トレセン学園に戻って来てからのタキオンは、これまでにも増して生き生きと、そして真剣に練習へと打ち込むようになった。言わずもがな、有馬記念がいよいよ今月に迫っているためでもあるが。
思い返すほどに、あれはあまりにも貴重過ぎる機会であった。6年前に引退した、あのサイレンススズカと併走できるとは……今の現役ウマ娘全員が例外なく羨ましがる体験だろう。
タキオンに同行したおかげで相伴に預かれたヒシミラクルにとってもそれは同様であったろうが、タキオンにとっては更に別な収穫もあったのだ。
「将来というものは見えないが故に、どうしても不安が付きまとってしまうものだからねぇ……ただ観客たちへ、全力で走る姿を見せさえすれば良いという結論は、以前ネオユニヴァースくんと対談した際にも出たのだが、やはり私の中でも信じ切れていなかった部分が残っていたねぇ。」
ヒシミラクルと入れ替わりに練習用コースから戻ってきたタキオンは、休憩エリアのベンチに腰掛けて水分補給ドリンクに口をつけつつ、独り言のように喋った。
以前までは頻発していた、前年度と全く同じレース展開を繰り返す異変は、いったん鳴りを潜めている。が、現在は観客たちの歓声がほぼ聞こえなくなる異変が明瞭となっていた。それが発生するのは、本来この世界に想定されていなかったろう、新たな可能性を辿ったと思しきレース。
11月のジャパンカップにて、エアシャカールの勝利に響き渡るはずの大歓声がほぼ無音であったことが、何よりも分かりやすいシチュエーションであった。
「先日、スズカ先輩と私、そしてヒシミラクルくんが突発的に行った併走、あれこそ既定された可能性には確実にあり得ない状況だった。あんな即興の状況でもなお、道行く人々が集まり、人数相応とはいえ歓声が響いたのだからねぇ。我々のレースが、人々へ与える感動や印象については疑いを持たず、堂々と有馬記念も走りたいねぇ……聞いているかい、トレーナーくん?」
ボソボソと勝手に喋り続けていたタキオンであったが、あまりにも鷹木からの反応が無いため、顔を上げて視線を彼の方へと向ける。
むろん、今は練習コース上に居るヒシミラクルの方へと鷹木の視線は向けられている。……が、彼の表情はあまりにも虚ろであり、走っているミラ子の姿を視野に収めつつ、脳内では別のことを考えているのは明白であった。
「……トレーナーくん。トレーナーくん!」
「はっ!あっ、あ、すまん、タキオン、ちょっと考え事を……いたっ、痛いって。」
多少声を掛けてもこちらに向かない鷹木の注意を惹くため、タキオンは長袖ジャージの裾を使ってぺしぺしと叩いていた。
ウマ娘の力で怪我をさせないための配慮であったが、それでもタキオンは普段から袖の長い勝負服を着慣れているためか、十分にスナップを利かせた袖の一撃は割と重い。
「私たちのトレーニングメニューを考えているがために寝不足になっているのかもしれないがねぇ、あまり呆然としていては困るねぇ。共に有馬記念で競い合う仲である以上、いずれ私とヒシミラクルくんは別々の練習場でトレーニングを行わねばならないのだからねぇ。ヒシミラクルくんの練習を見ている時にキミが腑抜けていても、私は気づけないねぇ。」
「あぁ、分かってる、ちゃんと気を付ける……なぁ、タキオン。」
「どうしたんだい、トレーナーくん。何やら、顔色が悪いようだがねぇ?」
ここにきてようやくタキオンは、鷹木の目つきが普通でないことに気づいた。
鷹木の考え事は、実のところほぼ彼の中で結論に達していたため、タキオンに対して述べる頼み事へと移るのは早かった。
実際の所、彼は今朝から悩みを抱えていた。
昨晩、あまりにも不明瞭な夢を見たためであり、内容が不明瞭であるがゆえに、寝覚めの胸中に抱えこまれた余りにも重い不安と不穏の正体は掴みようがなかった。
不安の種など、忘れ去ってしまうのに限る。そう考えるのが普通の人間であるが、タキオンの担当トレーナーたる自分が普通であってはならないとの自負も、鷹木の中にはあった。
奇妙な夢を、明晰のもとに見る手段。それは、以前タキオンが鷹木を実験台とした際、副産物として得られた手段であった。
「前に、俺に奇妙な薬品を飲ませてくれたことがあっただろ。あれをまた、作ってくれないか。」
「……え?あれ、って……あの時の?」
「そう、あの時、俺の身体が原因不明の発光現象を起こした時の薬だ。作り方、覚えてるか?」
鷹木は至極冷静に頼みごとをしているつもりだったが、タキオンの目にはハッキリと困惑の色が浮かんでいた。平常時とは打って変わって、まったく余裕のない口調でしか返答できていない。
そして、タキオンの方が先に視線を逸らしたことで、初めて鷹木は自分が平常心を失いつつあった現状に気づかされた。
「……すまん、タキオン、いきなり、おかしなことを言っているのは自分でも分かってる。だが、どうか頼めないだろうか。」
「自覚を持ったうえで、なおも発言を撤回する気は無いのだねぇ。私の実験に乗り気になってくれるのは良いのだが……妙だねぇ、中毒性のある成分は含まれていないはずだったがねぇ……」
「中毒とかじゃない、タキオンから妙なものを飲まされた時には、寝た時に見る夢の内容がハッキリと記憶に残るんだ。それを確かめたい。気づかないまま放っておいてはいけない、そんな気がするんだ。」
改めて、タキオンは鷹木の目の内を覗き込む。
自分の担当トレーナーが理性を失ってしまっているのではあるまいか、と本気で案ずる眼差しであった。
「トレーナーくんは、有馬記念へ担当ウマ娘を2名も出走させる重圧で、おかしくなってしまったのではあるまいねぇ?」
「そんなんじゃない、俺は正気だ。それともタキオン、あの時の薬品、テキトーに思いついたものを混ぜ合わせただけだったから、再現不可能だったりするのか?」
「普通は正気の人物が、自ら正気だとは言わないねぇ。さておき、私も明確に科学実験として実施しているんだ。原材料が駄菓子屋で買えるようなものばかりとはいえ、正確な分量は測っているとも。」
「よし、じゃあ、昼の休憩時に買いに行こう。商店街の駄菓子屋なら、練習メニューを全部終える夕方には閉まってしまうだろう。」
あまりにも積極的にタキオンの薬品づくりに協力する鷹木を見るタキオンの目には、戸惑いの色が消えなかった。
練習がひと段落し、正午の休憩に出かけようとする両名に対してはヒシミラクルも疑いの目を向けていたが、タキオンが抱いているのとは全く別種のものであった。
「お?お出かけですか、おふたりとも。」
「あぁ、ちょっとな。午後の練習開始にはちゃんと間に合わせるから、ミラ子はじっくり体を休めておいてくれ。」
「実はさっき、お喋りしてた内容がちょくちょく聞こえてたんですけど……もしかして駄菓子屋デートですかぁ?まー、これから有馬記念当日まで、ストイックな日々が続きますからねぇ、ちょっとしたリフレッシュは挟まないとですねぇ。」
いつもノンビリしているように見えて、その実は抜け目のないミラ子。先ほどのタキオンとの会話も、練習コース上を走りながらウマ娘特有の聴覚で断片的には受け取っていたのだろう。
しかし、ヒシミラクルの中では妙な勘違いに繋がっているようであった。
ニヤニヤしている後輩ウマ娘にからかわれるのはタキオンとしては全く不本意だったろうが、説明の面倒が省けるならばと敢えて否定はしなかった。
「……駄菓子屋にヒシミラクルくんを連れていっては、際限なく欲しがってしまうだろうからねぇ。過剰なカロリー摂取に繋がらない品をいくつか見繕ってくるから、楽しみに待っていてくれたまえ。」
「いやいやいや、私も一緒に連れていけだなんて、そんな無粋なことは申しませんよぉ。ごゆっくりお二人で駄菓子屋デートを愉しんできてくださいな、多少は練習開始が遅れても構いませんよぉ。」
ミラ子に最も似合う表情のひとつ、ニタニタ笑いとともに語られる言葉はすっかり奇妙な語調と化していた。ともあれヒシミラクルがついてこないという状況が得られる選択を優先し、タキオンは特に言い返さず鷹木と連れ立って商店街へと出かけて行った。
駄菓子屋は、商店街の只中である。
トレセン学園のすぐ近くということもあって、ウマ娘たちの出入りも常であり、年中繁盛し続ける稀有な古びた店構えだ。
そもそも駄菓子屋どころか、商店街という形態自体、よほどの繁華街でもないかぎり現代にはあまり残っていない。安く大量の商品を仕入れる業務用スーパーや倉庫型店舗に買い物客が取られ、旧来の商店街がシャッター街へと化してしまったという光景は全国で見られる。
しかしトレセン学園近辺においては、ウマ娘や学園関係者が客層として常在し、また地域一帯が学園並びにURAの所有する土地であるため、外部企業による新たな店舗展開も無い。
まるで過ぎ去った時代がそのまま保存されているかのような空気感は、賑わう商店街を通り抜けるほどに濃くなっていき、駄菓子屋へと入る頃に最高潮となった。
「ふむ、やはりこの店は品揃えが変わることがないから、毎度安心して買い物に来れるねぇ。以前と全く同じ成分の薬品を作ることが可能だねぇ。」
言いながら、タキオンは慣れた手つきで小さな買い物かごに駄菓子を次々と放り込んでいく。
店内の商品棚は今どき珍しい木製であり、店主がこまめに掃除し手入れしているおかげかほぼ傷もなく、色褪せてもいなかった。それがまた、数十年来もの時間が止まっているかのような印象を与えるものであったが。
さすがに真昼間にトレセン学園を抜け出して買い食いに来るウマ娘はおらず、店内はガランとしている。そのおかげもあって、タキオンの買い物は直ちに済んだ。
「あとは、ヒシミラクルくんへの手土産に……まぁ、一口ようかんで良いだろう。すみませーん、お勘定を頼むねぇ。」
「はいよ。」
入店してきた客には声もかけず、レジの脇でくつろいで新聞を広げていた店主が、愛想もなくタキオンに応じる。
商品の精算も、あっさりと済まされた。いちいちGⅠウマ娘だからと驚かれ、会えたことに感動され、ファンサービスに期待されるような世間一般とは完全に切り離されたような空間。
科学者気取りのタキオンにもかかわらず、この古びた店構えを彼女が気に入っているのも頷けるものであった。
「今でもあれだけの種類、駄菓子って売られてるもんなんだな。とっくの昔に生産中止されたと思ってた商品が、あんなに並んでいるとは。」
「世間一般には認識されておらずとも、存在し続けている商品は少なくはないからねぇ。GⅠレースで活躍して名を残さずとも、存在している我々ウマ娘の在り様とも通じるようだねぇ。」
他でもない自身が一番名の売れたウマ娘でありながら、タキオンはそんなことを嘯きつつ駄菓子屋を出て商店街を歩いていく。
あとはトレセン学園に戻るだけ、であったのだが……鷹木は今さらながら、とある事実に気づき、タキオンを呼び止めた。
「タキオン、あれを……。」
「どうしたんだい、“あれ”とは何のことだい、トレーナーらしく具体的に示したまえよ。」
だが、それでも鷹木は明確に言及することなく、ただ見つめる先を指さして示すだけであった。彼は、駄菓子屋の向かい側、雑貨店の店先にあるものを見つめていた。
タキオンは鷹木の視線の先を辿り、そして僅かの間、動きが固まった。それは今まで商店街に当たり前のように存在し、視界に入ったところで異常だと感じるはずもない物であり、タキオンほど聡明なウマ娘でなければ鷹木が注目した理由も分からぬものであった。
公衆電話が、そこにあった。
スマホ全盛の現代、利用する者などほぼ居ない。以前、夏合宿の際、合宿所近辺のさびれた商店街で、撤去済み公衆電話の台だけが錆びきった姿で残されているのをタキオンは見ていた。
公衆電話など、過ぎ去った時代の遺物のように思われたが、何のことはない、トレセン学園すぐ近くの商店街にて、現役で稼働している公衆電話はあったのだ。
今、タキオンは確かに一瞬ながらゾッとしたような目つきを示したが、ほどなく息を整えて冷静に語った。
「……まぁ、私もあれ以降いろいろと調べたのだが、現代においても緊急時の連絡手段、公共インフラの一種として備えられている側面もあるらしいじゃないか。別に、公衆電話が存在すること自体は、異常だと断定できるものではないねぇ。」
「それも、そう、だな。現代だって、全ての住民がスマホや携帯電話を持っているわけではないだろうし。だが、気になるのは……人間用の受話器しか用意されていないことだ。」
「あぁ……言われてみれば、そうだねぇ。」
電話の受話器は、口元から耳までの距離によって使いやすいサイズが決まる。
当然、頭の上に耳があるウマ娘用の受話器は、人間用よりも長く作られるのが一般的だった。一昔前、公衆電話の利用が一般的だったころは、ウマ娘用の受話器が横に並んでいたり、受話器自体が伸縮式のギミックを備えている場合もあった。
とはいえ、これまた現代においてはそもそもスマホで通話する機会の方が圧倒的に多い。ウマ娘の聴覚なら、画面を見ながらスピーカーで通話相手の返答を聞くスタイルが合っている。タキオンがすぐにピンと来ない様子だったのも、パソコンやスマホにて通話用アプリを利用することが日常茶飯事となっていたためである。
「人間用のサイズで受話器を作るほうが嵩張らず、伸縮機能も無い方が管理しやすかったから、最初期はあんなふうに人間用の受話器しか備えていない公衆電話が多かったらしいが……しかしトレセン学園がすぐ近くにあるというのに、ウマ娘用受話器が無いとはな。」
「今となっては、ウマ娘もスマホを使うのが当たり前だから、特に不便を訴える声も上がらないのだろうねぇ。まぁ、何にしても今さら我々が気にすることじゃない。早く戻ろうじゃないか、午後の練習時間が迫っているし、ヒシミラクルくんも駄菓子を待ちわびているだろうからねぇ。」
タキオンに促され、ようやく鷹木は見れば見るほど奇妙さが浮かんでくる公衆電話から視線を外し、学園へと戻る道に歩を向けた。
先ほど覗いた駄菓子屋内の様子といい、公衆電話の存在といい……これまで当たり前のように学園のすぐ傍にあった商店街は、今になって気味悪いほど鮮明に、過去の時代がそのままに残される場所であるようにも思われた。
戻ってきたタキオンから、一口ようかんを投げ渡されただけのミラ子は期待外れの色を明瞭に表情に浮かべた。
が、それはさておきタキオンと鷹木が駄菓子屋デートを堪能してきたのだと信じてやまない彼女は、下手に深入りしようとはせず午後の練習を再開し、その日のトレーニングメニューをすべて終えた夕刻にはそそくさと着替えて練習場を去っていった。
「私、ダンツちゃんと夕食を一緒に行く約束してますんで、お先に失礼しますねー。トレーナーさんとタキオン先輩も……いえいえ、お邪魔はいたしません、おふたりでごゆっくりー。」
「……ミラクルくんへ説明する手間は省けるが、流石にこうも不本意な勘違いを続けられては少々厄介だねぇ。さて、トレーナーくん。キミの所望通りの薬品作成に取り掛かろうか、実験室へ来てくれたまえ。」
「あ、あぁ。」
ヒシミラクルからの言葉を受け取っている間、タキオンが若干ながらもじもじしている様は隠しきれていなかった。トレーナーと親密な関係になっていることについては、広い意味では勘違いではない。
早々に暗くなっていく冬の夕暮れ、二列おきに照明が点灯されているだけの若干薄暗い廊下を通り、実験室という体でタキオンが勝手に占拠している理科準備室へ向かう。
埃で薄汚れた蛍光灯に照らされたテーブルの上、買ってきた駄菓子類をビニール袋の中からドサドサと積み上げた様は、確かに科学実験が今から始まるとはとても思えない光景であった。
「本当に、こんな駄菓子を混ぜ合わせるだけで、あの薬品が出来るのか?」
「以前からそう言っているじゃないかねぇ。何しろトレセン学園中等部の一員に過ぎない私が、そうそう特殊な薬物など入手できるはずもあるまい。そこのビーカーを取って、流し台で綺麗に洗ってくれたまえ、キミが飲むものを入れるのだから丁寧に頼むねぇ。」
鷹木が言われた通りにしている傍ら、タキオンは自分のスマホを取り出し、以前鷹木に飲ませた液体を作った際のメモを表示している。
確認するだけであれば、画面を一瞥するだけでも十分だったろうが、タキオンは少し懐かしさに耽るように、動きを止めてじっと画面の内容を見つめていた。
洗い終わったビーカーを持ってきた鷹木が尋ねる。
「どうしたんだ、まさか正確な分量を記録していなかった、とか……?」
「正確な分量はきちんと記録していたねぇ。しかし、だからこそ、あの時の私は随分と子供っぽかった、と今さらながらに感じてしまってねぇ。あの頃と言っても、せいぜい去年から一昨年のことではあるのだがねぇ。」
確かに、メモの内容を見れば。駄菓子の内容物を砕いたものや粉末ジュースが名を連ね、隣にグラム数が無駄に小数点以下の精度で記されているという……言うなれば、子供の遊びで作られたような内容であった。
そこから先の作業も、実験というよりはイタズラの準備をしているかのような様相だった。
複数の粉末ジュースの素をビーカーの中にあけ、ラムネ菓子を砕いてきめ細かくなるまですりつぶし、あるいはグミやガムを割って内部のシュワシュワする粉末を取り出し、それぞれをもったいぶって精密に分量計測して、混ぜ合わせる。
やっている内に、こんなことで現状の不安を取り除けるのかとの懸念は薄れ、なんだか楽しくなってきている自分の胸中を感じながら鷹木は呟いた。
「なんか……童心に帰るってのは、こういう気分なんだろうな。」
「今になって白状させてもらうがねぇ、正直なところ、トレーナーくんへ薬品を飲ませる実験、と称しつつも私自身、面白がっていたところはあったねぇ。こんな作業、本気で科学的な根拠があると信じて為せるはずもない。悪かったねぇ。」
「構わないって、ウマ娘の思いを出来る限り受け止めるのがトレーナーの仕事なんだし……それに、実際に効果はあるんだからな。」
ただ駄菓子を砕いたものや粉末ジュースを混ぜ合わせた、蛍光色の液体。本来、甘ったるさのために胸焼けを引き起こす以外に効果がないはずのもの。明晰夢を見させたり、人間の身体を発光させたりする効果など……本来は、ありえないはずだ。
タキオンがメモしていた内容物を全て混ぜ終えたことを確認して頷くや否や、鷹木は何の躊躇もなくビーカーの内容物を飲みほした。
少し間を置いてから飲ませるつもりだったのだろう、流石のタキオンも動きが固まった様子で、鷹木が飲み終えるまで見つめていた。
「……大丈夫かい、トレーナーくん。体調不良の兆しがあれば、即座に医者に診てもらうべきだねぇ。想定されていない効果の発揮はさておき、糖分の過剰摂取に関しては現実的な懸念なのだからねぇ。」
「問題ない。何にしても、今夜どうなるかを確かめてからだ。」
タキオンに対して鷹木はそう答えたが、既に意識がぼんやりし始めていたのは事実であった。
それは昼休憩の時間を外出に費やしたことによる疲労ゆえでもあったろうが、彼自身が興奮状態にあったことも無縁ではないだろう。
「じゃあ、タキオン、また、明日。実験の結果も気になるだろうが、夜更かし気味になるんじゃ、ないぞ。」
「言われなくても分かってるねぇ……ホントに大丈夫かい、トレーナーくん。」
そのまま、鷹木はタキオンと別れ、トレーナー寮へとスタスタ歩いて戻ったつもりであった。
が、既に彼の歩調はフラフラとしており、意識は時間が経つほどに朦朧となっていた。自分の背後、流石に心配したタキオンがついてきていたことに気づかぬほどであった。
辛うじて自室に戻り、ノートPCと書類のファイルをテーブルの上に投げ出し、鷹木はそのままベッドに突っ伏して眠りに落ちた。
強力な睡魔に意識を引きずり込まれ、そこから数時間、鷹木は意識を失くして事実上の昏睡状態が続いた。
彼が明瞭な夢を見たのは、たかだか目覚める数分前のことである。
鷹木は夢の中で起床し、着替えを済ませ、出勤していた。異変に気付いたのは、満員電車に揺られてトレセン最寄りの駅に降りた時のことである。
「……俺は、トレーナー寮で暮らしてるはずだよな。なんで、自宅から電車通勤しているんだ……?」
そこで自分が今見ているのは夢であると気づいた鷹木は、なるべく起きた出来事を純粋に観測し、記憶することに意識を集中させ始めた。
たどり着いたトレセン学園は、現実世界と何も変わらぬように見えた。
真っ先に気づく現実との違いは、校舎前で毎朝ウマ娘やトレーナーたちに挨拶している駿川たづなの姿がなかったことだが、それ以上に違和感を抱かせる状況は大きかった。
「静かすぎる。敷地内に入っても、ウマ娘も職員も姿をまるで見かけない。」
まるで、すっかり無人になってしまったかのように、練習場も学舎の中もガランとしている。壁に掛けられた時計の秒針以外に、動くものが無い。
とはいえ、鷹木はさほど面食らわなかった。今は、自分が夢を見ているのだと理解できている。
夢の側からの動きが無いのであれば、為すべきことは情報収集だ。
スマホやノートPCを起動しようとしても何故か電源は入らず、画面は真っ暗なままであった。夢の世界特有の、思い通りに機能しないガジェット。それでも慌てることなく、鷹木はトレーナー達が事務仕事をするための職員室に向かった。
「たしか、職員室の隅に、各メディアの刊行した雑誌や新聞紙がまとめてあったはずだ。スマホやPCとはワケが違う、ページを開けば確実に中身を読める。」
学舎建物に入り、廊下を抜けて職員室に至るまで、鷹木はやはり誰にも出くわすことがなかった。
職員室の隅には、想定していた通り、各社の新聞紙が掛けられたアルミ製の棚があった。
デカデカとウマ娘レースの特集が示された一面記事を取り上げ、その内容を読んだ鷹木は、ここが現実世界ではないことを改めて確信した。
〈東京レース場の改修工事のため、中山レース場芝2200mにて競われた今回のジャパンカップ。国内ウマ娘が幾名も注目を集める中、日本の軽い芝コースに狙いを定め、イタリアからやって来たファルブラヴが9番人気ながら見事一着となった。一方、国内ウマ娘はシンボリクリスエスが三着、マグナーテン四着、ジャングルポケット五着……と、健闘の結果に終わった。〉
現実のジャパンカップとは、結果が違う。
勝利したのはエアシャカールだったはずであるが、この夢の世界で見出した記事においては、エアシャカールは十二着となっている。
鷹木は、先月のジャパンカップ観戦時、古いポータブルテレビにだけ映し出されたノイズまみれの映像を思い出していた。
「現実とは別の道をたどった、可能性……あの時、シャカールが外へ抜け出せず、コース内側を突くように進んでいたら、確かに前を塞がれたままだったろう。十二着という位置に落ち着いてしまうのも、頷ける。」
事前にシャカールが自身の順位をParcaeに予測させた結果も十二着であり、それは奇妙な一致であった。
そのまま、鷹木は新聞をめくり、次なる大舞台である有馬記念についての記事を見つける。
この夢の世界においても、時期は現実と同じであり、有馬記念への出走者が出揃ったのを紹介する内容にとどまっている。あらかじめ有馬記念の結果をここで見ることが出来たとて、しょせんは夢の内容に過ぎないのだが。
出走者たちの並びの時点で、既に現実とは異なっていた。もはや、違っていて当然のようでもあった。
「1番人気ファインモーション、2番人気シンボリクリスエス、3番人気ジャングルポケット……ナリタトップロードやタップダンスシチー、エアシャカール、ノーリーズン、ヒシミラクルも居るな。だが……出走していておかしくないウマ娘の名前が無いじゃないか。」
ナリタトップロードと共に、覇王世代から今に至るまで競い続けているアドマイヤベガ。海外遠征を諦めた代わりに国内路線で活躍しているはずのマンハッタンカフェ。一度は現役引退を表明したものの、秋に唐突な復帰を発表して騒がれたタニノギムレット。
そればかりではない、3年前からGⅠレースの常連であるネオユニヴァース、ゼンノロブロイの名前も無い。
「やっぱり、俺が今、見ているのは……可能性世界……?」
「トレーナーさん?」
ふいに背後から話しかけられた鷹木は、何事もなく振り向いた。
自分以外に誰もいないと思い込んでいた世界で、唐突に声を掛けられるとなれば、もっと跳びあがるほど驚いてもよさそうなものだったが……その声は、あまりにも普通で、聞こえて当たり前の声であった。
振り向いた先、職員室の扉を開けて覗き込んできていたのはヒシミラクルだった。
「何してんですか、トレーナーさん。トレーニング始める時間になっても練習場に来ないもんだから、探しちゃいましたよ。」
「あぁ、すまん、情報収集を念入りにしていたんだ。行こうか。」
ヒシミラクルが普通に声を掛けてきたのと同様、鷹木が返答に詰まることもない。
ミラ子に連れられ、職員室から出て廊下を進む。いつしか、校舎内も練習場も賑わいで溢れ、職員やウマ娘たちが談笑の声とともに行きかっている。
ヒシミラクルの周囲には、物事を“普通”へと戻す空気がまとわれているようであった。
「もー、トレーナーさんが遅刻しちゃってどーするんですか。タキオン先輩も、トレーナーさんが来るのを待たずにさっさと練習始めちゃいましたよ。」
「だろうな、タキオンなら。まぁ、有馬記念に向けて調整の方針は共有しているし、勝手に進めていってもアイツなら問題はない……」
ミラ子と言葉を交わしながら鷹木は、新たな違和感を見出していた。
この夢の世界が“可能性世界”のあらわれであるとすれば、アグネスタキオンが今なお現役で、トレーニング続行しているはずがない。彼女が皐月賞後の引退を免れ、現役続行できているのは“可能性世界”による既定を逸脱し得た結果であるはずだ。
だが、確かに、ヒシミラクルに続いて練習場へと出た鷹木の目の前には、ちょうど練習コースを回ってきたタキオンの姿があった。
「タキオン、脚の状態は……」
言いながら、タキオンへと近づいて行った鷹木。
が、彼の足元の地面が抜け落ちたのは、その直後であった。
「えっ!?わっ、わあああッ!?」
まさに落とし穴に引っ掛かったのと同じ感覚、しかしタキオンはそんな類のイタズラなどしない。
まるで、地面が人間の重量を支えることを忘れてしまったように、鷹木の身体だけが地面をすり抜けて、下へと落ちていったのだ。顔面が地表をすり抜ける瞬間、芝の一本一本が土にしっかり根付いた様を目の当たりにした。
地面の下には、闇は無かった。
地下のイメージとは真逆、真っ白な光に覆い尽くされ、目を開けていられないほどに眩しい。
僅かでも瞼に隙間があれば、入り込んできた光に脳が直接焼かれるかと思うほどの苦痛だ。
むろん、鷹木も目を閉じたかったのだが……その空間にて、辛うじて見えたものがあまりに異様で、彼は全力で顔をしかめ、苦痛に悶えながらも目を閉じきれずにいた。
「人間だけが、落ちてきている……?」
鷹木の周囲にも、同じく地表をすり抜け、世界の下部へと落下してきた人間たちの姿があった。
皆、一様に眩しさに悶え、苦しみ、光に襲われまいと両手で顔を覆っている。あるいは、ウマ娘たちの居る現実世界へ戻ろうと手足をバタつかせている。
……全員が、人間であった。そこにウマ娘の姿は無かった。
「……ッ!!アァ゛ッ、ハァ、ハァ、あぁ……夢だよな……何だったんだ、最後のは。」
息苦しさと、こわばった身体、節々の痛み。
何重もの苦痛で顔をしかめながら起き上がった鷹木。昨晩、寮の自室に戻ってくるなりベッドに倒れ込んだ、そのままの姿で朝を迎えていた。
着替えすらしていないのを思い出し、目ヤニで開かぬ目のまま、手探りでシャツのボタンをはずして脱ぎ捨てる。そして瞼をぐりぐりと擦って、ようやく目を開いた……。
「眩しッ!!……え?あ……そうか、また、か……!」
鷹木の全身は、光り輝いていた。
徐々に記憶が鮮明になってきたことで、鷹木は自らの現状に無理やり納得を見出した。タキオンが駄菓子や粉末ジュースを混ぜ合わせて作った“薬品”を飲んだ時の効果は、以前と全く同じであったのだ。
今、上着のシャツを脱ぎ、上半身は下着姿になっている鷹木であったが……既に薄い生地など簡単に貫通するほど、全身は眩い光を発していた。
それは現実ではあり得ない、科学では説明がつかない現象であった。
「本当に、何も特殊な薬品を飲まされたワケじゃないのに……やっぱり俺の身体、光るんだな……。」
鷹木は、かなり悩んだうえで、この現象が間違いなく事実、寝ぼけた自分が勘違いしたものではないとの証拠を残すため、スマホカメラを起動して自らの姿を撮影した。
……もちろん、この画像はタキオンに見せ、報告する。だが、それを実行することについて、鷹木の中には強い抵抗があった。
以前、同様の現象が起きたとき、タキオンは大いに狼狽したのだ。本来あり得ない現象が発生する、自分たちが生きているこの現実が、本当に現実であるのか、確証が大いに揺らいだために。