例年は東京レース場で行われるジャパンカップであるが、今年は東京レース場が改修工事中であるため、中山レース場での開催となっている。
長い直線を含む左回り2400mとは違い、上り坂からスタートする短い直線の右回り2200mコース。何もかも普段とは異なる条件であり、常通りに海外ウマ娘の参戦も相俟って、波乱が予感されるレースとなっていた。
実況席の中はといえばシニア級大舞台レースの常通り、実況アナウンサーの隣に解説役のスペシャルウィークが席を占めている。引退後もスペシャルウィークは後輩たちのレースの活況を応援するため、メディア路線における八面六臂の活躍を続けていた。
〈今年も海を越えて7名の海外ウマ娘たちが挑む中ではありますが、勝利予想は国内のウマ娘たちに集中しておりますジャパンカップ!今年も解説にはスペシャルウィークさんにお越しいただいております、早速ですがスペシャルウィークさん、今回のレースいかがご覧になりますか?〉
〈はい!スペシャルウィークです!毎年ジャパンカップはこの実況席から見させていただいてますけど、これだけスター級のウマ娘たちが集まることってほぼほぼ無いんじゃないでしょうか!1番人気のシンボリクリスエスちゃん、海外から招聘されたファルブラヴちゃん、昨年のジャパンカップ覇者ジャングルポケットちゃん……挙げていったら喋り尽くせないですけど、個人的な思い入れひとつ言わせてください!私、エアシャカールちゃんに注目してます!〉
〈なるほど!先月の天皇賞でも応援しておられましたね、確かに勝ちきれないレースは続いていますが毎レース好走を見せているウマ娘、ここで勝利すれば数年越しのGⅠ勝利にファンの皆さんも大いに沸くでしょう!〉
かつて日本総大将として勝負の場に身を置いていたが故の直感か、あるいはウマ娘として何がしかの繋がりを感じるのか……外見も中身もまるで似つかないエアシャカールに対し、スペシャルウィークは勝利の兆しを見出していたようだった。
だが、レース場内の歓声は小さい。それはもちろん、観客たちがスペシャルウィークの言に賛同できないとの意思表示ではない。
そもそものレース場内の賑わい自体が小さくなっていたのだ。
最大で19万人を超える東京レース場の観客数に対し、中山レース場の観客収容数は17万人ほど。例年よりも少ない収容人数ゆえ観戦スタンドが超満員となっていることは言うまでもない。みっちりと詰まった観客で埋め尽くされたスタンド、しかし上がる歓声は奇妙に小さかった。
画面越し、トレセン学園内練習場の休憩スペースにて、実況中継を視聴しているアグネスタキオンも、その現象をしっかりと認識していた。
「やはり可能性世界での展開とは、既に齟齬が発生しているようだねぇ。エアシャカール先輩がParcaeでジャパンカップを予測した際も、アドマイヤベガ、マンハッタンカフェ、ネオユニヴァース、ゼンノロブロイのいずれかを含めれば必ずプログラムはエラーを吐いたそうだからねぇ。可能性世界においては出走していないはずのウマ娘の存在が、歓声を不自然に小さく響かせる異変に繋がっているのだろうねぇ。」
「こないだのエリザベス女王杯では歓声が本来通りに大きかったですし、今回の静かさも明らかに変ですよね。……あ、デジタルさんとダンツちゃんは、いきなりこんな話されてもよく分かんないかな?」
タキオンに相槌を打ちつつヒシミラクルは、同席しているダンツフレームとアグネスデジタルの方へ視線を向けた。
同じ鷹木トレーナーのもとで指導を受けているヒシミラクルは、直接の先輩であるアグネスタキオンの探求に興味本位で首を突っ込み、曲りなりにもタキオン独特の仮説をある程度は理解している。
一方で、本日はジャパンカップ出走するウマ娘たちをサポートするため不在の結城トレーナーと桂崎トレーナー、それぞれの担当ウマ娘であるダンツフレームとアグネスデジタルは、普段からタキオンの独自の解釈をそうそう耳にしているわけではない。
それゆえに、不自然に小さな歓声に注目するタキオンの言動は理解困難なものかと思われたが、意外にもダンツとデジタルは面食らった様子を示さなかった。
「今年に入ってから、なんだか変だとは思ってたし、先月の天皇賞なんかはかなりハッキリとおかしかったけれど……やっぱり、レース場の歓声、ありえないぐらい小さくなってるよね。」
「気のせいじゃないですよね、もっともっと盛り上がらないと変です!ウマ娘ちゃんのキラキラが薄れてるはずありませんし!タキオンさん、何か分かってることがあるんですか!?」
実況中継の画面内での歓声であれば、収録環境の問題とも取れる現象であったが、現地レース場に赴き、自らが出走するウマ娘たちが、ここまで明白になった異変に気付いていないはずもない。
今まで、不自然な歓声の小ささが表立った話題にならなかったのは、観戦スタンドが現に満席になっており、個々の観客たちは間違いなくレースに熱狂している……そんな事実との食い違いを説明するすべが“気のせい”以外になかったためでもあったのだろう。
だが、もはや“気のせい”の域を大きく逸脱した現象を前に、求められるのは今に至るまで探求の手を緩めなかった者の見解であった。
ダンツフレームとアグネスデジタルから視線を向けられたタキオンは、どこか誇らしげに口を開く。
「簡単に説明すれば、レース場に響く歓声は純粋な観客の盛り上がりを示す尺度ではない、このレースに対する現実世界そのものの関わりの強さを示している、と私は考えているねぇ。この世界で、本来あり得る筈だった可能性通りに現実が進行すれば歓声は大きくなり、可能性を外れてウマ娘独自の意思が抜きん出れば歓声が小さくなる、といったところだねぇ。先月の天皇賞などは、特に分かりやすかったのではないかねぇ?」
「先月の天皇賞……最終直線までタキオンちゃんが先頭を走ってて、最後にクリスエスちゃんが差し切って勝った、あのレースのこと?」
「そうとも、私が勝ちきれなかったのは実に不本意だが、しかし歓声はクリスエスくんの勝利が確定した時、急激に大きくなっていたねぇ。可能性においても、クリスエスくんは間違いなく勝つはずだったのだろう。だが、この私が彼女の勝利を脅かしていた間、レース場内は実に静かだった。本来は昨年の皐月賞を最後に引退するという可能性を辿っていただろう、このアグネスタキオンが勝利する確率がゼロではなかった間、場内の歓声は不自然に静かだったのだよ。」
「ひょえぇ……あり得ないはずだったレース、ってこの世界が判断してるってことなんですかぁ?」
ダンツフレームに続き、アグネスデジタルもタキオンに問いかける。今まさにレース発走の瞬間を迎えようとしているジャパンカップの中継画面を前にして、深刻な空気を作りたくなかったのか、口調はあくまでいつも通りにおどけた色味を残している。
だが、デジタルの目つきには真剣な色も混ざっていた。当然、長らくウマ娘レースに出走し続けてきた彼女にとっても、ウマ娘の走りは既存の可能性を超越すべきものに違いないのだ。
タキオンもまたその視線を受け止めながら、目の前に並べた二つの画面を指さした。
「そうとも、そして現実世界に生きる我々には、本来あり得たはずの可能性が何であったのか、知る手段はない。実現しなかったのならば、現実としては認識できないのだからねぇ。だが、昨日の京阪杯を観戦した際、異なる二つの現実を、ごく僅かな時間とはいえ観測することに成功したんだ。これまで通りにネット上で配信される画面と、結城トレーナーからお借りした古いポータブルテレビの画面、この二つを用いて。」
「昨日の京阪杯で勝ったのはタップダンスシチーさん、だったよね。」
「あぁ、URA公式のネット配信を映していたPCの画面では、そのレース展開および結果が表示されていた。だが一方で、こちらの古いポータブルテレビでは、異なる映像が流れていたんだ。タップくんが芝の荒れた内ラチ沿いを走り、大外を回って上がってきた面々に差し切られる展開……そこから先は画面のノイズが酷くなり見えなくなってしまったが、現実とは異なる可能性を歩んだレース展開が表示されていたことは間違いないわけだねぇ。」
ダンツフレームが一言口にするたびに、タキオンはその数倍の返答を喋りまくっている。
それだけタキオンが興奮状態にあるのも無理のないことではあった。昨日は自身の目視、および記憶の中にしか残せていなかった異常現象の確証を、今日こそは明確な記録として残せるのだから。それも、ジャパンカップという最高峰のレースにて。
ポータブルテレビの古ぼけた画面の前には、スマホやPCのカメラが向けられ、既に録画が開始されていた。
「ところで、今回のジャパンカップ、シャカール先輩のParcaeの予測によれば、ファルブラヴが勝利する可能性が算出されているようだねぇ。イタリアでの上半期のGⅠレースを総なめにした実力の持ち主、十分に勝利するだけの実力は確かにあるだろうねぇ。」
「でも、そんな予測を出されてもシャカールしゃんは負けるつもりなんかないはずです!」
「だろうねぇ、私の仮説においても、既に出走者が出揃った時点で既定の可能性は崩れているのだから、予測から大きく離れた結果が出てもおかしくないねぇ。」
デジタルの言に頷きつつ、タキオンの喋りの量は徐々に減っていった。
配信を映しているノートPCと、中継番組を映しているポータブルテレビ。ふたつの画面内ではどちらも同じくファンファーレが鳴り響き、地下バ道から出走ウマ娘たちがゲートへ向かっていく様が映し出されていた。
まもなくジャパンカップが始まる。見ている側にもじわじわと緊迫感が高まってくるのは当然のことだったが、ここでさほど空気を読まずに思ったことを口にするのがヒシミラクルだった。
「……そういや、最近ぜんぜん特別ゲスト枠での解説ウマ娘が来ませんよね。スペシャルウィークさんはレギュラーメンバーですけど。前はオペラオーさんとかドトウさんとかがゲスト解説してたのに……トレーナーさん、何かご存知ないです?」
「流石に俺も知らないな、オペラオーとは最近ほとんど連絡を取ってないし……。」
タキオンらには殆ど聞き流されつつ、鷹木はミラ子とやり取りを交わす。
かつて担当していたウマ娘とはいえ、引退してしまった後も頻繁にトレーナーとの交流が続くというわけではない。現役を終えたウマ娘には、それぞれ個々の生き様がある。
最後にオペラオーに合いに行ったのは、昨年のことだ。アグネスタキオンが皐月賞に出走する際、脚を壊してしまうリスクを飲んででも全力で走らせるべきか否か、悩んでいた鷹木はオペラオーに会いに行ったのだった。
その際、オペラオーはウマ娘が今後も走り続けられる道を優先してやるようにと鷹木に伝えた。そう語る彼女自身、引退したにもかかわらずウマ娘用のトレーニング施設で走り、体を鍛え続けていた。
何故オペラオーが引退後もまだ走る身体を維持しているのか、その時は聞きそびれていたのだが……現状、大舞台レースのゲストとしても、めっきり姿を見せなくなったことに何らかの関係があるのだろうか?
〈曇り空となりましたが芝状態は良、まもなく発走の瞬間を迎えます、ジャパンカップ!最後に16番エアシャカールがゲートインしまして、16名の体勢整いました!ウマ娘レースの祭典ジャパンカップ、今スタート!まずは1コーナーに向かっていきますが、注目はまずマグナーテンという所になるでしょうか、2枠にはゼンノロブロイも横を見ながら前を窺います、さぁしかし外から行った行った!マグナーテンが行った!3連勝中のマグナーテンが、国内外の強豪たちを引き連れて、1コーナーにまずは飛び込んでいきました!〉
〈中山の最初の直線、かなりの上り坂なんですけれど、相当果敢に攻めていってますね!末脚が強い面々が後方に控えてるので、脚の使い過ぎに気を遣うところです!〉
今年の夏からマイルのレースで連勝を続けているマグナーテンが、現時点の勢いそのままに駆けあがっていく。
ここでの観客席から上がる歓声は、本来通りに大きなものとなって響いていた。おそらく“可能性世界”においても同様の展開だったのだろう。
この時点で、ノートPCとポータブルテレビ、それぞれの画面に映しだされるレース展開に差異はない。タキオンは忙しく二つの画面間で視線を往復させながら口を開いた。
「トップロード先輩とゼンノロブロイくんは先行寄りにつけて、ノーリーズンくんとシンボリクリスエスくん、ネオユニヴァースくんが中団あたりに位置取り、そして他の勝利候補は皆、追い込みの位置取りだねぇ。Parcaeは予測できなかったようだが、私の予想からは外れない展開だねぇ。」
「いくら可能性を超える、って言っても、全力で勝ちに行くことには違いないですからね。大事な本番で、敢えてヘンテコな作戦を取るウマ娘はさすがに居ませんか。」
アグネスデジタルも頷きながら、画面を凝視している。
オールラウンダーとして変則的な走りを見せた代表格のウマ娘、アグネスデジタルも、わざわざ奇抜な走りを披露するためにレースに出ていたわけではない。タキオンが言う所の“特異点”の一員だったろうデジタルとて、純粋に勝利を求めた結果をレースで示していたことは間違いない。
可能性を崩すのではなく、可能性を新たに紡ぐこと……全力でレースを走っていればこそ、それは自然と生まれる道なのだ。
〈1番人気シンボリクリスエスあたりは中団のその後ろで構えています、1コーナーから2コーナーへの中間地点、それほど大きな逃げにはならないようですマグナーテン先頭、その後ろにはウチを回ってゼンノロブロイ今回は先行寄りの作戦か、続くは3番のゴーラン、さぁそしてアメリカンボスが居て、ウチを通ってネオユニヴァース、更にその後ろにファルブラヴが行っています!アグネスフライト続いている、そしてシンボリクリスエス!ここに居ます1番人気シンボリクスエス!しかし続く人気度上位はその背後に集結している形であります!〉
〈シャカールちゃん、かなり後ろに下げてますね。向こう正面に入ったらペースが上がるけれど、まだまだ落ち着いて脚を溜めてるようです!〉
2コーナーの出口から向こう正面をぬけ、そのまま緩やかな3コーナーへ入っていくまで下り坂の区間が長く続く中山レース場外回りコース。
コーナーの曲がり自体もかなり緩やかであるため、全体がハイペースのまま進行していきがちなレースであったが、シンボリクリスエスも含めた勝利候補たちは後方に固まっていた。
タキオンに負けず劣らず画面に目を近づけながら、ダンツが喋る。
「ポッケちゃん、一番後ろから駆け上がるつもりなんだ……東京レース場とちがって、中山の直線で同じことするのは厳しいかも、だけど。」
「だが、ジャングルポケットくんが中盤から上がってきたがるだろうことは、他の出走者も既に見越しているだろう。確実にブロックされてしまうよりは、最終直線手前の混戦を突いて一気に決める方が勝機もあるだろうねぇ。」
タキオンはダンツの言葉に答えながら、視線はシャカールの方へと吸い寄せられていった。
先ほど、解説役のスペシャルウィークが言及したことも影響していたかもしれないが……このレースにて、最も注目すべき存在としてタキオンはエアシャカールを自然と選んでいたのだ。
1番人気のシンボリクリスエスでもなく、Parcaeの勝利予測に上がったファルブラヴでもなく、現時点で最後方にジャングルポケットと並んで位置しているエアシャカールから視線が外せなくなった根拠は、明瞭ではなかった。
ウマ娘として、レースの行方を見通す感覚を磨き続けてきたがゆえの予感が働いたのかもしれなかった。
〈後方はウチを通ってマンハッタンカフェ、さらに並んでナリタトップロード、その後ろを通ってアドマイヤベガ、まだまだ覇王世代は健在だ!さぁそして9番のノーリーズンが続いています、奇しくも今年のジャパンカップは皐月賞の舞台と同じ中山です!外を回りましてブライトスカイ、そしてここにテイエムオーシャンが控えています!その後ろにはエアシャカールが行って、ようやく見つけた、見つけた!10番のジャングルポケットが一番後ろからというレース展開!残り800m、3コーナーの下りに既に掛かっています!〉
〈どんどん先頭から後方までの差が詰まってきてますよ!後ろに控えてる面々もコース取りを既に見据えてます、こっから大きく動きますよ!〉
既にナリタトップロードはコースを大外にとり、混戦状態になるだろう区間に先んじて有利な位置取りへと移っている。
1番人気の宿命として完全にマークが集中し囲まれているシンボリクリスエスも、集団ごとジワジワと前方へ位置を押し上げていき、現時点で逃げ先行ウマ娘との差はほぼ無い状態となっていた。
先ほどまではノンビリと構えて画面を眺めていたヒシミラクルも、この状況に及べば観戦に熱が入り始める。
「クリスエスちゃんを抑えるのに必死、って感じですねえ、先行の皆さん。抜け出されたが最後、まず勝てなくなりますもんねぇ、分かります分かります、私も神戸新聞杯でただ遠ざかる背中を見送るばかりでしたし。」
「シャカールくんは……あぁ、コースを外に出して、うまく上がってきているねぇ。いや、待ちたまえ、ノートPCの配信画面に映る内容、ポータブルテレビの画面とは微妙に違うんじゃないかい……?」
問題なくクリアな映像が流れているノートPCの配信画面では、全体のペースが上がってきているのに合わせてエアシャカールも加速し、コースを外目に出して4コーナーへと向かっていく。
だが、古ぼけたポータブルテレビの画面では……既に画面上にノイズが走り始めていたが……先んじてジャングルポケットが上がっていっており、シャカールはジャングルポケットの背を追いかけるような形となっていた。
そのままでは、ジャングルポケットに前を阻まれ、さらに外側に出すコースではもはや先頭を捉えるのは現実的ではない。コース内側へと入って抜け出す一手に賭けるしかない。
明確に二つの画面間でレース展開が異なっている様を見出したタキオンは、急激に冷や汗を流しながらも、確実にこの様が録画されていることを素早く確認した。
〈さぁ先頭マグナーテンに迫っていくのは外を通りましてアメリカンボス、その後ろにはゼンノロブロイ、さらにゴーランが続いている!そして後方、いよいよ人気度上位のウマ娘、この辺りで動き出すんでしょうか!ちょうど中団にシンボリクリスエス!外を回りましてテイエムオーシャン、並んでナリタトップロードも上がってきて、更に大外からエアシャカール!さぁ最後の直線に向いた、中山の直線は短いぞ、横一線に並んだところを迎えた迎えた!〉
〈コース取り、理想通りです!このペース、後ろから差し切れます!行け!行け!〉
既にほぼ解説の体を為していないスペシャルウィークの言葉は、ほぼ間違いなくエアシャカールに向けられていた。
大きく横に広がった中団、しかし直線に向ききる前にその集団から抜け出した状態となっていたエアシャカール。最後方で焦らず、じっくりと溜めつづけた脚を存分に使える位置取りが完成していた。
一方で……中継画面を見つめていたタキオンは、もはやポータブルテレビに食いつくほどの勢いで画面を凝視していた。既にノイズまみれで、音声も途切れ途切れとなっているが……間違いなく、ここには現実と異なるレース展開が映し出されていた。
「シャカールくん……コース内側に行ったのか……あの状況で大外を目指すのは無理がある、しかしここで内ラチ沿いに行っては……ダメだ、抜け出す隙間は出来ていないねぇ……。」
「何を言ってるんですかタキオンさん、シャカールさんはしっかり外から抜け出して、間もなく先頭に届きそうですよ!」
ブツブツと呟くタキオンに対し、デジタルが興奮気味に訂正を入れる。
むろん、デジタルが述べたは現実のレース展開、ネット配信されているレース実況が映し出されたノートPCの画面に見える状況である。
現実にならなかった、別の可能性。
エアシャカールがコース内側、集団の中に埋もれて前に上がれないまま、最終直線を進んでいく光景は……ポータブルテレビのノイズの海の中に埋もれ、遂に見えなくなった。
〈マグナーテンがまだ先頭、マグナーテンがまだ先頭!その後ろを通りましてはゼンノロブロイが来た!さぁそしてシンボリ!シンボリクリスエスが上がってきた!ウチを通ってマンハッタンカフェも上がってきている!間を突いてネオユニヴァース!だが大外から上がってきたのはエアシャカール!エアシャカール届くか、届くか!すぐ後ろにジャングルポケット!アドマイヤベガも連れて上がってきた!大接戦、ノーリーズンも内側で粘っている!〉
〈あぁぁ!あと一押しだっぺ!けっぱれぇ!!〉
すっかり故郷の訛り全開になったスペシャルウィークの声は、現地中山レース場では奇妙なまでの静けさの中で響き渡っていた。
このスターウマ娘だらけの頂上決戦に、熱狂していない観客などいない。全員が大口を開け、目を血走らせ、絶叫している。だというのに、レース場に轟き渡るはずの大歓声は、奇妙なまでに遠く小さかった。
実際に走っているウマ娘たちには、ターフ上の駆け引き以外に神経を向ける余地などなかったが。
(わかってンだよ、ここで勝つってのは、全員を敵にするッてことだ。覇王世代も、俺の同期も、去年も、今年も、レースで勝ってきた連中を全部、敵に回して勝つッてことだ。)
エアシャカールは、ここまでロジカルに組み立ててきた走りを、極限状態になりながらも辛うじて掴み続けていた。
真隣りに迫ってきているのは、ジャングルポケットの蹄音。去年のジャパンカップ覇者である彼女のすぐ背後には、アドマイヤベガの衰えぬ末脚が覗いている。ノーリーズンは、前方に開いた僅かな隙間を見出し、抜け出そうとしている。
マンハッタンカフェは、ネオユニヴァースと共に質量を感じさせぬ加速で詰めてきている。残り数メートル、僅かでも計算が狂っていたら、シャカールはゴール板直前で差し切られるだろう。
〈ヤバすぎだろ、ここまでの化け物ども相手して、勝つつもりだッてんだから……俺は。〉
前方を見れば、ゼンノロブロイの小柄な姿は、シンボリクリスエスの体躯に遜色ないほどの存在感とともに、コース内側で先を行っている。距離が詰まっていくペースはあまりにも遅々たるものに思えたが、相手に余力が無いのならば、確実に届く。
そして……Parcaeが勝利すると予測したファルブラヴが、集団の内側から急襲するかのごとく顔を覗かせていた。だが、今のエアシャカールにとっては、いずれも繰り返した予測の範疇であった。
(全力だ、ペースも、コース取りも、これ以上は無ェ。俺は勝ちを引き寄せる……見てろよ、フライト。)
アグネスフライト。クラシック級の年にダービーの勝利をエアシャカールからもぎ取ったライバルであり、そしてここに至るまで共に駆け続けた朋輩。
彼女の視線は、ずっと後ろにあったが、しっかりと感じられた。
〈先頭は変わってエアシャカール!いや、ウチから上がってきたファルブラヴか!シンボリクリスエス食らいつく、だがエアシャカール、まだ末脚は充分か!末脚は充分だ!坂を上り切って、衰え無し!エアシャカール、今一着でゴール!最後の最後でファルブラヴが抜け出してきましたが、衰えぬ末脚で勝ちましたエアシャカール!3年越し、エアシャカール、執念のジャパンカップ勝利であります!!〉
〈やった、やっただなぁ!おめでとう、おめっとう!!〉
感極まりながらも辛うじて実況を続けているアナウンサーの隣では、すっかり観客の一員と化したスペシャルウィークが感涙に咽び続けている。
シニア級での勝利を最後に3年も経てば、既に全盛期を過ぎたのだと見られるのが普通のウマ娘。そこから再度勝てると信じて走り続けることの執念がどれほどのものか、レースを走るウマ娘であればこそ骨身に染みて理解できるのだ。
極限状態から現実に醒めるように、減速と共に平常時の感覚を取り戻したエアシャカールは、中山レース場が不気味なまでの静寂に包まれていることに気づいた。
視線を遣った先、観客席では、幾万人もの観客たちが立ちあがり、口を大きく開け、ターフ上のシャカールに向けて賞賛の言葉を浴びせている。……全くの無音であることを除けば、それは本来のGⅠレース通りの状況であった。
「アー……これが、“可能性世界との乖離”って奴か?タキオン……。」
まるで、透明な防音壁に隔てられたかのごとく、無音状態のままに熱狂している観客たちを見やり、ファンサービスとして片手をあげて手を振るシャカール。
自分にとって悲願であるジャパンカップでの勝利、それが達成された場が十分な祝福の喝采で満たされていないことに関しては、さほど残念さを感じてはいなかった。レースに勝利した、その事実だけは間違いなかったからだ。
ただ、本来は大歓声の中で聞こえるはずのない、芝を踏みしめて歩む蹄音が耳に届く異様さだけは心の底をざわつかせた。
耳に届かぬ喝采が注ぐ中、近寄ってきたのはシンボリクリスエスである。
「Congratulations……素晴らしい、走り……だった。だが……この静けさは、何だ?」
「さァな、お行儀の良い観客ばっかり集まってンじゃねェか?ってのは冗談だが、トレセンに帰ったら、タキオンに見解を聞いてみなきゃな。」
もはや誰もが“気のせい”では済ませないほどに明瞭な異変、今回はファルブラヴに次いで三着となったシンボリクリスエスも、このレース場の静けさには怪訝な表情で見回さざるを得なかった。
しかしシャカールも自分が直接関与して解消できる異変ではなく、この世界そのものが異常を示しているとなれば、今出来ることがあるわけではない。
届かぬ声援に改めて手を振り返し、背を向けて歩み去ろうとするシャカール。
ひとつの叫びが、この異様な静寂を切り裂いたのはその時だった。
「シャカーーールーーーーー!!おめでとーーー!」
聞き慣れた声、しかし絶叫するほどの声量となっては、初めて聞く声。
振り返って、そして仰ぎ見るシャカール。かなりの高さまで視線を上げねばならないのは、声の主が観戦スタンドの上層階、貴賓向けの個室のバルコニーから顔を出していたためだ。
思いっきり手すりから身を乗り出し、慌てて駆けつけてきたSP隊に体を支えられているのは、ほかでもないファインモーションの姿であった。
「勝ったねぇぇーー!!!シャカァァーールゥゥーーー!!!!」
エアシャカールが呆気にとられたのは、ファインモーションが普段決して出さない声、そして決して見せない姿を見せたがためばかりではない。
まるで、ファインモーションのもとからエアシャカールへと、一直線に走った声の切っ先が、観客たちを覆い尽くしている見えないヴェールを切り裂いたかのようだった。
舞台の幕が左右へと割れて開いていくように、喝采を遮断していた隔たりは去り……可能性世界からの干渉は失せ、現実が訪れた。
すなわち、レース場の全観客が叫び続けていた大歓声が、本来通りの声量で降り注いだのだ。
「ウオオォォァァアアッ!!シャカール!シャカール!シャカール……!」
ファインモーションの声ひとつが、この世界全体の関心そのものを、この中山レース場に引き寄せたとでも言うのだろうか。
暫し、目を丸くしてエアシャカールは立ち尽くし……まだ傍らに立っていたシンボリクリスエスと顔を見合わせ、あらためて呆れたように手を頭にやり、後頭部を掻いた。
クリスエスは、まるで現状を呑み込めぬまま、キョロキョロとし続けるばかりであったが。
「What the ……?」
「ンだよ、あの殿下サマは……ここまでマジに規格外なのかよ。」
耳を聾するほどの大歓声、空気を震わす衝撃の連続に全身を任せながら、エアシャカールは堪えきれず笑顔を浮かべていた。確かに、嬉しかったのだ。
一方、トレセン学園内では今度こそ明瞭に可能性世界の実在を確信できる材料を得たタキオンが、顔面蒼白になりながらも興奮で倒れかけていた。タキオンの観測においても、エアシャカールが可能性世界の既定を乗り越えて、この現実で独自の運命を切り拓いたことは確実であった。