京阪杯を勝利したタップダンスシチーのニュースをスマホ画面上に流しながら、エアシャカールは薄暗い寮の自室にて体を休めていた。
明日は、ジャパンカップ当日。出走ウマ娘を複数抱える結城トレーナーは、むろん全員を平等に見ていたが、シャカールに関しては特に念入りに最終調整に取り組んでくれた。
身体機能、メンタルまで含めた体調は万全であり、URA最長のキャリアを有するレジェンド級トレーナーの手腕は遺憾なく発揮されていた。デビューからもはや5年目となる結城トレーナーとの付き合い、老トレーナーを心から信頼したシャカールの胸中は今、ただ静かであった。
(ンじゃ、タキオンの奴にParcaeのシミュレーション結果だけ送っといてから、寝るか。)
無論、トレーニングから戻って来て食事も入浴も終えれば、体温が落ち着くのを待ってから就寝するだけで良かったのだが、それでも指先がキーボードを叩く習慣を外せないのがシャカールである。
今日の昼過ぎあたり、アグネスタキオンからシャカールへと、Parcaeによるレース予測を依頼するメッセージが送られていた。
それがよりにもよってジャパンカップ、まさに明日行われる、そしてシャカール自身が出走するレースであることには流石に面食らったものの、シミュレーション内容自体はシャカールにとっては想定外のものではなかった。
さすがのタキオンも翌日にGⅠ出走を控えている相手に無茶を言うのは遠慮したのか、時間が空いている時で良いとの但し書きがついていたが、シャカールは既に保存済みのデータを引っぱりだすだけで良かった。
(ジャパンカップの予測なら、先月の時点でParcaeに実行させてる。めぼしい出走者のデータをぶちこんで、エラーが出ねェ組み合わせも分かってる……確かに、アドマイヤベガ、マンハッタンカフェ、ネオユニヴァース、ゼンノロブロイを省いたシミュレーションなら、エラーを吐かず予測結果が出る。)
いかなる基準でタキオンがその3名に限定したのかは知る由もなかったが、Parcaeで既に確認済みの現象との奇妙な一致は確かに見られた。
明日のジャパンカップに、アドマイヤベガ、マンハッタンカフェ、ネオユニヴァース、ゼンノロブロイが出走しない条件であれば、Parcaeのシミュレーションは無事に実行され、結果が表示される。その4名いずれかを入れた状態でジャパンカップの予測を実行させれば、必ずプログラムはエラーを吐いた。、
すなわち、タキオンの言い分を借りれば、“可能性世界”では彼女ら4名は本来出走しなかったはずということになる。Parcaeが将来の可能性を演算する過程で、別世界にて既定された運命を参照しているというのならば。
あくまでParcaeが引き起こす原因不明のエラーに過ぎない、とだけシャカールは考えていたが。
(ちなみに、シミュレーションの中でジャパンカップ勝利すンのはファルブラヴだ。ンで、俺は十二着。何度繰り返しても、エラーが出なけりゃァ必ずそうなった。)
補足も含めてタキオンへとメッセージを送信しつつ、シャカールは知らず伏せがちになっていた瞼を擦り、ノートPCを閉じ、うんと伸びをする。
PCの画面を閉じれば、寮の自室はますます暗く、そして静かである。3年前までは同室にメイショウドトウが居たのだが、彼女が引退して以降は同室ウマ娘も居らず、毎朝起床後に賑やかなドタバタ劇が演じられることもない。
かつては隣室を賑やかなウマ娘が占めていた時期もあったようだが、現世代においてはそうそう喧しいウマ娘も居ない……タキオンとギムレットを除いては。
そのためシャカールは、寮の自室で作業への没頭を邪魔されることはなかった。身体を休める環境としても理想的なものではあったが、どこか物足りなさを覚える瞬間があることも事実であった。
とりとめのない思索を追い出すように大きくあくびを吐き出し、寝床へ就こうとした矢先、スマホに着信があった。さっそくタキオンが返答してきたのか?と面倒くさそうに画面を覗き込んだシャカール。
が、それがメッセージではなく通話の着信であること、送信元がタキオンではないことに気づき、すかさず受信ボタンをタップする。
「……なンの用件だよ、ファイン。」
〈ごめんなさい、今、寝るところだったかな?遅くなっちゃったけれど、でも、どうしてもお話をしたくなってしまって……明日のジャパンカップ、頑張って、シャカール。〉
声の主は、ファインモーションであった。
ぶっきらぼうなシャカールの声色を受話器越しに聞かされても、相手の内心を充分に察しているのだろう。ファインモーションは、すぐにシャカールへの応援の言葉を述べた。
それはシャカールが望む通りに、この通話の用件であり、と同時にあっさりと話を終えてしまう選択肢を示す判断でもあった。
シャカールがそのまま通話を切れるような性格ではないことは、言うまでもない。
「んなことのためにわざわざ連絡してきたのかよ。言われなくても俺は全力で勝ちに行く。ッたく、夜中に掛けてきやがるもンだから、何かあったンじゃねェかと心配しちまった。」
〈明日ジャパンカップに出るシャカールに、わざわざ変なこと言ったりしないよ。だから、あたりまえの言葉しか伝えられないけれど……でも、私がシャカールを応援できる、最後の機会だから。〉
ファインモーションの言葉に、一瞬動きが止まるシャカール。
だが、少々言い方が切羽詰まった響きを帯びていただけで、実際のところは今後の予定通りに行き着く必然をファインは語ったに過ぎなかった。
「アー、だよな、ファイン、お前は来月の有馬記念に出走するンだよな。」
〈うん、来月の有馬では、私はシャカールの競走相手。だから、シャカールに全力で勝ってほしいって思えるのは、ジャパンカップが最後だよ。シャカール、今年で引退するつもりなんでしょう?〉
即答するつもりだったシャカールだったが、暫しの沈黙を挟んだ。
そのことは未だ公表していない予定であった。世間に対し有馬を引退レースとする意思を表明したわけでもないし、身近な知り合いに対しても直接告げてはいない。結城トレーナーに対してのみ、今年を最後に引退するつもりであることを伝えている。
だが、シャカールの言動に間近で触れ、シャカールの走りを真剣に見ているウマ娘であれば……直接言っておらずとも、引退を間際に控えている雰囲気は汲み取れるのだ。
「……別に、まだ決めたワケじゃねェけどな。つーか、ンな話、ファインに伝えたことあったか?」
〈うぅん、でも、分かるよ。シャカールは、勝つためにレースに出ているんだもの。それが出来るのは、今年までだって、私にも分かる。〉
シャカールが勝ちを狙いに行けるのは、今年までが限界。厳しくも、それは事実であった。
現時点での勝利候補で言えば、シンボリクリスエスは来年には更に走りに磨きがかかり、その能力が最高潮に達するだろう。同世代のノーリーズン、ヒシミラクルも来年にはシニア級、GⅠの舞台にて本格化した姿を披露することになるし、タニノギムレットも現役復帰している。
ネオユニヴァースとゼンノロブロイもまた、活躍を続けるだろうし、ジャングルポケットを始めとして、現役続行しているアグネスタキオンもマンハッタンカフェも、ダンツフレームも引退にはまだ早い。
そんな面々がひしめく来年以降の状況で、いよいよ本格化時期が過ぎて遠ざかっていくエアシャカールが、勝利を得るのは現実的ではなかった。チャンスは、今年が最後だ。
何もかも見通しているファインの言葉を受けて頭をかきながら、困り眉とともに口角を上げつつシャカールは返す。
「ンだよ、いつになくキッツい言葉じゃねェか、殿下。」
〈だって、そんなシャカールが大好きなんだもの。どれだけ強い競走相手が並んでいても、勝てるって思わせてくれるシャカールのことが。〉
今度は、素でエアシャカールは言葉に詰まり、返答できなかった。
むろん、シャカールとて好意を示す言葉を掛けられた経験がないわけではない。レース場ではファンから存分に声援を浴びていたし、身近な所ではアグネスタキオンが気味悪いほどシャカールの走りを見るたびベタ褒めしてくる。
しかし、ファインモーションの発する言葉だけは、何故か特別な響きがあった。彼女の何が他と違うのか……“ロジカル”には説明できなかったが。
気の利いたクールな返しのひとつでも思いつけばよかったのだが、結局シャカールは沈黙を長引かせないために、手短な返答を口にする選択を採らざるを得なかった。
「……ありがとよ。」
〈え!キミ、ホントにシャカール?そんな素直な返事するだなんて、シャカールのニセモノじゃないよね?〉
「うるッせェな、もう寝る寸前なンだから、頭が回ってねェんだよ。用件はそれだけか?これ以上なけりゃ、さっさと通話切ンぞ。……あ、待て、エリザベス女王杯、おめでとう。」
〈……んもう、調子狂っちゃうなぁ……ありがと。それじゃあ、おやすみなさい。あらためてだけど、明日のレース、応援してるよ。〉
最後の最後でいたずらっぽくなったファインモーションの柔らかな声を耳に残し、シャカールは通話を切ったスマホをテーブル上にそっと置く。
先ほどまでも、既に体調とメンタル面は共に万全の状態であったのだが……意識の届いていなかった暗がりにまで、今はファインモーションの言葉が温かな光を注いでいるように感じさせられた。
自分と、担当トレーナー。この両名で完結しているべき最終調整が、ファインモーションからのコンタクトで更に補完されたことは、ほぼ事実のようだった。
「だから厄介なンだよ、ロジックで測れねェことをするから、殿下サマは……。」
ボヤきながら寝床に潜り込むシャカールの言葉は、今までになく満ち足りた声色となっていた。
翌日、トレセン学園はガランとした雰囲気になる。
当然、出走ウマ娘やトレーナー、サポートに向かう関係者たちが朝からレース場現地へと赴いているためだ。運よく指定席チケットや入場券を取得できた面々はもちろん、現地に行けない面々もパブリックビューイングの会場へと向かっている。
もちろんトレセン学園内でトレーニングを続けているウマ娘たちはいたが、各々ジャパンカップの発走時刻までにレース中継を観戦できる場所を確保するためにそわそわとしており、常通りの雰囲気とは行かない。
しかし、鷹木とタキオン、そして場を同じくする面々がレース中継を視聴する環境は決まっていた。
「大画面で皆と盛り上がりたいのは山々だがねぇ、しかし観測者としては視聴条件を変更するわけにはいかないのだよ。そう、昨日の京阪杯を視聴した2画面、それぞれでタップダンスシチーくんが異なる走りを示すという非現実的な現象!今日のジャパンカップでも同様の現象が見いだされるか否か、確かめねばならない!」
昨日は、明瞭な異変を目視してしまった結果、蒼ざめたまま寮に帰っていったアグネスタキオン。
タップダンスシチーが出走した京阪杯を、ネットに接続したノートPCの配信画面と、昔ながらのポータブルテレビの古びた画面の両方で観戦した時、レース終盤のタップダンスシチーの走りが各々の画面で異なっていたのだ。
古いポータブルテレビの画面は間もなくノイズまみれになって見えなくなってしまったが、異常なことが起きたのは間違いない。シャカールのParcaeによる予測では勝てないとされていたタップダンスシチーが、昨日のレースでは一着になるという結果を収めた……という可能性との齟齬も、この異変に関わりがあるのではと思われた。
異常現象を認識したタキオンが心身に不調をきたしてしまっていないか、ずっと鷹木は気を揉み続けていたのだが……今朝、すっかり元気な状態を取り戻したタキオンの振る舞いに、ひとまずは胸をなでおろしていた。
とはいえ、再び同様の現象の再発を確認しようとするタキオンの意思には、諸手を挙げて賛同するわけにもいかなかったが。
「なぁ、タキオン。異変が起きないか気になるってのは分かるが、無理して確認することもないんじゃないか?昨日のタキオン、ホントに顔色が悪かったんだぞ。」
「心配をかけてしまって済まないとは思っているとも、トレーナーくん。だが昨日の件は流石の私も予測していなかった事象だからねぇ。再び同様の現象が発生するとなれば、それは私の予測の範疇だとも。それどころか、いよいよ私の仮説が実証されるも同然なのだから、今度こそ私は飛びあがって狂喜するだろうねぇ!」
そう喋りまくるタキオンの目の色には確かに沈んだ気は無く、空元気ではないのだと確認できた。
タキオンの精神面が持ち直したのは、彼女自身のしたたかさばかりが要因ではなく、タキオンを取り巻いているウマ娘たちの存在も大きかったろう。
昨日のトレーニング後、タキオンの様子を心配してずっと一緒にいたヒシミラクル、さらにダンツフレームが、今朝早々からタキオンの練習場に姿を見せている。さらに場を主導できる応援として頼られたのだろう、アグネスデジタルも合同練習に駆けつけていた。
「うひょぉぉ、久々すぎるんですよタキオンしゃんと一緒の練習!夏以降、お互いにいろいろ忙しかったですからねぇ!」
「天皇賞では私と競う相手だったのだから致し方あるまいねぇ、デジタルくん。それ以降も、桂崎トレーナーのもとでジャングルポケットくんやシンボリクリスエスくんの面倒を見るのに大変だったろう。」
「いえいえ、面倒見るだなんて、私の方が後輩たちのキラキラを摂取させていただいて、お世話になってるといった感じですよ!」
以前より変わらぬことであったが、アグネスデジタルが同じ場に居るだけで、その場の光量が確実に数段上がるかのように華やぐのであった。
この場に居る面々の中では、体格としては一番小柄であるものの、実質一番の先輩ウマ娘であり、戦績も最高クラスであるアグネスデジタル。タキオンも、血は繋がっていないとはいえ自分と同じ冠名のデジタルに対し、頼りにする思いが確かに湧き出ているのだろう。
いつもは鷹木やヒシミラクルの前で率先して口を開くタキオンが、この場ではデジタルの発言を待ってからそれに返すような振る舞いとなっていた。
「そんじゃあ、鷹木トレーナー、今日の練習始めましょっか!ウチの桂崎トレーナーからは、鷹木さんには安心してトレーニング内容を一任できると聞いておりますので!」
「ほうほう、すっかり先輩トレーナーからも信頼されているねぇトレーナーくん。今日はダンツくんも来てくれているが、そちらの担当である結城トレーナーからは何か言伝はないのかい?」
「同じだよ、タキオンちゃんの練習に合わせてお任せする、って言ってたから。」
他のトレーナーが担当しているウマ娘との合同練習は今まで何度も繰り返してきたことであり、今回の様に大舞台レース当日ゆえ相手トレーナー不在の状態で練習を実施することも珍しいことではない。そもそも、ダンツフレームならばつい先週にも併走練習に来ている。
が、それでもやはり、鷹木が緊張から解放されることはなかった。
言わずもがな、世界に名を知られたアグネスデジタルも、ダンツフレームも、トレセン学園においては最上位クラスのGⅠウマ娘である。
「分かった、まぁ、俺も桂崎トレーナーと結城トレーナーからはデータと共にメッセージを受け取ってるから……今日の練習内容は既にまとめてある、今は準備運動から始めてくれ。」
ウマ娘たちにウォーミングアップを始めさせつつ、鷹木は事前に各トレーナーから渡されていた、アグネスデジタルおよびダンツフレームの直近の練習データに改めて目を通し直している。
彼の目が血走っているのは、昨晩遅くまでその内容を頭に叩き込みつつ練習メニューを作成していたためだ。指導する側がトレーニング量などの判断をミスすれば、計り知れない損失に繋がりかねない。
それはむろん、タキオンにもヒシミラクルの平常時についても同じことだったのだが、ともすればそんな事実を忘れさせかねない振る舞いを取るのがヒシミラクルだった。
「ねーダンツちゃん、結城トレーナー、ポータブルテレビを返してほしい、とか言ってない?勝手なイメージなんだけど、おじいちゃんってあんな感じのアナログな雰囲気が好き、ってイメージだし。」
「お、おじいちゃんって……そもそも今日、結城トレーナーはアヤベ先輩とかシャカール先輩とかカフェちゃんとか、ジャパンカップ出走の準備に一番忙しいし。気にしなくても、大丈夫だよ。」
「なら、よかったぁ。だってタキオン先輩、あの古ぼけたポータブルテレビ、しばらく返す気なさそうだし。下手したら、分解しはじめたりするんじゃないかって心配で。」
ヒシミラクルとダンツフレームのあまりにユルすぎる会話を小耳に挟み、タキオンは気炎を上げている。
「分解などするはずはないねぇ!そして返せと言われても返すつもりは無いよ私は!あのポータブルテレビこそ、今回の現象を観測するのに最適な手段であることは間違いないのだからねぇ!」
「ひょぇ!?タキオンさん、熱くなってますねぇ!確かに、なんか古いちっちゃいテレビが休憩スペースに置いてありましたけど、あれで観戦するのが楽しみなんですか?」
「そのワケを語るのは後ほどとさせてもらおうかねぇ、先入観が無い状態での観測者は貴重だ、何にしてもジャパンカップの時刻が待ち遠しいねぇ!」
やがて、どこかガランとしたトレセン学園の練習コース上をタキオンたちは走り出し、晩秋の空は澄み切って冷えびえとし始めている。
一大レースの開催が目前に迫る空気に世界全体が緊迫しているようでもあり、故知れぬ不安を一滴垂らしたかのような寒風が一筋、吹き通ったようでもあった。