運動用ジャージへの着替えを終えて、部屋から出てきたアグネスタキオンとヒシミラクル。
ふたりが準備万端であることを見てとるや否や、マンションのエントランスの外で待っていたサイレンススズカは駆け出した。溜まりに溜まっていた走る欲求に耐えかねたように、言葉を交わす時間も惜しんでのスタートであった。
ウォーミングアップがてらの小走りとはいえ、現役時代からの衰えをまるで感じさせない軽やかな加速。本気には程遠い走りでありながら尋常ならざる能力が垣間見え、目を瞠ったタキオンは自らも足を急がせスズカと肩を並べた。
「先に確認しておきたいんだがスズカ先輩、マンションの部屋のカギは掛けなくて良いのかい?部屋を最後に出たのが私とヒシミラクルくんなのだから……。」
「大丈夫、オートロックだから。私が、いつでもすぐ外へ走りに行けるように。」
「なるほどねぇ、生涯を走りに捧げる姿勢が、住処選びから優先されているのだねぇ。」
思い立ってから1分とかからずランニング用の恰好に着替えてきた先ほどの振る舞いといい、サイレンススズカは今もなお走ることを生活の中心に置き続けているようだった。
このジョギングでも、既にウォーミングアップにしては結構な速度が出ている。
スロースタートなヒシミラクルの蹄音がかなり遅れて背後に聞こえてもいたが、まもなく前方から鷹木の姿が近づいてきたことからもそれは知れた。
「おや、トレーナーくんがどこに行ったのかと思ったら、先んじて部屋を出ていたのだねぇ。」
「えぇ、私たちが併走する予定の河原、先に場所だけ教えて出発してもらっていたの。けれど、もう私たちが追いついちゃったわね。」
「脚を動かしたまえよトレーナーくん!あまり遅れられると、キミの到着を待たずしてスズカ先輩との併走を開始してしまうかもしれないねぇ!」
「お、おう、わかった、俺も、急ぐ、から、ゼェ、ヒィ、ハァ……!」
喋っている間に、鷹木はあっという間にスズカとタキオンに追い越され、ついでに遅れて走っているミラ子にも肩をポンと叩かれてから追い抜かれている。
鷹木なりに急いではいたのか、既に息が切れかけていた様子ではあったが、ウマ娘界の中でも間違いなくトップクラスの脚を有する面々を相手にしては、いかに先んじてスタートしていたところで差など無いも同然であった。
そもそも、人間の脚では、仮にジョギング程度の速度であってもウマ娘の速力に及ぶべくもない。はるか後方へ遠ざかっていった鷹木のこともタキオンは気にせず、スズカと喋り続ける。
「この先にある河原で併走するとのことだが、スズカ先輩もその場所でいつも走っているのかい?」
「そうね、ちょっと本気で走りたくなった時は、だいたい行くわね。他にもウマ娘専用レーンとか、ウマ娘用のトレーニング施設もあるけれど……そんな場所で私が走りはじめたら、本当に練習したい子たちが遠慮し始めちゃうから。」
「確かにねぇ、かのサイレンススズカが現れた、となれば一斉にコースが空くのは想像に容易いねぇ。」
あまりにも名が売れたウマ娘であるが故の悩みであった。
他にも、完全予約制のトレーニング設備にて走るという手段はあるが、いつでも自分が思い立った時に走るというスズカの性分には合わないだろう。その点でも、いつでも周囲を気にせず走りに行ける河原が近い、この場所がスズカの住処として最適なのだ。
とはいえ今まさに、特に顔を隠してもいないサイレンススズカが街をジョギングしているというのに、道行く人々はいちいち驚いたり騒いだりしなかった。
「ここいらの地元住民は、スズカ先輩がひとっ走りしに行く姿も見慣れているのかねぇ。」
「きっと、そうね。おかげで、気兼ねなく毎日走っていられるわ。」
それは地元住民たちが見慣れているがゆえでもあり、個々人の配慮の結果でもあったろう。街に出るたびに騒がれ、逐一人だかりに囲まれるような日常など、引退後のウマ娘の生活として望ましくはない。
一方でアグネスタキオンは、自分もまた変装もせず運動用ジャージ姿で走っているにもかかわらず、大して騒がれていないことが気にかかった。
むろん、タキオンが功名心や虚栄心のために声援を求めるようなことはない。ただ、自分たちよりもずっと後方を走っていたヒシミラクルが……打って変わってあちこちからの注意を引き、無数の声援を浴びている状況との差があまりに目立ったのだ。
「あっ!ヒシミラクルじゃん!」
「ミラ子だ!ミラ子!トレーニング中かな?」
「有馬記念、頑張れよー!」
「やー、どうもどうも、あははぁ、どうも応援ありがとうございます、いやはや照れますねぇ、こんな注目されちゃうと。」
へらへらと浮かれて返答しているミラ子の声を背後に聞きつつも、タキオンは口には出さぬままにまたも新たな憶測を巡らせていた。
タキオン自身、可能性世界では皐月賞を最後に引退したことがほぼ確実なのだ。現実世界への干渉が影響していれば、シニア級の冬に近付きつつある今のタキオンは本来、表舞台に出てこないはずと認識されかねないウマ娘である。
であればこそ、先月の天皇賞秋においてはタキオンが勝てそうな状況で歓声が湧き起こらなかったし、今こうして街の中を歩いていても存在感に気づかれづらいのではなかろうか。かたやヒシミラクルはといえば、来年のシニア級での活躍も控えているし、現状でも十分すぎるほどに存在を世間に認知されている。
翻って、6年前の秋の天皇賞で実際に引退しているサイレンススズカともなれば、なおさら……可能性世界の認識が現実へと混入することで“今、存在するはずのないウマ娘”として扱われているのではあるまいか……。
「ついたわ、ここよ。」
込み入り始めたタキオンの思考を、簡潔なスズカの言葉がすっぱりと中断させた。
短い階段をのぼって土手の上に出れば、広々とした河原が広がっていた。昼下がりの陽射しを反射してきらめく川面の手前、綺麗に刈り揃えられた草地の面を初冬の乾いた風が撫でている。
雑草が伸び放題になっていては、草が絡まることが原因となる転倒のリスクも避けがたいのだが、この街では丁寧に管理されているらしかった。……あるいは、毎日スズカが踏みしめて走った結果、かもしれないが。
呼吸を一つ整え、タキオンは口を開く。ともすれば煩雑な迷路と化しがちなタキオンの思考を、綺麗に溶かしきってしまうほど、この場の空気は澄み切っていた。
「……ウマ娘が走る上では、理想的な環境だねぇ。丈の低い草しか生えていないから視界も良好、常に川面からの風が渡り続けているおかげで湿度も適切に保たれているねぇ。ウマ娘が練習するための広大な土地など期待するべくもない都会とはいえ、探せばこのような場所があるものだねぇ。」
「条件は日によってまちまちだから、精密なタイム計測をするトレーニングには向かないけれどね。でも、ここは、私の夢に一番近い場所。」
大きく背伸びをして空気を吸い込み、そして足を僅かでも止めている時間が惜しいかのように、軽やかに草地の斜面を駆け下りていくスズカ。
タキオンもまた、スズカに続いて草地へと駆け出していく。
ここに来た目的や、この状況に至った経緯は確かにあったのだが、それらは今タキオンの意識の上に残っていなかった。理屈や説明なくとも、この草地の上を駆けることはごく自然に体が選択する行為であった。
「あぁ、芝の匂い、大好き。この場所、私がつい走りに来たくなるのも、分かるでしょ?……でも、やっぱりどこか物足りなかった。」
「ほう?スズカ先輩も、歓声が響かなければ張り合いがないと感じることがあるのかい?」
「ちがうわ。」
タキオンの問いに、あっさりと返答したスズカは一旦口を噤み、視線をチラと返す。
彼女が何を言おうとしているのか、言葉なくとも伝わってきていた。スズカの目つきは、既に引退した物腰柔らかな先輩のものではなく、異次元の逃亡者が後続を置き去る際に残す一瞥と化していたのだ。
「私が好きなのは、『先頭の景色』だから。」
「なるほどねぇ、二着以降のウマ娘が居なければ、先頭とは言えないねぇ。しかし今日の場合は、この私、アグネスタキオンより前でゴールするという前提が必要だがねぇ。」
「十分よ。今の現役世代の子たちの実力も知りたいし……ヒシミラクルさんも到着したかしら。」
振り返ったスズカとタキオンは、遅れて現れたミラ子の姿を見た。相変わらず、おくれて追ってくるものの、息切れや消耗とは無縁であるかのようにケロリとした顔つきである。
が、そんなことよりミラ子の背後では、既に予想外の状況が引き起こされていた。
先ほど、道中で街の人々から声を掛けられていたミラ子は、いちいち声援に返事をしているうちに自然と住民たちと親睦を深めていったのだろう。商店街を抜ける頃には、気づけば何十人もの買い物客、はては店をいったん閉めてきたのだろう店の店主まで、大勢の住民を引き連れて現れたのだ。
おまけに、貰えるものならとりあえず貰っておく精神の賜物か、ミラ子の両腕にはスナック菓子やジュースの類が、持てる限界近くまで抱え込まれていた。
「いやーお待たせしてスミマセン、スズカ先輩、タキオン先輩。いろんな人と仲良くなっちゃいまして……あったかい街ですねぇ、この場所は。」
「まったく、ヒシミラクルくん。まずはその両腕に抱えているジャンクフードの類を置きたまえ、来月の有馬記念に向けて担当ウマ娘のカロリー計算に勤しんでいるトレーナーくんが見たら、卒倒しかねない光景だねぇ!」
「まーでも、ちょっとぐらいならノーカンじゃないですか?といっても、今からスズカ先輩と走るわけですし、とりあえずどこに置きましょ……。」
そう呟きつつヒシミラクルが抱えた菓子類やジュース類を手にキョロキョロするだけで、背後の住民たちの群れからは業務用のカゴやパレットなどが、何やかやと差しだされる。
この短時間で、すっかり街の住民たちと馴染んでしまったヒシミラクル。先ほどタキオンが思い描いた憶測が原因であったかもしれないが、それ以上にミラ子生来の性質が周囲からの親愛を引き付けてやまないのかもしれなかった。
大幅に遅れた鷹木が、息を切らして汗をダラダラ流しながら現れた頃には、土手にはずらりと地元住民たちが並び、あるいはゴザを敷いて座り込み、これから始まる世代違いのウマ娘たちの併走を観戦する場がすっかり整っていた。
「ハァ、ハァ、ゼェ……こ、この状況は……いったい……?」
「遅いですよー、トレーナーさん。せっかく集まってくれた観客の皆さんをお待たせしちゃ悪いですって。」
ヒシミラクルから急かされつつ、汗を拭きながら鷹木は面食らった様子で周囲を見回す。
トレーナーが到着し次第、併走練習を開始するとの周知は既に為されていたのであろう。突発的に集まっただけの地元住民たちからも、いよいよサイレンススズカ、アグネスタキオン、ヒシミラクルによるゲリラレース開始を歓待する声々があがった。
「か、観客……!?この併走、スズカさんがついさっき思い付いただけで、別に宣伝も何もしてないよな……。」
「そうとも、これは正規のレースではないから観客が集まる想定は本来なかったねぇ。しかしヒシミラクルくんが場の成り行きで見物人を集めてしまったのだから仕方ないねぇ、さっさとスタート合図を出す準備をしたまえ!」
「わ、わかった……ちょっと待て……なんだ、この大量のスナック菓子やジュースの山は……?」
「それもヒシミラクルくんが住民の方々からのご厚意で頂いてきてしまったものだねぇ!レースに向けて調整すべき時期にバクバク食うわけにもいかないが、せっかくのファンからの差し入れを無下にするわけにもいかないから少々弱っているねぇ!」
見物人たちの群れの前には、まるでお布施を受け取る場所であるかのようにカゴが並べられ、そこに駄菓子や清涼飲料の類が次々に入れられているのであった。
この現状を呑み込み切れていない鷹木であったが、想定外の見物客からの期待の眼差しもあり、また既にスタート位置に立っているスズカが待ちきれない様子になっていることもあり、ともあれストップウォッチを手に河原のコースへと駆け下りて行った。
とはいえ、そもそも本式の練習用コースではなく、ただ河原の上を駆けていくだけのコース。むろん初めて目にする練習場所を前にして、鷹木はスズカへ尋ねるしかなかった。
「いつも、ここで走る際、距離やコース条件は、どう設定しているんですか?あるいは、特に決めずに走っているとか……?」
「あの橋脚をぐるっと回るところを、3,4コーナーに見立てて、こっちに戻ってくるの。片道1000mだから、往復でちょうど2000mになるわ。見ている人たちにも、分かりやすいでしょう?」
スズカは殆ど間を置かず、すっと前方の橋脚を指さして鷹木へ答えた。
人間の視力では、ほとんど霞んで見えるほどに遠い、国道の橋。サイレンススズカは、コーナー部分も含めて半分の距離がちょうど1000mになる位置に、スタート位置の目印として地面に溝を刻んでいた。
往復して、2000mの距離。スズカが引退する怪我を引き起こした秋の天皇賞も、東京レース場芝2000m。即興で測れる距離ではない以上、普段からずっと意識して走っているものと思われた。
タキオンとヒシミラクルも、ジャージの上着を鷹木へと預け、準備万端の様子でスタート位置にならんだ。
「住民の方々とともにノンビリ歩いてきたのが十分なウォーミングアップになっているのかい?ヒシミラクルくん。しかし、ここに戻ってくれば山のような駄菓子やジュースが待っていると思えば、脚は速まるかもしれないねぇ。」
「もー、私のこと、何だと思ってんですか。まぁ、否定はできませんけど。」
軽口を叩き合っているタキオンとミラ子の隣で、スズカはただ静かな眼差しで、真っすぐに草原を見つめていた。
どこまでも続くかのような、芝の長い直線。東京レース場の直線との一番の違いは何万人もの観衆による大歓声の有無であったが、しかしこの場にも既に百人近い地元住民は集まっていた。
彼らの喧騒が最高潮に達するころ、全員の衣服や靴の状態が万全であることを確認した鷹木はスタートの合図を出した。
「では、位置について……用意、スタート!」
ゲート音はもちろん鳴らないが、ウマ娘たちが駆けだしていくと同時に見物客の群れからは、「おおっ!」とどよめきが沸き立った。
そも、一般の観客は、仮にレース場での観戦の機会を得たとしても、そうそう近くでウマ娘レースのスタートを見られるわけではない。ゲートの目の前にある観戦席は人気が集中するし、そもそも観客席からターフ上までは幾重ものフェンスで仕切られている。
それ故に、合図の瞬間、前方の空間そのものを瞬時に圧縮するかのごとき勢いで驀進していく、ウマ娘のスタートダッシュの迫力に初めて触れた見物人ばかりだったのだ。
「……異次元だ……本当に。」
鷹木はといえば、普段からトレーナーとして間近でウマ娘たちの走りを見てきたのだから、いい加減見慣れてはいたのだが……しかしサイレンススズカは尚も別格であった。
スタートから100mも使わず、スズカはタキオンよりも1バ身ほど先に出ていた。タキオンはそもそも、他ならぬ鷹木、これまで3年を共にした担当トレーナーがスタートの合図を出すわけだから、タイミングを見計らう点ではかなり有利だったはずである。
タキオン自身、スズカの逃げを間近で堪能したいという意図もあっただろうが、それでもほぼ理想そのものなスタートタイミングを得て、即座に1バ身の間合いをつけられるのは、これまでのタキオンのレースではまず無い状況だった。
ヒシミラクルもまた、慣れ親しんだ鷹木によるスタート合図タイミングが分かりやすい恩恵は受けていたが、流石にスズカやタキオンからは数バ身引き離されてついていくのが精一杯の様子だった。
土手の上に集まった地元住民たちからは、やんやと喝采が飛ばされる。そのほとんどが、ヒシミラクルに対するものであった。
「行けーっ!ミラ子ーっ!」
「離されてんなよー!まくっていけー!」
「前、詰めとけ!詰めとけー!」
ファンの大多数にとっては、ヒシミラクルは序盤から急かしていかなければエンジンの掛かりが遅い、という認識がほぼ共通しているのだろう。
担当トレーナーたる鷹木としては、ひたすら前を目指させる段階は既に越え、今後は競走相手が足を緩めていることに気づいたり、有利な位置に出られるコース取りを意識したり、賢さや技術に関する能力を伸ばしていきたいと考える段階であった。
……が、みるみるうちにリードを広げていくサイレンススズカの走りを前にしてしまうと、小手先の技術ではとても捉えきれない能力差が明瞭となった。
彼女が引退したのが6年前のことだ、などとはとても信じられないほどに、現役時代と変わらぬ走力が示されていた。
「と言っても、このコースはトレーナー泣かせだな……。」
鷹木は目を凝らして、はるか向こう、巻き上げられる雑草の切れや砂埃に煙る中へと遠ざかっていくウマ娘たちの背を見つめ、呟く。
そう、河原を一直線に遠ざかっていき、1000m地点で折り返してこちらへ戻ってくるというコース構成は、どの程度の間合いで各ウマ娘たちが走っているか、把握しづらいのだ。
スタートしてすぐであれば間合いの把握は可能だが、遠ざかれば遠ざかるほど、人間の視力では豆粒ほどにしか見えないウマ娘の位置関係やコース取りを詳細に確認することは困難になる。
「ドローンでも使って撮影しないと、現実的にトレーニングとしては使えないな……それも、モータースポーツ用の高速ドローンじゃないと。」
目を凝らして遠方の折り返し地点を見つめている鷹木。
タイムが1分未満の段階で、スズカ、そしてタキオンが折り返しの目印となる橋脚をぐるりと回るコースに入ったのが見えた。現役GⅠレースの中でもかなりの高速タイム、やはりサイレンススズカの能力に衰えは無い。
土手に腰掛けている見物客の中には、趣味用の小さな双眼鏡を持ち込んでいる老人もおり、彼が双眼鏡を覗き込みながら喋る言葉を聞こうとする人だかりが出来ていた。
「おぉ、スズカさんが一番、さすがはスズカさんだのぅ。」
「いやでもこっからだろ、タキオンが加速してくるのは!」
「ミラ子そろそろ本気出せ!絶対余裕残してるだろ!」
見物人の群れから上がる声々は、ヒシミラクルに向けての激励ばかりではなく、サイレンススズカやアグネスタキオンに対する声援も増えてきていた。
それは聞いている鷹木の気のせいばかりではなく、実際に人々の関心の対象が、走っているウマ娘全員に広がっていることの表れだったかもしれない。
6年前に引退したサイレンススズカ、そして昨年の皐月賞で引退していたかもしれないアグネスタキオン。彼女らの走り、存在感を、観衆たちの昂揚によって否応なしに現実世界へ認めさせているかのようでもあった。
「タキオン、あんまりここで脚を消耗してほしくはないんだが……完璧に末脚を発揮したら、サイレンススズカを差し切れる……か!?」
目に見えて速力を上げ、こちらへと駆け戻ってくるウマ娘たちの姿を前にして、鷹木の動悸も増していた。
今まさに走っているアグネスタキオンも、同じことを思っているだろう。現役時代のサイレンススズカと競争することは実現し得ない夢だったが、今まさに現役時代と比べて遜色ない身体能力のスズカ自身が、目の前に居る。
あの伝説、異次元の逃亡者、その背に追いつく……ばかりか、並ぶことが出来る……!
(ここでスズカ先輩を差し切ることは、ウマ娘としての限界を超えることとほぼ同義だねぇ。その先に、何が見えるのだろうねぇ?)
サイレンススズカが誰にも譲らなかった、先頭の景色。それは今なお、何者にも奪われぬ至宝であった。
しかし、せめて彼女の傍らで、視野を半分でも占めることが出来るのは……尋常の存在に収まることを良しとせず、我が身が砕けるリスクを負ってもなお、実現し得る最高速を只管に追求するウマ娘だけ。
並び来たアグネスタキオンに、スズカから獰猛な喜ばしさが伝わってきた。
(……だが、まだ私には、行くべきレース場が残っている。そうだろう、トレーナーくん。)
タキオンは、スズカとほぼ並び……だが、僅かにスズカのハナ先を捉えることなく、ゴールラインを駆け抜けた。
ストップウォッチを押した鷹木には風切り音が遅れて聞こえるほどに、彼女らの最高速は生物としての限界に既に達していた。
超光速の粒子にすら先頭を譲らぬほど、“逃げて差す”サイレンススズカは別格の存在であった。
「ゴール!!……ミラ子もゴール!よくここまで間合いを詰められたな、最後!」
以前、ダンツフレームと練習した時とほぼ同じ文言で、鷹木はミラ子の走りを讃える。さすがに距離2000m、異次元の速力で駆け抜けていく先輩二人を前に、ミラ子は明瞭な差がつけられてしまっていた。
それでも、今年の初秋まで条件戦を繰り返していたウマ娘が、スズカやタキオンに数バ身差まで近づけたのは大きすぎる成長であった。
「ふぃー、さすがに、こんな凄まじい先輩方についていくとなると、私も息切れしますねぇ。ジュース飲んでいいですか、こんだけいっぱい貰ったんだし。」
「待て、ダメだ、用意してきたスポーツドリンクにするんだ。ホントに息切れしていたら、走り終えた直後にそんな喋れないだろう。」
相変わらずの調子なヒシミラクルとは別に、サイレンススズカとアグネスタキオンは並んで減速していく。
意識がレースの世界から戻ってきた時、彼女らは自分たちを包んでいる歓声と拍手を聞いた。
それは十万人以上が集まるレース場ほどの規模には遥か及ばぬものの、地元商店街のあちこちから百人を超える住民が集まり、河原を見下ろす土手の上からやんやと喝采を送っていた。
「久々に本気で走ったんじゃないかー!スズカさーん!」
「流石に余裕残してられなかっただろ、タキオン!」
「こんな場所で人知れずレースしていいワケないだろ、アンタたちが!」
間違いなく、ヒシミラクルに対してだけではない、サイレンススズカにもアグネスタキオンにも向けられた視線や声。
タキオンは、確かにここに来た本来の目的、抱えてきた懸念の一部が、ややこしい言葉や思索を介さずして、ある程度は解消されたのを感じていた。
「……本来、可能性世界では決して実現し得なかった組み合わせだろうねぇ、この併走は。サイレンススズカと、アグネスタキオンと、ヒシミラクルが並んで走るなど、この世界でしかありえない光景のはずだねぇ。それが、突発的に集まった見物人たちにとはいえ、これだけ強く認識され、印象に刻まれるとは……無駄に注目を集める契機となった、ヒシミラクルくんのおかげでもあるかねぇ。」
「目立つつもりは無かったのだけれど、こんなに応援されちゃうだなんてね。」
サイレンススズカは頷きながらタキオンの傍へやってくる。頷いているとはいえ、タキオンがごちゃごちゃと喋っている理屈をスズカが理解しているわけではない。
ただ、共にほぼ全力で競い合ったウマ娘同士、思いの通じ合う部分は大きかったのだ。
「本当に貴重な機会を戴けて、感謝するよ、スズカ先輩。我々ウマ娘の走りは、可能性に無かった現象に感動を生み、数多の第三者たちの認識にしっかり刻まれることが出来ると、確認できたねぇ。」
「私はただ、走っただけなのだけれど……お役に立てたのなら何よりね。」
「あぁ、それから、もうひとつ。引退後のウマ娘が、さして身体能力を衰えさせるわけではないということも確認できたねぇ。スズカ先輩の場合、元の能力が高すぎるのも影響しているかもしれないがねぇ。」
「引退したって、走りをやめるつもりはないのだもの、当然よ。」
スズカの笑みを受け取って、タキオンはいつになく目を輝かせていた。
間もなく、有馬記念の12月が訪れる。可能性世界からの干渉、引き起こされる異変が明瞭となっていく中でありつつも、この世界での選択を確かに存在させるために出来る事は、ひとつひとつ積み上げられていた。