冬の日が早々と沈み、薄暮のグラウンドを照らす照明ばかりが眩しい夕刻のトレセン学園。
アグネスタキオンとヒシミラクルが寮へと帰るのを見送った鷹木は、その日の練習終わりに再びオペラオーと会う約束を交わしていたことを思い出す。
「あ……また、どこで待ち合わせるとも言ってなかったな。」
鷹木は周囲を見回し、練習場所付近にオペラオーの姿が見えないことを確認しつつ、呟く。
現在は有馬記念に向けての調整に専念する期間、タキオンとミラ子は共に同じレースで競い合うため、互いの作戦を明かし合わないように練習場所も別々に確保している。今日、数年ぶりにトレセン学園へと来たばかりのオペラオーが、彼女らの練習場所を知るはずもない。
それに、易々と姿を見せるわけにもいかない状況だったろう。トレセン学園理事長秋川やよいは、今朝の併走を受けて決定されたテイエムオペラオーおよびメイショウドトウの現役復帰を、この日のうちに公表していた。
有馬記念まで残り3週間、出走枠を埋めるには遅すぎるタイミングには違いなく、それ故に発表も可能な限り急がれたのだ。
結果、現在のオペラオーがトレセン学園内にいるだろうとの噂は瞬く間に広がった。元担当トレーナーである鷹木の周辺では、かの世紀末覇王オペラオーの姿が見えないか、そわそわと覗きに来る野次ウマ娘が幾度となく現れた。
「明日からは正式にトレーニング再開するわけだから、ずっと姿を隠してるわけにもいかないんだがな、オペラオー……。」
ともあれ、今日の内はわざわざ目立つ場所に出てくることも避けていると思しきオペラオー。
落ち合う場所や時刻の約束も無いままに、鷹木は暫し途方に暮れた。
オペラオーは今なにをしている頃だろうか、アドマイヤベガやナリタトップロードに久々の挨拶に行っているのだろうか。あるいは3年ぶりに再開する現役生活のため、学園への復帰手続きを進めているだろうか、それとも久々の寮の部屋で荷物の整理をしている頃だろうか……。
何にせよ、ひとたび約束を交わした以上、鷹木はそれを放っぽりだしてトレーナー寮に帰るわけにもいかなかったし、オペラオーもまた約束を忘れてしまうことはないだろう。
「……また、偶然の中で出会うような演出をやりたがってるんだろうか。」
今朝はといえば、もとよりオペラオーとドトウがエアシャカールの練習場に集合し、併走する予定が組まれていたのだが、連絡を前にしてタキオンが偶然ながらもシャカールの練習場へ向かうことを決定した。
そのため、まがりなりにも打ち合わせなしの「運命的な再会」のような展開となっていた。そのことが、オペラオーとしては大いに気に入るところだったのだろう。この練習終わりの夕刻にも、ふたたび具体的な約束なしに巡りあうことを望んでいるらしかった。
とはいえ、そんなロマンチックな巡りを信じきれぬ鷹木としては、少しでもオペラオーと会える確率の高いロケーションを必死で推測せねばならない難儀な状況に違いなかったが。
「えぇと……オペラオーのお気に入りの場所は?いや、特になかったよな、入学当初は好き勝手に徘徊してたし、GⅠレースに出走しだしてからは練習場から離れられなかったし……じゃあ、鏡に映る自分の姿に見とれているのか?今からトレセン学園じゅうの、鏡の設置場所を全部確認してまわってたら、文字通りに日が暮れるぞ、いや、もう暮れてる……。」
鷹木がおたおたと思い悩んでいるうちにも、見る間に薄暮の光は空から去り、トレセン学園の敷地内はすっかり夜の様相となった。
自主的に居残り練習をしているのだろう数名のウマ娘たちだけが、大型照明を浴びて幾本に分かれ伸びる影とともに練習グラウンドを走っている。
人間より高い体温を有するウマ娘たちの、白く吐く息は遠くからも目立った。
「俺がオペラオーと初めて出会ったのが、ちょうどあの場所か。あの時とは、真逆の光景だが。」
今となっては、もはや6年前のことである。
あの頃はチームトレーナーにも集団指導のコーチにもなれず、唯一の担当ウマ娘も引退して学園を去ってしまい、トレーナーとしてのキャリアが途絶えようとしていた鷹木。そんな彼のもとに、半ば問題児を押し付ける意味もありつつ、しかしもちろん半ば再起の期待を込めて、学園側から担当としてあてがわれたのがテイエムオペラオーであった。
出勤してきた鷹木のことを待ち構えるように、この練習グラウンドに立ち、しかし走るのではなくただただ歌っていたのが、テイエムオペラオーであった。
「緑なす 芝の演場に 我と座し 楽しき歌を 鳥の音に 合わせて歌わん 人あらば 来たれや 来れ いざ 来れ この敵なく 仇なき覇王に……何だっけ。あとはさすがに覚えてないが、こんな感じの歌だったよな。」
鷹木と初めて出会った場所で、あの時と全く同じようにオペラオーが待っているという可能性も少なからずあったのだが、流石に同じことをしていたら目立ちすぎる。
あっという間に、オペラオーは大勢の後輩ウマ娘たちに取り囲まれ、騒ぎとなってしまうだろう。必然的に、鷹木の目にも留まりやすくなり、運命的な偶然の再会、という雰囲気ではなくなってしまう。この場所に彼女は居ないだろう。
そうなれば、他にオペラオーが好みそうな場所を探しに行くべきである。三女神像の立つ庭園か、よく即興オペラを開催していた屋上か、あるいは意外にもタキオンに捕まり実験室へ引っ張り込まれているのだろうか……。
しかし、鷹木はどうしても目を離せない対象を視野の隅に見出していた。先ほどから白い息を吐き、日が暮れたグラウンドにて大型照明の光を浴びながら、居残り練習をしているウマ娘たちである。
広大な練習場の一角からは、場所によっては1000mほど遠いコース上を走っていくウマ娘の姿など、粒ほどの小ささにしか見えない。
だが、それでも、トレーナーとしての視力は、脚運びや体格から、今だれが走っているのか判別することが出来た。
「あれ?今、走ってるのは……オペラオーだ。」
もちろん、本気からは程遠い、ゆったりとしたペースである。もう練習時間も終わりにするためか、クールダウンへとスムーズに繋げられる程に抑えた速度で、オペラオーは走ってきた。
率いられているのは、青鹿毛のウマ娘と、栗毛のウマ娘。どこかオペラオーに似通った雰囲気もあるようだったが、今年入学したばかりなのだろう、まだまだ脚運びはレース向きには仕上がっていない、と鷹木の目に映った。
練習コースのゴール付近で鷹木が待ち構えているのを見て、オペラオーはまったく息を切らさぬままに声を上げた。
「あぁ!きっとこの場所で会えるだろうと、ボクを待ってくれていたのだね、鷹木!ご明察だ、けれどもどうしても放っておけない後輩を、ボクは見出してしまってね!」
「だろうな。そこのふたりとも、練習熱心なのはいいが焦りは禁物だ。勝つこと以上に、身体を壊さないことを第一に考えよう。居残り練習はそろそろ切り上げて、休息と睡眠の時間を十分に摂るんだ。」
既に青鹿毛と栗毛のウマ娘は、共に思いもよらぬ併走相手を得たことで、練習としては十分すぎるほどに充実感を覚えたようであった。
自分達の自主練習に付き合った大先輩に向けて口々に礼を言い、ふたりは頭を下げて去っていく。
彼女らを見送って、オペラオーは鷹木と目を見合わせた。
「運命とは、実に数奇なものだ!この、鷹木と出会った場所での再会を期していたら、この全く予想だにしない遭遇を得たのだからね!」
「一番びっくりしたのは、あの子達だろうけどな。居残り練習をしていたら、テイエムオペラオーが併走してくるだなんて。」
鷹木とオペラオーは、並んで練習場脇のベンチに腰を下ろす。
すっかり暗くなり、気温も下がっていく広々としたグラウンド。オペラオーが体を冷やさぬように、と鷹木は少々近くに座ったが、今しがた軽く走ってきて身体を火照らせているオペラオーの方が遥かに体温は高かった。
数センチ離れ、空気越しに感じる彼女の温もりは、6年前に始めて会った時、あの4月の朝のトレセン学園の陽気を思い起こさせるようだった。
「実は6年前のボクも、鷹木との出会いに驚かされた側、なのだけれどね。」
「いやいや、なんでオペラオーの側が驚くことあるんだよ。全く無名のトレーナー相手に、世紀末覇王が……。」
そこまで言いかけて、鷹木はオペラオーが言わんとする所を少々遅れて理解し、口を閉じた。
たしかにオペラオーは入学当初から“覇王”を自称していたが、あくまで自称に過ぎず、名門の出身でもなく、むろん戦績など立てようもない時期、彼女こそ全く無名のウマ娘に他ならなかった。
居残り練習していたウマ娘たちが去った後の練習場は、ガランとして静まり返っている。
その静寂と共に鷹木の沈黙をしばらく待ち、オペラオーはあらためて口を開いた。
「最初にボクに運命を信じさせたのは、キミなんだ、鷹木。」
「そう……か?確かにあの時の俺は、全力でオペラオーをサポートしようとし続けていたとは自負するが、正直あの戦績はオペラオー本来の才能あってのものだと……。」
「戦績の話をしたいんじゃない、出会いのことだ。キミは、初対面の時からボクに名乗られずして、ボクの名前を知っていたね。まるで、この世の筋書きにて既に知っていたかのように!」
「そう……だっけか?」
オペラオーに対し、似たような返答ばかり連発している鷹木。
さすがに鷹木自身はそこまで細かいことを覚えていなかったが、しかしオペラオーの側から自己紹介されずとも彼女の名を鷹木が知っているのは、普通にあり得ることであった。
スカウトの形ではなく、トレセン学園側から指示が出される形で担当が決まった以上、前もって担当ウマ娘の名を書類上で目にしているわけだし、当日の出勤時には近くにいたベテラントレーナーから「あの子だ」と指さして誰がオペラオーであるか教えられたのだから。
それでも、オペラオーに運命を信じさせたと言わせしめた今、自分もまたそう信じるのが妥当であるように鷹木も感じ始めていた。
「鷹木、キミと出会ったことで、ボクの運命の蹄跡は最初は僅かに、けれども徐々に大きく、定めから外れていったようだ。今朝、タキオンさん達とも喋ったが、もしもあの年、ジャパンカップで引退せず、有馬記念にも出走していたら……ボクはそれきり満足して、今こうして復帰することなど無かったろう。」
「たらればの話は、ウマ娘レースには無いぞ、オペラオー。お前の現役復帰は公然の事実となったんだから、明日からの限られた時間で有馬出走のための調整に全力で取り掛からないといけない。」
「ハッハッハ!その通りだね、鷹木!ただ、この運命にボクは感謝したいんだ。中央ウマ娘レース史においては殆どあり得ない、3年越しの復帰。これが無ければ、現世代の騎士たちと競うことは望むべくもなかったろうからね!」
確かに、現世代の頂点を競い合うウマ娘たち……シンボリクリスエスを筆頭に、ネオユニヴァースにゼンノロブロイ、こちらも引退宣言から復帰したタニノギムレット、そしてアグネスタキオンの同世代の面々は、その強さを肌で感じたいとオペラオーが願うにふさわしい才能の塊だ。
3年前の引退でオペラオーが満足しきっていたら、彼女らと同じレースに出る機会は得られなかったろう。
そこまで考えて、鷹木はひとつ、気になり続けていたことをオペラオーに尋ねた。
「なぁ、オペラオー、去年会いに行った時には既にトレーニングを自主的に続けている様子だったが……あの時点で、既にこの現役復帰は想定していたのか?」
「まだあの時は、決心していたワケじゃないさ。もっと早く決断していたのなら、この有馬記念3週間前という土壇場で発表することもなかったろうからね。ただ、走らずにはいられなかっただけさ。あるいは、まだターフ上にやり残した事があるような気がし続けていた、というべきだろうか!」
あれだけGⅠレースを勝ち続け、グランドスラムや年間無敗を達成したウマ娘が、何をやり残したことがあるというのか。
通常の思考はそこで止まるだろうが、オペラオーの担当トレーナーを続けていれば、思い当たる節はあった。
「覇王を討伐しに来る勇者たちの中に……まだ、会えていない者が居た、ってところか?それこそ、今朝タキオンたちと喋っていた、ジャングルポケットとか。」
「そうとも!鷹木もタキオンさんの担当をしている内に、随分と察しが良くなったじゃないか。そうさ、確かに3年前のジャパンカップでボクに打ち勝ったシャカールくんも勇者だ……しかし、ジャングルポケットくんと競わずに、覇王が去ってしまう舞台は無い。この3年間、ボクはずっと居てもたってもいられない状態が続いていたんだ。」
さらには、ジャパンカップで引退せず、有馬記念に出走したのであれば、マンハッタンカフェとも競う運命が、可能性世界では定められていたのかもしれない。
何の根拠が無くとも、胸中にわだかまる予感がオペラオーを突き動かすに十分だったことは、鷹木にも理解できた。
「だが、メイショウドトウも、同じことを考えていたのか?今日、あれだけの走りを披露できたってことは、ドトウも引退からの3年間、ずっと鍛え続けて身体能力を維持してたはずだが。」
「ボクは、ドトウとなにも話を合わせてなどいなかったさ。けれどね、ドトウもまた引退後、自ら走ることを続けていた。打ち合わせも何もせずとも、彼女もまたボクと同じ選択を採っていたことが、ボクの復帰の決断を後押ししたことは事実だよ。」
いつもオドオドして、気弱そうなメイショウドトウ。
だが、自分の意思、感じたことについては、強情なまでに芯を通す強さも持ち合わせている。そんな彼女が、同様に現役復帰の道を断たずに身体能力維持し続けていたことは、オペラオーが自らの感覚に確信を見出す一番の材料となったのだろう。
普通の人間や、普通のウマ娘には、現実に起きていることしか見えず、現実に自分が生きている時間を進むことしか出来ない。
しかし、一つの時代を歴史のページに刻んだウマ娘たちには……この現実世界の外までをも収める視野が備わっているのだろうか。
オペラオーは、話題を切り替えるようにベンチから立ち上がり、いつになく珍しく自分が発するべき言葉を探すようにゆっくり歩き回り……おもむろに口を開いた。
「ボクは、世紀末覇王だ。」
「……お、おう……もちろん、そんな二つ名を自称できるのは、オペラオーだけだな、確かに。」
「ところで、鷹木。『世紀末』とはどういう意味か、考えたことはあるかい?」
当然の知識を答えるつもりで口を開きかけた鷹木であったが、思いもよらず説明の言葉が出てこず、当惑のままに目をぱちくりさせて口を噤む。
何となくのイメージはあった……それこそ、まさに世の終わり、黄金の時代が去って、瓦礫や砂塵ばかりの荒野と化した世界。
だが、『世紀末』という表現には、より具体的な意味が含まれているはずだった。
「えぇと、たしか、100年をひとまとまりにした単位、だっけか。オペラオーは、ちょうどひとつの世紀が終わるタイミングで年間無敗を達成したから、そう呼ばれてるんだよな。」
「その通りだ。じゃあ、ボクが年間無敗を達成したのは、何年のことだい?何世紀の終わりだったか、鷹木は言えるかい?」
鷹木はますます目を白黒させて、考え込んだ。
そもそも、大人ならば、社会人ならば容易く答えられて然るべき、一般常識である。なのに、スラスラと答えが出てこない。
ウマ娘レースについての知識豊富なトレーナーならばなおさらのこと、年代については頭に入っているべきなのだが……普段、仕事で用いているスマホやPCの画面に表示されるカレンダーには、今が西暦何年かなどいちいち表記されていない。
……そういえば、URA公式のウマ娘レースにおいても「第何回」開催であるかは表記されても「何年度」開催であるかの表記が為されることは無いようであった。
じっと答えを待っているオペラオーの前で、鷹木は必死になって記憶を漁り、自分が学生だった時代に義務的に習った歴史の授業まで記憶から引っ張り出し、ようやく答えを口にした。こんなことを答えるのに必死になっている自分を、恥じる思いや焦る思いが入り交じり、鷹木は冷や汗をながしていた。
「2000年……?そ、そうだ、ちょうど西暦2000年だ。1900年は昔すぎるし、2100年なワケないよな、うん。」
「正解だよ、鷹木。ボクは『世紀末覇王』だ、ちょうど2000年に年間無敗を達成したから、そう呼ばれた。」
そこまで喋って、オペラオーはまた一旦口を閉じた。
周囲はすっかり静かになっていた。オペラオーの語り口調が落ち着いたのもあるが、既にほぼ全てのウマ娘が寮に帰った今、練習場付近には何者の影もない。
グラウンド全体を照らす大型照明も半分が消灯し、薄暗い中でゆったりと歩き回っていたオペラオーは、再びベンチに掛けている鷹木の隣に戻ってきた。
腰を下ろしたオペラオーの横顔は、真隣りにいるにもかかわらず、急に遠ざかったように思われた。
「……鷹木、2000年は、こんなじゃなかった。」
「うん?」
「2000年は、ようやくインターネットが一般家庭に普及し始めたばかりの頃だ。携帯電話はあったけれど、スマホなんて殆ど見かけない、公衆電話も一般的に広く利用されていた。そんなに薄く、軽く持ち運べて、高性能なノートPCやタブレット端末なんて存在しなかった。」
鷹木の仕事用のカバンから突き出ているPCやタブレットを指さしながら、語るオペラオー。
彼女が何を喋っているのか、鷹木には理解できなかった。2000年とは、今からたった4年前のことだ。あの年、オペラオーの勝利のため、鷹木は同じノートPCやタブレット端末を用いて練習データをまとめ、毎日毎日トレーニングメニューを組み続けていたのだ。
それが、現実の2000年である。当たり前のようにすべての人間やウマ娘がスマホを所有しているし、公衆電話など、さびれ切った古い商店街の隅に残された過去の遺物に過ぎない。
「この世界は、既に“違って”いるんだ。だからボクたちは、運命を引き受けながらも、この世界でこそ出来ることを、為していなければならない。」
「その、えっと……?」
……オペラオーは、何を言っているんだ?
鷹木は、当惑したまま、ただじっとオペラオーを見つめた。
彼女は、いつもの“世紀末覇王”としての振る舞いをすっかり持たず、ひとりの地味な栗毛のウマ娘と化したかのように、ボソボソと喋っていた。
「ボクはオペラが好きだ。たびたび、オペラから拝借した言い回しをも好んで使わせてもらっている、鷹木も慣れているだろう。」
「あぁ、まぁ、慣れてはいないが……俺も、慣れないながらに、オペラオーが言いたいことをだいたい分かるようにはなった、かな。」
「オペラの中には、ボクたちの世界には存在しない、架空の生き物も登場する。たとえば『ニーベルングの指環』には、馬が登場するんだ。ウマ娘、ではないよ。“馬”と呼ばれる生物だ。彼らは信頼できる人間を背に乗せ、長距離を風の如く駆けるらしい。」
「へぇ……人間と信頼関係があって、走るのが得意、って点は、ウマ娘をヒントにしたんだろうか。人間を背に乗せるって発想が、どこから出たのかは分からないが。」
いちおう返答はしつつも、いよいよもって、オペラオーが言わんとするところを理解できぬまま、鷹木の頭は知恵熱でぼーっとし始めるようであった。
だが、支離滅裂な内容ではないこと、何故かこの世界の核心に近づくことを、オペラオーが語っているという実感だけは、不思議と湧いてくるのであった。タキオンから仮説を聞かされ続けている時には、決して味わえない感覚であった。
鷹木の表情がぼんやりし始めたのを見て、オペラオーは話題を打ち切った。
「あぁ……済まないね、鷹木。ボクは疲れていたのか、寝ぼけてしまっているようだ、あらぬことを口走ってしまったよ。今日は朝いちから走って、そのあと理事長のもとで打ち合わせしたり、懐かしい顔ぶれに会いに行ったりしていたものだからね……」
「お、おう。身体能力の維持は続けてきたとはいえ、練習環境に戻るのも久々なんだ。無理をしないで、今夜はしっかり体を休めてくれ。寮の部屋には入れたのか?荷物の片づけは済んでるのか?」
「問題ない、今日の昼までに済ませておいたさ。じゃあ……おやすみ、鷹木。」
そう言って立ち上がり、スタスタと去っていくオペラオー。
いつも浮かべている笑顔は薄れ、普段まず見せることのない真顔のままであった。彼女が睡魔に囚われているのならば、寮の前まで送っていくべきかと鷹木は考えかけたが、オペラオーの足取りは存外にしっかりしていた。
すなわち、先ほどの発言は朦朧とした状態ではなく、完全にオペラオーの理性が語らせた内容ということだろうか。
これ以上、思考を深入りさせると、自分の正気すらも保てなくなる。そう考えかけた鷹木は、このことを一旦頭から追い出そうと首を横に振りながら立ち上がった。
「……鷹木!」
「わっ……な、何だ、オペラオー?」
スタスタと立ち去って行ったはずのオペラオーが、立ち止まってこちらを振り返っている。
あまりにも想定外の振る舞いを前に、ビクッと肩を震わせて返答した鷹木であったが、オペラオーの表情は先ほどの遠さを薄れさせ、またいつも通りに朗らかな顔を栗毛の下に覗かせていた。
まるで、舞台に現れた主役を照らすかのように、グラウンドの照明がオペラオーにスポットライトを当てていた。
「改めてになるが、明日からの指導をよろしく頼むよ!天に喜び満ちるまで、キミの願いを、ボクたちに託してくれたまえ!そう、ボクだけじゃない、これまで通りタキオンさんにも、ヒシミラクルさんにも!」
「……あ、あぁ、当然だ。」
既にオペラオーの表情に笑みは取り戻されている。彼女は今度こそ鷹木に背を向け、寮の自室へと帰っていった。
あの笑顔を浮かべている時、オペラオーは『オペラオー』たるウマ娘として振舞っているのだ。そんなことに、鷹木は今さら気づいたようであった。