タップダンスシチーが出走する京阪杯、現地の京都レース場では、現時点では何も異常と見られる現象は起きていない。
大抵の場合はジャパンカップとほぼ同日同時刻に行われる京阪杯であったが、今年は1日ズレてジャパンカップの前日における開催となっていた。そうでなくとも観戦スタンドは超満員となっているし、これから始まるレースへの期待を胸にした幾万人の声々は充分な喧噪である。
URA公式によるネット配信画面を映したノートPC、その隣に古びた画面のポータブルテレビを並べ、タキオンは目と耳を最大限に集中させている。
「トレーナーくん、ちょっとPC側の音量を下げてくれたまえ……ありがとう、元に戻して。やはりどちらの情報媒体を用いても、観測される光景や音声に差異はなさそうだねぇ。」
「変なことは、今のところ何もない、ってことですかね?にしても、ジャパンカップがすぐ明日だってのに、ファンの皆さんは京都レース場まで脚を運ぶんですねぇ、やっぱタップさんの人気ですかねぇ。」
何らかの異変を目撃するかもしれない、とばかりに先ほどまでは若干の緊張を示していたヒシミラクルも、今はすっかりくつろいで中継画面を眺めている。
タップダンスシチーは昨年末、有馬記念と同日に開催された江坂特別へと出走し、ほとんどのファンの関心が有馬へ向いている中でありながら白熱のレース展開を披露、全観客の視線を釘付けにする存在感を放っていた。
今回も、ともすれば明日のジャパンカップに話題性を持っていかれかねない状況であったが、それでもタップの出走が大勢の観客の関心を引き付けたのだろうことは確実であった。
「長らく条件戦での健闘を続け、怪我での休養の期間を挟み、いよいよ大舞台に上がって来たのだからねぇ。タップくんが集める人気は充分だねぇ、ジャパンカップには出ないとはいえ、有馬記念出走はほぼ確実視されている。」
「去年は有馬記念の裏で条件戦に出走していたのが、1年後ホントに有馬出走を現実にしちゃうとは……これだけ予想外の駆け上がり方をするウマ娘も、居るもんなんですねぇ。」
「ヒシミラクルくん、キミもそのようなウマ娘の一員……というか代表格になっている自覚を抱いてもよかろうねぇ。」
タキオンに指摘され、ヒシミラクルはしばらくきょとんとした後、思い出したかのように照れて顔を俯けた。
条件戦からいきなり菊花賞を勝ったヒシミラクルに限らず、今世代のウマ娘たちはデビュー当初の評価を覆してトップクラスに躍り出る例が多かった。15番人気から皐月賞を勝ったノーリーズン、そして身体機能未完成と評された時期を乗り越えて今や最強格となったシンボリクリスエス。
世間的には、表舞台に出てこなかったウマ娘が突然頭角を現すかのように見える展開だったろうが、実際に走っているウマ娘たち自身にとっては、着実に積み重ねた実力の成果であり、それは望外の幸運などではなく限りなく必然へと近づいた結果なのだ。
自分がスター級のウマ娘になったとの自覚がヒシミラクルに抱かれづらいのは本来の性格もあったろうが、一方のタップダンスシチーには存分にその自覚があったらしい。
地下バ道からあらわれたタップダンスシチーは、浴びせられる大歓声に応えて大きく手を広げ、自らをアピールしていた。
「ほぇー、サービス精神が豊かですねぇ、タップさん。パドックでもないし発走直前なのに、あれだけファンの皆さんに応えるだなんて。」
「どれだけ可能性世界の既定から外れた展開を実現しようとも、自らの存在感は薄めさせないとの意気込みを、以前語ってくれたからねぇ。この私が見ていることも、織り込み済みなのかもしれないねぇ。」
大歓声を浴びながら、他のウマ娘たちも共にスターティングゲートへと向かっていく。
ノートPCとポータブルテレビ、ふたつ並んだ画面のどちらにも同じくアナウンサーによる実況が流れていたが、割れんばかりの大歓声ゆえか古いポータブルテレビのスピーカーは時おり音割れを起こして聞き取りづらい箇所があった。
〈大きく手を振ってスタート前からファンサービスにも余念がありませんタップダンスシチー……番人気、一方で今回注目のアドマイヤマックスは……ザザッ……人気、さらにはやはりベテランのトーホウシデンが続く……ザーッ……番人気であります。〉
「あれぇ?肝心のところだけ雑音で聞こえませんでしたね、タップさん何番人気だったんでしょ。菊花賞で私と走ったアドマイヤマックスちゃんの人気順も気になりますし。」
スピーカーから流れる雑音まみれの実況に耳を立て、ヒシミラクルは画面を覗き込む。
スタート直前の様子を映している中継画面の下半分には、出走ウマ娘の名と枠番、人気順が並んで表示されていた。が、年季の入ったポータブルテレビの画面には部分的にノイズが走り、人気順の部分だけ読めなくなっている。
ポータブルテレビから伸びる銀色のアンテナをタキオンが弄っている内に、人気順の表示は終わり、と同時に画面のノイズも消えた。
「単なる経年劣化による機材トラブルだ、と考えるのが妥当だがねぇ、これもまた可能性世界との齟齬を示しているように思えてならないねぇ。」
「出走ウマ娘の人気順が、現実と可能性とで食い違ってる、ってことか……?」
鷹木は問いかけたが、むろん、タキオンとて断言は不可能であり、あくまで推測を述べることしかできない。
ノートPCの画面の方はノイズもなく、クリアな映像が表示されつづけていた。タップダンスシチーが1番人気、アドマイヤマックス2番人気、トーホウシデン3番人気。タップは京都大賞典でトップロード相手に大健闘したうえ、アルゼンチン共和国杯で見事勝利したため、1番人気を得ているのだろう。
この人気順が、“可能性世界”における京阪杯の人気順とは異なっているとしても、この場に居る面々には知る由もなかった。
〈まもなく発走の時を迎えます、第47回京阪杯。本日も天候に恵まれました京都レース場芝1800m、全ウマ娘ゲートイン完了……スタートしました!綺麗に揃ったスタート、やはり外から果敢に飛び出していきましたタップダンスシチー、しかしウチからヒコーキグモ、こちらも一気に脚を使って先頭へと上がっていった、バ場の真ん中からはエイシンルバーンも上がっていって2番手、タップダンスシチーに並んでマイネルプレスト3番手、こういった形で外回りの向こう正面、長い長い直線を駆けて行きます!〉
京都レース場外回りコース特有の、900mに達する向こう正面の直線。
3コーナー手前の上り坂に差し掛かるまでは平坦なコースが続くため、スタート直後から逃げ先行のウマ娘たちは一気に速度を上げて飛ばしていく。ただ、タップダンスシチーはスタートから数秒で達した速度を維持するように、加速を止めていた。
タキオンは、ノートPCとポータブルテレビ、ふたつの画面を交互に見比べることは続けつつも、レース内容については感服したように頷いていた。
「もはや、レース序盤から眺めているだけでも安心感を得るほどだねぇ、タップくんの走りは。仮に逃げの勢いで3コーナーまで突っ込んでいくと、上り坂で差しの連中に間を詰められ、4コーナーを回り切る頃には既に並ばれてしまっているだろうねぇ。既に、最終直線で先頭を悠々と走っているタップくんの姿が見えるように感じるほどだねぇ。」
「完璧すぎるペースですねぇ、タップさん。あれだけ余裕を残した走りを最序盤から前で見せられると、追い上げる側がむしろ焦らされちゃいそうですよ。」
他のウマ娘よりも1年遅れ、タキオンと同年にトレセン学園へと入学し、条件戦を繰り返す長い期間を経て、今まさに完成形の一歩手前まで至ろうとしているタップダンスシチーの走り。
タキオンが素直に称賛するのも当然のことであり、先頭で必死に逃げているウマ娘も、後方から追い上げようとするウマ娘たちも、タップの存在感を肌で感じて少なからずの焦りを覚えているように見えた。
〈さて坂を上っていきまして残り1000mを切りました、1番人気タップダンスシチーは現在3番手、その背後にトッププロテクター、ウチに並んでトレジャー、さらに外を回ってカネトシディザイアが追走しています。3番人気トーホウシデンは中団、前から8番手の位置、横並びにサイドワインダー、あるいはパラダイスヒルズ、すぐ後ろには2番人気アドマイヤマックス、こちらもビッグゴールド、トウショウアンドレと並んで混戦模様、第3コーナーに入りましてまもなく坂を下っていきます、タップダンスシチーがじわじわと前との差をつめてまいりました!〉
京都レース場、外回りコースの3コーナーは入って間もなく下り坂となり、一気に速度の上がる区間である。
ここに至るまでに差し作戦のウマ娘たちは充分に前との距離を詰めている。僅かでも加速に鈍りがあれば、逃げ先行のウマ娘たちは簡単に並ばれ、あるいは追い越されてしまうだろう。
全てレース展開を想定に入れているように、タップダンスシチーは早くも先頭付近まで迫っていたが、ここで小さな異変が起きた。レース場で、ではなく、中継を映している画面にである。
「あれ?タキオン先輩、こっちの画面、またザラザラした感じになってきましたよ。」
「ノイズが走っているねぇ、受信環境に変化はないはずだから、唐突に画像が乱れる原因は考えられないんだがねぇ……。」
またしても、古びたポータブルテレビの映像にノイズが走っている。
一方で、ノートPCの画面の方はネットワークへの接続状況が安定しており、配信画面はクリアなまま、京都レース場の3コーナーを回っていく出走ウマ娘たちの姿を映している。
画面から視線を外さぬまま、タキオンはポータブルテレビから伸びる銀色のアンテナを伸ばしてあちこちに向けているが、古ぼけた画面はますますノイズが酷くなるばかりで、音声も雑音まみれで聞きとれなくなっていった。
仕方なくタキオンはポータブルテレビの音量を下げ、そこから先の実況はネット接続しているノートPCの画面から流れるものを聞くこととなった。
〈残り400をきりまして、第4コーナーを回って直線へと向かいます!先頭はエイシンルバーンから変わりましてタップダンスシチー、しかし外からカネトシディザイア、あるいはサイドワインダーが追い上げてくる!トーホウシデンもウチを突いて、さらに大外からアドマイヤマックス、そしてダービーレグノも連れて上がってくる!残り200!これは大接戦だ、先頭は辛うじてタップダンスシチーだが、外からアドマイヤマックス、サイドワインダーも来た!〉
ここまでのタップダンスシチーの走りは完璧であったが、GⅢレース出走ウマ娘たちの実力は現URAの中でもトップクラス揃い、易々と引き離せぬ差であることは言うまでもない。
コースの最ウチからは少し外、芝の荒れていない最も走りやすいコース取りでタップダンスシチーは先頭へと躍り出ていたが、その最ウチに空いたコース、あるいは逆に大外から駆け上がってきた面々がほぼ並びかけてきている。
鷹木もヒシミラクルも、むろんクリアな映像が見えるノートPCの配信画面の方に見入っていたのだが……タキオンはと言えば、もはやノイズまみれで砂嵐同然の状態となったポータブルテレビの映像を注視し続けていた。
「ちょっ、タキオン先輩、そんなボロテレビの画面見てる場合じゃないですよ!タップさんが勝てるかどうかギリギリのところですって!」
「分かっているねぇ、だが……確かに今、見えたはずだねぇ、可能性世界が……。」
チラと横目を遣った鷹木は、タキオンの目の色が異様である様に気づいた。
それはレースにおける勝利への執着とは全く異なり、長年追い求め続けていた異変、非現実でしか起きえない現象の尻尾をようやく捕らえた、探求者の渇望が爛々と光る眼差しであった。
既にノイズの海に呑まれて何も見えない画面の奥に……タキオンは、現実とは異なるレース展開を見たというのだろうか?
〈タップダンスシチー先頭だ、タップダンスシチー先頭だが、アドマイヤマックス並びかける!そして大外からサイドワインダー、ダービーレグノ!サイドワインダーが先頭に並んだか、しかしタップダンスシチーまだ粘っている!タップダンスシチー粘る!サイドワインダーか、タップダンスシチーか!タップダンスシチー、ハナ差で抜け出して今、ゴールイン!タップダンスシチーです!タップダンスシチー、混戦を僅差で抜け出して勝利しました!〉
「おぉぉー!あそこまで迫られて、勝ちきれるだなんてすごいですねぇ……!やっぱ、ペース配分だけじゃなくて、走りやすい芝状態のコースを取ったのが大きいんでしょうかね?……あれ、タキオン先輩?」
すっかり単なる観客と化していたヒシミラクルだったが、妙に静かな周囲に気づいたように画面から顔を上げ、そして真隣りに座っているタキオンの表情が真剣そのものであることに気づいた。
静けさは、タキオンと鷹木が黙り込んでいるためだけではなかった。現在、実況映像の音声を流しているのはノートPCのスピーカーだけであったが、そこから響いてくる歓声は、ゴールでの決着直後とは思えぬほど小さかった……すなわち、異変がまたしても発生していたのである。
だがタキオンの表情が険しかったのは、そのことについてではなかった。彼女は、今や完全に何も映さなくなってしまったポータブルテレビの画面から顔を上げ、鷹木に向かって告げた。
「トレーナーくん。タップくんは、可能性世界においては京阪杯に勝てていない。」
「……そんな光景が、見えたのか?その古いポータブルテレビの画面では。」
「最後の方は、ほぼ何も見えなかったがねぇ。けれど、画面にノイズが走り始めたあたりから、こちらの映像はPCの配信画面とは異なる展開を映し出していたねぇ。……タップくんは、内ラチ沿いを走っていた。彼女が得意とする作戦に沿ったコース取りだが、今日の京都レース場、最ウチの芝の荒れ具合を考えれば、この僅差は覆されてしまったろうねぇ。そうか、可能性世界とは異なる結果か、タップくんの勝利は。」
おそらく、今日の出走に至るまでのトレーニングにおいて、タップを担当している片桐トレーナーは、最もロス無く回り切るコース取りを指示していたはずだ。
可能性世界のタップダンスシチーは、それに忠実に従い、そして後方から上がってきた面々に差し切られてしまったのだろう。だが、この現実世界におけるウマ娘レースでは、タップは自ら最適な判断を下し、当初の予定とは異なるコース取りを決断して勝利を掴んだ。
画面内では、減速して呼吸を整え終えたタップが観客席へと大手を振ってアピールし、妙に小さかった歓声を改めて盛り上げている。
タップダンスシチーの存在感のおかげで、現地の空気は存分に温まっただろう。……一方で、いよいよ可能性世界の実在を確信する材料を掴んだアグネスタキオンは、興奮と同時に恐れに近い感情を抱いたのか、若干顔を蒼ざめさせていた。
鷹木が口を開くより先に、ヒシミラクルが言葉をかける。
「あのぉ、タキオン先輩、この後のトレーニング、今日は一旦お休みにしましょうか?あっ、そうだ、ダンツちゃんも今日は早めにトレーニング終わるって言ってましたし、まだ混んでない時間帯のカフェテリアで一緒にゆっくり食事でもどうです?トレーナーさん、練習は切り上げてもいいですか?」
「……あぁ、そうだな。その前にタキオン、気分が悪くなってないか?」
「私は問題ないねぇ、むしろ絶好調だ。私の仮説、可能性世界の実在が、いよいよ実証されようとしているのだからねぇ……」
タキオンの唇と声は震えていた。確かに、自分が今まで喋り続けてきた仮説が実証されることは、探求者としては喜ばしいことであったかもしれないが……“可能性世界”が実在することは、喜ばしいことではなかった。現実とは別の世界が、ウマ娘たちの運命を既定している可能性など、無いに越したことはない。
思索の海に沈んでいこうとするタキオンの意識を引っ張り上げるように、ヒシミラクルはいつになくキビキビした動作で立ち上がり、口を開いた。
「いやいやいや、絶好調なひとの顔色じゃないんですよ、タキオン先輩。身体は問題なくても、トレーニングとかレースのことから離れて気分をいっぺん切り替えないと。じゃあトレーナーさん、私、タキオン先輩としばらく一緒に居ますんで。」
「頼む。タキオンに何かあったら、どんな時間帯でも構わず俺に連絡を入れてくれ。」
頷く鷹木の前で、ヒシミラクルはタキオンの腕を引っぱって立ち上がらせ、更衣室の方へと引っ張って連れて行く。
それは、今年の初頭に見られた光景とはまるで逆であった。かつてはタキオンがリードしてヒシミラクルをレースの世界に引っ張りこんだような形であったが、今はタキオンの腕をヒシミラクルが引っ張り、健常な精神の保たれる賑わいへと連れ戻している。
トレーナーたる自分がヒシミラクルを担当ウマ娘として選んだのは、確かにタキオンが歩む道を保つための選択でもあったのかもしれない。ふたりのウマ娘の背を見送りながら、鷹木はそう考えていた。