担当トレーナーとして、ウマ娘のメンタル面を揺るがすような真似などすべきではない。鷹木はそう悩み続けていたが、実験結果を敢えて隠そうとすること自体がタキオンの不信をかう行為に他ならない。
その日の早朝、いつもより早めに練習場で落ち合ったタキオンに、鷹木は自分の身に起きたことを正確に伝えた。タキオンの反応は、予想よりもずっと落ち着いていた。
「以前と全く同じ分量で作成した液体を飲んでもらったんだ、結果に再現性があるのは実に科学的な帰結だねぇ。下手をすれば結果がエスカレートして、今度はキミが全身光り輝いた姿でトレーナー寮から現れるのではないかと、私はすっかり身構えてしまっていたんだがねぇ。」
「まぁ、俺の身体が光る程度に関しても、じわじわと強まってきているのは間違いないんだがな。」
最初の実験では、手の爪が薄っすらと光を帯びる程度だった。その次の実験時には両手がハッキリと光るほどになり、そして三度目の実験では全身が光るようになった。それでも、目覚めて数分後には収まる程度の光量であった。
四度目の実験となる今回は、全身が強烈な光量で輝くほどの現象と化している。身支度を済ませ、寮の自室から出る直前まで、その光は収まっていなかったため、もしも他のトレーナーや駿川たづなに見つかったら何と言い訳しようかと鷹木は気を揉んでいたほどである。
翻って言えば、自分の身体が発光していることよりも、他者への説明の方が心配になる程度には、鷹木は現状に慣れてしまっていたということでもあるが。
タキオンの方も、既に予測可能な内容にいちいち狼狽えることはせず、淡々と語り続けている。
「駄菓子や粉末ジュースを混ぜ合わせただけの液体が、人体を発光させるだなんて本来、現実にはあり得ない現象だねぇ。そのことについては、別な仮説もある。非現実的な反応が示されることは、可能性世界からの干渉が引き起こされた影響なのではないかと。」
「確かに、この現実世界じゃ有り得ないこととなれば、別世界からの干渉が原因だ、って考え方もあり得るだろうが……その干渉ってのはつまり、俺が見た夢の内容なのか?」
「トレーナーくんが普段から同じような内容の夢ばかり見ているのでなければ、そうだと言えるだろうねぇ。キミは、夢を介して可能性世界を観測したのだろうねぇ。」
鷹木の発言に対する実質的な肯定を述べつつ、タキオンはベンチから立ち上がった。
12月初頭の、まだ日が昇り切らぬ薄明。薄暗いばかりが極寒の練習場にはほとんどウマ娘たちの姿も無く、ごく少数が白い息を吐きながら早朝のランニングを行うばかりである。
タキオンが立ち上がったのは、体温が下がり切る前にウォーミングアップを行うためであったが、同時に鷹木が語った奇妙な夢の内容について考え始めるためでもあった。
「トレーナーくんの夢の中では、シャカール先輩のParcaeで予測されたのと同じ、可能性世界で有り得たはずのレース結果が報道されていたのだね?ファルブラヴが勝利し、シャカール先輩が十二着となる、という。」
「あぁ、ついでに今月末の有馬記念についても、出走予定ウマ娘は現実と異なっていた。たぶんParcaeで今年の有馬記念についてシミュレーションを行う時、俺が夢の中の新聞記事で見たのと同じ出走者以外ではエラーを吐くんじゃないかな。」
「それは非常に興味深い試行となるだろうが、惜しむらくは先月のジャパンカップでの結果が確定した後、シャカール先輩のParcaeは起動しなくなってしまったのだよねぇ。」
至極残念そうにタキオンは語る。もしもParcaeが健在ならば、鷹木が夢で見た内容がいずれ現実になると裏付けられる証拠が得られたかもしれない。
現時点で、“可能性世界”を観測する手段としてほぼ確実視されていたParcaeが完全沈黙してしまったのは、探求における大きな損失であった。
「しかしレース関連についてはさておき、その後の展開は如何とも説明がつけられないねぇ。何なんだい、地表をすり抜けて世界の下へと落ちていく、だなんて。落とし穴に注意しろ、とのお告げかい?」
「イタズラ好きなウマ娘が似たような事をやるかもしれないが、現在のトレセン在籍生の中にはそんなウマ娘も居ないな。地中が真っ暗闇ではなく、眩しすぎる光で溢れていたのも意味不明だ……。」
「まぁ、光で溢れていることに関しては、トレーナーくん自身の身体が発光していたのだからねぇ。現実に眩しさを感じていたことが夢の内容に影響していたのだろうねぇ。」
タキオンは一応の説明を与えはしたが、そもそも人体がまばゆく発光すること自体が非現実的な現象であるため、説得力のほどはいまひとつだった。
納得のいかぬ現象について考え抜くことを是とする探求者とはいえ、今回の夢の内容について解釈を見出すのは流石のタキオンもお手上げ状態のようであった。
「いったい何を意味しているんだろうねぇ?トレーナーくんの夢の世界は地表が簡易的なメッシュコリジョンで構成されている、あるいはフレームレートが不安定だとでも言うのかい?」
「俺の脳内が低スペックだとでも言いたいのか。」
「うまい返しだねぇ、こんなことに感心している場合ではないのだがねぇ。」
「将来の土台がちゃんとしてない、ってことじゃないですか?」
唐突に割り込んできたヒシミラクルの声に、タキオンと鷹木は体をビクッとさせ、バッと顔を上げる。
空はようやく昇ってきた陽光に照らされ始めたばかりで、まだまだいつもの練習開始時刻には早い。だが、ヒシミラクルは存外寝ぼけてもおらず、朝食も済ませたのか紙パックのジュースを吸いながら歩み寄ってきていた。
挨拶も無く割って入ったとはいえ、ただ普通の口調で喋っただけにすぎないヒシミラクルの方が、ふたりの急激な反応に驚かされたようであった。
「あ……ども、すみません、急にお二人の会話に水を差しちゃって。けど、難しそうな話だからって、私だけ省かれるのは心外ですよ。昨日はてっきり、おふたりでしっぽりされてるのかと思って遠慮しちゃいましたけど。」
「その勘違いこそ、こちらとしては心外なのだがねぇ。説明の手間を惜しんだのは済まないと思っている……で、先ほどキミが言ったことをもう一度繰り返してくれたまえ、大きなヒントを得られそうなんだ。」
「ですから、将来の土台がちゃんとしてない……って。すんません、鷹木トレーナーのお話を最初っから全部聞いてたわけじゃないんですけど、地面をすり抜けて落ちていく夢って、そんな将来への不安の表れだってどっかで聞いた気がしまして。でも、トレーナーさんは既にトレセン学園に就職されてるわけですし、関係ないですかね。」
それはタキオンのような憶測や仮説を自力で編み出すわけではない、ヒシミラクルが聞きかじった噂をただ口に出しただけであったのだろう。
今でこそGⅠウマ娘の一員となり、有馬記念への出走までも決まっているヒシミラクル。だが、本来の彼女が目指していたのは「ふつうのウマ娘」であり、普通の生涯を過ごすために相応の準備をしていたのも事実だ。
大学へ進学し、就職し、結婚相手を探し……普通に生きていくというのは、大舞台で脚光を浴びることほどではなくとも、努力を重ねた結果として可能になることなのだ。「将来の土台」がしっかりと組まれているか否かは、今でもミラ子の意識にのぼる懸案なのだろう。
ただ、そのフレーズは、アグネスタキオンの思考回路に組み込まれた途端、まるきり別種の仮説へと接続された。
「……そうか、土台、か……!トレーナーくん、世界からの警告は、特異点に対してではない、土台に対して向けられていたのだよ!」
「何の話だ……?」
「トレーナーさんに理解できないのなら、私にはもっと分かりませんね。」
タキオンが語り始めた内容に、鷹木が首を傾げ、その傍らでミラ子がさらに角度をつけて首を傾げている。
言葉の形にまとまりきらない思考が、脳内から口へと出つつは引っ込みを繰り返しているのか、タキオンは口元だけを動かしながら頭をかきむしりウロウロと歩き回り、数秒経ってから改めて喋りはじめた。
「以前、目立っていた異変は、前年度と全く同じレース展開が繰り返されるというものだったねぇ。私はそんな異変を打ち崩すため、特異点として可能性を超越するウマ娘の存在を希求し、そして実際に特異点と思しきウマ娘は活躍した。ネオユニヴァースくん、ゼンノロブロイくん、エアシャカール先輩、タップダンスシチーくん……そして、他でもない私アグネスタキオンも、そうだと自負しているねぇ。」
「可能性世界では勝てるはずがなかったレースに、現実で勝ったり……あるいは、すでに引退しているはずなのに現役続行して走っていたり、だな。」
「だが異変はさらに別種のものとなって持続した、それが勝利ウマ娘に対する歓声が小さく、今やほぼ無音に近い状態になるという現象だ。観戦スタンドは満員で、視認できる限り観客たち全員が沸き立っているというのに。本来の可能性にそぐわない活躍をした、特異点たるウマ娘の存在を世界が認めていないためだ、と今までは考えていたが……そうじゃない、土台なんだ。」
その土台というフレーズに、タキオンがいかなる考えを見出したのかを聞きたいのだ、と鷹木は言いかけて黙った。
タキオンはつま先で足元の地面をひっかくようにして、目の前をウロウロと歩き回っている。ウマ娘がイラついた時に示しがちな動作であったが、タキオンの場合はフル回転させている思考を邪魔されたくない際にこの仕草を見せた。
先輩ウマ娘の動作を見せられたヒシミラクルは、人間以上にその胸中を理解しやすいのか、口を噤んでいる。タキオンが再び口を開くまで、また数秒を要した。
「我々ウマ娘が生きている、この現実世界が……可能性世界を参照することで構成された世界であるならば、すなわち、可能性世界から全く切り離されることは本質的にあり得ないのだろうねぇ。ウマ娘レースの展開や結果という限定的な部分ではなく、この、世界という場所そのものだ。中央トレセン学園、それが存在する東京、日本、いやもっと広く、地球、宇宙……すべてだ。すべてが、可能性世界ありきで存在している。」
「いよいよ私には手の届かないところにタキオン先輩の考えが行っちゃいましたが、トレーナーさんは分かります?」
「…………まぁ、どうにか。」
「トレーナーくんは分かってもらわねば困るねぇ、そう、毎年、夏合宿に観測した火星大接近を覚えているかい?地球と公転周期が異なる火星が、毎年大接近するはずもないのに、それが実際に観測されてしまっていた異常事態を。可能性世界から逸脱しようとする試み、特異点による可能性の打破は地球どころか宇宙の全てに影響を及ぼし、天体の運行までも狂わせてしまっていたのだねぇ。」
喋りまくりながら、タキオンはようやく学園敷地の内外を隔てる植え込みの向こう、顔を覗かせた曙光へと目を向けた。
12月の朝の陽射しは、やたらと目に突き刺さるほど眩しいわりに、冷気が凍み付いたかのごとく温かみはない。しばし口を噤んだタキオンは、次なる言葉を脳内でまとめながらも、目を細めてじっと太陽を見つめていた。
地球の自転運動によって地平線から昇りくるように見える太陽の運行にすら、異常性が見いだせないかと恐れるように。
「このまま、可能性による既定を拒み、ウマ娘の意思を通し続ければ、また予想しようもない異常性が激化し、現実性が薄れ、すなわち……我々の存在の土台となる、世界そのものが壊れ切ってしまうのかねぇ?」
「そんなわけがない、と断言したいのは山々なんだが……俺自身が、あんだけ身体を光り輝かせてしまっては、普通の考え方に説得力ないよな。」
「何もせずにいれば良い、という話かもしれないが、もはや我々は誤魔化しの利かないところまで可能性を崩してしまっているからねぇ。可能性世界の通りに歴史を進めるならば、まずこの私自身が現役を去らねばならないねぇ。」
「そんなのやですよ、せっかく今年の有馬で、ついにタキオン先輩と本番での競走が出来るってのに。このまま、私たちがやりたいようにやってちゃダメなんですかね、おかしなことは確かに発生してはいますけど。」
相変わらずヒシミラクルは限界近い角度まで首をかしげ続けていたが、タキオンの言わんとするところを何とか理解した鷹木は、タキオン同様に不安の色を顔に浮かべた。
ウォーミングアップするつもりが、背筋が寒くなってしまったのか、タキオンは運動用ジャージの上着を着こんで、座布団を乗せたベンチに戻ってくる。
心なしか、いつもよりヒシミラクルとの間合いを縮めて座るタキオン。言葉には出していなかったが、ヒシミラクルの“普通”な雰囲気が近くにあれば、思い描いた不安も薄まるような気がしていた。
当のヒシミラクルは、やはり理解の追いつかぬ様子のまま、無難なことを喋るばかりであったが。
「まぁ、なんといいますか、ややこしい状況になったときは、いちばん最初の原因が何だったのか思い出すってのも手じゃないですかね。部屋がいっつも散らかっちゃうときは、片付ける場所から出てきちゃう物が何なのか気にしてみよう、って雑誌に載ってましたし。」
「一番最初、ねぇ……何をもって最初とするかは定義次第だねぇ、それこそ史上初の特異点たるウマ娘となれば議論の余地は大いにある、近代ウマ娘レース史に限定しても同様だ、セントライト、トキノミノル、シンザン、より近年になればシンボリルドルフも、間違いなく特異点にカウントされるねぇ……しかし、あまり遠い歴史の話をしても仕方がないねぇ。現状の異変の連鎖、直接の起因となった特異点といえば……」
「テイエムオペラオーだ。」
ここにきて、一切の躊躇なく、言い放ったのは鷹木であった。
今まで自流の憶測を冗長に喋り続けるタキオンに対して、煮え切らぬ相槌だけを返すばかりだった鷹木。だが、この件に関しては揺らぎようもない、確固たる断言を迷わず口にした。
タキオンは虚を突かれたように目を見開いて鷹木を見つめ、間もなく笑みと共に頷いた。
「元担当ウマ娘への贔屓かい……とも言えないねぇ。その通りだ、かの世紀末覇王が、グランドスラムかつ年間無敗の記録を達成した、あの年以降だ。まるで特大の特異点が去った後のように、しわ寄せのごとく異常現象が見いだされるようになったのだねぇ。」
「あぁ、オペラオーの引退後も、GⅠレースには大抵オペラオーの同期や、一つ下の世代のウマ娘が必ず出走する時期が続いた。エアシャカールも頑張っていたが、もっと強烈な特異点が現れない限り、同じようなレース展開はずっと繰り返していただろう。」
テイエムオペラオーに打ち勝ったのはメイショウドトウ、アグネスデジタル。そして3年前のジャパンカップにおいてエアシャカールに敗れ、オペラオーはレースの舞台から去った。
それ以降は、GⅠレースのタイトルは覇王世代のベテラン、ナリタトップロードやアドマイヤベガが勝ち獲る展開が続く。まさに可能性が停滞し続けているかのように、状況を打破するウマ娘はしばらく現れなかった。
オペラオーが引退した次の年にアグネスタキオンやジャングルポケット、マンハッタンカフェがようやくデビューしたのだから、世紀末覇王が去った後のウマ娘レース界が空白期間であったかのように評する声まで世間には流れていた。
そして、ウマ娘レースに纏わる異常現象については、マンハッタンカフェの目が真っ先に気づき、タキオンがその探求に没頭し始めたのである。
「まぁ、あの時期の苦節を味わったがゆえに、シャカール先輩は3年越しに執念のジャパンカップ再度勝利を獲たのかもしれないがねぇ……しかし、そうか、オペラオー先輩については、今まで直接探りを入れたことはなかったねぇ。異変の大元に近付けば、得るものも多いかもしれないねぇ。トレーナーくん、元担当のよしみで連絡を取れないかい?」
「連絡だけなら、まぁ、出来るが……いくら何でもそうそう簡単に会えるわけじゃない、こないだサイレンススズカに直接会えたせいで、感覚が麻痺してしまってないか、タキオン。」
「連絡が可能だということが分かれば十分だねぇ、会うか、あるいは電話越しにでも私と喋る時間が取れるか確認してみてもらえないかい。私の方でも、シャカール先輩に確かめたいことを思いついた、予定が決まり次第連絡を寄越してくれたまえ。礼を言うよ、ヒシミラクルくん、おかげで見落とすべきではなかったことに気づけそうだねぇ。」
「は、はぁ、何やらよく分かりませんが、どうも。」
ポカンとしているヒシミラクルを脇に、あらためてベンチから立ち上がったタキオンの頬はすっかり紅潮していた。
ひとつの懸念が解決するたび、新たな不安が湧き出続けてくるような状況はずっと続いていたが、それでも着実に問題の根源には近づきつつあるとの実感を得ていたのだ。