11月に入れば、世間の話題は今年のジャパンカップ一色に染まる。
メディアによってジャパンカップ特集が組まれ、SNS上でも同様にジャパンカップの話題が増していく様を見るに、やはりウマ娘レース自体への関心が色褪せていないことには違いない。先日タニノギムレットが現役復帰を決定した旨も、しっかりと話題になっている。
問題は、今後のレース展開や結果が“可能性世界”で確定しているだろう内容と食い違った際に、どのような反応を観客たちが示すかであった。
むろん、実在すら証明されていない別世界で何が起きたかなど、こちらの現実世界に居る者が知る手段など無いのだが。
「この私が出走していれば、確実に可能性世界のレース展開とは異なると断言できるのだがねぇ。クラシック級の年、皐月賞を最後に引退していただろうアグネスタキオンが、昨年のみならず今年のジャパンカップにまで出走するなど、トレーナーくんのサポートを得たこの世界でなければ実現し得ないことだろう。」
「あぁ、だが……今年のジャパンカップは回避しよう、タキオン。」
練習場の間を抜けていく通路を並んで歩きながら、鷹木とタキオンは言葉を交わしていた。
タキオンの表情には、迷いも躊躇いもない。
大舞台となるレースへ出走するだけの実力を有していながら、そして現役を続けられる期間が限られていながら、出走を見送るという決断は軽からぬものであったが、今は担当トレーナーたる鷹木の決断を信頼していた。
「仕方あるまいねぇ、先日の天皇賞では私も本気を出して走ったのだし、即座に引退へ追い込まれるような故障に繋がらなかっただけでも御の字だねぇ。それに何よりも、私は今年の有馬記念へ出走する機会だけは逸したくないからねぇ、きっとヒシミラクルくんは人気票を得て出走するのだろうし。」
「そうと決まったわけじゃないが、可能性は高いな。それよりも今は、タキオンの脚を万全の状態に戻すことが重要だ。」
まさに今、普通に歩く程度の負荷なら問題なくこなせているタキオン。校医による診断でも、明確に怪我と分類される症状は確認されていない。
それでも、タキオンの脚を数年にわたって見続けてきた鷹木には、本気の走りを実現するための負荷を再び受け入れられる状態ではないことが明瞭に理解できた。
レースを終えて戻ってきた時のみならず、その疲労があらかた回復した数日後にもなお、過去に二度発症している屈腱炎の再び頭をもたげつつある熱が、タキオンの引き締まった脚を触った際に感じ取れたのである。
その旨を伝えられた校医も改めての触診を実施した後、担当トレーナーの感覚の鋭敏さを肯ずる他になかった。
「むろん私は中途半端なところで現役を打ち切らぬための判断には諾々とするところではあるがねぇ、しかしジャングルポケットくんはアッサリと呑み込むわけにもいくまいねぇ。」
「再びジャパンカップで決着をつけよう、と言ってたところだもんな……。」
先月の天皇賞にタキオンは出走したが、ジャングルポケットは出走を回避していた。
春の天皇賞の後、脚に故障が発覚したジャングルポケット。その後に予定されていた宝塚記念出走や、イギリスへの海外遠征も中止し、治療に専念するための休止期間をとっていたが、完全回復から秋の天皇賞出走への調整までは間に合わなかったのだ。
そのため、昨年同様にジャパンカップで直接対決しようと口約束だけ交わしたのが夏終わりのことであったのだが、タキオンのジャパンカップ回避によってそれは叶わぬ約束となった。
鷹木とタキオンは、共に立ち止まる。目の前には、桂崎トレーナー指導下のウマ娘たちが使用している個別練習場の入り口扉があった。
「まぁ、ジャングルポケットくんも後輩が増えたことだし、今となってはシニア級相応の落ち着きを身に着けているだろう。私と競えぬと知ったとしても、激情を露わにするような真似などしないだろうねぇ。」
「希望的観測が過ぎるとも思うが……まぁ、こちらから直接出向いて伝えるわけだから、誠意は伝わるだろうか。」
「誠意も何も、本来はレース出走ないし回避の意思など個々のウマ娘が自由に下せるはずなのだからねぇ。わざわざ他の出走者から了承を取る必要など無い、にもかかわらず私はジャングルポケットくんとの関係性を鑑みて話を通しに来ているのだから、むしろこちらの心遣いに感謝してもらいたいほどだねぇ。」
「うん、タキオン、そのスタンスを相手に見せると話がいよいよこじれるだろうから、抑えてくれよ。」
練習場の扉を前にして、タキオンと鷹木が交わしたやり取りは、むろん本気で相手を困らせるためのものではない。既に3年間の付き合いを続けた両者にとって『社交性に難のあるウマ娘と、それを御するトレーナー』という関係性が確立しているからこそ、あえてそう振舞うことで安堵を得ようとしたものだ。
……すなわち、今のタキオンは正直なところ、ジャングルポケットがどのように反応するかと案じ、緊張していたということでもある。
幸いなことながら、ジャングルポケットの方もまた、タキオンとの付き合いには慣れていた。ノックするまでもなく、練習場の扉が内側からガチャリと開けられる。
他ならぬジャングルポケットが、半ば呆れた表情でそこに立っていた。
「聞こえてんだよ、さっきから。どんだけ子供っぽいと思われてんだ、オレは。」
「おぉ、これはこれはジャングルポケットくん!わざわざ扉の前で私たちの到着を待ってくれていたとは、まるで飼い犬のごとき律義さだねぇ!」
「んなこと、わざわざ待ってねーよ。お前のデカい声が扉越しに響いて聞こえてるから様子見に来ただけだっての。」
そうは言いつつも、わざわざ扉を開けてタキオンたちを迎え入れているあたり、ジャングルポケットもまた到着を待ちわびていたものと思われた。
練習場内には、ジャングルポケットを担当している桂崎トレーナーの姿はあったが、他のウマ娘たちは居ない。おそらく、同じくジャパンカップに出走するシンボリクリスエスが別の練習場で調整を行っているためだろう。同じレースに出走する者同士で、作戦を見せ合うわけにはいかない。
桂崎トレーナーは常通り、ベテランらしい落ち着きある風格で鷹木とタキオンを迎えていた。とはいえ、多忙を極める現状のためか、心なしか痩せて、首元の皺が増えたようでもあった。
鷹木は率先して頭を下げる。
「ご無沙汰しております、桂崎トレーナー。このたびは、シンボリクリスエスの天皇賞勝利おめでとうございます。それから、その、今月のジャパンカップにつきましては、アグネスタキオンの出走は見送らせていただこうかと判断をいたしまして……。」
「既に聞いているよ。慎重かつ適切な判断だ、僕もそれを尊重する。あるいは、ふたたび数多の優駿がひしめくジャパンカップから、優勝候補がひとり減ったことに安堵している……と告げた方が正直なところかな。」
「おいおい桂崎トレーナー!オレは最初っから、タキオンなんかに負けるつもりねーよ。」
すかさず抗議の声をあげたジャングルポケット。とはいえ、彼女の表情からは沈んだ色が綺麗に拭い去られていた。
担当ウマ娘の心理を良く理解している桂崎トレーナーの言葉選びによって、鷹木のみならずタキオンも若干緊張していた問題は想定よりずっと速やかに片付いたのであった。
ちょうど休憩に入るタイミングだったのだろうジャングルポケットは、それでも不満そうな表情を取り繕ったまま、水分補給用ボトルに一口つけて喋りはじめる。
「ったく、ダンツもしばらく休養するって言ってるしよ……ジャパンカップ、オレと走れる同期はカフェだけになっちまったじゃねーか。」
「だが競走相手に不足する状況ではあるまいねぇ?ユニヴァースくんとロブロイくん、それに他ならぬシンボリクリスエスくんが出走するのだから。あぁ、それから結城トレーナーが言っていたねぇ、凱旋門賞の後、イタリアからファルブラヴというウマ娘を招待する、と。」
今年の凱旋門賞においては、九着という結果に終わってしまっていたファルブラヴ。
しかし、それ以前にはイタリアにおいてGⅠ8勝を挙げるという戦績の持ち主であり、トップクラスの実力を有していることは疑うべくもない。
フランス遠征を断念したマンハッタンカフェに代わり、ドラール賞へと出走したイーグルカフェ、およびファルブラヴのサポートを行ったトレセン学園の支援チームは、彼女をジャパンカップへと招くことも既に決めているのだ。
「ま、タキオンをボコせねーのは心残りだけどよ、勝負する相手が強ぇ奴らばかりだってのは確かだな。」
「私に敗れる心配がなくなった、と言い換えてくれたまえ。だが、それよりも私は今回のジャパンカップ出走者の中においては、シャカール先輩に強く興味を惹かれているねぇ。遠慮ない言い方をすれば、シャカール先輩がGⅠを獲れるチャンスは今年が最後だからねぇ。身体能力的に来年以降、更に厳しくなるだろう。」
ジャングルポケットに返すタキオンの言葉を傍らに聞きながら、鷹木はつい頷いていた。
エアシャカールを担当しているのは鷹木ではなく結城トレーナーであったが、彼女の走り、練習する姿に触れる機会は鷹木にも必然的に多い。タキオンが積極的に会いに行こうとする相手であることも、一因である。
そのタキオンが入学してくる前からずっと走り続けてきたベテラン、エアシャカールの悲願はGⅠでもう一勝を挙げること。
クラシック級の年に皐月賞と菊花賞を獲って二冠ウマ娘となり、テイエムオペラオーを始めとする覇王世代を前に実力差を味わった後、シニア級のジャパンカップにて遂にオペラオーへの雪辱を果たし、GⅠの3勝目を挙げたシャカール。
が、それ以降は、何かの反動が来たかのように勝利から遠ざかる時期が続いていた。レースの技術は磨かれども身体能力がじわじわと衰えてくる今、来年のチャンスに賭ける余裕はないだろう。
「だからこそジャングルポケットくん、エアシャカール先輩には気を付けておきたまえ。もはや彼女にとって最後のGⅠ勝利を獲るチャンスだ、GⅠをすでに3勝しているからと諦める性格ではないのはキミも知っているだろう?いかに理知的な面を被っていようとも、その奥に燃える執念は尋常ではないからねぇ。」
「言われなくたって、先輩相手に油断なんかしてねーよ。」
ジャングルポケットはそう返したものの、普段からシャカールとよく付き合っているタキオンからの忠告は説得力をもって響いたようであった。
担当ウマ娘たちがそんな会話を続けている間、鷹木と桂崎、両トレーナーは練習場の大型ディスプレイにPCを接続し、レース中継を映しだす準備を進めていた。せっかくの中継観戦ならば、極力良い環境で実施したい。
……それに、相変わらず気になるのはレース時に響く声援の不自然な変化であった。ノートPCの小さなスピーカーよりも、大型ディスプレイに付属するスピーカーの方が聞き取りやすいだろう。
この日行われるのはアルゼンチン共和国杯、タップダンスシチーが出走するレースである。
「朝日チャレンジカップで勝ち、京都大賞典でもベテラン相手に大健闘しているからねぇ、タップくんはいつ勝ててもおかしくない状態と言えるだろうねぇ。」
「もうGⅡレースにすんなり出るところまで来てんだな、タップは。あのメンタル、マジ過ぎんだろ。」
活躍できる時期が限られているウマ娘の中でも、他の同期より1年遅れでトレセンに入学したタップダンスシチーはそれだけスタートラインが後ろにあったともいえる状態だった。
そこから条件戦を繰り返し、さらには故障による長期休養も挟み、なお挫けることなく、今こうしてGⅢやGⅡのレースに出走するに至った彼女は、確かにウマ娘たちに大きな希望を見せる存在に違いない。
殊に、大事を取ってレース出走を見送ったり、ほぼ引退を視野にも入れた活動休止の選択を採ったりすることもあるウマ娘たちにとっては猶更であった。
「タップダンスシチーは2番人気、ですか……1番人気はコイントス、ベテランのウマ娘ですね。」
「日経賞や有馬記念にも出走し、好走を見せたウマ娘だからね。人気が集まるのも当然だろう。」
鷹木は、桂崎トレーナーと言葉を交わしつつ、どこか違和感を抱いていた。
コイントスというウマ娘の名には充分に聞き覚えがあり、タップダンスシチーが今年の日経賞に出た際も、コイントスと競っていた。だが、彼女は既に有馬記念にまで出走していただろうか……?
それは後ほどデータベースを確認すれば判明する話であり、今は発走時刻が目前に迫った画面内の中山レース場に集中する時であった。
〈好天に恵まれました11月3日の中山レース場、芝状態は良となりましたアルゼンチン共和国杯。スエヒロコマンダーは出走取消となり、総勢11名のウマ娘たちがゲート入りを済ませております。全員が収まりまして体勢完了……スタートしました!綺麗に揃ったスタートであります、まずは外から果敢に上がっていきましたアメリカンボス、すぐウチに並んでフサイチランハートが2番手に続きます。1枠エアスマップも並んで3番手といった形で、早くも先行集団は固まっております。〉
従来であれば東京レース場で開催されるアルゼンチン共和国杯であったが、今回は改修工事中の東京レース場にかわって中山レース場で行われている。スタート位置は3コーナーのポケット、そこから4コーナーを回り切って一周目のスタンド前へと出る。
すなわち、偶然の産物ながら、有馬記念と同じコース条件での実施となっていたのだ。画面を見つめているジャングルポケットもアグネスタキオンも、自然と視線に熱がこもる。
「優勝候補の面々、特に1番人気から3番人気の子たちはそろって中団につけているねぇ。中山の2500mを走り切るとなれば、やはりこの辺は緩めないと持たないだろうねぇ。」
「いっつも先団に入ってるタップも、6番手に付けてんな。アイツの実力が分かってる連中は、しっかりマークして来てやがる。」
ジャングルポケットが言った通り、タップダンスシチーの位置を取り囲むように集団が形成されていた。
瞬発力での勝負に持ち込ませず、自分のペースで正確に回っていく走りを得意とするタップダンスシチーへのマークが集中した結果、まるで包囲網のごとき陣形となっていたのだ。
〈4コーナーを抜けまして一周目、正面スタンド前の大歓声を浴びながら1コーナーへと進んでまいります。先頭変わらずアメリカンボス、フサイチランハートほとんど並びかけて2番手、3番手エアスマップのすぐ後にアクティブバイオ、その外並んでビッグバイキング。続いて1番人気コイントス、そのウチに2番人気タップダンスシチー、さらにウチをついてユキノサンロイヤルが中団を形成しております。あとは3番人気サンライズジェガーが追走し、最後方トウカイオーザ、キングザファクトが並んでしんがりとなっています。〉
有馬記念と同様、一周目の直線で大歓声を浴びるウマ娘たち。その光景自体は何らおかしいものではない。
……が、この場でタキオンと鷹木は、互いに奇妙さを感じ取っていることを言葉なしに、目くばせのみで確かめあっていた。
満員の観客席にもかかわらず、あまりにも小さく歓声が聞こえるという異変が繰り返されている今、本来通りの声量で歓声が響くことはむしろ逆に違和感があったのだ。おそらくタキオンの仮説における“可能性世界”と同一のレース展開が続いているため、この世界そのものからの関心が薄れなかった結果ではなかろうか……。
同席するジャングルポケットと桂崎トレーナーは、何にも気づかぬ様子で言葉を交わし続けている。
「オレも今年のジャパンカップ、東京レース場じゃなくて中山レース場だ、中山で勝てる奴がどんなペースで行くのか見とかねーとな。」
「何度も実感したことだけれど、直線で一気というわけにはいかないからね。向こう正面あたりからぐっと変わってくるペースに意識を向けるんだ。」
桂崎トレーナーの言葉に、真剣な表情で頷くジャングルポケット。東京2400mの王者にとって、中山で行われるジャパンカップは確かにひとつの試練となるだろう。
相変わらず画面内からあふれ出す歓声の大きさは薄れることのないままに、出走者たちは向こう正面へと突入していった。
〈先頭は変わってフサイチランハートが1番手に上がっていきました。2番手はアメリカンボス、そこに外目を突いて上がって来たのはアクティブバイオ!残り1000mといったところで、アクティブバイオが2番手に並びかける勢い、さらにタップダンスシチーも連れて3番手へと詰めてまいりました!先団ではさらにエアスマップが脚を使って、こんどはエアスマップ1番手であります。一気に状況が動いて、各ウマ娘、第3コーナーへと入っていきます!〉
3コーナーへと入る目前、先行する集団の脚が緩んだことを示すように、タップダンスシチーが3番手まで上がってきている。
もちろんタップは加速したわけではなく、彼女自身は正確なペースを刻み続けているがゆえに相対的に前へと上がった形になる。捲りを狙っていた面々の動きに先手を取られた先行ウマ娘たちは、じりじり下がって集団の中に埋もれる形となった。
タキオンは歓声の変化に耳を立て、僅かな異変も聞き逃さぬようにしつつ、口を開く。
「今回の展開では、さすがに先行策の面々は厳しかろうねぇ。唯一、この流れに反応できたエアスマップくんが食い下がれるところだろうか、流石は大ベテランだねぇ。」
「ってことは、タップの走りについてこれるのは、中団以降の連中か……1番人気のコイントスも、しっかり外に出て集団を回避するコースに入ってやがる。」
確かにタップダンスシチーは現状のまま順調に進められれば、そのまま先頭へ躍り出てゴールまで1番手に立ち続けられるだろう。
とはいえ、3,4コーナーを抜け、最終直線の坂も越えて、タップダンスシチーに追いつくウマ娘の予兆は、すでに後方集団の外側にあった。1番人気コイントス、さらに3番人気サンライズジェガーも、十分に脚を溜めた状態で、コースをブロックされぬ位置取りに身を置いていたのである。
……が、その予想を覆し、さらに明瞭な異変が発生したのは、この後であった。
〈4コーナーを抜け最後の直線です、中山の直線は短いぞ!先頭のエアスマップを交わしてタップダンスシチー先頭!残り200を通過!外からサンライズジェガー、連れてコイントスも上がってくる!さらにトウカイオーザも大外から追い込んでくるが、タップダンスシチー先頭だ!綺麗に抜け出したタップダンスシチー、サンライズジェガー並びかける、コイントスも食い下がるが、タップダンスシチー先頭のままゴールイン!勝ちましたタップダンスシチー!朝日チャレンジカップに続いて重賞二勝目、そしてGⅡ初制覇です!!〉
最終直線へと入る際、前を塞いでいたのはエアスマップ。そのままの位置では、外側から上がってくる面々に蓋をされるような形で少なくとも三着に落ち着いていただろうタップダンスシチー。
だが、タップは咄嗟の機転でコース内側を抜け出し、誰にもブロックされぬまま駆けあがっていった。サンライズジェガーとコイントスにほぼ並ばれるような形でありながら、遂にGⅡでの初勝利を飾ったのだ。
……しかし、異変は明確だった。
最終コーナーまでレース場全体を沸き立たせていた大歓声は嘘のように収まり、重賞レースではあり得ないほどの静寂が広がっていた。観客たちは口を閉ざしておらず、むしろ所作は沸き立っていたのに、その熱狂だけが遠ざかったかのようであった。
“可能性世界”においては、タップダンスシチーが勝つはずではなかった、ということだろうか?
さすがに、この異変に言及したことのないジャングルポケットも、これには触れざるを得なかったらしい。観戦画面へと視線を向けながら、隣席のタキオンに問いかける。
「……なぁ、タキオン。普通ありえねーよな、重賞レースがこんな静かになることなんて。」
「あぁ。ありえないはずだねぇ。さすがに鈍感なジャングルポケットくんも、これには気づくかねぇ。」
「……前々から、薄々感じてはいたんだ。先月の天皇賞だって、レース結果が出た時は大歓声が響いてたけど、それまで異様に静かだっただろ。タキオン、お前、なんか知ってるのか?」
ジャングルポケットの声の響きにあったのは、猜疑ではなく、純粋な質問であった。あるいは……ポッケ自身は断じてそうと認めなかったろうが……タキオンならば何か知っているはずだという、願望であったかもしれない。
薄々感じていたが、知ったところでどう対処のしようも無い、この世界自体の異変。非現実的な気づきの内容を訴えかけられる相手は、ごく限られていた。
さすがのタキオンも、ジャングルポケットの問いかけを茶化すような真似はしなかった。とはいえ、少々居丈高な物言いの調子はさほど変わっていなかったが。
「むろん、私がこの異変について推論を立てていないはずがないだろう?昨年から、ネオユニヴァースくんやエアシャカール先輩と共に、向き合い、論じ合い続けていたさ。今ごろ気付いたジャングルポケットくんへ説明をするには、いちから話をしなければならないかねぇ?」
「……分かりやすく頼むぜ。賢いタキオンさん。」
「この世界に既定されていた可能性から外れ、世界の想定を超えた結果が出されたとき、異変は明瞭に発生するねぇ。今回のアルゼンチン共和国杯について言えば、タップダンスシチーくんは本来勝つはずではなかったところ、可能性を超越して勝利したのだろう。」
「お前がやたらとこだわってる、“特異点”ってやつになったのか、タップは?」
「あぁ、しかし、この世界は、その事実を受け入れていないのかもしれない。見たまえ、ファンの皆はタップくんの勝利をあんなに喜んでいるというのに。」
タキオンは、なおも中継画面に映し出されていた中山レース場内の模様を指さす。
歓声は異様なまでに小さく聞こえていたが、観戦スタンドを埋め尽くす満員の観客たちは、一様に喜びの表情を浮かべ、大口を開け、あるいは口笛を鳴らすようにすぼめ、沸きに沸いていた。
その様は、ターフの上で静けさを味わわされていたタップダンスシチーの視界にも入っていたのだろう。
勝利したにもかかわらず大歓声が響かぬ様に怪訝そうな表情を浮かべていたタップであったが、視線を観戦スタンドへ向けた時、視覚情報としては幾万人もの観客たちが大盛り上がりしている様を確認できたのだろう。
笑顔を取り戻した彼女は、その場で軽くステップを踏んでポーズを決めるファンサービスを披露していた。
とはいえ、彼女の中にも違和感は間違いなく刻まれたのだろう。タップダンスシチーが、何か知っているのではないかとタキオンのもとを訪れたのはすぐ翌日のことであった。