探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 10月の大舞台、菊花賞、および秋の天皇賞を乗り越えた面々。ヒシミラクルは晴れて菊花賞ウマ娘となり、タキオンは引退危機を乗り越えて勝利した昨年の天皇賞秋に続く連覇は逃したものの、天皇賞二着という結果は残した。ウマ娘の中でも一握り、ごく優れた戦績を得ることに成功したのは事実であったが、タキオンの憂慮は他にあった。以前より続いているウマ娘レースでの異変のひとつ、観戦スタンドが満席であるにもかかわらず歓声が小さく聞こえる現象が、いよいよもって明確になりつつあるのだ。響くはずの大歓声が薄まること……それはもはや気のせいではなく、ウマ娘レースの現実性に訪れた危機であるかもしれなかった。


埃が舞えば、光の条は明瞭に

 11月も目前に迫り、トレセン学園敷地内にも初冬の気が満ちている。

 

 “実験室”という体で理科準備室をタキオンが勝手に占拠している状況も3年目となれば、すっかり彼女の私室も同然の光景となっていた。勝手知ったる振る舞いでケトルの湯を沸かし、タキオンは3名分の紅茶を淹れてテーブルに置く。

 

 今、ここに集まっている3名……すなわち、アグネスタキオン自身に加え、鷹木トレーナー、そして後輩であるヒシミラクルのためである。

 

「いやー、完全にタキオン先輩の巣になっちゃってますねぇ、この部屋。タキオン先輩の性格が出てるっていうか、もはやアグネスタキオンって存在そのものが部屋の形を為してる、っていうか。」

 

「散らかっていると言いたいのならばハッキリ言いたまえ、カフェがちょくちょく来ていた頃は彼女が部屋の片付けを担当してくれていたのだがねぇ。」

 

「担当、っていうか、押し付けてた、って感じじゃないですかー?」

 

「いぃや、あくまでも互いに役割分担していただけだねぇ!そも、私がこの部屋を実験室として開いたおかげでカフェも休憩場所を得たのだから、空間を共有する以上は相応の働きを求めても罰は当たるまいよ。」

 

 先輩相手でも遠慮なしのヒシミラクルは、言い訳を重ねるタキオンを半笑いで見つめながら、淹れてもらった紅茶もまた遠慮なく飲んでいる。

 

 実際のところは、マンハッタンカフェもデビュー当初の不調が収まり、そして去年の中頃からはGⅠ出走ウマ娘として走ることに専念しはじめたため、この部屋にタキオン以外が来ることもほぼ無くなったというのが現状だろう。

 

 それ以外ではタキオンがネオユニヴァースやエアシャカールを呼び寄せることこそあったものの、いずれも一か所にたむろする性格のウマ娘ではない。

 

 紅茶を大して味わうこともなくグビグビ飲み干したヒシミラクルは、あらためて部屋の中を見渡しながら口を開いた。

 

「じゃー、代わりに私がここに居ついちゃいましょうかねー。ちょうど誰にも邪魔されない昼寝場所が欲しかったんですよ。」

 

「ヒシミラクルくんのいびきで私の高尚な思索が阻害されてしまいかねないから、お断りだねぇ。雑談はさておき、頼んでおいた録音内容の確認をさっさと始めたい、昨日の天皇賞の観客席にて録った歓声のデータを出してくれたまえ。」

 

「はぁい、たぶんしっかり録れてると思います。」

 

 言いながら、ヒシミラクルはタキオンから渡されていた、若干年式の古い指向性マイクと録音装置を取り出す。

 

 扱いの雑さを示すようにコードが絡まった状態を目にして、タキオンは多少眉を顰めた。

 

「もうちょっと丁寧に扱ってもらえないかねぇ、この指向性マイクと録音装置は中古とはいえ、少々値段が張ったんだからねぇ。」

 

「だって、嵩張るし重たかったんですよ。スマホの持ち込みは禁止だから仕方ないですけど、現場の音を確認するだけなら普通にURA公式の配信アーカイブじゃダメなんですか?」

 

「あれは録音環境をこちらが指定できるものではない、それに実況解説を聞こえやすくするために歓声の大きさも調整されてしまうからねぇ。純粋な音量を測定するためには、おせっかいな補正機能の排された観測機器が必須なのだよ。」

 

 大一番である天皇賞を終えて今日、休息を取っているタキオンが、鷹木のみならずヒシミラクルまで実験室へと呼び寄せた一番の目的はこれである。

 

 以前より感じ取られていたウマ娘レースでの異変は、さらに強まっていた。観客席が満員であるにもかかわらず、歓声が妙に小さく、遠く聞こえる現象。

 

 今年になってから新たにGⅠへと参戦し始めたウマ娘たちの存在ゆえか、昨年と全く同じ展開を繰り返す異変は鳴りを潜めていたものの、現在は不自然に小さく歓声が聞こえる異変が如実に明瞭となりつつあった。

 

 ヒシミラクルから受け取った録音装置をPCに繋ぎ、データを取り込み終えたタキオンは音声ファイルを再生する。

 

『パーッパパパーッパパパパーッ!!パパパパーッ!!』

 

 真っ先にスピーカーから響き渡ったのは、けたたましい、そしてウマ娘としては誇らしい、天皇賞のファンファーレだった。

 

 タキオンは耳を後ろに倒しながら、慌ててスピーカーの音量を下げる。

 

「うるさいねぇ!よりによって指向性マイクを音楽隊の演奏に向ける奴があるかねぇ!」

 

「いやぁ、ウマ娘としての衝動といいますか何といいますか……やっぱ、天皇賞のファンファーレは外せないと思ったんですよぉ。間近で聞けるだなんてまずないことですし。」

 

「私はもう散々聞き飽きたねぇ!」

 

「あー、私だってそう言ってみたいですよぉ!」

 

 口をとがらせているミラ子を傍らに、今度は急に静かになった音声に耳を傾けているタキオン。

 

 観客席のざわめきは、確かに録音されてはいたものの、明らかに不自然なまでに静かとなっていた。仕方なくタキオンがあらためて音量を上げると、ようやく幾万人がどやどやと声を上げる喧噪がスピーカーから漏れ出てきた。

 

「尋ねておくがヒシミラクルくん、この時点でも確かに指向性マイクを観客席へと向けていたのだね?よもや、既に撤収を始めていた楽隊の方に向け続けていたわけではあるまいねぇ?」

 

「ちゃんと観客席の方を向いて録音してましたって、そこを忘れるほど私もおっちょこちょいじゃないですよ。トレーナーさんも見てましたよね?」

 

「あぁ、ミラ子はちゃんと指向性マイクを客席へ向けていた。実際、現場でも異常なまでに歓声が静かだったことは覚えてる。」

 

 鷹木は頷き……そしてこの後に録音されている音声のことを思い出し、音量を下げるようタキオンへ忠告しようとして口を開いた。

 

 残念ながらその忠告を鷹木が思い至ったタイミングは僅かに遅く、再びスピーカーからは過剰な音量が鳴り響くこととなったのだが。

 

『ん!?あの前の席にいるの、ヒシミラクルか!?』

 

『わっ!ホントだ!ミラ子だ、ミラ子!』

 

『ミラ子ぉー!菊花賞、おめでとー!!』

 

 あまりにも小さすぎる歓声を聞くためにスピーカーのボリュームを上げていたタキオンは、またしても耳を後ろに絞りながらボリュームも絞る羽目になった。

 

「うるっさいねえ!天皇賞に出走している私を差しおいて、自分へ向けられる声援だけは最大音量で録音かい、ヒシミラクルくん!」

 

「そんなことしてないですって、ずっと録音の設定は変わってないんですから。でしたよねトレーナーさん!」

 

「あ、あぁ……この時も、実際にヒシミラクルへ向けられた歓声だけが大きく聞こえていたんだ。奇妙な現象だったが、事実だ。」

 

 再び、先ほど同様に、ヒシミラクルから同調を求める言葉を掛けられた鷹木は頷いた。

 

 大袈裟なリアクションを取ったタキオンではあったが、この現象について仮説を立てることにはさほど手間取らなかったらしい。科学的に正確か否かはさておき、憶測の中で辻褄を合わせることは彼女の得意分野であった。

 

「すなわちヒシミラクルくんに具体的な関心を向けた観客たち、彼ら彼女らの声だけが明瞭に聞こえたということは、やはり歓声の大きさが関心の程に比例するという法則に当てはまっているのだろうねぇ。」

 

「そーいうもんなんですかね?言われてみれば確かに、観客さん達がちゃんと満席になるほど居るのに、こころなしか遠くに歓声が聞こえる感じはありましたけど。」

 

 タキオン流の独特過ぎる解説をまだ鷹木ほどは聞き慣れていないヒシミラクル。

 

 彼女は首を傾げつつも、再びスピーカーから流れだす歓声が遠ざかり、小さくなっていく様に耳を傾けていた。

 

 自前の録音機器により、完全に調整の入る余地のない収録環境を得たことで、レース当日現地での状況はこれまでになくハッキリと記録できていた。

 

 GⅠレース、それも天皇賞とは思えぬほど歓声の静かなレース場にて、実況解説の声ばかりが響き……そしてゲート音とともに駆け出すウマ娘たちの蹄音が轟き始める。

 

「この直後のタキオン先輩、綺麗な位置取りでしたねぇ。先頭に立った子にすぐ隣から圧をかけつつも、ちゃっかり自分は良いポジションを取って。ライバルからしたら嫌らしい競走相手ですねぇ。」

 

「褒めているのか貶しているのか、どっちなんだい。レース展開についてはいい、もう私の記憶には完全に刻まれている。レース進行に伴う、場内の歓声の変化に傾聴したまえ。」

 

 タキオンに促され、ヒシミラクルと共に鷹木も録音内容に注意を向ける。確かに、つい昨日見たばかりのレースではあったが、目の前を走っている担当ウマ娘が居ると、他のことに注意は向きがたい。

 

 今、視覚情報が遮断され、純粋な音声ファイルとしてのみの記録となったおかげで、その場の異様さはより明確となっていた。

 

 天皇賞秋の真っ最中とは思えないほどに、あまりにも静かすぎたのだ。ミラ子が目を丸くし、耳を立てながらも頓狂な声を上げる。

 

「えぇー?こんな静かでしたっけ?そりゃ歓声が遠いかもとは思ってましたが、こんな……ほとんどシーンとしてるだなんて。いや、ちゃんと観客席の方にマイクを向けてましたよ?」

 

「すなわち、ここで聞こえている蹄音は直接届いた音波ではなく、観客席の方から反響した音ということだねぇ。それでも蹄音がほとんど全てを占め、歓声がまるで聞こえない様が記録されているということだねぇ。」

 

 鷹木も、自身の認識に少なからず脳内で補正が入っていたことを認めざるを得なかった。レース場で響く音には、必ず大観衆の声が響いているものだ、との思い込みが記憶を不正確にしていたのである。

 

 ほとんど無音に近い状態で、ただ実況アナウンサーの声と、解説役のスペシャルウィークの声、そしてウマ娘たちが走る蹄音ばかりが響いている中山レース場。それが昨日の実際の状態だったのだ。

 

 やがて音声記録内のレースは、最終直線からゴールへと向かう。

 

『抜けたのはシンボリ!シンボリだ!シンボリクリスエス抜け出している!シンボリが繋いだ!シンボリクリスエスが先頭でゴールイン!』

 

『ワアアアァァッッ!!!』

 

 その時点の記録は、鷹木とヒシミラクルの記憶とも相違なかった。

 

 シンボリクリスエスの勝利か確定した瞬間に、不自然なまでの静寂は破られ、突然世界中の音量が最大になったかのように大歓声が耳をつんざく。

 

 そこはタキオンの予想通りであったらしく、録音内容がゴール直前に着た瞬間に彼女はスピーカーのボリュームを下げていた。無駄に身構えて両手を頭の上に遣り、耳を塞いでいたヒシミラクルを傍らに、タキオンは口を開いた。

 

「この世界の観客たちは、可能性世界におけるレース結果との齟齬が、そのままに関心の希薄化と直結しているのかもしれないねぇ……可能性から外れることにこそ、予想外の展開が期待され、関心が強まるものだと思っていたのだが、どうやら違うようだねぇ。」

 

「この天皇賞の話に当てはめれば……シンボリクリスエスが勝つこと、については可能性世界で決まっていた通りの結果だった、ってことか?だからクリスエスの勝利が確定した瞬間に、歓声が本来の大きさに戻った……?」

 

「あぁ、そう考えて差し支えないだろうねぇ。可能性世界との齟齬が見られるレース過程では、対照的に歓声が薄まっている。出走メンバーは確実に可能性世界と異なっているだろう。皐月賞で引退していない、この私が出走しているのだからねぇ。」

 

 タキオンは今さら敢えて説明しなかったが、彼女が昨年の皐月賞で引退の危機に瀕したこと、そして『可能性世界』では実際にアグネスタキオンが皐月賞を最後に引退したのだろうこと……それは鷹木もほぼ確信している事実であった。

 

 現時点で、もっとも不可解であるのは、観客の関心が薄まるという現象である。

 

 可能性世界との齟齬がある可能性はさておき、スターウマ娘ばかりが集まったレースを前にすれば、本来関心はより高まる一方ではないのだろうか。

 

 ナリタトップロードにアドマイヤベガ、アグネスデジタルにエアシャカール、ネオユニヴァースとゼンノロブロイ、タキオン、カフェ、ダンツ、そしてシンボリクリスエス。これらの面々が一堂に会するGⅠレースの実現など、熱狂しないウマ娘ファンはいないはずだ。

 

 先ほどまで流れっぱなしだった音声ファイルを一時停止し、タキオンは一呼吸おいてから改めて語り始めた。

 

「……私はだね、夏合宿を終えた頃から、新たな仮説を見出しているんだよ。『可能性世界』は現実世界と並行して存在しているのではなく、既に確定した過去となっているのではないかと。」

 

「……どういう意味だ?」

 

「トレーナーさんが聞いても分からないのなら、私が分かんなくても仕方ないですね。」

 

 ようやく会話に割って入れたヒシミラクルの声が、多少なりと場の空気を緩ませたようであった。

 

 タキオンは知らぬ間に寄っていた眉間の皺を緩め、椅子に深く腰掛け直し、鷹木だけではなくヒシミラクルにも呑み込めるような平易な言葉を選んで喋りはじめる。

 

「夏合宿で、アドマイヤベガ先輩とともに合宿所近くの地元商店街……だった場所へと行った時のことは覚えているかい?」

 

「はい、シャッターが下りきった店ばっかりでさびれてましたけど、古いものばかり残されてて逆に珍しかったのは覚えてます。」

 

「アドマイヤベガ先輩は、あの商店街の隅に立てられていた掲示板にて、自分がクラシック級で引退してしまう旨が書かれた記事を見た経験があるとのことだ。そうだったね、トレーナーくん?」

 

 タキオンからの問いかけに、鷹木は頷く。

 

 それはタキオンが入学するよりも更に前、鷹木がテイエムオペラオーを担当していた時期の話である。

 

 結城トレーナーが個人所有している合宿施設の近く、もはやシャッター街と化した地元の商店街にて、時代に忘れ去られたかのごとく残されていた一枚の新聞記事の切り抜き。そこに、アドマイヤベガの名と、彼女が引退し、さらに数年後に亡くなってしまうとまで書かれていたのだ。

 

 現実的に考えれば、悪質ないたずらだと判断されるものであったが、そもそれはジュニア級の夏に起きた話、アドマイヤベガの名前は新聞に載るどころか、トレセン学園内でも広まっていない、無名な時期である。

 

 まるで未来を予知するようなその内容を知った後、アドマイヤベガは秋以降の不調に苦しみ……しかし、トレーナー達や同期ウマ娘たちのサポートも得て、現在もGⅠウマ娘として現役続行できている。

 

「あの商店街の様相、少なくとも現代より数十年前の技術水準のまま、何者にも手入れされず放置された光景が残されていたねぇ。町内に情報を知らせる手段として掲示板が立てられ、瓶ジュース用の自動販売機が残され、道端に公衆電話のボックスがあった。」

 

「公衆電話なんてものがあっただなんて、あのとき初めて知りましたよ。スマホが発明されるよりずっと昔だったんですかね?」

 

 スマホどころか、携帯電話がようやく普及し始めたばかりの時代だったのではないか……と鷹木は推測したが、話がわき道にそれぬよう口を噤んだ。

 

 ともあれ、そんな古びた商店街に、アドマイヤベガの未来をまるで確定したかのように書いた記事が残されていたこと自体が、タキオンにとっては大きなヒントであるらしかった。

 

「すなわち、公衆電話が現役だったころの数十年前に、可能性世界ではアドマイヤベガ先輩の運命が既定されていたということになるねぇ。可能性世界が我々ウマ娘全ての運命に干渉するのならば、それは現実の時間軸に並行しているのではなく、とっくの昔に確定した情報をあらためて取り出すような振る舞いではあるまいか。」

 

「えーと……ちょっと何言ってるか分かんないですタキオン先輩……トレーナーさんは、分かるんですか?」

 

「かろうじて、だが、な。」

 

 既に理解を放棄したことをありありと表情に示したヒシミラクルから問いかけられ、鷹木は少し間をおいて頷いた。

 

 おそらく、この時点で鷹木はタキオンの言っていることをほぼ理解できていただろうが、それでもタキオンの思考を完璧にトレースできていると易々とは確信せぬのが、担当トレーナーとして染みついた思考であった。

 

 そんな鷹木の胸中を見越したように、タキオンは言葉を被せる。

 

「トレーナーくん、この場において謙遜は無意味だ。今の今まで私の理論を聞き続けてきたキミの理解が“かろうじて”の域に収まるはずもあるまい。本来人々は予想外にこそ興味を抱くはず、しかし可能性の再現にのみ世界の関心が働くということは、すなわちそれが歴史における“正解”だから……ということ。トレーナーくんも、そこまで把握しただろう?」

 

「あぁ……可能性が現実と同時進行していないのなら、既に可能性ではなく完了した事実になってしまっている、ってことだな。」

 

「?????」

 

 独自の理論を述べ続けるタキオン、それにスラスラと返答を与える鷹木に挟まれ、ヒシミラクルはいよいよもって目をぱちくりさせ、ぽけーっと口も半開きのままという顔のままで固まっていた。

 

 理解するだけで精一杯な内容を、まだ理解できていない者に解説することは、なおのこと難しい。

 

 置いてけぼりになっているヒシミラクルを傍らに、鷹木とタキオンは対談を続けた。

 

「この件に関しては、夏休みが終わった頃にネオユニヴァースくんとも話し合ったのだがねぇ、彼女はさして憂慮することではないと言ってくれている。」

 

「あぁ、俺とミラ子が野分特別へ行ってる時のことだったな。たしか、観客たちを感動させるレースを見せられさえすれば良い、って話だったっけか。」

 

「簡単に言うとそういうことだねぇ、すなわちこれまでウマ娘たちが続けてきたことを全力で遂行すればよいというわけだねぇ。……数十年前に既に確定した可能性の観点から言えば、我々は敢えて“不正解”を世間に示し、人々の感動へと通そうとしている、とも表現できるねぇ。」

 

 タキオンは発言の末尾を、多少重みを増した声で締めくくった。

 

 それは確かに不安を伴う道のりであった。“可能性世界”で既に確定したレース展開をそのままなぞり、既に確定していた通りのレース結果を出せば、問題なく観客たちは大歓声を上げ、現実として確定する。歴史にも、勝利ウマ娘の名が刻まれる。

 

 だが、可能性の中で既定されていないウマ娘が今後勝利した時は……もはや歓声も喝采も浴びせられることはなく、事実としても成立しないという状況に陥るのだろうか?

 

「だから私は、特異点たるウマ娘を探し続けていた、いや今も探し続けている。既定の命運から外れようとも、既に確定した歴史の中では不正解であっても、可能性の中ではあり得ない経緯を自ら歩もうとも……その存在が真であり続ける絶対点を。」

 

「あのー、それを前々から言い続けてる、タキオン先輩自身が特異点、ってやつじゃないんですか?ほら、引退するかもしれないって所を乗り越えて、現役続行されてますし。」

 

 どうにか自分が会話にわって入れる隙間を見出したヒシミラクルが、ようやく口を開く。

 

 後輩の言葉を耳に入れたタキオンは心なしか嬉しそうな色を目に浮かべたが、ほどなく瞼を伏せて首を横に振った。

 

「私もそうでありたいと願っているし、一時的には実際に私が特異点となっていた期間も存在したとは考えているがねぇ。先日の天皇賞、決着が出るまでのレース過程にて、あれほど静まり返っていたとなれば、特異点としての干渉は無かったと判断せざるを得ないねぇ。可能性から外れてなお、この世界に存在感を発揮し続けたとは言い難い状況だからねぇ。」

 

「何ならむしろ、最終直線までタキオンが勝てる位置にいたことが、あの異常な状況に影響しているかもしれないな。クリスエスが勝てないという可能性が現実的だった間、歴史としては不正解の結果が迫っていたんだ。」

 

「私が勝って、レース場が静まり返ったままであれば、より明瞭にこの異常は際立っただろうねぇ。おそらく歴史としては正解だろうと思われる、クリスエスくんの勝利は純粋に讃えねばなるまい。私以外にも、ネオユニヴァースくんをはじめエアシャカール先輩、アドマイヤベガ先輩、と特異点の素質を有する面々はいたが、まだ足りないのかもしれないねぇ……。」

 

 相変わらず傍らのヒシミラクルは脳内に疑問符がありありと浮かんだ表情を示していたが、タキオンの憂慮だけは伝わっているようだった。

 

 正解が用意されている方角へひた走るのならば、何も迷うことはない。

 

 が、これから先、可能性世界という運命の既定に抗い、あえて不正解へ突き進む道を選ぶとなれば、その先に未来が続いている保証はない。

 

 観客たちを感動させ、ウマ娘レースの歴史に事実として刻まれれば、この現実世界では真実となる。が、力不足だった場合……歴史に残らぬどころか、正解の道から外れたウマ娘たちの存在そのものが消えるのではないだろうか?

 

「……さて、徒に自分たちの不安をばかり煽り立てても仕方ない、この話はここまでにしようかねぇ……」

 

 むろん、この場で明瞭な答えなど出るはずもなく、干ない議論を切り上げようとタキオンが顔を上げた時、まるで出番を見計らっていたかのように実験室の扉を引き開ける何者かが居た。

 

 姿を直接視認するまでもなく、間を置かず飛び込んできた声は、鷹木とミラ子を軽く跳びあがらせるほどの声量であった。

 

 聞く者の脳天を貫くような強烈な響き、そして放たれる個性的すぎる言い回し。それを発せられるウマ娘は、トレセン学園に一名しかいなかった。

 

「秩序(コスモス)を疑い、超限を期する探求者(アグネスタキオン)よ!酩酊を乞う嘆息(こえ)の出処はオマエか!アスポデロスの野をさえも踏破せんと欲するならば、ワタシも駆けよう!至上の破壊(デストロイ)、破滅と狂乱の戦史(クロニクル)を刻んでやろう!」

 

「……ギムレットくんじゃあないか、まさか……」

 

 タキオンが呆気にとられる表情を示すのは、ごく珍しい。彼女の視線の先、実験室の扉を勢いよく引き開けて立っていたのは、タニノギムレットであった。

 

 当然のことであるが、タニノギムレットの独特過ぎる言い回しに驚くことはもはや無い。それは鷹木も、ヒシミラクルも既に聞き慣れた今となっては当たり前のことである。

 

 その難解な言い回しから、真意を汲み取れたタキオンだけが呆然としていたということは……それだけギムレットは重大な決意を述べたということだ。

 

「……まさか、現役復帰する気を起こしてくれた、とはねぇ……!」

 

「クク……喜ばしき退屈(インタールード)を愉しむ心づもりであったが、定めの鎖(フェイト)は俺の望まぬ道を示した!踊りの楽しみ(テルプシコラー)に観客が酔わぬ舞台など、無粋な戯れにも値しない!俺は誓った。民を酩酊させると。幕を再び上げる(ショウ・マスト・ゴー・オン)には、刹那の眩い輝き(タニノギムレット)が必要だろう!!」

 

 今年の日本ダービーにおいて鮮烈すぎる勝利を披露した後、引退を宣言し、颯爽とレースの舞台から去っていったタニノギムレット。

 

 だが、彼女もまた、先日の天皇賞の様相を見ていたのだろう。そして、あれだけの優駿が集結した記念すべきレースにて、幾万人もの観客たちが非現実的なまでに静まり返っている様を、捨て置けはしないと感じたのだろう。

 

 現役復帰の意思を、記者会見の場で大々的に発表するのではなく、このタキオンが勝手に占拠している埃臭い実験室で発表するあたりは、いかにもギムレットらしかった。

 

 現世代で最もクセの強いウマ娘2名の声々が、互いに響き合っていた。

 

「素晴らしいねぇ!いや、むろん、この私も薄々ながらギムレットくんがじっとしてはおれないだろうと予測していたとも!あぁ、これで我々特異点の集団は更に補強されるねぇ!もはや点ではない、特異面、いや特異塊とでも称すべきかねぇ!」

 

「我等の同盟は運命をも背負ったか!熾烈刹那の瞬き、俺たちこそが酩酊の楽園(エリュシオン)を作る!理想(イデア)を叶える時代の共犯者たち(タイムクライム)よ!嗚呼、嗚呼……!ハァーッハッハッハアァァッ!!」

 

 ガラス窓が割れるかと思われるほどビリビリと響いているタキオンとギムレットの声に耳を伏せつつも、鷹木の隣でヒシミラクルの表情は楽しげであった。

 

 ぼんやりとしか状況を理解していないミラ子にも、ギムレットの現役復帰が事態を大きく好転させる契機であると知れたのだ。もちろん、同期の復帰を直接的に喜ぶ気持ちが、彼女の胸中の大部分を占めていることは言うまでもない。

 

「さすがにギムレットちゃんが復帰する、ってニュースが出れば、ファンの方たちが大盛り上がりするに違いないですよね。」

 

「あぁ、これなら、ウマ娘レースへ向けられる関心も大きく跳ね上がるはずだ。」

 

 ……しかし、事態はそう単純ではなかった。

 

 単なるファンからの関心であれば、現状でも十分なのだ。言わずもがな毎レース、数万人単位の収容能力を有する観客席は満席になっているのだから。

 

 これから引き寄せていかなければならないのは、可能性から外れた事物へ向けられる、この世界そのものからの関心であった。

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