今年度の新入ウマ娘たちが来た入学式の日からまだ3日目ではあったが、トレセン学園へ出勤するたびどんな騒動が巻き起こることかと警戒する癖が、既に鷹木には身についていた。
あれこれと騒ぎを引き起こす顔ぶれが大人しく教室に収まって授業を受けている姿自体を想像できなかったし、自分の担当ウマ娘と決まったアグネスタキオンについてはいよいよ行動予測が一切立てられない。
「……なんだ、あれは?」
ゆえに、トレセン学園の裏手を経由して練習グラウンドへと上がる階段の下に、鮮やかな緑色に着色された無数のゴムボールが転がっている光景を目にした時、鷹木はその場へとしばらく近づくことができなかった。
以前までであれば、例えば練習のために用意したボールを誰かが運搬する最中、うっかり落としてしまったのかもしれないと考えることも出来た。
が、それにしては誰も拾い集める者はいない。そもそもこの場には、自分以外に誰も居ない。今頃は、ウマ娘たちは授業を受けている時間のはずであり、当然と言えば当然ではあるが。
「あんなにボールが散らかった状況、誰が放っていったんだ。トレーナーとして、俺が片付けておく……べきだよな。階段の上で、誰かがボールを踏みつけて転ぶようなことがあれば一大事だ。」
そう自分に言い聞かせておきながらも、鷹木はボールの散乱する現場に足を踏み出すまでさらに数秒を要した。
あのアグネスタキオンの仕業かもしれない、という憶測はほぼ必然的に立ち、そう考えればますます目の前の光景は不穏であった。
とはいえ、いずれにせよ目の前の階段を上がらないことには、自分の仕事場所にも行けない。無数のゴムボールを回収するには自分の腕だけで抱えるわけにもいかず、カゴか何かを持ってくるためにも、一旦は目の前の警戒ゾーンを抜けなければならないのだ。
改めて念入りに周辺を見回し、特に例のアグネスタキオンと思しき白衣が視界の端にでも映らないかと確認し、ようやく鷹木は一歩踏み出した。
「よ、よし、行くか。」
何もそう一大決心する必要のあるほどのことじゃない、ただボールを踏まないように気を付けながら階段を上がっていくだけだ。
学園の敷地内をただ移動するだけのことで何をビクつく必要がある、ウマ娘レースの本番へ向かう時以上に緊張することがあるか……などと自問自答を続けながら一段一段足を踏み出していく鷹木。
しかし、鷹木の警戒は外れておらず、抱いた不安は決して杞憂ではなかった。
ゴトン、と重いものが倒されるような音が階段の上で響き、直後、鮮やかな赤色に塗られたゴムボールが大量に転がり落ちてくる。
階段や脇の手すりにぶつかって不規則に跳ねるそれらは、真っ赤な雪崩のように鷹木へ襲い掛かった。
「う、うわあぁあっ!?」
ひとつひとつは軽いだろうが、あまりの量がまとめてなだれ落ちてくる様にはその色も相まって、かなりの迫力が伴われていた。
鷹木が咄嗟の判断を下せず、予想外の出来事を前にして足がすくんでしまう性質であったことは、幸運に働いた。万が一、たった今登りかけていた階段を慌てて駆け下りようとしていては、たちまちボールを踏んづけて転倒し、怪我をしていたかもしれない。
結果的に、鷹木は階段の手すりに縋りついた格好のまま、無数のゴムボールで全身を打たれるに任せるのみであった。
ようやく大量のボールの雪崩が収まった様子におそるおそる目を開けば、階段の一番上にはウマ娘の姿があった。彼女が、丈の長すぎる白衣を身に着けていること、すなわちアグネスタキオンであることは、もはや確認するまでもなく分かり切った話であった。
「ふぅん?干渉は物理的な要因に留まったようだねえ。だが、試行回数が不足していたための結果とも取れる、1度目の実験結果との比較は慎重に行われなければならない。」
「な、なにを、言ってるんだ?」
ようやっとそれだけを口に出来た鷹木からの問いかけには答えず、アグネスタキオンはスマホを構えながら階段を駆け下りてくる。
どうやら、スマホのカメラでボールが散乱した後の状態を撮影記録することを優先していたようだが、自分の脇を抜けようとしたタキオンの腕を慌てて掴み、鷹木は引き留めた。
「ちょっと、待て!」
「何だい、私はこの実験の記録を急がなければならないんだ。他のウマ娘やトレセン学園スタッフに目撃されては、実験結果が純粋な物ではなくなってしまうじゃないか。」
「いや、その、いろいろ言いたいことはあるが、まずはスマホを構えながら降りるんじゃない。階段の途中に残ったボールもある、踏んだら転んでしまうだろ。」
相対するタキオンの目には、意外そうな色が浮かんだ。てっきり、今の行動を単なるイタズラとして咎められるのみだと思っていたのだろう。
担当トレーナーとしては、当然の発言ではあったが。これからトレセン学園での日々が始まるという時に、階段を転げ落ちて怪我をしかねないような危険は冒させない。
タキオンがスマホを一旦ポケットにしまったのを見て、鷹木は手を離した。
白衣と制服越しとはいえ、タキオンの腕がウマ娘の中ではあまりに細く、華奢な構造であるという印象は、彼の掌の中に強く残った。
「なるほど、気遣ってくれたのか。たしかに理に適った指摘だ、ここで私が骨折してしまっては、今後予定している実験の実施に支障が出てしまう。」
「いや、トレーニングの実施の方を気にかけてもらいたいんだが。それよりも、ここで何をしているんだ、今はまだ教室での授業時間中じゃないのか。」
実践レースにて一定以上の戦績を上げたウマ娘は、本格的にレースの道へ突入するため、スケジュールはトレーニング優先となり、受けるべき授業はその空き時間に入れられる場合が多い。
だが、いくらなんでも入学して間もない頃に、そのような扱いを受けるウマ娘はいない。すくなくともアグネスタキオンの担当トレーナーとなった鷹木には、彼女が従来通りのトレセン学園生として扱われるとしてしか話が来ていない。
ゆえに、今ここにアグネスタキオンが居るということはサボり以外の何物でもなかったのだが、当のタキオンは平然と言い返した。
「そうとも、ほぼ全てのウマ娘は授業の行われる教室に居る。だから都合がいいんじゃないか、この場所を往来する者が居ない時間帯は。観測者が自ずから限定されるだろう?」
「か、観測者?」
「ごらんよ、私が階段の上から転がした大量のボールが、どこへ転がりついたかの分布を。」
タキオンが指さす先、階段の下へと鷹木も視線を向ける。
最初に散乱していた緑色のボールに、つい先ほどなだれ落ちてきた赤色のボールがまざって転がっている。大抵は通路の側溝に入り込んだり、敷地を仕切るフェンスに引っ掛かったりして止まっており、特筆すべき現象が起きているようには見えない。
鷹木は早いところタキオンの話を終わらせて、さっさとこの状況を片付けたいと考え始めていた。もしもこの場を理事長に見られたら、自分もタキオンのイタズラに加担したと思われるのではないかという懸念の方が膨れ上がりつつあった。
「あれが、どうかしたのか?ただ散らかっているだけにしか見えないが。」
「分からないかい?緑色のボールは、まだこの場に誰も居ない時、私が階段の上から一斉に転がしたものだ。私も、転がっていくボールの行方を見ていない。すなわち、観測者が皆無の状況で進行した事象なのさ。」
「じゃあ、さっきの赤いボールは……?」
「数秒前にトレーナー君自身が経験した通り、鷹木トレーナーという観測者の干渉を得て階段の上から転がしたボール群だとも。散乱するパターンに何らかの変化が見いだせるかと思ったのだが……。」
タキオンからの説明を受けて、改めて階段の下に転がっている無数のボールの有様を見回しても、鷹木の目には単に散らかっているだけのようにしか見えない。
この光景を前にして、鷹木が示せるのは学園の他のスタッフに見つかる前にサッサと片付けるべきだという提案だけであった。
一方で、アグネスタキオンは自らの顎先に軽く指をあてて、興味深げにじっくりと眺め渡している。
「ふぅむ、鷹木トレーナーの身体にぶつかってしまうという物理的干渉が目立つことに変わりはないが、よくよく見てみればボール同士の相互干渉による影響が薄まっているようにも思われるね。いや、鷹木トレーナーは手すりにしがみついていたため、彼の背後で起きている事象は観測されていなかった、と取るべきか?」
「なぁ、そろそろ片付けを始めたほうがいいんじゃないか。今なら誰にも見つかってないし、叱られる心配もないし……」
そもそも授業時間中に教室に居ないことをも含めて、タキオンを叱らなければならない立場に鷹木トレーナーは本来居るはずなのだが、それでも叱られる側の立場で物事を考えてしまうのが彼であった。
少なくとも階段の途中に残っているボールは危険なため、それだけは拾っておこうと手を伸ばした鷹木。が、直後にタキオンからの鋭い声が飛んで手を引っ込める。
「待ちたまえ!せっかくの実験結果を無駄にするつもりか!一度私がこういうことをしたと嗅ぎつけられれば、学園からの監視が厳しくなって再試行も難しくなるというのに。」
「分かってるんじゃないか、じゃあ猶更さっさと散らかっているのを片付けるべきだと思わないか。」
「記録が先だ、撮影だけは済ませておかねば。」
タキオンは改めてスマホを取り出し、今度は足を止めた状態であちこちに向けてカメラのシャッター音を響かせる。
鷹木の目からは、何度見直しても盛大なイタズラの痕跡にしか見えないそれを入念に撮影した後、ようやくタキオンは階段の上に置いてあった箱を取って戻ってきた。
彼女から促されるまでもなく、鷹木は手近なボールを拾い集めつつも、誰か他の学園スタッフが通りがからないかとビクつきながら周囲を見回していた。
「時に鷹木トレーナー、君は因果というものを信じるかね?」
「え……?善行を積めば、運も良くなる、みたいな?」
散乱したボールを共に拾い集めている間も、タキオンは喋りたいことが止まらないらしく、鷹木へととめどなく話しかけ続けてくる。
決して親しくなったがためのお喋りではなく、タキオン自身の関心を一方的に押し付けてくるような会話であった。テイエムオペラオーもまた一方的に喋り続けるタイプのウマ娘であったが、あちらは自身の世界観に浸っているがゆえの振る舞いであり、タキオンとはまた別種である。
今しも、鷹木からの返答が期待していた内容と全く異なっていたためか、タキオンは不服そうに眉根に皺を寄せて即座に訂正を入れた。
「違う違う、あくまで科学的に証明できる範囲での話だ。あらゆる物理的な現象が確率的に生じるとすれば、あらゆる試行の結果は測定ごとに完全に異なっているはず。だが、実際には偏りのある結果が観測されるんだ、すなわち未確定であるはずの未来が部分的にせよ既に確定している可能性がある、それが私の言わんとする因果さ。」
「???……そういう、こともあるん……だな?」
タキオンが伝えようとした内容の1%も理解できないまま、鷹木はただ何の確信もない相槌を返すだけで精一杯であった。
とはいえ、アグネスタキオンとしては自分の一方的なお喋りに付き合ってくれる相手さえいればそれで気が済むらしい。丁寧にボールを箱の中へ収めている鷹木の傍ら、ポンポンとボールを箱に投げ込みながらとめどなく喋り続けていた。
「たった今の、階段の上から無数のボールを転がすという実験でも、それを確認したのさ。より詳しい考察を見出すには撮影データの分析を待たねばならないが、例えば、ほら、現時点で回収したボールを見るだけでも色の偏りがあるのは一目瞭然だねぇ。」
確かに、階段の途中にとどまっているゴムボールを優先的に回収した結果、箱の中身は明らかに赤いボールの方が多くなっていた。
緑色のボールが無人の状態で転がしたもの、赤色のボールが鷹木が居る状態で転がしたもの。タキオンに言わせるところの因果が成立するのなら、鷹木がボールの転がってくる様を"観測"した時だけ、階段の一番下まで転がりきったボールが少なかったことになる。
……単に、鷹木の身体にぶつかったことで勢いが弱まったボールが多いだけ、と考える方が自然であったが。
「いいかい、トレーナー君。私は、この世界における偶然や、あるいは一見説明のつかない出来事にこそ、科学的なアプローチによって明らかにされるべき余地が大いにあると踏んでいるのさ。」
「トレーナーとしては、ウマ娘レースで勝つことに意識を向けてほしいものだが……。」
「もちろん、レースでの勝敗にも関係のある話だとも。レース本番には少なからず運の要素が絡んでくる、出走枠やバ場の状態、本番中の対戦相手の走りなど、ね。だが、それらが偶然によってではなく、予め定め得る因子に従ってのことであれば?どうだい、私の研究が勝利を引き寄せる可能性は、大いにあるじゃないか。」
鷹木とて、実際のレースでの走りやすさを少なからず左右する運には大いに悩まされてきた経験がある。もちろん、そんな運を思うがままに出来れば、と考えたことがないわけでもない。
しかし、今、散らかったゴムボールをせっせと拾い集めては箱の中に投げ入れるだけという地味に腰に負担のくる作業が、その研究活動の一環だとはとても現実的に感じられなかった。
タキオンは腕一杯に抱えたゴムボールを乱雑に箱の中に投げ込みながら、改めて鷹木の目を直視しつつ告げる。
「何よりも、鷹木トレーナー。君は特異点の導き手だ。全てのウマ娘は、時に勝ち、時に敗れる。だが稀に、まるで負けることのないウマ娘が現れる。かの世紀末覇王は、その一員だっただろう、時の運とやらもねじ伏せるほどに強かったねぇ。」
「……テイエムオペラオーにだって、全然勝てなかった時期はある。ついでに言うと、彼女に、圧勝はない。いつもギリギリのところで勝っていたんだ。」
ここに来て、ようやく鷹木も面と向かってタキオンへ言い返していた。
難解な理屈にはついていけずとも、自分が担当したウマ娘、今後どれだけトレーナー業を続けようとも決して忘れられぬ覇王、テイエムオペラオーのことについてはハッキリと語ることが出来る。
思いもよらぬ鷹木の真剣さに当てられたタキオンは少し目を見開くが、彼の言い返してきた内容自体は別段予想外でもなかったらしく、小さく頷きながら言葉を返した。
「知っているとも、だからこそ特異点だと言っているのだよ。危ういはずの局面を切り抜けることが幾度もあればこそ、偶然の域までも意のままに操り得たと取ることも出来るじゃないか。さて、私はそろそろ行かねばならないようだねぇ。」
「行くって、どこに?ちょっと待てって、このゴムボールをせめて片付けてから……。」
「授業時間だよ、すぐに教室に戻らねば、ね。」
さっきからずっとそうだったろう、と鷹木が言い返すよりも先に、タキオンは小走りに校舎の方へと駆け出し、すぐに姿が見えなくなった。レースに出走するだけのウマ娘としての脚は、確かに彼女に備わっていた。
そして、細部に至るまで意識を届かせるだけの頭脳も。
赤や緑に着色されたゴムボールが大量に詰め込まれた箱など、入学式早々に騒動を起こしたアグネスタキオンが所持していれば、何に使うつもりなのかとたちまち怪しまれて没収されかねない。
一方で、トレーナーである鷹木が持っていれば、何らかの練習に用いるために用意したのだろうと思われ、廃棄されることもない。鷹木トレーナーが、ウマ娘の所持品を勝手に廃棄するような判断を下せない性格であることも、見抜かれていただろう。
「……こんな大量のボールを持ってるところ、たづなさんにでも見られたらどう答えればいいんだよ……。」
どうにか箱の中に全てのボールを収め終え、抱え上げた鷹木はその重量と比例して重くなる気分を吐き出すように、深い溜息をついた。
アグネスタキオンを担当ウマ娘とする日々は、きっと退屈しないだろうが、不安が更に濃くなったのは事実であった。