11月の末、すっかり近づいた冬の気が占める街の一角に、鷹木はタキオンとミラ子を連れ、バスから降り立った。
引退から6年、サイレンススズカが住んでいる街は存外にもトレセン学園からさほど離れていない。隠れ住むといった雰囲気ではなく、平日の昼間でも賑やかで地元住民たちが頻繁に商店街を行きかっている。
そんな街でも、スズカの現住所が知られて騒がれるような状況がこれまでなかったのは、当時の担当トレーナーや周辺住民のはからいがあったおかげだろう。6年前、衝撃的な形で引退を余儀なくされた彼女が、今どうしているのか知りたがるファンは少なくないはずだ。
一応、帽子やマスクで軽い変装をしつつも、タキオンは自分たちの姿を見てもさほど気に留めていない住民の様子を見回しながら喋る。
「私もスズカ先輩の情報については伝え聞いた範囲でしか知り得ないがねぇ、じっとしていられない性格であるのは現在も変わらないとのことだねぇ。これだけ人通りの多い街に住みながら、彼女の居場所が世間には知られていないというのは、この街の住民たちが相当に配慮に長けた面々ということかもしれないねぇ。」
「トレセン学園から近い街ってこともあって、ウマ娘の事情を理解した住民さんが多いのかもですねぇ。……ところでトレーナーさん、今日はお話を聞きに行くだけなのに、なんでそんな恰好で荷物背負ってるんです?」
タキオンの言葉に返答しつつ、ヒシミラクルは鷹木の方を振り返る。
鷹木は、トレーナーとしての最上位の礼服であるスーツ姿で、慣れないネクタイを締めた窮屈な首元に垂れてくる汗を拭いていた。
さらにミラ子から指摘された通り、鷹木はまるでこれから遠征にでも行くかのごとき大荷物を担っている。12月目前の寒い時期にもかかわらず容赦なく汗が流れてくるのは、緊張の冷や汗が噴き出るためばかりではなかったろう。
「昨日まで時間の空きを見つけては、色々と先輩トレーナーたちに話を聞きに行ってたんだ。サイレンススズカがどんな性格で、どんな話題が好まれて、訪問時はどんな格好で行くべきか……結局、よく分からなかったから、あらゆる状況を想定して荷物を持ち込むことにしたんだが。」
「さすがに気にしすぎじゃあないかねぇ?かく言う私も、現状で緊張と無縁だとは言い難いが、しかしスペ先輩はさしたる気兼ねなく会いに行っていいと言ってくれたねぇ。」
現世代のウマ娘からしてみれば、もはや伝説的な存在であると称しても過言ではないサイレンススズカ。
先日のスペシャルウィークによる紹介のおかげで、彼女に会えることが決まった時にはタキオンもミラ子も緊張の極みにあったが、今となってはかなり落ち着いた様子を見せていた。
やはり、何万人もの観客の前でアピールし、走り、喝采を浴びる現役ウマ娘に備わるメンタルは並みのものではない……ミラ子の方は、生来の性質もあったろうけれど。
一方で、トレーナーとしての実績はそれなりとはいえ、メンタルに関しては一般人に毛の生えた程度でしかない鷹木は、目指す訪問先が近づく一歩ごとに動悸が激しくなるのを抑えきれなかった。何度も汗を拭いている鷹木を横目に、ヒシミラクルも言葉を添える。
「せっかくスズカ先輩に会えるってのに、直前で倒れて救急車を呼ぶようなことにならないでくださいよ?」
「わ、分かってるって……あ、ここ、だよな……。」
事前に伝えられた住所のメモを見ながら、こじんまりしたマンションの入り口で鷹木は立ち止まる。
サイレンススズカの側からは、現役ウマ娘のスケジュールを最優先すべきとの意向で、面会場所もトレセン学園内にして構わないとの提案があった。が、さすがに伝説のウマ娘がトレセン学園に現れたと知られれば、全在籍ウマ娘が押し寄せて大騒動、大混乱が巻き起こりかねない。
それに、スズカは静かに面会室で語るだけで満足して帰ることなど出来ないだろう、ウマ娘たちが走るコースが視界に入れば自らも走らずにいられないだろう……この面会を前にして、鷹木が相談した先輩トレーナー達や秋川理事長や駿川たづなは、口を揃えてそう言ったのだ。
ゆえに、今回はサイレンススズカの現住所に招かれる運びとなったのだ。街の賑わいから少し離れ、静けさに占められた住宅街を見回してタキオンは喋る。
「良い場所だねぇ、少し歩けばすぐ商店街で買い物もできるし、気晴らしに近くの河原で走ってくることもできる。どうしようもなく走らずにいられないウマ娘が暮らすには、理想的な居住場所だねぇ。」
「サリレンススズカの元担当トレーナーが、彼女にピッタリの所を探し出したんだろうな。部屋も一階だ、いつでもすぐ走りに出て行けるように、ってことだろうか。」
あるいは、今なおスズカは足が不自由だから、万が一の際に階段を用いなければ出入りできないような部屋は避けたのか……?との憶測もよぎった鷹木であったが、口は噤んだ。
6年前、秋の天皇賞。
東京レース場、第3コーナーに差し掛かったサイレンススズカは左脚の粉砕骨折を発症、即座に競走中止となり、その後まもなく現役引退が報じられている。
事前の検査では身体に異状は発見できず、おそらくスズカの尋常ならざる加速力に、ウマ娘として持ち得る身体構造そのものが耐えきれなかったのだと推測された。この日の天皇賞は「沈黙の日曜日」とも呼ばれ、文字通りに世間はレース界の大きすぎる損失を受けて哀惜に沈んだ。
下手をすればより致命的な後遺症も残しかねない粉砕骨折であったが、スズカ自身が発症を悟ったと同時に他の競走者との衝突を避ける位置へ移動しており、さらに担当トレーナーが現地にて迅速に対処にあたったおかげで、スズカは引退して数カ月後には再び歩けるようリハビリを開始するところまで回復できている。
……という情報を鷹木が聞いたこと自体、まだオペラオーを担当していた数年前の話である。現在のサイレンススズカがどんな状態なのか、世間に一切情報が出てこない内容について知る由もない。
オートロック式のエントランス、部屋番号を押すインターホンの前で、タキオンは鷹木の持っていたメモを覗き込む。
「えぇーと、101号室、だねぇ。すぐ走りに出て行ける一階というだけではなく、部屋番号までも一番でなければ気が済まないのかもしれないねぇ、さすがはウマ娘の鑑だねぇ。」
「や、約束の時間よりちょっと早く着きすぎてしまったな、まだ迎え入れる準備が出来ていないかも……」
「まー、とりあえずインターホン鳴らしてみましょうよ。そわそわしてるトレーナーさんをずっと見せられてると、こっちも気が落ち着かないんですよ。」
もっともすぎる言葉をヒシミラクルから掛けられ、鷹木は深呼吸ひとつ済ませ、意を決して部屋番号を押し、コール音を鳴らすボタンに指を近づける。
指先の震える鷹木が緊張の極致にあったのは言うまでもないが、そんな状況を一瞬で破る声が、すぐ背後から聞こえてきた。
「あら?あなた、アグネスタキオンさん?そうよね、そっちはヒシミラクルさん!ということは、そこに居るのは鷹木トレーナーさん、ね?はじめまして、サイレンススズカです!」
一斉に振り返る鷹木、タキオン、ミラ子の首の動きが、一様にぎこちなかったのも無理はない。
全身から絞り出すように冷や汗を流していた鷹木については言うまでもなく、緊張とは無縁であるようにふるまっていたアグネスタキオンとヒシミラクルも、さすがに意識を向けていた先とは正反対、背後からサイレンススズカが現れるとは思ってもいなかったのだ。
今まさにマンションの外から帰ってきたところなのだろう、サイレンススズカは明らかにランニング用の恰好を身に纏っていた。軽く息を弾ませつつも、背中には商店街で買い物をしてきたのか、野菜類の葉の先が覗いた小ぶりなリュックを背負っている。
足が不自由だったのは既に昔の話。歩けるようにリハビリをしていたのが数年前のこと、今は再び走れるようになるまで彼女は完全回復していた。
先輩トレーナーたちから伝えられた通り、スズカは今なお走らずにいられない性質を保っていたのだ。
「早めに来てくれたのね、嬉しいわ。さぁ、どうぞ上がって。あまり広くない部屋だけれど、散らかるほどの物も置いていないから。」
「ど、ど、どうも、それでは、お邪魔するねぇ……さ、ささ、行こうか、トレーナーくん、ヒシミラクルくん。」
伝説的ウマ娘のフランクすぎる登場を前にして、完全に面食らっていた一同であったが、辛うじてタキオンだけは意識を取り戻して同好者たちの足を促した。
エントランスから最速で出入りできる101号室、通された部屋の中は、確かにサイレンススズカが暮らしていると言われて納得の内装であった。短い廊下を抜けた先、ダイニングとキッチン、さらに隣接したバスルームに至るまで、不要な物は一切置かれておらず、生活に必要な動作が最短経路で完結する動線が確保されていた。
背中のリュックサックを降ろしたスズカは、買ってきた野菜類を手早く冷蔵庫に放り込みながら、おずおずと踏み込んできた面々に声を掛ける。
「せっかく来ていただいたけれど、ちょっと片付けだけ済まさせてもらうわね。そちらでくつろいで待っていて、今お飲み物をお出しするわ。」
「いっ、いえ、そんな、お構いなく……あっ、こちら、心ばかりの品ですが……。」
鷹木は、あらゆる状況に備えるつもりで持参した大荷物の中から、手土産として用意してきた和菓子の箱詰めを取り出して差し出した。
リビングの方も、余計な家具や雑貨類はほとんどない、シンプルな雰囲気で占められている。が、テレビモニターや複数のスピーカーによるサラウンドシステムだけは妙に凝って吟味された機材がゴテゴテと並んでおり、その一角だけはスズカらしさが若干薄いように思われた。
緊張が解けるのが最も早かったのだろう、ヒシミラクルが真っ先に声を上げる。大先輩の自宅の中だというのに、すっかりソファに背を預けてくつろぐ体勢になっているミラ子の姿には、さすがのタキオンも瞠目し二度見せざるを得なかった。
「わー、めっちゃ良い視聴環境が揃ってるんですねぇ、やっぱウマ娘レースをじっくり観戦するためですか?」
「そうね、私があんまり人混みが得意じゃないから、レース場に出かけず観戦できるってのもあるけれど、一番は夫の趣味ね。」
「……あっ、そっか、ご結婚、なされてるんですよね。」
既にエプロン姿となって、お湯を沸かしつつ急須に茶葉を入れているスズカの姿は、新妻そのものであった。
世間で騒ぎにならずスズカが静かに暮らせるよう、大々的に公表されてはいない情報ではあったが、ウマ娘たちの間では噂として伝わっている内容であった。
サイレンスズカの怪我、引退の後、自分の責任をあまりにも重く受け止めていた当時の担当トレーナーは、スズカのためなら何でもすると心に決めていた。当初は、文字通りにスズカの生活やリハビリの支えを続けていた彼であったが、時を重ねるほどにスズカと気持ちが重なる機会も増していったらしい。
むろん、現役時代から担当トレーナーへの信頼が十分に篤かったスズカの本意にも適う道であり……ふたりは、ごく自然なことのように結婚していた。
正式に籍を入れたのがいつのことかは公表されていないが、物が極端に少ない部屋の一角に、レース視聴環境の機材群だけが唐突に置かれている今の状況を見るに、同棲が始まったのはさほど以前のことではなさそうだ。
スズカの左手に光る指環を見ながら、鷹木も慌てて口を開く。
「お、遅ればせながら、ご結婚、おめでとうございます。ご主人様には、自分もトレセン学園所属トレーナーの後輩としてお世話になっております……。」
「ありがとうございます。あの人そそっかしいところがあるから、逆に他のトレーナーさんにお世話されてなければいいけれど。はい、お茶をどうぞ、お菓子もお持たせで失礼します。」
「おー、にんじんきんつばじゃないですか、こないだ私がじっと見てたの覚えててくれたんですか、トレーナーさん?」
皿に載せられて出てきた和菓子を前に目を輝かせているヒシミラクルへ、鷹木は「お前に食べさせるために持参したんじゃない」と無言で視線を送るがミラ子には届いていない。
とはいえ、当のスズカは後輩が緊張しっぱなしになるよりも、くつろいで過ごしている様を見せているほうが、ずっと嬉しいようであった。その点ではヒシミラクルは、先輩から可愛がられる素質を存分に備えていたとも言えるかもしれない。
それとは対照的に、先ほどから口数少なく、思考に沈みがちな表情となっていたタキオンの様子はスズカの目に留まった。
「タキオンさん、何か悩み事?と言っても、もともとタキオンさんが私とお話したいことがあるから、今日は会いに来てくれたのよね。」
「その通りだねぇ、しかしどこから話し始めたものか、ここに来るまで事前に整理してはいたのだが……」
確かに、現状について相談しようにも、そもそも初対面、かつタキオンの仮説を今まで聞いたこともない相手に対し、全ていちから説明することは現実的ではない。
何よりも、スズカ自身が、長ったらしい説明をくどくど聞かされるのは好まないだろう。タキオンは、なるべく手短に現状の認識を共有するところから始めた。
「愚問かもしれないが、スズカ先輩は、今月のジャパンカップを観戦したかい?」
「もちろん、見たわ。勝ったシャカールちゃん、本当に良い走りだったわね。」
「あぁ、間近で応援を続けてきた身としても、シャカール先輩の久々のGⅠ勝利は喜ばしいねぇ。それで、だ。スズカ先輩は、あの場の歓声が異様に小さかったことは、覚えているだろうか?」
「……えぇ、確かに変だとは思った。あの後、実況席での解説役が終わったスペちゃんからも連絡が来て、あの妙な状況に私も気づいたか聞かれたわ。」
スズカの返答は、彼女生来の性質を示すように淀みなかったが、同時に少しずつ目元に険しさが浮かび始めていた。
さほどその場の空気を読まず、ボリボリと和菓子を食する音を立てているヒシミラクルはさておき……タキオンも鷹木も、スズカが何を思い浮かべているのか凡そ見当がついていた。
「大きなレースが決着したというのに、しんと静まっているのは……どうしても、思い出しちゃうわね。」
「6年前の……沈黙の日曜日、のこと……だねぇ?」
「私が走れなくなったことを悲しんでくれる人が大勢いたのは、その後も私の支えにはなったわ。けれど、あの時は、静まってないで、もっと歓声を上げてと心の中で願っていた。勝てなかった私に代わって、一生懸命に走って、勝ったウマ娘が居るのだから。本気のレースで、誰よりも速く走ったウマ娘が、暗い空気の中で帰っていくのは……嫌よ。」
脚を引きずってレースから降りたサイレンススズカの姿を目の当たりにしては、とても明るい雰囲気でいられるはずなどなかったろうが、レースウマ娘としてスズカの言葉はタキオンにも痛いほど理解できた。
すべてのウマ娘が、賞賛や喝采を得るために走っているわけではない。
むろんタップダンスシチーやタニノギムレットのように、観客の視線を釘付けとすることをこそ至上とするウマ娘もいる。が、殊にサイレンススズカやアグネスタキオンのような類は、自分の走りを極めることの方がよほど重大な目標となっている。
それでも、大舞台のレースはひっそりと行われるものではないのだ。天皇賞、ジャパンカップ……そして有馬記念。
まさに来月、12月に行われるウマ娘レースの集大成は、毎年歴史に貴重なページを刻む一大レースだ。
「私が目下、懸案としているのは来月の有馬記念のことだねぇ。これまで様々に観測データを重ね、その上での推測なのだが、今のままでは有馬においても同様の異変が起きると思われる。ただ歓声が小さいことが問題なんじゃない、そこで行われたレース展開が、観客たちにとって十分に大きな感動とならず、歴史に刻まれずに流されることが、私の一番恐れる事態なんだ。」
細かに説明すれば何倍もの時間を要する内容であったが、タキオンは極力まとめてスズカへと伝えていた。
正確に伝えるならば、そもそも“可能性世界”が存在するという仮説から説明を始めなければならない。この現実世界とは別の世界において、既にウマ娘たちのレース勝敗も含めた運命までも、決められてしまっているという仮説。
有馬記念に出走する予定が固まっているウマ娘たちの中には“可能性世界”においては出走するはずではなかった者も交じっている。他ならぬアグネスタキオンも“可能性世界”においては、昨年の皐月賞を最後に引退していたはずと考えられるのだ。
歓声が聞こえず、レース決着後も静寂に包まれる現象が、より恐ろしい結末の予兆であるとすれば……可能性世界での既定から外れた経緯を辿るウマ娘は、世界からその存在を否定され、いずれ消滅させられてしまうのでは……。
今のところ、全く確証を得るすべもない仮説の連続。
むろん、最小限の説明でサイレンススズカに全て伝わるはずもなかったが、彼女は何かを掴んだように立ち上がった。
「……タキオンさんは、ずっと悩み続けているのね。これだけおかしなことが実際に起きていたら、不安にならないはずもないもの。」
「これまでも極力、不安要素を払拭するため様々なウマ娘と協議を重ねているんだがねぇ。この世界の現実性を疑う確証は、以前から徐々に強まりつつあるのも事実なんだ。トレーナーくんを実験台にした際も、現実では考え難い結果が得られたこともあったからねぇ。」
「あぁ、あの時の、俺の身体が光り出した実験か。また再び確かめたくはないが……スズカさん?どこへ……」
あまり思い出したくない実験のことを口にしつつも、鷹木は部屋の奥へと去っていったスズカの背を追う。
彼女が時間を無駄にすることなどない。
まもなく、リビングの面々の元へと戻ってきたサイレンススズカは、エプロンを既に脱ぎ、新しいスポーツタオルを首にかけ、ランニング用の運動着へと着替えていた。
「タキオンさん。ちょっと外に出て、一緒に走りましょう。」
「……え?い、今から、かい?」
「そう、今から。私の経験をもとに、あなたの悩みを解決できたらよかったのだけれど、難しいことを考え続けるのは私、苦手でね。ほら、あなたのトレーナーさんも、準備してくれているみたいじゃない?」
スズカは言いながら、ソファの背もたれの向こうに鷹木が担いできた大荷物が置かれている様へと視線を向ける。
……確かに、鷹木は準備をしてきていた。サイレンススズカに会いに行く際の心得について、先輩トレーナーや理事長にアドバイスを貰いに行き「彼女は唐突に走り出すかもしれない」との助言を受けていたためだ。
今は私服姿のタキオンとミラ子であったが、それぞれの運動着、蹄鉄を打ってあるシューズ、替えの蹄鉄まですべて揃えて、荷物の中に入れて鷹木は担いできたのである。
タキオンはなおも戸惑いを表情に残していたが、すでにサイレンススズカはすっかり乗り気であった。
「どんな難しい悩みも、走ればきっと解決するわ。ウマ娘同士、言葉よりも走りを交わした方が、ずっと深く分かりあえるはず。」
「し、しかし、スズカ先輩と私が一緒に走る、というのは……」
「構わないわ。もう、私の足の怪我は完全に治っているもの。夫にも、ときどき私が本気で走っていることは伝えているし。」
むろん、この住宅街の中では、ウォーミングアップも兼ねたジョギング程度の走りに抑えられるだろう。
だが、ウマ娘が並んで、蹄鉄の音を響かせ、走るということ。それはすなわち併走、競走をすることに他ならない。丁度良くか悪くか、このマンションの程近くには、ウマ娘でも十分に走り抜けられる距離の河原がある。
他の我慢強いウマ娘ならばまだしも、サイレンススズカとアグネスタキオンは、ひとたび競走となれば、どうしようもなく走らずにはいられない類のウマ娘であった。その予感は、互いに伝わりあっていたのだろう。一度走りだせば、ウォーミングアップだけで気が済むはずがない、と。
現役のアグネスタキオンと、既に引退して6年経過したサイレンススズカ。ほぼ本気に近い競走になってしまっても良いものか、との躊躇いがタキオンの表情には浮かんでいた。
が……スズカが付け足した言葉は、その躊躇を一蹴した。
「それとも、私に勝てるつもりでいるの?……アグネスタキオン。」
「……ほう……大先輩にそこまで言わせてしまっては、走らぬわけにはいかないねぇ……。」
一気に表情が引き締まったアグネスタキオンは、スッと立ち上がる。そのまま鷹木の了承を得る前に、彼が担いできたバッグをガバと開けて、中身を漁り始めた。
やる気満々になった先輩たちをチラチラと見ながら、ヒシミラクルはお茶菓子をモソモソと貪っていたが、勢い任せに取り出した体操着のパンツをタキオンから顔にぶつけられて咳き込んだ。
「ぶほっ!?ほっふ、な、なんれふか、まだおかひたぇてるとひゅうなんれふけど」
「キミも来るんだ、ヒシミラクルくん!他でもない、かのサイレンススズカと併走する好機などそうそう得られるものではないからねぇ!むろんスズカ先輩も了承してくれることと思うが……」
「えぇ、ヒシミラクルさんも一緒に走りましょう。今年の菊花賞で見せてくれたロングスパート、私との間合いをどの程度縮められるか、見ものね。着替えなら、奥の部屋を使ってもらっていいわ。」
まるで反芻するかのごとく、未練がましく茶菓子をモゴモゴと咀嚼していたヒシミラクルであったが、体操用ジャージを手にさっさと着替えに向かうタキオンの背を見せられ、観念したようにお茶で飲み込んだ。
一方、先輩トレーナーたちから警告されていたはずの鷹木は、想定以上の唐突さで走りを提案したスズカの言動に唖然とし続けるばかりであった。
とはいえ、この併走がタキオンの持ち込んだ懸案を解決し得るか否かはさておき、現世代のウマ娘としてはこの上なく貴重な瞬間を迎えつつあることは紛れもない事実ではあった。