アグネスタキオンが入学早々に目をつけ、勝手に自分の“実験室”として占拠している古い理科準備室は、このところ掃除も片付けも為されず散らかったままの状態が続いていた。
言わずもがな、GⅠレースの常連となった現状、トレーニングや出走前調整に割かれる時間が多くなっているためである。タキオンはそれでも休憩日に実験室へ足を運んでいたが、かつて同席していたマンハッタンカフェも今は顔を出すことがほぼなくなり、すなわち部屋の片づけに着手する者は皆無だった。
しかし、今になって、この“実験室”には掃除機の音が響いていた。
薄暗く埃っぽい室内に籠るような振る舞いは、タキオンにとっては別に珍しいものではなかった。が、彼女と話をしに来たタップダンスシチーは、たった一目見ただけで現状に我慢できなくなったのである。
「Agh,smells dusty!いっつもこんな部屋に居たのか!アスリートが普段からこんな澱んだ空気吸ってんのはダメだろ、Tachyon!」
「普段からあまりにも清潔すぎる空気を吸っているのも、身体に免疫がつかないという点で良くはないと言われているがねぇ。レース中は巻き上げられた土埃を吸うことにもなるのだから、多少なりと吸気の濁りには慣れておかねば……。」
「掃除を面倒臭がった結果じゃねーか。Trainerも、タキオンの身に気を遣ってやれよ!」
テキパキと掃除を進めながら、タキオンとついでに鷹木に対して小言をまくしたてるタップダンスシチー。
さほど悪びれていないタキオンの傍らで、デスクの裏に隠れていた綿埃がごっそりと掃除機に吸い込まれていく様を見つめながら、雑巾を手にした鷹木は申し訳なさそうに口を開いた。
「担当トレーナーである俺が、気づいていないといけなかったんだが……ちょくちょくタキオンと一緒にここに来ているせいで、室内がこんな様子になっているのが当たり前みたいになってしまっていた。」
「まぁ、見慣れてしまうのは仕方のないことでしょう。我々の方もまた、練習場脇のプレハブ小屋の中にしれっとタップが私物を持ち込んでいても、当たり前みたいになってますし。」
面目なさげにしている鷹木に対し、タップの担当である片桐トレーナーが返答した。彼もまた実験室の掃除手伝いにつき合い、放置されていた段ボール箱を畳んで廊下へと運び出している。
当のタキオンはと言えば清掃の動作こそ緩慢であったが、それでも自分の居場所を綺麗にしてもらっていることは意識しているのか、実験用具の中から不織布マスクを取り出してタップへ手渡していた。
「空気中の塵が気になるならマスクを二重にしたまえ、タップくんも。ただでさえキミは、会話のために摂り入れる呼気の量が多いのだろうからねぇ。」
「Thanks、にしても、こんな酷い状態になってるとは思わなかったな!NoReasonをミラ子と一緒に練習場で走らせといて正解だったぜ。」
ヒシミラクルは今ごろ、ノーリーズンと共に外の練習場で併走を行っている。菊花賞も終わり、久々に合同で練習できる時間が取れたおかげだ。
タキオンとしては、異常現象への探求に若干興味を示し始めたミラ子の同席を良しとする思いもあった。しかし、本格的な活躍が来年に控えているだろう後輩ウマ娘を、こんな埃や塵が舞う空間に居させるわけにもいかなかった。
本来は腰を据えて、紅茶の湯気が立ち昇る中でゆったりと話し合う予定だったのだが……室内の状況に我慢ならずタップが開始した掃除は、部屋の想定以上の汚さのため長引いていた。11月ということもあり、既に午後の日は傾き始めている。
この掃除が終わってから話し合いを始めるのでは、あまりにも時間が無さすぎる。結果的に、各々が清掃に手を動かしつつ口を開く形式となった。
「それで、タップくんが今日ここに来たのは、やはり先日のアルゼンチン共和国杯での件について、私の見解を聞くためかねぇ?」
「Quite right、つっても、前から妙なことはあったが。あんだけ観客席が盛り上がってんのに、歓声がメッチャ遠くに聞こえるだなんて、私の耳がおかしくなっちまったんじゃないかと最初は不安になったほどだ。」
「正常だねぇ、むしろ、あれほどの異常現象に誰も気づかぬままであったらどうしようと、そちらの方が不安だったほどだねぇ。」
タップダンスシチーが、埃でいっぱいになったカートリッジをコードレス掃除機から外してゴミ袋へとあけている傍ら、タキオンは雑巾でテーブルの同じ位置を繰り返し拭いているばかりで、実のところさほど清掃に貢献していない。
だがタキオンの言葉に耳を傾けつつ掃除を続けている面々は、タキオンの挙動を指摘するほどには集中力を割けていなかった。
「それにしても、タップくんも、片桐トレーナーも、真っ先に私を頼りにくるとはねぇ。自分で言うのも何だが、こんな憶測と怪しげな仮説だけを唱える科学者気取りウマ娘が、異常現象に対する明確な答えを示せるとでも思ったのかい?」
「むろん、我々も異変に対する答えを求める先として、タキオンさんが最適解だと断定したわけではありませんよ。しかし、特定の条件下でのみ歓声が遠ざかって聞こえる異常な現象など、どこへ訴えれば良いのです?一応、レース後のチェックついでに聴覚検査を受けましたが、タップも自分も異常など無く、校医さんから不思議そうな顔をされたぐらいです。」
片桐トレーナーが、スラスラと返答する。
考え無しに動くことのない片桐は今回も、タキオンを頼りに来るまでには十分な過程を踏んでいるらしかった。
ゴミ収集カートリッジが装着し直され、掃除機の音がふたたび響き始める。その騒音に負けぬよう、多少声を張りつつタップダンスシチーも言葉を継ぐ。
「マジで異様だったんだぜ、ゴール直後にも、一緒にレースした連中と普通に喋れたからな。GⅡレースのスタンド前とか普通なら、全力で叫んでも大歓声にかき消されるレベルだろ、普通。ようするに、私の耳が悪くなったわけじゃない、ってことだ。なんつーか、観客の声っていうか、魂だけ遠くに行っちまったみたいだった。」
「言い得て妙だねぇ、その表現は!おおよそ私の仮説とも合致するねぇ、すなわち観客たちの反応の大きさは、この世界そのものがウマ娘レースに対し向けている関心の程度を示しているというものだ。個々の観客は間違いなくレース展開に熱狂しているのに、彼らの魂だけ遠くに行ってしまった……何とも的確な言い回しじゃないか。」
「……Huh?妙に納得してくれてんのは良いけど、まだこっちは何も分かってないんだが……?」
タキオン独自の解説を幾度も聞かされている鷹木などは、今さら改めての説明も要らなかったのだが……一方、その独特過ぎる仮説をここで初めて伝えられるタップが理解に至れないのは当然であった。
ジャングルポケットからこの異変について尋ねられた時と似通った表情を、今のタキオンは浮かべていた。
何も知らない者に対し、いちから説明することが面倒だと思わぬでもなかったろう。が、自力で異変の存在に気づいた者と認識を共有できる機会をこそ、貴重と感じる思いの方が大きかった。
「ごくシンプルな説明で行こうか。タップダンスシチーくん、キミはアルゼンチン共和国杯で勝利した。だが、本来、キミは負けるはずだった、と推測される。そのため、歓声が本来の大きさで響かないという異変が発生したんだ。」
「What the……?何を言ってる、どこの誰が決めたってんだ、私が負けるはずだった、だなんて。」
「誰でもない、強いて言うなれば、この世界そのものだねぇ。結果が確定していないレースの勝敗など、誰も知るはずがない。しかし、可能性の中では、ある程度定まっているだろう?例えばシャカール先輩が組んだシミュレーションプログラム『Parcae』が示すように。」
タップは腑に落ちない表情で首を傾げたままであったが、Parcaeの名を出された時、傾げたままの首をいちおう縦には振った。
本来、まだ行われていない未来のレース結果など、誰にも分からない。
結果どころか、そこに至るまでの過程すなわちレース展開もまた、確実にこうなると断言できる者などこの世界にはいない。
あくまで、出走した過去レースのデータや直近のウマ娘の仕上がり、当日のコース条件を加味した上で、予測が行えるだけ……それが常識であり、むろんタップダンスシチーの認識でもある。
「Parcaeがやってることだって、ただの予測だろ?じゃあ見に来た観客全員が同じ予想してて、外れたから全員でガッカリしてる、ってか?そんなわけない。歓声が小さく聞こえてただけで、全員の表情が沸きまくってたのは、私がこの目でハッキリ見てんだからな。」
「あぁ、その認識に間違いはないとも。私が述べるのはあくまで仮説だ、現実の法則にそぐわない異常現象へとこじつけるための、憶測だねぇ……我々ウマ娘の居る現実世界で起きる現象は、既に別世界で起きた出来事を参照した結果ではないか、と私は仮定している。その別世界を、私は仮に『可能性世界』と名付けた。」
タップが首を捻る角度が、その疑問の表情とともにさらに強まる。タキオンが語るのは突拍子もない話ではあるが、どこか心に引っ掛かる部分があるだけに、ポカンとしても居られないのだろう。
掃除機の音は止まっていた。言わずもがな、タップ自身が自分の脳内に騒音を入れぬよう、止めたのである。
言葉を交わし合う両名の様子を見つめつつ、鷹木はそっと片桐の方にも視線を遣った。
こんな奇天烈な話につき合わされて、片桐は呆れていないだろうか……と鷹木は案じたのだが、思いのほか片桐は真剣な表情であった。ばかりか、ある程度は表情の中に理解の色を示してもいた。片桐もまた、タップダンスシチーやノーリーズンを担当する中で、彼なりに異常現象を感じ取る機会はあったのだろう。
いつのまにか、皆の清掃の手が止まって静かになった空間の中、タキオンの声が語り続ける。
「私も最初は、現実世界と異なる可能性が実現した並行世界、ぐらいの認識でいたからこそ『可能性世界』との名称を気に入っていた。だが、この夏以降さらに明瞭になった異常現象から鑑みるに、それは無数に存在する可能性の分岐先などではなく、確固として存在する“歴史”そのものではないかとも考えられるねぇ。」
「Hard to understand,シンプルな説明をしてくれるんじゃなかったのか?」
「すまないねぇ、上手い説明というのは咄嗟に浮かばないものだねぇ。けれど、そうだ、実際の現象、具体的事例を示せば、理解には近づけるかもしれないねぇ。先月の菊花賞、むろん記憶は未だ鮮明なことと思うが、ノーリーズンくんとヒシミラクルくんの接戦は多いに見ものだったろう?」
「Hell yeah、忘れられるわけないぜ。……でも、確かに、菊花賞の時も妙に静かだったよな、観客席が。」
「ノーリーズンくんは、菊花賞の出走を決めて以降、スタート直後に転倒する悪夢を見続けていた、とのことだったねぇ。それは『可能性世界』では実際に起きた現象、すなわちノーリーズンは実際に菊花賞スタート直後に転倒したのだろうと私は考えている。だからこそ、転倒することなく最良のスタートを切れた菊花賞では、観客たちはいくら熱狂しようとも、この世界がその歓声を響かせることを許さなかったのではなかろうかねぇ。」
憶測を聞かされながら、タップダンスシチーの中にも実感に似たものはあったのだろう。
菊花賞では、ヒシミラクルの勝利が確定した瞬間、ようやく大歓声が本来の声量で響き渡ったのだが……あのレース模様では、仮にノーリーズンがスタート直後に転倒していれば、やはり間違いなくヒシミラクルが勝てていた。
すなわち、タキオンが言うところの『可能性世界』で確定していた結果と、現実の結果が合致した時、初めて歓声がレース場内に轟いたのだ。
「現実ではあり得ない異常が発生しているのは、レースでの話だけじゃない……夏合宿で私は、アドマイヤベガ先輩とシャカール先輩と共に、天体観測を行ったんだ。」
タキオンは、夏合宿で実施した天体観測についても語り始める。
特に昨年および一昨年に続けて話題となった、火星大接近の件が主たる異変であった。
地球とは公転周期が異なる火星は、当然ながら接近すること自体約2年2か月ごとにしか起きない。とくに公転軌道の近い位置まで来る大接近は、更に珍しい現象であり、同様の現象は数百年待たなければ発生しないとされている。
それが、去年と一昨年つづけて、まるで夏の風物詩のように発生していたのだ。現象そのものが異変であると同時に、全く騒ぎを引き起こさなかったこともまた異常であった。
「素人ならばまだしも、いや素人でも火星が毎年同じ位置に見えることの異常性は認識できて良いと思うが、プロであるはずの天文学者さえも異変に気付かないなどということが、起きようはずもないからねぇ。この世界の物理法則そのものが狂っているか、この現実世界自体が歪んでいるか……いずれにせよ、明らかに正確ではない現象だったことは確かだねぇ。」
「レース以外のことは、私にはよく分かんないが……その火星が同じ場所に見え続けるって異変、今も続いてんのか?」
「いや、今年の夏には大接近が発生しなかった。どうやら火星は本来あるべき運行に戻ったようだねぇ。何がトリガーとなって異変が止んだのかは分からない、世紀末覇王の引退から2年経過した昨年か、あるいはシンボリクリスエスくんが台頭し始めた今年か……?いや、天体の運行と、ウマ娘レースの模様を結びつける法則などあるはずがないけれどねぇ。」
「何にしても、おかしい現象が消えたんなら、それでいいんじゃないのか?」
「むろん、手を拱いて眺めていれば、何事もなかったかのように異常現象が収まる可能性はある。だがねぇ、憂慮すべきは今後だ。これから先、我々が可能性世界と異なる展開や結末へと至ろうとした際、この世界はその事実を認めないのではあるまいか?既に別世界で確定している結果こそ『正解』とされ、ウマ娘レースにおいても自らの努力や意思が通らず、可能性を覆せない……そんな世界であっては、ならないんだ。勝つはずのないウマ娘であっても勝てる、負けるはずがないと言われたウマ娘でも負ける、それこそ本来のレースであるはずだ。」
途中あたりから、タップダンスシチーはタキオンの熱弁していることを半分も理解できていない状態となっていた。
が、タキオンがこれまでになく真剣に語っていることは目つきからも充分にタップにも伝わっていたし、タキオン自らが強く使命感を抱いていることは、今に至るまでの経緯からも察することが出来た。
アグネスタキオンは、昨年の皐月賞の後、無期限の活動休止を宣言している。鷹木トレーナーによるレース前の助言や、その後のトレーニングでのサポートが無ければ、復帰の機会もなく、引退してしまっていただろう。
自分の行く先に定められていた引退の危機を乗り越え、今なお現役で活躍を続け、可能性を自らの意志で塗り替えているのは、ほかならぬタキオンなのだ。
「以前トレーナーくんへ伝えたことでもあるが、今でも私はこの世界の現実性に対して疑いを抱いている。ウマ娘レースが前年度と全く同じ展開や結果をくりかえしたり、毎年起きるはずのない天体運行が見られたり、特定のレース展開や結果でなければ不自然なまでに歓声が小さく響いたり……この世界は、参照元となる可能性世界から外れていくほどに、現実感そのものが薄れていくのではないかと、ね。そうならないように、我々は世界そのものの関心を否が応でも引き付けるようなレースを……」
「Tachyon、途中で遮って悪いが、一つ聞かせてくれ。んなことばっか、ずっと考えてて、気がおかしくなっちまわないか?」
自分の中で籠り続けた、好奇心と不安に触れて冷めぬ熱に埋没していくかのごとく、言葉数が異様に多くなっていくタキオンであったが、唐突にタップはその喋りに割って入る。
視線を上げたタキオンは、思いもよらぬほどに強い視線をタップから浴び、まるで憑き物が落ちたかのように目を瞬かせた。
傍らで様子を見ていた鷹木には、タキオンが急に爽やかな外気を浴びたかのように、目の奥の熱が引いていく様が感じ取れた。
「……お気遣いありがとう、確かに考え疲れる感覚を抱かないわけではないねぇ。とはいえ、この私のことだ、既におかしくなってしまっているかもしれないが、だとしても常通りの私と変わらないさ。」
「いいや、そんだけウマ娘レースのことを考え続けてんなら、お前はマトモそのものだ。そんなマトモな感性で、ひとりじゃ解決しないことを考え続けるだなんて、だいぶツラいだろ?」
タップダンスシチーはタキオンの目の前にずいと顔を近づけ、そして思い出したように清掃時用のマスクを外した。掃除の手が止まってから十数分、既に空中に舞う埃は収まっていた。
今まで持論を語り続けることに慣れていたタキオンは、ここにきて初めて虚を突かれたような表情を浮かべていた。
この世界がどこかおかしいことを実感する体験を抱え、自分の所にやってくる者が居るとすれば、共に探求を志す者でなければ、ほとんどは解決策を求める者ばかりだろう。そう考えていたタキオンは、まさか自分自身が心配される対象になるとは思いもしなかった。
鷹木もまた、タキオン同様に呆気に取られていた。だが一方で、片桐は微笑を浮かべていた。
担当トレーナーとして、タップダンスシチーの度量を知っている片桐にとっては、別に意外でもない反応だったのだ。タップダンスシチーは、タキオンの目の内を真っすぐ覗き込みながら語り続ける。
「Tachyon、お前はマジで優しい奴だな。誰が得するとも決まってないだろうに、ウマ娘レース全体のことについて、ひとりで悩み続けるだなんてさ。」
「……むろん、私自身が得をする腹積もりもあるに決まっているねぇ。可能性世界における私が皐月賞を最後に引退したとすれば、可能性を超えられない世界では今後、私は二度と勝てないことが確定してしまうからねぇ。」
「Got it、だがお前が全てのレースに出走するってワケにもいかないだろ?現に、今月のジャパンカップは回避するらしいじゃないか。でも、そのジャパンカップでも妙な現象が起きないか、チェックするつもりだろ?」
「それは……そうだねぇ。」
タップに柔らかな声色とともに詰め寄られるという、少々奇妙な状況に追い込まれながらタキオンはしぶしぶ首肯する。
最初は純粋な好奇心から始まったかもしれないタキオンの探求であったが、今やレースに参加するウマ娘全てへと彼女の関心は広がっていた。
今しがた言及のあったジャパンカップでも、ジャングルポケットやマンハッタンカフェ、エアシャカール、ネオユニヴァース、ゼンノロブロイ、そしてシンボリクリスエス……先輩から同期、後輩に至るまでの出走ウマ娘たちが皆、既にどこかで決まっていた結果をなぞるのではなく、正当に実力を発揮し競える場を得られるよう、タキオンは切に願っているのだ。
ずっとタキオンの傍にいた鷹木もむろん理解していたはずだが、そのことを明言したのはタップダンスシチーの今の発言が初めてであった。
「あんまり気を揉むなよTachyon、少なくとも私は心配いらない。妙に静かだったアルゼンチン共和国杯の後、ウイニングライブ見たか?私のDanceで、大盛り上がりだったろ!なぁTrainer!」
「えぇ、流石はタップさんといったところでした、観客たちの歓声はハッキリと大きく響いていましたよ。」
「そういうことだTachyon!降り注ぐ歓声がどんだけ小さかったとしても、絶対に盛り上げるのが私だ!可能性がどうだろうが、私の存在感は薄れない!I'm the lead in my own life!」
片桐トレーナーが頷き返す傍ら、先ほど口元から外した不織布マスクを右手で握りつつ、タップダンスシチーは大きな動作で後ずさりながらターンしてからポーズを決める。
振り回しているのが埃で薄汚れたマスクである点を除けば、その大柄な体格で見せられる所作は存在感抜群であり、今の軽いステップだけでもスターらしい存在感は発揮されていた。
アグネスタキオンはといえば、口を小さく開いてタップの所作を見つめた後、何か言いかけたのを一旦止めて口を緩く結び、笑みを浮かべた。
まるで、自らが理論を組み立てずとも、言葉を紡がずとも、安堵を与える存在が目の前に居る事をかみしめているようであった。
必然的に、タップダンスシチーが続いて喋ることとなった。
「……なぁ、Tachyon、優しいアンタのことだから、このことをずっと気にし続けてきたんだろ?どうすりゃ解決すんのか、今までずっと考え続けてさ。」
「あぁ、まぁ、孤独な思考ではなかったがね。シャカール先輩も、ネオユニヴァースくんも協力してくれている。とはいえ、いくら巡らせても、結論や正解に行き着くわけではない思考を繰り返すことは……確かに少々堪えた気はするねぇ。」
タップの目つきが鋭くなり、その視線が鷹木へと向けられる。解決し得ない悩みを抱え続けている担当ウマ娘のすぐ傍で、トレーナーは何をしていたのか、と言わんばかりに。
その様を見たタキオンは、すかさず言葉を補った。
「トレーナーくんは協力的だったとも。そりゃあ、私の思考を完全に理解し得たとは程遠い状態ではあったがねぇ。これだけ荒唐無稽な憶測を述べ続けるウマ娘に、よく付き合ってくれたものだと思う。むろん、今後もつき合ってくれるのだろう?」
「当然だ、俺がタキオンの担当である限り、ずっと。」
鷹木はそう返答したが、そもそもこの場の状況自体、散らかり放題だったタキオンの実験室の清掃を続けている真っ最中であったと思い出す。自分の言葉にある説得力が甚だ弱まる状況であることは否めない。
とはいえ、タップ自身もそれなりにつき合いのある鷹木の言を疑うつもりなど、さらさら無かったようだ。
「I missunderstood you、アンタが居るならTachyonも調子崩しちまうことはなさそうだな!私は今年の有馬に出るつもりなんだからよ、本気の走りで迎え撃ってくれないと拍子抜けだぜ!」
「勿論のことだねぇ、それにギムレットくんも復帰するのだから、ますますもって私も有馬記念では、世界の関心を引き受ける走りを実現せねばなるまいねぇ。」
結局のところ、幾度議論を交わしても、行き着く結論は同じである。
タキオンが以前ネオユニヴァースと会談した時も、「ただ全力で走る様を示せば良い」との結論に至っていた。ウマ娘たちの走りに、この世界の観客たちが沸き立っている事自体は間違いないのだ。
たった今タップダンスシチーが示したように、自らの存在感を存分に披露できるウマ娘にも事欠かない。刹那の瞬きを観客たちの視界に焼き付けるタニノギムレットの復帰もまた、可能性世界から離れてなお示されるべき、この世界のウマ娘たちの存在感にとっては追い風であろう。
それでも安心しきれないからこそ、考え続けることを止められないタキオンだったのだが……今のやりとりで、タップはすっかりタキオンの不安まで汲み取ってしまったようであった。
「So,Anchors Aweigh,Dude!先のことは荒波に突っ込んでから考えりゃいい!今は埃まみれの部屋を片付けちまうのが先だ!埃臭いままにしてたら、またTachyonが陰気な考えに埋もれちまう!」
「そうだねぇ、お気遣いありがたいねぇ。こんなにも皆が、私のために掃除に精を出してくれるのは。」
「お前も座ってないで動けTachyon!」
いつもの調子を取り戻したタキオンの足元を、タップダンスシチーはあらためてスイッチを入れた掃除機でつついている。
実験室に積もり積もった埃が拭い去られ、巡り続ける仮説の渦からも抜け出したおかげか、タキオンはその日以降、僅かながら澄んだ目の色を示すようになった。