探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 ヒシミラクル、菊花賞にて勝利。その事実は間違いなく喜ばしいものであったが、以前から頻発しているウマ娘レースにまつわる異変はより明瞭となっていた。ヒシミラクルと共にノーリーズンも絶好のスタートを切った菊花賞、そのスタート直後から観戦スタンドを埋め尽くす満員の観客たちは、歓声をほぼ響かせていなかったのだ。映像には熱狂するファンたちの姿が映っているというのに、その声はまるで別世界から響いてくるかのように遠く、小さかった。事態を把握するための確たる証左など得られぬ状況で、アグネスタキオンはエアシャカールとともに情報共有に勤しんでいる。


実なる体を験すは常に仮想にて

 晴れて、今年の菊花賞ウマ娘となったヒシミラクル。

 

 雨に打たれながらレースを見つめ続けていたためか、あるいは感涙のためか、鷹木は涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃになった顔をその日じゅうずっと保っていた。

 

 一方で、当のヒシミラクルはと言えば、レースが終わって控室に戻ってきた直後も、そしてウイニングライブをセンターで歌い切り、京都から帰る新幹線へ乗った時も、思いのほか落ち着いたままであった。

 

「いつまで涙と鼻水出し続けてんですかトレーナーさん、新幹線の乗務員さんも心配そうに見てましたよ、重病人が無理して乗りに来たんじゃないかって。」

 

「うん、たいひょうぶ……だいじょうぶ、だんだん、おひゃまって、おさまってきたから……」

 

 まだ喉の奥で声をかすれさせながら、それでも確かにかなりマシになった状態の鷹木はティッシュで鼻水をかみながら答える。

 

 菊花賞を終えた直後こそ、自分が置かれた現状を受け止めきれぬ様子で茫然とした様子を続けていたヒシミラクルであったが、流石にこれほどまでに時間が経てば、状況を呑み込めてはいる様子である。

 

 自分が今年の菊花賞を勝ったのだ、との実感を得たうえでなお落ち着いている理由は、前々から彼女自身がGⅠウマ娘たちに対して思っていたことと無関係ではなかった。

 

「やっぱ、ノーリーズンちゃんも皐月賞を勝った後、浮かれてお祝いするでもなく、すぐ次の日から練習に打ち込んでましたけど……その考え方、今の私なら分かる気がします。」

 

「以前は、自分がGⅠを勝てたなら、喜んでお祭り騒ぎだ、とか言ってたよな、ミラ子。」

 

「そりゃあ、とても自分には届かないと思われた栄冠が急に転がり込んで来たら、今の私でもそうなるでしょうよ。けど、この勝利って、ラッキーで手に入るものじゃないって、しっかり分かりますから。」

 

 ヒシミラクルの語りを前に、鷹木も頷く。

 

 世間的には、条件戦でしか勝ったことがなく、前哨戦のGⅡレース、神戸新聞杯でも六着に終わったウマ娘が、いきなり菊花賞を獲ったと見られるのである。まだ評価が固まっているわけではないが、「フロック」ことまぐれの勝利だとの見方もきっと出てくるだろう。

 

 だが、ずっとヒシミラクルの走りを目の当たりにしてきた担当トレーナー、そして同期や先輩のウマ娘たちの立場からは、着実に積み重ねてきた実力によって為した結果だと十分に知れた。

 

「最初は、基本的な速度を上げるだけで必死だったのが、自分の得意な走りとか、前に抜け出せるコース取りとか、競走相手に作戦を読まれた時の対処とか……全部が繋がって、ちゃんと勝てたんです。地続きなんですね、練習場から、GⅠの舞台までって。」

 

「あぁ、その通りだ……俺もトレーナーとして、ここまで担当が走り抜いてくれたことが、本当に嬉しくて、嬉しくて……」

 

「ちょっと、また泣き出さないでくださいよ。そもそもトレーナーさんは、タキオン先輩とかオペラオー先輩とかを担当してる時にGⅠ勝利、いくらでも見てきたでしょ。」

 

 ヒシミラクルはそう言いはしたものの、アグネスタキオンも、テイエムオペラオーも、どちらも元から尋常ならざる素質を発揮していたウマ娘である。

 

 確かに彼女らの勝利のため、鷹木はトレーナーとして精一杯の手伝いをしていたものの、彼女らの勝利に自分が寄与したとの自信を抱いたことはなかっただろう。仮にウマ娘自身が、トレーナーによる助力に感謝していたとしても。

 

「ぐずっ……あー、俺ばっか泣いちまって、これじゃ、トレーナーひとりが勝手に嬉しがってるみたいじゃないか。」

 

「そりゃ、もちろん私自身だって嬉しいですよ。ノーリーズンちゃんとの競り合いも、お互いにこれまでで一番の走りでしたし。でも一番大きいのは嬉しさというよりもですね……実感、でしょうか。私は、確かにここまで来たんだ、っていう。」

 

 ヒシミラクルがその頑健な身体を活かして、オーバーワークを危惧しつつも膨大な練習量を乗り越え、他のウマ娘ならば故障のリスクを免れない本番出走を繰り返し、それでも結果に報われずに終わる恐れを超越して、ついに彼女の実力で菊花賞を勝利したこと。

 

 それは担当トレーナーである鷹木には涙の止まらぬ慶事であり、ヒシミラクルにとってはまだまだ先へと続く道の一歩であった。

 

「GⅠを勝った先輩たちも、私と同期の子たちも……この境地、だったんでしょうかね。いやまぁ、明日になったら、私も完全にうわついた調子ではしゃいじゃってるかもしれませんけど。」

 

「時間差でうわつかれると、ちょっと困るかもな。10番人気から菊花賞を勝利したとなれば、有馬記念に向けての人気投票でもミラ子に票が入るだろう……明日から、体力回復を見つつ軽いトレーニングを開始するぞ。」

 

「はい。ファインモーションちゃんとの約束、せっかく果たせそうなんですもんね。」

 

 トレーニングの予告を受けて渋る様をもはや現在のヒシミラクルは示すことなく、すんなり頷き、新幹線の車窓の外へ視線を向けていた。

 

 既に夜の帳が降りた窓外は、高速で送電線の支柱が後方へと飛び去って行くばかりであり、暗い窓に映りこんだヒシミラクルの表情は格段におとなびて見えた。GⅠ勝利という一つの大台は、確かにウマ娘を精神的に大きく成長させるものなのだろう。

 

 中央トレセンに戻ってきた時、寮の前で寝ずに起きて待っていてヒシミラクルに飛びついてきたアグネスタキオンの方が、よほど幼く見えたのも当然であった。

 

「さすがは私が見込んだ後輩だねぇ!末は天皇賞春秋連覇のグランドスラムウマ娘だねぇ!」

 

「わわっ!ど、どんだけハードル上げるんですか……。」

 

「もう夜遅いのに、わざわざ起きて待っていたのかタキオン、睡眠時間を削るんじゃない、他でもないお前の天皇賞は来週に迫ってるんだぞ。」

 

 さすがに学園に到着するころには感情も落ち着いていた鷹木は、呆れ顔でタキオンを寮の奥へと追い返した。

 

 とはいえ、アグネスタキオンの側にも、興奮で寝付けない理由は充分にあったのだ。単に、目を掛けていた後輩が菊花賞を勝利しただけではなく、この現実世界について彼女が立てていた仮説の証明の機会でもあった。

 

 翌日、鷹木は早朝から呼び出しを受けた。

 

 いつも通り、タキオンの実験室こと勝手に占拠している理科準備室には、エアシャカールも共に待っていた。

 

「随分と眠そうじゃねェか、鷹木トレーナー。そりゃ京都から戻ってきたばかりなンだから仕方ねェけどよ、タキオンの方も眠そうじゃねェか?」

 

「気にしてもらわずとも自己管理は完璧だねぇ、それに早朝でなければ時間を取れそうになかったからねぇ……ヒシミラクルくんは、まだ寝ているのだろう?」

 

「まぁ、流石に本番翌日だからな……それで、用件ってのは、何だ?」

 

 わざわざ口に出して答えるまでもない、と言わんばかりにアグネスタキオンは無言のまま、パソコンの画面を鷹木へと向ける。

 

 そこに映っているのは、昨日の菊花賞、ヒシミラクルが4コーナーをノーリーズンと並んで回ってくる場面であった。むろん鷹木も自らの記憶と視覚に刻み込んだ光景であったが、映像として改めて見ると、ヒシミラクルの実力が如実に表れた力走であった。

 

 ノーリーズンを除く他のウマ娘が続々とついていけずに失速していく中、ヒシミラクルは最善のコース取りによって前へ抜け出し、彼女だけが持ち得る持久力を発揮してぐんぐんと速度を伸ばしていく。

 

 そしてノーリーズンとほぼ並んだ状態でゴールラインを越えたとき、鷹木は本番さながらの緊張感を抱いていた自分の掌が汗でじんわりと湿っていることに気づかされた。

 

「よしっ……!あ、いや、昨日も目の前で見たんだけどな、つい熱が入ってしまう。」

 

「ヒシミラクルくんの惚れ惚れする勝ち方に見入ってしまうのも無理はないだろうがねぇ、ある異変が気にならなかったのかい?まぁ、そんな余裕もなかったかもしれないがねぇ。」

 

「レース場に響く歓声、明らかに小さくなってンだろ。これまでと比べても、ハッキリと異常だったじゃねェか。」

 

 エアシャカールが喋る横で、タキオンは再び映像を繰り返し、昨日のヒシミラクルがゴールしてから掲示板に結果が出るまでのシーンを再生する。

 

 確かに、GⅠレース、菊花賞のゴールシーンとは思えぬほどに静かな歓声しか映像には録音されていなかった……そして、ギリギリの差でノーリーズンと並んでゴールした審議の後、ヒシミラクルが勝利したと確定した結果が掲示板に表示されたとき、初めて京都レース場は幾万人もの大歓声に沸いたのである。

 

 同じ録音環境のまま、不自然な静けさののち、急激に高まる歓声の両方が記録されている。レース場の観客たちが結果が出るまで固唾を飲んで見守っていたとも取れるが、しかしゴールの瞬間に静まり返ることも普通ではあるまい。

 

 再びミラ子の走りに意識を持っていかれそうになりながらも、今度は鷹木も歓声の不自然な増減に耳を傾け、そして頷いた。

 

「……確かに、これは不自然だな。あの時、急に周りの歓声が聞こえ始めたように感じたのって、俺の意識の問題じゃなくて、実際にそうなってたのか。」

 

「これも私の仮説なんだがねぇ、やはり可能性世界でのレース展開、そしてレース結果が関係しているのではないかねぇ。すなわち、可能性世界で既定されたレース展開から外れていたため、観客たちの声は遠ざかっていた。しかしヒシミラクルくんの勝利は可能性世界の既定通りであったため、確定した瞬間に大歓声が沸き起こった……と。」

 

「既定通り……?ミラ子の勝利が、か?」

 

 鷹木が聞き返したのは、その仮説があまり耳に随わぬ内容であったためだ。

 

 ヒシミラクルが菊花賞で勝利したこと。それは、この現実世界にて、ウマ娘のヒシミラクルが間違いなく努力を積み重ね、遂に得た栄冠に違いない。それが、どこか別の世界で既に決まっていた結果をなぞったに過ぎないとは……鷹木は思いたくなかった。

 

 むろん、タキオンとてヒシミラクルの試行錯誤を間近で見続けてきた先輩ウマ娘である。鷹木の顔色が翳ったのも彼女は見逃さなかったのだろう、即座に言葉を継いだ。

 

「あぁ、あくまで仮説、だがねぇ。分かっているとも、今年の初頭、レース現役の進路へヒシミラクルくんを引っぱり込んだ際は、よもやGⅠを勝てるとは思えぬ状態だった。トレーナーくんの熱意と、ヒシミラクルくん自身の頑張りが、菊花賞勝利という結果に導いたことは否めないとも。」

 

「他でもないタキオンが、一番楽しみにしていたことだもんな……それでも、可能性世界を引き合いに出すってことは、何か根拠になる要素を見つけたのか?」

 

「あァ、これを見てくれ。」

 

 今度はシャカールが、自前のノートPCの画面をこちらに向ける。

 

 言わずもがな、そこにはシャカールが開発したシミュレーションソフト、Parcaeが菊花賞を予測した結果が映されていた。

 

 着順の一番上、勝利ウマ娘の名にヒシミラクルが掲げられているのだけであれば、Parcaeのシミュレーションの正確さを物語る結果であったが……昨日の菊花賞と異なる結果は、そのすぐ下に示されていた。

 

「一着ヒシミラクル、二着ファストタテヤマ、三着メガスターダム……?え?ノーリーズンは?どこだ?」

 

「一番下、つまり最下位……ッてよりも、競走中止と予測されてる。」

 

 シャカールが画面を下にスクロールさせれば、確かに着順の一番下に、ノーリーズンの名前が出ていた。

 

 昨日、あれだけの好スタートを切り、良い位置につけてコースを回り、そして同じく完璧なペースで回ってきたヒシミラクルと最後の最後まで競り合い続けたノーリーズンが、最下位になると予測されること自体信じられない。

 

 いや、厳密には「競走中止」とParcaeの画面にて表示されている……。

 

「シャカール……Parcaeには、競走中止を予測する機能まであるのか?」

 

「ンなもん、ねェよ。俺自身が一番、混乱してンだよ。そんな機能なんて作ってねェ、『競走中止』の文字列自体、プログラムする時に打ち込んでねェんだ。」

 

 答えるシャカールの眉間には、深い皺が刻まれていた。

 

 これまでも、単なるシミュレーションソフトの枠を超えたような挙動を見せてきたParcaeであったが、今回ばかりはいよいよもって異常現象を引き起こしたと言っても良い状況であった。

 

 プログラムの開発者であるシャカールが全く想定していない、どころか打ち込んでいないため表示できるはずのない『競走中止』という文言を結果に示しているのだ。

 

 しばしの沈黙が流れる中、タキオンの声が割って入る。

 

「全くのアクシデントでしかないはずの競走中止を、シミュレーションによって予測することは殆ど不可能なことだねぇ。あぁ、そうだ、今回の菊花賞のシミュレーション、レース展開の画面も見せてくれないか、シャカール先輩。」

 

「あァ、こっちも若干気味悪ィんだが……。」

 

 既にシャカールが何度も繰り返しレース展開のシミュレーションを行っていたためだろう、Parcaeは画面の切り替えの後、ただちに昨日の菊花賞と同条件のレースをシミュレートし始めた。

 

 コースを俯瞰する図の中を、出走番号が進んでいくレース展開画面。実際のレースとの違いは、すぐに表れた。

 

 スタート直後、ノーリーズンの位置を示す6番のアイコンは、殆ど止まってしまうほど急減速し……あとは、もはやレースに参加する意思を失ったかのように、外ラチ沿いを走っていくのみだったのだ。

 

 鷹木の顔にも、これを見つめているシャカールやタキオンに負けず劣らず怪訝な表情が自然と浮かんだ。

 

「なんだ、これ……Parcaeは、何を予測したんだ?ノーリーズンが転倒でもして、怪我をすることを示してるんだろうか、いや、だとしたらそれ以上走る筈がない、外ラチ沿いを走っていく意味も分からない……。」

 

「俺にも、さっぱりだ。Parcaeがバグっちまったのかと思ったが、他の連中のレース展開自体は正確に予測できてンだ……ノーリーズンの走りを除いて、だがな。」

 

「この挙動に関しては私も仮説の立てようがないがねぇ、ときにトレーナーくん、キミには伝えただろうか、ノーリーズンくんが菊花賞出走直前まで、とある悪夢に悩まされていたことを。他でもない、今回の菊花賞で、スタート直後に転倒してしまう悪夢だ。」

 

 それに関しては、タキオンがジャングルポケットと話し合っているのを傍から聞いてはいたが、ヒシミラクルの菊花賞を目前にして意識を他に向けている余裕のない鷹木はマトモに考えたことはなかった。

 

 だが今、言われてみれば確かに、ノーリーズンは夢を介して可能性世界で自らが辿る運命を幻視していた……と取れなくもない。

 

「可能性世界において、ノーリーズンくんはスタート直後に転倒し、競走中止となったのだろう。しかし昨日、現実ではノーリーズンくんは転倒しなかった。片桐トレーナーやタップダンスシチーくんが技術面でもメンタル面でも支えとなった結果だろう。Parcaeが示した謎の挙動については全く説明が浮かばないが、ともあれヒシミラクルくんと並んで最終直線を駆けていく光景は、既定の可能性から外れたものだったのかもしれない。」

 

「だから昨日の菊花賞、ゴール直前にもかかわらず、観客たちの歓声は妙に小さく聞こえた、のか……?」

 

「私の仮説が正しければね?そして、ヒシミラクルくんの勝利が確定した時、観客たちの興奮、言い換えればこの世界がウマ娘レースに向ける関心は取り戻され、本来通りの大歓声が響き渡った。Parcaeの予測が可能性世界のレース結果を間接的に観測したものだとすれば、これは既定の可能性通りであったためじゃないかねぇ。」

 

 むろん、タキオン自身は昨晩寝ずにミラ子のことを待っており、彼女が寮に戻ってくると同時に飛びついて喜びを爆発させていたのだから、今回の菊花賞勝利自体に価値を見出していることは間違いないだろう。

 

 が、今後のウマ娘レースが、より強烈な異変に見舞われる恐れに備えるため、タキオンはこの殆ど妄想とも呼べる仮説を手放せないのだろう。

 

「まぁ、ヒシミラクルくんの勝利が事実であり、それが喜ばしいことには変わりない。私がトレーナーくんに頼んでおきたいのは、来週の天皇賞でのことだ。私もシャカールくんも出走する、代わりに観客席や歓声の観測を、キミが頼まれてくれるかい?」

 

「あ、あぁ、出来る限りはしたいが……いや、忘れてないとは思うが、俺はタキオン、お前の担当トレーナーだからな?GⅠ出走する担当の走りを差し置いて、歓声の記録にうつつを抜かしてる余裕なんて無いと思うぞ。」

 

「ま、そっちの方が正論だよな。俺も気になってンのは事実だが、こればっかりはレース優先だろ。マジでレースそのものが中止されちまうほどのデカい異変が起きるってんなら、話は別だがよ。」

 

「むろん分かっているがねぇ、しかしこの異変についての観測など、他に頼める相手もいないのだからねぇ……」

 

 鷹木が至極真っ当なことを返し、シャカールから諭されてもなお、諦め悪い様子のタキオン。

 

 タキオンにとって一大事であることは、これまで付き合い続けてきた鷹木もきちんと把握していたが、やはり現実的にトレーナーとして優先すべきはレースそのものである。

 

 向かい合うタキオンと鷹木を傍から見つめていたエアシャカールは、ピクリと耳を動かし、この実験室の扉の外に何者かが立っている気配に気づいた。

 

「おい、立ち聞きするぐらいなら中に入ってこい、誰だよ、こンな朝から……」

 

「いやぁ、そりゃこっちのセリフですよぉ。トレーナーさんもタキオンさんも、練習場に居ないもんですから……もしかして、と思って来てみたら合ってました。」

 

 後頭部をぽりぽりとかきながら、若干眠そうな目をもう片方の手でこすりながら、入ってきたのはヒシミラクルである。

 

 今までの話を聞かれていたのか、と流石のタキオンも多少なりと虚を突かれた様子であったが、当のミラ子は別段意外なことを聞かされたという風体でもなかった。

 

 ぼんやりしているように見えて、その実は外見の印象以上にしっかりと周囲の動向を把握しているのもヒシミラクルなのだ。

 

「前も、タキオンさんとトレーナーさんが歓声の大きさについて話し合ってて、なんでそんなこと気にするのかなーって、ずっと気になってまして……ちょっと疎外感もあったんですけど。」

 

「いや、あえて秘密にしていたというわけではないねぇ、あくまで純粋な観測結果を得るため、無駄に先入観を与えることのないようにと配慮した結果であってだねぇ。いや、どうせ説明してもキミには理解できないだろうと侮っていた部分もあるねぇ、悪いねぇ、すまないねぇ。」

 

「あー、ひっど!私そこまで莫迦じゃないですからね?……まぁ確かに、細かいことは今の聞いててもよく分かんなかったんですけど。」

 

 タキオンらしい遠慮のない物言いと、ミラ子らしい気兼ねの無い応答が、この場の気まずい空気を解消していった。

 

 ともあれ、ヒシミラクルには、タキオンの語る仮説の全てを理解できたわけではないにせよ、これまでトレーニングをサポートしてくれた先輩ウマ娘の役に立ちたいとの思いがあることに違いないらしかった。

 

「トレーナーさんもタキオンさんも他のことにかまけてられないなら、私がその観測?って奴をお手伝いしますよ。まー言ぅて私、しばらくヒマですし。」

 

「いや、ヒマであっては困るんだが……とは言っても、頼める相手はミラ子しかいないか。」

 

「そうだねぇ、私の突飛な仮説を理解させ信じさせる過程を省いてなお、こちらの意図を酌んでくれる相手は稀少だ。ではさっそく、観測機器の操作を教えておこうかねぇ、私はこれ以降、マトモに時間を取れないだろうからねぇ。」

 

 タキオンはいそいそと、自前の観測機器こと指向性マイクを持ち出して来て、ヒシミラクルに操作方法を伝え始める。

 

 レースで走る後輩としてのみならず、ヒシミラクルを自分の研究の助手として新たに迎え入れたかのごとく、タキオンの表情は実に生き生きとしていた。

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