではなかろうねぇ。」
「あ、でもダンツちゃんも、集団の前半分あたりの位置で頑張って残ってますよ。……って、先輩のはずなのに『ダンツちゃん』って言っちゃった。」
それはヒシミラクルにとっては単なる失念に他ならない程度の言い間違いだったのだろうが、アグネスタキオンの横目は一瞬鋭く閃いて鷹木とも目が合った。
むろんタキオンも礼儀にうるさいウマ娘ではない。それよりも、ウマ娘がレースを目の前にしてつい口を突いて出てしまった言は、ことによっては可能性世界からの干渉を間接的に示す現象であるかもしれないのだ。
それはヒシミラクルが、ネオユニヴァースのことを先輩扱いする意識を有していないことにも近しかった。
〈1番手のマグナーテン、そして追走する2番手アメリカンボスに引っ張られる形で、少し剥がされてバ身が空いています3番手はエイシンプレストン。さらにウチを突いてアクティブバイオ、アウトコースに春のグランプリウマ娘ダンツフレーム、その後方には今回1番人気のサンライズペガサス、その後方にトラストファイヤー、更に最後方でビッグゴールド、サイレントセイバー、こういった展開で向こう正面の直線を進んでいきます。さぁ既に先頭は3コーナーへと差し掛かっています、依然としてマグナーテンが先頭であります。〉
快調に飛ばしていく先行集団に、中団以降のウマ娘が置いて行かれているという印象の隊形で進んでいく。
スタート直後に少々無茶かと思われるほどの加速を見せたアメリカンボスはさておき、ほぼロスなく回っていく先頭のマグナーテンを捉えるのは至難の業であることは、鷹木の目から見ても明白であった。
「ベテランの走りだな……アメリカンボスに追わせながら、自分はしっかりと脚を溜めていられる程度の速度を探り当てて維持している。あれほどリードを取られれば、後方から追いつくのは厳しそうだ。」
「それこそ、エイシンプレストンくんほどの実力者ならば、可能かもしれないねぇ。しかし昨年の毎日王冠ではエイシンプレストンくんに敗れているのだから、マグナーテンくんはしっかり対策を練っているはずだねぇ。」
アグネスデジタルやゼンノエルシドとともに香港のレース場を席巻し、GⅠタイトルを既に3つ勝ち得ているエイシンプレストン。
完璧なペースで先頭に立ち続けるマグナーテンが、これほどに中団以降の面々からリードを稼ごうとする展開。言うまでもなく、香港の魔王とまで称されるエイシンプレストンの存在を意識した結果に違いなかったろう。
……そして、どうにか中団について行けている状態のダンツフレームが、この攻防に参加することは、現時点でかなり無謀となっていた。
〈マグナーテンが先頭に立ち続けていますが、ここでじわじわと後方との差が詰まってきた!終始2番手を追走しているアメリカンボス、そこから3バ身ほどの差でエイシンプレストン!香港魔王のエイシンプレストンがじりじり迫ってきております!そしてアクティブバイオ、ダンツフレーム、さらにサンライズペガサスの外からトラストファイヤーが並びかけて上がってまいりました、さぁ残り300を切りまして中山の直線は短いぞ、マグナーテンが先頭のままに最終直線へと入っていきます!〉
タキオンも見立てていた通り、このハイレベルな戦いに食い込んでいく実力を確かにエイシンプレストンは持ち合わせていた。
先頭を追い続けているアメリカンボスが、さすがに最終直線の上り坂を意識してか多少脚を緩めたのも、この現状がいかにギリギリの戦いとなっているかを物語っていた。
いつも疲労を知らぬ様子で走り抜くヒシミラクルも、画面越しにでもこの消耗戦の模様は受け取ったらしい。
「うわぁ、これはしんどいですよ、こっから2.2メートルの高低差を駆けのぼるわけですから……後ろから追い上げていく余裕、そうそうありませんって。」
「そうだねぇ、マイル距離であろうとも持久力が求められるわけだ。出走数が9名と少なめであるだけに、後ろでマークし合って追い上げを鈍らせてくれる期待もそうそう出来ない。だからこそ、徹底してマグナーテンくんは理想のペースで回ってきたといったところだろうねぇ。」
タキオンは頷きながら、マグナーテンの巧みな作戦を惚れ惚れとした目つきで見つめている。
既に、最後方につけていたウマ娘たちは前方の集団を交わす余力も残っていない様子であったし、早めにまくっていこうとしていたアクティブバイオもまた脚色が鈍りかけている。
ダンツフレームは極力ロスなく進めていた様子ではあったが、もとより瞬発力勝負は苦手なウマ娘、短い直線と4つのコーナー、そして2度通過する上り坂が、彼女の余力を着実に削っていたのであった。
〈ゴール前の直線コース、マグナーテン先頭!アメリカンボスが外側だ、だが並びかける余裕はないか!コースウチを突いてダンツフレーム、外の方からエイシンプレストンだ、エイシンプレストンが上がってきた!200を切った、ここから坂がある、だがマグナーテン先頭!マグナーテン先頭は譲らない!エイシンプレストンがやってくるが、リードは充分だ、マグナーテン先頭!マグナーテン先頭のまま、ゴールイン!ベテランの風格を見せつけ、昨年の雪辱を果たしましたマグナーテン!〉
エイシンプレストンだけがその底知れぬ実力を示して追い詰めていったものの、結局2バ身もの差を残してマグナーテンは一着でゴールラインを通過していた。
実況アナウンサーも唸るほどに、絶妙なペース配分とロスの無い走り、積み重ねられた経験の為し得る妙技を発揮したレースであった。ただただ先頭でがむしゃらに走るばかりではない、難易度の高い逃げ作戦をマグナーテンは実行したのだ。
そのペースに翻弄された状況を示すかのように、エイシンプレストンの背後で団子状態となった集団の中、ダンツフレームは五着という結果になっていた。
「いや、ダンツくん、これは充分な結果だ。むしろ、大ベテランたちに囲まれて、五着以内に食い込んだのは上々の首尾と言えるんじゃないかねぇ。」
「全員がGⅠ経験者、その中でもGⅠ3勝のエイシンプレストン、そのエイシンプレストンに勝つマグナーテン……これほどの強敵が揃った中だからな。ダンツ自身は、健闘だけでは納得しきれない様子だろうが。」
ゴールし終えて減速していくウマ娘たちの中、ダンツの表情は確かに晴れぬ様子であった。
それは無論、歴然たる実力差を味わわされたためでもあったろうが、どこか異変を感じ取ったがためであるようでもあった。歓声の不自然な小ささに気づいたか、とも思われたが、タキオンはすぐに気づきを述べた。
「……ダンツくん、なにやら喉に違和感でもあるのかい?呼吸が整い切っていない様子に見えるがねぇ。」
「あぁ、そんな風に見えるな。まぁ、俺たちが気づくほどなんだ、桂崎トレーナーがきちんと確かめてくれるだろう。それより、次の京都大賞典もすぐ始まるんじゃないか?」
「急かさずたって分かっているとも、いつも中継観戦の際に私がトレーナーくんを急かしている仕返しのつもりかい?」
そんなつもりは無かったが、あえて否定しなかった鷹木の目の前でタキオンは手早く配信ページを切り替える。
出走の約10分前、こちらもまた超満員の京都レース場観戦スタンドの様子が画面に映っている。先ほどの中山レース場と同様、集まっている人数の割にざわめきは妙に小さく聞こえていた。