10月27日、中山レース場。
従来は東京レース場での開催だが、改修工事中のため中山レース場で行われることとなった今年の秋の天皇賞は、快晴に見舞われていた。芝の状態も良好、理想通りの走りを阻害する要因は無い。
とはいえ、中山芝2000mを得意とするアグネスタキオンに関して、今年は完全に敵なしと断定できる状況ではなかった。鷹木がわざわざ言及するまでもなく、タキオン自身が最も強く認識するところでもあった。
「おや、シンボリクリスエスくんは3番人気なのかい?この私アグネスタキオンが1番人気となったのはまぁ当然として、しかしクリスエスくんが1番をかっさらっていっても致し方なし、と考えていたんだがねぇ。」
「世間的には、やっぱり実績面を見るんだろう。戦績としてはGⅡ勝利まで、クラシック級からいきなり参戦してきた、という印象だろうからな。」
「神戸新聞杯での、あの走りを誰もマトモに評価していないのかねぇ?今日、先頭を脅かす競走相手が居るとするならば、クリスエスくんだ。断言できるねぇ。」
本番が間近に迫っているためか、控室の中で勝負服に着替え、語るタキオンの表情はいつにもまして引き締まって見えた。
傍らには、この日の出走前サポート、およびタキオンから託された現象観測のために付き添っているヒシミラクルが居る。
菊花賞を終えてからの彼女は、間近でタキオンの練習を見る時間が増えており、今日に至るまでのトレーニングで完璧に仕上がった状態のタキオンを惚れ惚れと見つめていた。
「いやでも勝つのはタキオン先輩ですって。クリスエスちゃんも強いですけど、タキオン先輩の走りは別次元って感じですし。」
「当然のことを喋って私の腰巾着を演じる暇があれば、今日のレース場内の観測に不備が無いよう気を付けておいてくれたまえよ。ここから先、ウマ娘レースに纏わる異変は明確になるばかりだろうからねぇ。」
タキオンの横眼から、思いの外に鋭い視線を受け取ったヒシミラクルは、ぽけっと開いていた口を堅く結び、即座に頷いた。
この世界そのものがウマ娘レースに向ける関心の大きさをそのままに示すがごとく、レース観客たちの歓声が不自然に増減する現象。まだ確定していない結果を予め定めている可能性世界、そこから外れるような展開が現実世界にて出た時、レースの存在感が薄まったかのごとく歓声も遠のくのだ。
トレーナーである鷹木が、タキオンの走るレースそのものに集中していなければならない以上、タキオンの研究の助手としての役割はヒシミラクルに委ねられていた。
「任せてください、ばっちり最前列から観客席の録音しますから。私の声が入っちゃったらごめんなさい。」
「それぐらいなら想定済みだ、問題ないねぇ。では、行ってくる。トレーナーくんも、2枚目の盾、楽しみにしておきたまえ。」
「あぁ、勝ってきてくれ。」
むろん、いつもながら鷹木の胸中には、全力疾走した後のタキオンの脚を心配する思いで溢れていたのだが……出走前のタキオンを前にして不安な表情を隠す事については、流石にそろそろ慣れてきていた。
タキオンを地下バ道へと送り出した後、共に控室に残ったヒシミラクルには、閉じたドアの内側で一気に曇った鷹木の表情を見られてしまっていたが。
「ちょっと、トレーナーさん。私を菊花賞に送り出したあとも、そんな心配し散らかした顔してたんですか?」
「あっ……いや、そりゃ、もちろん、ミラ子が勝つって心から信じていたとも……」
「タキオン先輩の言った通りです、嘘つくのが下手ですねトレーナーさん。だからこそ隠しごとも出来ないって意味じゃ信用も出来るんですけど。」
少し時間を置いて、鷹木とヒシミラクルも控室を出て、専用通路を通り、観戦スタンドの最前列にあるトレーナー用ブースへと向かう。
実のところ、その日の中山レース場ではレースの開始時刻よりずっと前から異変が起きてはいた。
今、ヒシミラクルは鷹木の傍らでキョロキョロと周囲を見回しながら、口を開いた。
「うーん……やっぱ、どう考えても、こんだけファンの皆さんが集まってるわりに、場内が静かすぎますね。自分が出走する時は気にしてる余裕なんてありませんでしたけど、ここで聞くとますますはっきりします。」
「あぁ、他でもない天皇賞だというのに。」
思い返せば、歓声が不自然に小さく聞こえる現象をタキオンが指摘し始めた頃は、まだ人間の聴覚では普段との違いが分からぬ程度の異変であった。
が、今となっては、明らかな異常へと変貌していた。時には、レースが始まる前から、隣同士でも大声を出さねば会話できないほどの喧騒に包まれる、GⅠレースの発走目前の時間帯。
そのはずであるにもかかわらず、今はターフの上を渡ってくる風の音まで聞き取れるほどに静かであった。
「でも、ファンの皆さんたちの表情を見ても、妙だと感じてる人も居なさそうなんですよねぇ。」
「人間の耳では聞き取れない、ってことも無いよな、ここに居る俺は異変に気付いているし、逆に気づいていない観客の中にもウマ娘は居るだろうし。」
この状況下での反応が気になるのは、実況席を占めているアナウンサー、そして大舞台には必ず解説として呼ばれるウマ娘OBの代表格、スペシャルウィークもであった。
ウマ娘レースに直接関わる者たちだけが、この歓声が妙に小さくなる異変に気づけるのだとしたら、他でもないスペシャルウィークがそれに気づけぬはずもない。
とはいえ、大切な天皇賞の場で不穏な空気を示すわけにもいかず、今日もスペシャルウィークは解説席にて彼女の仕事を続けていた。
〈さぁ秋の陽射しを浴びまして、今回は18名のフルゲートで出揃いました、秋の天皇賞!解説にはお馴染み、スペシャルウィークさんにお越しいただいております。続々と地下バ道から現れるウマ娘たちに観客席も沸いていますが、今年の天皇賞、どのウマ娘に注目しておられますか?〉
〈はい!今回はホントに、クラシック級から上がってきたシンボリクリスエスちゃんから、大ベテランのナリタトップロードちゃんまで、年代も幅広く集まっていますからね!去年の秋天を制したアグネスタキオンちゃんからも目が離せませんけど、同期のダンツフレームちゃんにも期待です!あー、でもやっぱエアシャカールちゃんの走り、ずっとキレが凄くて、今度こそ勝てるんじゃないかって毎回楽しみで……すみません、またまた今回も決め切れません!〉
スペシャルウィークが解説席からのトークで、いつものように会場を笑い声で沸かせている……確かに笑い声が観戦スタンドから起こったのは確かであったが、遠方の大群衆の叫びを聞かされるがごとく、それは大音響でありながら遠く小さかった。
異変がいよいよ気味悪いほどに明確になっていることをさしおけば、スペシャルウィークの語った内容は確かにこのレースの実態を的確に示していた。
ナリタトップロード、アドマイヤベガら覇王世代から現役続行しているベテラン勢、その次代を飾るアグネスデジタルとエアシャカール、明確にウマ娘レース史の特異点となったゼンノロブロイにネオユニヴァース、さらに昨年の天皇賞秋を制したアグネスタキオン、その同期であるダンツフレーム、海外遠征を回避して国内レースに注力することを決めたマンハッタンカフェ、今年度の最強格と見做されるシンボリクリスエス。
「とんでもないドリームマッチだよな、今さらなんだが。実現してはいるが……既にこれは、可能性世界による既定から外れているのかもしれない。」
「いやいや、ナチュラルにタキオン先輩みたいな言い方しはじめちゃってますよ。担当し続けてるだけで、トレーナーさんまで研究者みたいになっちゃうもんですかね。」
他にも、香港魔王のエイシンプレストン、シャカールとは度々因縁があるアグネスフライトやツルマルボーイ、さらにはトーホウシデンやイブキガバメント……と、これまで停滞していた運命が一気に押し寄せたかのごとく、例年ではまず見る事の出来ない、スターウマ娘ばかりが集結した一大レースとなっていたのである。
間違いなく、過去に語り継がれる伝説の一戦となるだろうとも思われるほどの様相であり……であればこそ、なおのこと場内の静けさは、この熱狂すべき展開に不釣り合いだったのだ。
「まるで、この世界が、この天皇賞の存在を認識していないかのようだ……いや、すまない、ちょっと変な考えに踏み込み過ぎたかもしれない。」
「まーたしかに、奇妙な状況ではあるんですが。いやー、お行儀のよい方々ばかりが集まったんでしょうかねぇ……。」
ヒシミラクルは呟きながら、指向性マイク、そして記録専用のサウンドレコーダーを抱えて観客席の方を向く。外部と通信可能な機器、スマホやパソコンは持ち込むことが出来ないため、結果的に少々古風な機材となっていた。
そんな彼女に向けて、観客席から飛んだ声がある。
「ん!?あの前の席にいるの、ヒシミラクルか!?」
「わっ!ホントだ!ミラ子だ、ミラ子!」
「ミラ子ぉー!菊花賞、おめでとー!!」
その声々は、ハッキリと聞き取れるほどに声量が大きかった。
鷹木は、急に大きく聞こえる声が観客席から響いてきたため、ほとんどギョッとしながら振り返った。幾万人もの歓声が遠く小さく聞こえる中で、本来通りの声量で聞こえるファンたちの声は、殊に異様だったのだ。
当のヒシミラクルは、異変に気付くことなく無邪気に照れていたが。
「あ、ど、どもー……えへへ、そういや私も、立派なGⅠウマ娘になった、んですよね。いやぁー、今年の始めあたりは、私がこんな有名になるだなんて、思いもしませんでしたねぇー。」
「あぁ、ファンの皆さんに感謝だな……ところでミラ子、お前に向けられる声だけ、妙に大きく聞こえないか?」
「……ホントだ。え?何万人も集まってるのに、あの人たちの声だけ妙に通るの、なんで、でしょう?タキオンさんにお伝えしたら、科学的に説明してくれるんでしょうか?」
今さらながらにヒシミラクルは目をしばたたかせて不思議がっていた。おそらく、科学的、物理学的には説明のつけられない現象であったろう。
が、常よりタキオンの仮説を聞かされ続けている鷹木には、憶測ではあるがその理由を何となく察することが出来た。
この世界そのものが、どの程度ウマ娘レースに関心を向けているか、それが観客たちの歓声である。今ここで、局所的にとはいえファンの一部がヒシミラクルの存在を見出し、明確な関心を向けたことが、ファンとウマ娘の間を繋ぎ、声を明瞭に届かせたのではなかろうか。
「歴史に名を刻んで、ファン達の記憶から消え去らないほどになれば……タキオンの言う可能性世界から完全に外れても、確固として存在が繋がる、ってことか?」
「なんか、それって……ギムレットくんが目指してたことと、似てますね。」
確かに、長く活躍を続けることよりも、強烈な一瞬の輝きに全てを打ち込んだタニノギムレットの信条は、この状況を予見していたかのようだった。
可能性世界による運命の既定から外れたとしても、観客たちがウマ娘へと向ける関心、思い入れ、そして感動が十分に強ければ、この世界の印象や記憶から消えることはない。
今、スターウマ娘の一員となっていたヒシミラクルは、図らずもそれを証明していたのだ。
不自然に小さな歓声のなかであろうが、レースに意識を集中させている出走ウマ娘たちは気にするそぶりも見せぬまま、ゲート入りを済ませていった。
〈伝統のレース、しかし今年は東京レース場の改修工事のため、中山2000mで競われる異例となりました。本日は晴天にも恵まれた良バ場、18名フルゲート、いかなる激闘を見せてくれるのか。全ウマ娘、体勢完了……スタートが切られました18名!どっと飛び出していきました!さぁまずは1コーナーに向かっての先頭争い、アグネスタキオンが横を窺いながら前に行く、外を突いて先頭へ出て行きましたのはゴーステディ、果敢に前へと向かいました!〉
〈スタート直後で即座に好位置を取るのは、さすがタキオンちゃんといった走りですね!秋天連覇が早くも見えてくるスタートです!〉
やはり先行の面々の中でも速やかに良い位置を見つけ出し、1番人気ながらも囲まれづらいポジションを確保するアグネスタキオンの走りに、解説のスペシャルウィークはすかさず注目する。
固唾を飲んで見つめていた鷹木も、まずはタキオンが完璧なスタートを切った様にひとつ、胸をなでおろしていた。
「よし……よし!あれほどの面々が相手でも、ほとんど2番手に並ぶような位置ではさすがに囲まれないだろう。」
「タキオンさんの本番レース、久しぶりに目の前でみますけど……やっぱ、頭の回転の速さが尋常じゃないって、あのコース取りの決め方見てると分かりますよ。」
ヒシミラクルも相槌を打ちながら、変わらず録音用の指向性マイクを観客席の方へと向け続けている。さきほどミラ子に反応したファンたちの声は、またも小さくなり遠方から響く無数の歓声の中に埋もれていた。
そうでなければ、こうして鷹木とヒシミラクルが普通の声量で会話すること自体、不可能だったろう。
〈内々を通ってナリタトップロード、紫色の勝負服も見えます!1コーナーのカーブを回っていきます、スタンドの影が襲い掛かる直線を過ぎて今、1コーナーへ。ここで先頭に立っていますはゴーステディ、これは予想通りの逃げか。その後ろでありますが3バ身から4バ身あいて、アラタマインディが行っています。そのすぐ外に並ぶ形、絶好の位置でアグネスタキオン、さすがの1番人気だ安定感のある走り!そのあと中団にはトーホウシデン、続きましてゼンノロブロイ、外を通りましてはイブキガバメントと、この辺りかなり密集した隊形となっております!〉
〈ゼンノロブロイちゃん、今回は先行寄りの作戦で来ましたね!秋シニア三冠を獲った年よりもさらに前へと押し上げてます!〉
高いレベルで拮抗している実力を示すがごとく、中団での競り合いもシビアなものとなっていた。
実際の所、ファンたちの間では結果の予想が非常に困難なレースとなっていただろう。タキオンやロブロイだけではない、アグネスデジタルも入れれば、既に天皇賞秋を勝利した経験のあるウマ娘が3名もここで競っているのだ。
タキオンの走りから視線を外さぬまでも、このレースの熱気を独り味わい続けたためか、鷹木は優駿たちがそろって駆けていく光景を半ば夢の様にも感じるほどであった。
「こんな、これだけスターウマ娘が集結したレース、きっと二度と見られない……」
「ですね。そう思えば、レースが始まる前にニュースとかで豪華すぎる出走メンバーを取り上げて大騒ぎになっててもおかしくないはずなんですけどね。」
確かにヒシミラクルの言った通り、その年の天皇賞秋については一大トピックになりはしたものの、話題の大きさの度合いとしては例年通りといったところであった。
それはむろん、番組制作したり記事執筆したりするメディア側の匙加減ではあったが、二度と見れぬかと思われるほどのドリームマッチを扱うにしては冷めすぎているようにも思われた。
やはり、可能性世界から乖離した現象に対しては、世界からの関心が薄まってしまうのだろうか。
〈中団のなかほどに今年注目のシンボリクリスエス、その外にエイシンプレストンと並びまして、向こう正面の直線へと入っていきます!さらに外を通ってネオユニヴァース、ウチからアドマイヤベガ、さらに続いてナリタトップロード、やや外に持ち出す構えか!その後ろ、内の方へと持っていったのはエアシャカール!外からはダンツフレームの姿も見えております!その後方にはアグネスデジタル、エイシンプレストンもここに並んでいる!〉
〈いまはバ群に埋もれていますけど、シャカールくん、かなりロスの無いペースで来てますよ!〉
解説のスペシャルウィークが注目しているエアシャカールは、今年内でのGⅠ勝利が無ければ、そのまま引退するだろうと思われている。
それはシャカールより更に年上のアドマイヤベガ、ナリタトップロードにも言えることではあったが……今のシャカールは、確実に全盛期を過ぎ、純粋な加速力の力押しでは勝てる要素が薄くなっていた。
だからこそ、レース中にロスなく進めていき、コースを塞がれもしない、絶妙な技量が磨き上げられる現状に繋がってもいた。
「そろそろ勝負所だ……ウチからシャカールが突っ込んでくるのはもっと後になるだろうな、それよりもじわじわと迫ってきそうな外側のネオユニヴァース、ナリタトップロードに警戒を向けないと……!」
「大丈夫ですって、タキオン先輩は全部気づいてます。私と併走してる時も、間合いを全部耳で聞いて測っているかのように、リードを取り続けてましたし。」
ヒシミラクルは鷹木にそう答えつつも、とはいえ中団から後方に控えている面々の恐ろしさは否めない様子で、歓声を録音する機器を握る手に自然と力が籠っていた。
向こう正面あたりからじりじり迫ってくる面々だけではなく、最終直線で一気に駆け上がってくるウマ娘にも、先行の位置からは警戒しなければならないのだ。
〈まもなく3コーナーへと入ってまいりますが、依然として先頭のゴーステディがレースを引っ張る形であります!そのリードも徐々に詰まってまいりました、2番手のアグネスタキオンが前へと上がっていきます!残り600を通過、後方にはマンハッタンカフェ、ツルマルボーイが控えておりますが、こちらもそろそろ仕掛けどころに備えてコースを外へ持ち出している、シンボリクリスエスはバ群の中、ここで上がってきたナリタトップロード!ネオユニヴァースと連れて上がってくる、残り400を切りましてまもなく最終直線へと向かいます!〉
〈完璧なタイミングで一気に駆け上がってきましたよ、さすが大ベテランです、トップロードちゃん!〉
クラシック級の頃から、正確無比かつ堅実なペースで運ぶレースが印象的なナリタトップロード。
同期のアドマイヤベガを除き、全ての競走相手が自分より年下となった今でも、彼女のレースの正確さは健在であり、トップロードが仕掛けると同時に他の面々も前へと駆けあがっていったのは必然であった。
「くる、来るぞ、タキオン!外側から塞がれるな、分かってる……よな?あぁ、大丈夫だ、行け!そのまま行け!」
「タキオン先輩、落ち着きすぎですって!後ろからあれだけのメンツが駆けあがって来てるのに、冷静ですね!見てるこっちが焦らされちゃいますよ!」
むろん、鷹木が声の届くはずのないタキオンに向かって叫ぶまでもなく、当のタキオンは自分の背後の状況はきちんと把握し、全体の展開も理解していた。
(トップロード先輩の位置を基準に、他の面々も来るだろうねぇ……模範が存在するのはなんとも厄介だ、しかし、皆がミスなく駆けあがってくるのならば、勝負のし甲斐もあるというものだねぇ。)
だからこそ、いつもならば余裕をもって最終直線に入る前にリードを広げておくところ、ギリギリまで脚を使わずに引き付けるような作戦を決断してもいたのだ。
タキオンの胸中は焦りとは無縁に静かなままであったが、実際にこの中山レース場も、GⅠ、天皇賞秋のゴール前直線とは思えぬほどに、静かなのだった。実況アナウンサーの声が白熱して響き渡るほど、その静けさは異様に浮き彫りとなった。
〈外を通りましてイブキガバメント!さぁそしてゼンノロブロイも外を回って上がってきている!全員が直線に入りましてほぼ横並びとなりました!さぁ先頭はアグネスタキオンか、しかし大外から並びかけるのはナリタトップロード!更に後ろからマンハッタンカフェ、アドマイヤベガを連れてマンハッタンカフェの追い込みが来る!残り200!集団の中から抜け出してきたのはシンボリクリスエス!シンボリクリスエスが今抜け出して来た!〉
〈あぁやっぱりここで抜けた!ここ抜けたらもう先頭来る!先頭出ちゃう!?〉
中山レース場に響き渡るのは実況アナウンサーと解説のスペシャルウィークの声、そして18名の蹄音だけ。
観客の歓声の大きさになど意識を向けている暇のないウマ娘たちは、自らを取りかこむ静けさが精神をも研ぎ澄まさせているように感じていた。
シンボリクリスエスは、だからゆっくりとアグネスタキオンに並び、ゴールまでの残りの距離をミリ単位で感じ取りながら、焦燥とは無縁のまま、先頭へと抜け出ていくことができた。
(Tachyon……私は、あなたからも、助言を、貰えた。ここに至り、あなたに並ぶまでの道を……遠く感じなかったのは、そのおかげだ。)
思い返せば、去年、シンボリクリスエスが入学して間もない頃……すなわち、まだ未完成な心肺機能のため、クリスエスが期待された走りを実現できないでいた頃。
練習の中で息切れしていたクリスエスを、保健室ではなく、タキオンの実験室こと理科準備室へとタニノギムレットが連れて行ったのが、この奇妙な先輩との邂逅の契機であった。
あの時のギムレットの魂胆はクリスエスに理解できるものではなかったが、こうして大舞台で肩を並べ競う、この瞬間までも見通されていたかのようだった。
〈さらにウチをついてエアシャカールも上がってくるが、抜けたのはシンボリ!シンボリだ!シンボリクリスエス抜け出している!シンボリが繋いだ!シンボリクリスエスが先頭でゴールイン!そしてアグネスタキオン、ほぼ並んだまま二着、ナリタトップロードが続いて三着となりました!常識破りのシニア級戦!並み居る先輩たちの走りに怯むことなく、菊花賞を回避してなお、GⅠの挑戦が実を結びました!〉
〈あぁ、はぁぁ、勝っちゃいましたね、クリスエスちゃん!すごいウマ娘が、こんな毎年出てくるだなんて……ホントに、見てるこっちも、嬉しいです!おめでとう、シンボリクリスエスちゃん!〉
感涙のままに声を震わせている解説のスペシャルウィーク。
彼女の声を聴きながら、シンボリクリスエスは拳を突き上げ、観客席から降り注ぐ割れんばかりの大歓声に応えている。
……そう、レース開始前、そしてレース決着間際まで、不自然なまでに静まり返っていた中山レース場は……シンボリクリスエスが勝利した瞬間、何者かが現実世界そのものの音量を上げたかのごとく、急激に大きく響き渡ったのだ。
レース模様に視線を奪われながらも、歓声の録音装置を握っていたヒシミラクルは、急に大きくなった歓声にビクッと跳びあがったほどであった。
「わわっ!?……え?ファンの皆さん、示し合わせて急に大声を出したんですか?……いや、何万人もがいきなりそんな統率取れないですよね、トレーナーさん……?」
「あ、あぁ、タキオン、頑張った、よく頑張ってくれた……あ、脚は、脚は無事だろうな、怪我は、無いよな……?」
この異様な事態についてヒシミラクルは鷹木へ話しかけたまでは良かったものの、当の鷹木はそれどころではなく、ゴールしたばかりのタキオンの脚運びを必死で凝視しているばかりである。
涙と鼻水が詰まって震えた情けない声となってしまっていたが、どんな異常事態が併発していようが担当ウマ娘の無事の確認を最優先する姿は、確かにトレーナーの鑑ではあった。
「……やっぱ、トレーナーさんのカッコいいところなんて永遠に見られなさそうですけど……タキオンさんにも聞かせてあげましょ、こんだけ必死になってるところ。」
まだ録音装置を切っていなかったヒシミラクルは、涙と鼻水を啜りながらブツブツと喋り続けている鷹木の口元へ、そのまま指向性マイクを向けた。
遠方の音を拾うための構造をしている指向性マイクは、至近距離の人物の喋りを過剰な音量で拾ってしまう……後日、録音内容を確認する際、最後にこの情けない鷹木の声が大音量で響き渡ることとなるだろう。
だが、録音内容としてより重要なのは歓声の大きさの変化であり、トレセン学園へと戻った後のタキオンの関心はそちらに集中していた。