秋の気配が日に日に濃くなり、ジャパンカップまであと2週間に迫った11月10日。
鷹木はアグネスタキオンとヒシミラクルと共に、京都レース場へと赴いていた。10月の大舞台で身体に蓄積した疲労が抜けつつある頃であったが、それでも特にタキオンはジャパンカップ回避の判断を下したこともあり、本格的な調整へ踏み込む前に休養を惜しむべきではない。
ウマ娘たちが余計な疲労を得ぬようにと、往復の新幹線では奮発してグリーン座席を予約した鷹木。担当ウマ娘のためとはいえ、決して軽くない出費である。
しかし、彼がその負担から解放されたのは、当日同行した別のウマ娘のおかげであった。
「助かったねぇトレーナーくん!エアシャカール先輩が今回の京都行きに参加してくれたおかげで、結城トレーナーから経費を援助してもらえたからねぇ!私からも感謝を述べるよ、シャカール先輩!」
「うるせェ、デカい声でする説明じゃねェだろ。俺が現地に行きたくなっただけだ。」
新幹線の車両から京都駅のホームへと降りつつ、シャカールはタキオンの声にうるさそうに返答している。
鷹木の当初の予定では、ウマ娘たちだけグリーン席を予約し、自分は一般席で京都へ向かうつもりであった。が、シャカールの担当である結城トレーナーが旅費を出してくれたおかげで4名揃ってグリーン車両での往復が叶ったのであった。
タキオンの傍らで、ヒシミラクルは早くも駅構内の土産物店に視線を吸われつつ会話に参加している。
「にしても、シャカール先輩、ジャパンカップまであと2週間ですけど……京都まで来てる余裕あるんですか?」
「余裕とは行かねェよ、本気で勝つ気ならファルブラヴもクリスエスも越えなきゃならないンだから。……でも、今日だけは見逃せねェからな。」
この日、11月10日、京都レース場で行われるのはエリザベス女王杯。ティアラ三冠の最後を飾るGⅠレースである。
今年のティアラ路線において最強格のウマ娘、ファインモーションは言うまでもなく出走する。以前よりファインとの親交が深いエアシャカールとしては、見ずに済ませるわけにいかないのだろう。
「しかし、ファインくんからの招待は無かったようだねぇ。もしも招待されていたら、我々はヘリあるいはプライベートジェットで空港に降り立ち、そのまま送迎リムジンで京都レース場へ乗り込んでいたはずだからねぇ。」
「大袈裟だろ……あながち否定も出来ねェけどな。ファインなりに気を遣ったのか、ジャパンカップ出走目前の俺を招待してはこなかった。」
「ってことは、王女様には秘密でのレース観戦なんですねぇ。あれ?トレーナーさん?どこ行くんですか?京都レース場がある淀駅に行くには、京阪電車へ乗り換えないとですよ。」
先輩たちの会話にテキトーな相槌を打っていたヒシミラクルは、先導する鷹木の行き先を見て首を傾げ、声を掛ける。
真っ先にヒシミラクルが鷹木の行動に違和感を抱いたのは、彼女が幾度か京都でのレースを重ね、ついでに京都駅内での買い物にも慣れ、駅建物の構造を把握していたおかげである。
確かに鷹木は私鉄への乗り換えではなく、駅の建物外へと向かうルートへと進んでいたが、それには十分すぎる理由があった。
「今まで通りってワケにはいかないんだ、文字通りのお忍びなんだから。GⅠウマ娘が3名揃って、ファンで大混雑する電車に乗り込むわけにもいかないだろう。トレセン学園の手配で、京都駅前に現地送迎バスが用意されてる。」
「これは失念していたねぇ、この私アグネスタキオンや、エアシャカール先輩については言うまでもなく、ヒシミラクルくんも今やGⅠウマ娘なのだからねぇ。」
脚を急がせる鷹木の背後で、タキオンはノンビリと喋っていたが、特に変装するでもなく無防備に歩いている彼女らの正体に気づく通行人は少なくない。
ただでさえ京都レース場に向かう観客も多いのだろう本日、既に人だかりの中にはスマホをかざし、カメラレンズをこちらに向けている者たちの姿が幾名かあった。のんきに笑顔で手を振っているヒシミラクルの腕を引っぱり、シャカールが脚を急かすよう促す。
「さっさとバスに乗れ、せっかく学園が気ィ利かせてバスを手配してくれてンだから。」
「いやぁ、ちょっとは有名ウマ娘の気分に浸ってもいいかなー、と。」
「自らが出走するレースならばまだしも、移動中までファンの相手をしていては身がもたないねぇ。我々は休むべき時に休むのも重要なのだからねぇ。」
二冠ウマ娘であるばかりかファインに引っ張られる形でメディアからの注目度も上がっているエアシャカール、そして昨年から色々と世間を騒がせているアグネスタキオン。この先輩両名からの言葉は十分な説得力を以て響いたのか、ミラ子は促されるままにそそくさと送迎バスに乗り込んだ。
バスの車内で率先してタキオンとシャカールが行ったのは、やはり場内の記録を行うための機器チェックであった。
「今回はレース関係者ではなく、観客として来場するわけだから、機器類の仕様に制約がないのは大きいねぇ。映像ならびに音声、いずれもリアルタイムで収録しPCにデータとして保存できるのだからねぇ。」
「あァ、保存されたデータを現地で確認できンのはデカい。俺たちの主観との食い違いがあれば、その場で比較できるワケだからな。」
「歓声が妙に小さく聞こえる異変がまたしても発生する可能性はあるからねぇ……ところで、シャカール先輩。Parcaeは、今回のエリザベス女王杯、どのように予測しているんだい?」
タキオンからの問いかけに対し、シャカールは間を置かずキーボードを叩き、Parcaeによるシミュレーション結果を画面に表示して見せる。
今に至るまで、可能性にとらわれない“特異点”たるウマ娘が存在する影響か、たびたびエラーを吐くことの多かった予測プログラム「Parcae」であったが……今回は、一切のエラーなど無く、レース結果を完全に表示することが出来ていた。
「見ての通りだ、1番人気のファインモーションが一着、2番人気のダイヤモンドビコーが二着、4番人気レディパステルが三着。ファインは得意の先行策、4コーナーから前に抜け出して、最終直線を独走して余裕の2バ身半差で勝ち。エラーもなく、こんだけすんなりとシミュレーションが済んだのも久々だ。」
「ほう……ほうほう!ファインくんが1番人気であることは先月から分かり切っていたが、波乱が起きやすいエリザベス女王杯で、ほぼ人気順通りの結果が予測されるとはねぇ。やはり、ファインくんは可能性世界においても常勝のウマ娘である、いや“あった”のかもしれないねぇ。」
タキオンがわざわざ過去形に言い直した理由をシャカールは把握していなかったが、そも“可能性世界”という仮説自体をシャカールは支持していなかったため、その文言は聞き流された。
その後は、タキオンが新たな研究助手として扱おうと目論むヒシミラクルに対し、録音機器の操作をあらためて教えるなどしていたが、シャカールにはまだ聞きたいことが残っていた。
「そういや、ギムレットの奴が現役復帰する、って話だったが……」
「あぁ、シャカール先輩も聞いたのかい?可能性の轍から外れようとする我々にとって、観客たちを陶酔させるギムレットくんの参戦は実に心強いものだねぇ!さすがに、すぐ今月のジャパンカップに出走するというわけにはいかなかったが、有馬記念には確実に来るだろうねぇ。」
「俺もギムレットが時々走ってンのは見てた、アイツの目の色も、レースから離れられる雰囲気じゃないのはとっくに分かってた。俺が気にしてんのは、ギムレットが鷹木トレーナーの所に居ないってことだ。タキオン、お前の実験室でギムレットが、バカでかい声で復帰宣言してた、って話じゃなかったか?」
ギムレットらしく、わざわざメディアを呼び寄せて記者会見するような真似はしなかったが、あの日タキオンと共に響かせた笑声は、少なくとも同じ学舎内に居た他のウマ娘たちの耳には届いており、噂となって広まるのも早かった。
好奇心旺盛な野次ウマ娘たちの間で話が伝わるうちに、尾ひれがつくのも致し方なく、「タキオンの天皇賞での走りを見せられて火が付いたギムレットが、自らもレースに復帰した」との噂が知らず内に醸成されていたのだ。
実際のところは、ギムレットもまたウマ娘レースでの歓声が妙に小さく響く異変を把握しており、復帰準備のための調整はずっと以前から進めていたのだが。
「ギムレットくんは、以前の通り、結城トレーナーのもとへ帰ったねぇ。確かに私の意思に賛同してくれたことは事実だが、しかし自らに見合う担当トレーナーを選ぶことについては妥協なしだねぇ。まぁまぁ、そう気を落とすんじゃないトレーナーくん。」
「いや別に気を落としてはいないって。そりゃ結城トレーナーの方が、ずっと指導能力に信頼おけるだろうし……。」
「傍から聞いてたら、いじけてる人の言葉にしか聞こえませんよー。」
ヒシミラクルからの遠慮ないツッコミを受けて項垂れている鷹木はさておき、シャカールはギムレットを取り巻く状況について更に考え込んでいた。
タニノギムレットが復帰した後の担当が、ようやく若手トレーナーの域を脱しようとしている鷹木であれば話は違っただろうが、URA界の生ける伝説、現時点で最高クラスのトレーナーである結城トレーナーのもとへと戻ったとなれば、今後のGⅠレースにおけるタニノギムレットの活躍は約束されたも同然である。
確かにギムレットが現役復帰した旨に触れたニュース記事はいくつか出たものの、しかし何故かさほど大きな話題となって盛り上がることなく流されたのが現状であった。
「……タキオン、お前の仮説に合わせるとしたら、ギムレットの奴も本来はダービーを最後に引退していたはずだった、ってところか?」
「その可能性は非常に高いねぇ、すなわち可能性世界の参照を元に進む歴史のなかでは『タニノギムレットが復帰して有馬記念に出走する』ことは不正解なのだろう。この私も、去年の秋に復帰した際はもう少し騒がれたって良いだろうと思っていたがねぇ、今年はますます露骨に可能性からの逸脱に対し無関心を示す世界が見られるねぇ。」
「ま、俺はあくまで現実的に証明できてるロジックでしか考えるつもりはねェけどよ。世間からの関心が本来あるべき大きさに達して無ェことだけは事実だな。」
常にタキオンの憶測には懐疑的な立場であり続けているエアシャカールだったが、タキオンとしては彼女の存在が近くにあることが大いに心強かった。
完全な賛同者ではないからこそ、客観的立場からシャカールが判断する正しさは貴重であった。
送迎バスが京都レース場に到着し、貴賓専用の入場口前に降り立った一同は、既にレース場の外にまで響いている幾万人もの観客のどよめきや喧噪を耳にした。あくびをしながらバスから出てきたミラ子が、真っ先に耳を立てて気づくほど、それは先月のレースとの明瞭な差異であった。
「あれぇ?歓声って、こんなレース場の外まで響くもんでしたっけ?……いや、これが当たり前でしたっけ?」
「そうだねぇ、本来はレース発走前から、これほどの活況があって然るべしだねぇ。我々はじわじわと縮小していく歓声の変化に慣れてしまっていたが、GⅠレースに響いているはずの歓声は、もともと尋常ではないはずだったねぇ……。」
返答するタキオンの表情は、感慨深げであると同時に懸想の色をも浮かべていた。それだけ久々の出来事となってしまっていたのだ、本来の大きさの歓声を聞くことは。
エアシャカールはすかさずスマホを取り出してカメラを起動し、レース場外の映像と共に響いている歓声を録っている。
「Parcaeが何のエラーも吐かずにレース予測を済ませてたッてのは、このエリザベス女王杯が観客のリアクションも含めて、完璧に可能性通りに進むってことの証か?」
「私の仮説に拠るならば、そうなるだろうねぇ。世界にとっては、歴史にとっては、ファインくんが1番人気で出走し勝利することこそ『正解』なのだろうからねぇ。」
一同は京都レース場の建物に入り、一般向けの観客席や指定席がある4階よりもさらに上へと向かい……到着したのは7階の半個室であった。
京都レース場7階、駒見小路と名付けられた屋内席は、言わずもがな一般客がおいそれと手を出せるエリアではない。URAやレース場側から招待でも受けていないかぎり、一般には抽選に通らないと予約すら出来ない。
今回ここでの観戦が叶ったのは、むろんエアシャカール、アグネスタキオン、ついでにヒシミラクルといったGⅠウマ娘の面々が揃ったおかげでもあったろうが、おそらくシャカールの担当である結城トレーナー、URAの生ける伝説たる人物が融通を利かせたおかげでもあったろう。
レース場での半個室席、となれば設えも豪華なものである。部屋に入ったタキオンは、随分な上から目線ではありつつも素直に内装を褒めざるを得なかった。
「ほうほう、丁度良くPCや観測機器を設置できるテーブルもあるし、専用モニターも備えられているねぇ。直接レース観戦するにはテラスに出なければならないのが不便だが、カメラ類さえ設置出来れば文句はないねぇ。」
「空調も効いてますし、快適ですねぇー。もう11月だし、肌寒い外を眺めながら屋内で観戦、最高ですねぇ……え、テラスへの出口、開けっぱなしにするんですか?」
「カメラとPC、繋ぐコードを通さなきゃならねェんだから当然だろ。ちゃんとレース場全体が熱狂するンなら、肌寒さも吹っ飛ぶはずだしな。」
到着して間もなく、ソファに身を委ねて全力でくつろいでいるヒシミラクルを後目に、タキオンとシャカールはテキパキとPCや観測機器のセッティングを進めていく。
スマホカメラだけではない、高精細ビデオカメラ、さらに集音マイク、レース場全体を視野に収める広角カメラ……と、動作確認やPCとの接続を慌ただしく進めている内に、レース発走時刻は目前に迫っていた。
準備時間中、一同が手を止めたのはやはりパドックにファインモーションが姿を現した時のことである。レース場建物全体が震動しているかのごとき大音響で、歓声が沸き起こっていた。
〈今回、誰もが予想した通りでありましょう、1番人気はファインモーションです!無敗6連勝でシニア級GⅠの壁を突き破るか!圧倒的な1番人気、レース場を揺るがすほどの大喝采に包まれています!〉
人間である鷹木ですら、耳を聾するかと思われるほどの大歓声。
聴覚に優れるウマ娘たちは、流石に一様に頭の上に手をやって耳を抑えていた。ソファでくつろいでいたヒシミラクルも軽く跳びあがっている。
「うひゃあ、こんな物凄い声量でしたっけ、GⅠレースって。」
「まぁ、ただでさえ声援が届きやすい観戦スタンドの上層だからねぇ。実際に出走する身であればレースに神経を集中させているし……それにヒシミラクルくん、キミがGⅠレースの舞台に出る頃には、既に歓声が小さくなる異変は明確に進行していたからねぇ。」
タキオンのこれまでの発言に拠れば、去年の時点からじわじわとレース場の歓声は小さくなり続けていたことになる。
出走する立場としてのみならず観戦する立場としても、今年から本格的にウマ娘レースへ関わり始めたヒシミラクルにとっては、本格的な大きさの歓声を体感する機会は実質無かったも同然なのだろう。
本来通りの観客からの関心、そして期待を一身に背負ってパドックから去り、ファインモーションがあらためて地下バ道を通りターフ上に姿を現した時もまた同様の大歓声が巻き起こった。
〈13名の出走枠、良く晴れてバ場状態は良、ウマ娘たちが存分に能力を発揮できる絶好のレース日和であります。秋気澄み渡る京都レース場、果たして新しい歴史の扉は開かれるのでありましょうか。圧倒的人気のファインモーションが最後にゲートイン、晴れやかに錦織りなす13名のウマ娘たち、スタート体勢が出来上がりました……今スタート!鮮やかなスタートを決めていきましたファインモーション!先行争いは弾かれるようにユウキャラットが出てまいりましたが、大外からファインモーション!ハナを切ろうかというような勢いで、2番手にファインモーションがつけています!〉
スタンド前直線からスタートする京都レース場芝2200mコース。
ゲートが開いた直後に大歓声が沸いたのは当然のことであったが、ファインモーションが12枠の位置から一気に駆け上がり、先頭に食らいつく勢いで先行の走りを示した際には更なる大音響が観客たちの声から上がった。
テラスからターフを見下ろしていたヒシミラクルは、またも耳を抑えるために両手を上げかけ、しかしファインモーションの走りを眼前にして圧倒されたように口元で手を握り締めていた。
「うひぃー、こりゃ、物凄い熱量ですよぉ!そりゃ観客さんたちも沸きますよねぇ、1番人気のスタートダッシュを目の前で見せられたら。」
「そうだ、本来のウマ娘レースは、こうであるはずなんだ……。特に今年に入って以降、いかに本気で勝負していても、どこか淡々とした流れを感じさせられていたのは、やはりこの大歓声が薄まっていたためなんだねぇ……。」
アグネスタキオンは、自分のすぐ脇に集音マイクを置いたことを忘れたように呟いていた。
が、もはや音声データに喋り声が混入することについて思案する必要はなかった。大歓声が沸き起こる中では、通常の喋り声など易々とかき消されてしまう。ほとんど怒鳴るように声を発しなければ、マトモに会話できないほどであるのが本来のレース場なのだ。
可能性世界においても、現実世界においても、等しく勝利する運命を担ったファインモーション。彼女のレースであればこそ、実現した状況なのだろう。
〈ファインモーションが2番手に行っている、レディパステルは後ろから5,6番目、しんがりからローズバド、こんな展開になりました。まずはスタートから400mを過ぎて1コーナーへ入っていきます、逃げるのはユウキャラット、そして2番手に堂々とファインモーションであります、その外からトーワトレジャーがバ体を合わせて3番手、スマイルトゥモローは後ろから7,8番手であります。さぁ1コーナーから2コーナーへ、依然として逃げるのはユウキャラット、2バ身のリード、そしてここで2番手に上がってきましたトーワトレジャーであります。〉
正面スタンド前直線から1,2コーナー、そして向こう正面の中ほどまでは平坦なコースが続く京都レース場。
シニア級のウマ娘が混じるエリザベス女王杯では、やはり序盤からハイペースで進んでいく。ファインモーションが一気に2番手の位置を取ったのに負けじと、トーワトレジャーが外から抜いて行った。
エアシャカールはあくまで記録を確実に残すため、撮影機材の操作に集中しつつも、やはりファインの走りからは目を離せないらしい。
「完全に、本番レースで通用する作戦を確立してやがンな、ファイン……1番人気でマークされることを見越して、掛かり気味のペースを見せておきながら、ここに来て脚を緩めてンだな。」
「私が同じことやったら、確実に『脚を緩めるなー!』って怒られてそうですけど……ファインちゃんなら、自在にスピード調整できちゃいますからねえ。」
ヒシミラクルの場合は、そもエンジンの掛かりが遅いため、脚を緩めることなくスパート時間を出来る限り取らなければ先行に追いつけない。
しかし、ファインモーションほど器用な走りを実行できるならば、むしろ脚を緩める区間をきちんと設けることが重要となる。ゴール直前にスタミナを使い果たしてバテてしまっていては、そもペース配分の組み立てとしては成功していないのだ。
身体能力のみならず、レースの技術も完璧に身につけているファインモーション。彼女の勝利が確実視されているのも、当然のことであった。
〈前方に2バ身の差をつけて、折り合いはどうか3番手、注目ファインモーションであります。その後ろにダイヤモンドビコー4番手、内々を通ってチャペルコンサートであります。その後ろシルクプリマドンナ、その外にタムロチェリーが行っている、レディパステルはそのインコースであります。少し開いてスマイルトゥモロー、それから2バ身差、ジェミードレスが続いている、後方はビルアンドクー、しんがり並んでローズバド、そしてブルーエンプレス、こういう態勢で、さぁいよいよ第3コーナーの坂に向かいます!〉
観戦スタンドからは遠く、見せ場となる下り坂からのスパートにはまだ早いタイミングではあったが、それでも歓声の大きさは薄れることが無かった。
むしろ、ここから更にレース場の熱狂は大きくなるのだ。今の時点で、明らかに先月の菊花賞や天皇賞の静けさとは大きく異なる様相となっていた。
「もはや精密な記録をする必要もなかったかもしれないねぇ、私の記憶から、この大歓声は消えそうにないねぇ……。」
「らしくねェことを言うじゃねェか、客観的事実としてデータを残しておくべきだってのに。まァ、気持ちは分かるけどよ。」
どうにか歓声にかき消されない声量で言葉を交わしたシャカールとタキオン。
これより先は、もはやマトモに会話できる状況にならないだろうことを互いに予測できていた。間もなく、坂を上り切って3コーナーを回り始めるレースを前に、幾万人が大興奮の喧騒を巻き起こすだろうことは確実だった。
〈坂の頂上から下りに向かいます、ユウキャラット先頭、1バ身半のリード、トーワトレジャーが2番手でありますが、1400mを1分7秒、ここまでややスローペースで来ましたが、ファインモーションは依然として溜めています3番手!その後ろからチャペルコンサート、ダイヤモンドビコー、シルクプリマドンナ動いた!その後ろレディパステルはインコースを通って、ローズバドはまだしんがりの方であります。第4コーナーを回って、さぁ!さぁ!ファインモーション!一気に外から、先頭に並びかけて行った!〉
すでに建物全体を震わせるほどと思われた大歓声だったが、それが一気に数倍の大きさとなって轟いたようであった。
ファインモーションが、その作戦通りに溜めた脚を一気に解放し、4コーナーを回り切ると同時に悠然と先頭へ躍り出る。勝利は、確かに彼女の行く先に見えている。
「Parcaeの予測通りじゃねェか……。」
「可能性世界でも、喝采を浴びたのだろうねぇ……。」
大歓声に埋もれて、シャカールとタキオンは互いに何を喋っているのか聞き取れなかったが、この時点で考えていることもまた互いに推測できていた。
ここへの移動中のバス車内にて、シャカールが見せたParcaeのシミュレーション結果。『得意の先行策、4コーナーから前に抜け出して、最終直線を独走して余裕の2バ身半差で勝ち』という状況が、そのまま実現しようとしている。
Parcaeが単なる予測プログラムの域に留まらず、“可能性世界”による干渉を観測した結果を表示しているのだとすれば、なおのことタキオンの仮説と合致する事実であった。
天にも届かんほどの大歓声に包まれながら、軽々と脚を進めていくファインモーション。
ゴールまではまだ距離があったが、既に彼女は晴れやかな表情だった。
〈残り400を切って一気に先頭に立った!ファインモーション一気に先頭に立っている!ダイヤモンドビコー2番手に上がってきた、外からシルクプリマドンナ、それからレディパステル追い込んでくる!しかし!完全にファインモーション、余裕のあるリード!ファインモーション!脚色は衰えません!新しい歴史の扉!6連勝で、今日も圧勝です!秋のGⅠ連覇、勝ちタイムは2分13秒!無敗でのシニアGⅠ制覇、達成であります!〉
もはや全身の皮膚に直接、大歓声の圧がぶつかってくるかのような轟音。
観戦スタンドのテラスでその音の暴風に揉まれながら、ヒシミラクルはファインの圧勝劇を前にただ無心でポカンと口を開いていた。
むろんタキオンは、ターフ上で手を振っているファインモーションに拍手を送っている。“可能性世界”からの干渉がどうあれ、この現実においてファインモーションが能力を磨き、努力によって得た勝利であることは間違いない。
シャカールもまた、この称賛されるべき状況に水を差すまいと素直に手を叩いていた。彼女がParcaeによるシミュレーション結果の画面をもう一度確認したのは、その後のことである。
2バ身半という着差のみならず、2分13秒という勝ちタイムまで、Parcaeの予測通りであった。
「誰もを熱狂させ、世界そのものからも勝利の運命を定められている。彼女こそ、ウマ娘レースの現実性を支える大きな柱なのかもしれないねぇ。」
「もともとファインは、走るために留学しに来たわけじゃねェんだがな。だが“可能性世界”とやらの中のファインは、レースでバンバン活躍すンのが“正解”ってやつなのか?」
シャカールの問いかけに、むろんタキオンは答えられるはずもない。
現実世界に存在するウマ娘の立場から、実在するかどうかすら証明できない別世界の出来事など、確認のしようもない。
しかし、本来あり得なかっただろう展開を含んだレースの歓声が目に見えて弱まっていく状況の中、本来通りの大歓声を響かせた今回のエリザベス女王杯が、歴史における可能性との強固な繋がりを有していることだけは明白であった。