有馬記念までの限られた期間、3名のウマ娘への指導を並行して行っている鷹木。
むろん、有馬出走が決定されたウマ娘たちのためとなれば、担当トレーナー個人に全てが任せきられることはなく、学園からも指導をサポートするコーチやスタッフがあてがわれる。
とはいえ、担当ウマ娘のことを一番よく理解しているトレーナーが主導であるべき状況に変わりはない。
「……では、昨日掲示した通りのトレーニングメニューで、皆さん本日もよろしくお願いします。自分は一旦離れますが、午前9時までには学園に帰ってきますので、何かあれば俺のスマホに連絡お願いします。」
その日も、練習場に招集したスタッフたちとの早朝ミーティングを行った後、鷹木は最重要事項のためにいったん学園の外へと出かけて行った。
学園に蹄鉄を卸している工房へ向かい、オーダーメイドの蹄鉄の出来を確認するためである。
GⅠクラスのウマ娘となれば、蹄鉄も市販の量産品ではなく、個々の脚や走りに合わせた特注品を熟練の職人が手掛けることになる。
むろん、アグネスタキオンも、ヒシミラクルも、そしてテイエムオペラオーも、既にそれぞれあつらえた規格の蹄鉄を用いている。が、同じウマ娘でも成長や走りの変化によって、その都度最適なものへ作りかえることは珍しくない。
今回は、3年ぶりに復帰したテイエムオペラオーの走りを確認した鷹木が、現時点でのオペラオーに合わせた蹄鉄を発注したのであった。
「会える時刻を無理してこちらに合わせてもらったが……職人さんのこと、怒らせてしまってない……よな?」
鷹木が気にしていたのは、アポイントメントを取る際の通話にて、多少無理を言った件についてであった。
指導をサポートするスタッフがいるとはいえ、当然ながら、ウマ娘の担当トレーナーが指導時間中に練習場を離れないに越したことはない。
ゆえに鷹木は、練習時間が終わった後の夜に蹄鉄の確認に向かうつもりであった。翌朝すぐにオペラオー自身に新たな蹄鉄を打ったシューズで走ってもらい、不具合があれば同日に注文を付けることができる。あるいは学園内に蹄鉄を持ってきてもらえれば、職人の目の前で蹄鉄を試し、その場で調整を入れられる……と考えていた。
だが、蹄鉄職人の側にも都合はある。
GⅠクラスのウマ娘だけが対象とはいえ、毎日膨大な数の蹄鉄を、工場のような量産体制ではない、少数の従業員とともに手作業で行っているのだ。作業の詰めと翌朝に備えての片付けに追われる夜間に空き時間はないし、ましてや職人みずから学園に出向く暇などありはしない。
空いている時間には限りがあるから昼休憩を行う正午に来い、と告げられ、鷹木の側も首肯できはしなかった。
確かに休憩時間はウマ娘担当トレーナーも設けるが、それはウマ娘を休ませるためであり、トレーナーはトレーニングのデータ整理、その後の調整方針を確定するために時間を無駄に出来ない。特に昼休憩時間は、午前中のウマ娘の調子に基づいて、その日の午後以降の調整内容を決める重要な時間である。
結局、双方の意見の折衝案として、まだウマ娘がウォーミングアップに時間を割く早朝、鷹木が工房に向かうということで落ち着いたのであった。
「……まぁ、どちらの立場にしても、ほぼ初の状況だからな。3年ぶりに復帰してきたウマ娘が、3週間もたたずに本番レースへ……それも、有馬記念に出るだなんて。」
十分な時間的余裕もない中で、鷹木が送信した画像や細かな注文書き、あとは職人自身が3年前に作ったテイエムオペラオー専用の蹄鉄規格を元に、仕事をしてもらっているのだ。GⅠウマ娘の担当トレーナーだからといって、こちらの都合だけを職人へ押し付けるわけにもいかない。
今日も日が暮れるまで、トレセン学園の内外を駆けずり回る羽目になることを覚悟しつつ、鷹木は足早に歩を進めていった。
トレセン学園へオーダーメイドの蹄鉄を卸している工房は、学園近くの商店街を通り、細い路地へ入った先、往来の賑わいから忘れ去られたような一角にある。
今の時間帯は、まだ商店街にも買い物客はおらず、シャッターが半開きになったあちこちの店先では品出し作業が行われている頃であった。営業時間中とはまた違った、気ぜわしい喧噪を通り抜けて路地へ入れば、間もなく金属を打つ鎚の音が聞こえてくる。
工房では、既に入り口近くに鷹木の注文通りの蹄鉄が並べられていた。鷹木自身が細かに指定を入れた、その通りの調整が施されている……と、職人自身から説明される前に分かったのである。
長年にわたってGⅠバの蹄鉄を打ち続けてきた職人は、今は既に別のウマ娘用の蹄鉄製作にとりかかっていたが、工房入り口に姿を見せた鷹木へジロッと横目を遣り、顎先で示すように顔を動かしながらボソッと告げた。
「それだ。」
「ど、どうも、ご無理を申し上げてすみません……ありがとうございます。」
表情などとっくの昔に失ったかのように、硬い皺だらけの皮膚に覆われた顔、最低限の言葉だけしか口にしない老職人の外見からは、彼の機嫌を読み取ることは困難である。
だが、有馬記念に出るウマ娘のため、彼が確かな仕事を為したことは、作業台の上に丁寧に並べられた蹄鉄の仕上がりからも見てとれた。
すべて手作業であるおかげで、量産品では再現できない調整が施されている。特に有馬記念の右回りコース、最終直線に入る先行の位置での攻防で特に強い力が脚にかかるオペラオーにあわせ、右脚用の蹄鉄は足首にねじれの力が加わらぬよう外側部分を僅かに伸長させてほしい、との鷹木の注文もミリ以下の単位で正確に作られている。
右脚用、左脚用それぞれ異なる微細な調整を施し、予備も含めて5組、計10枚の蹄鉄。
鷹木がやってくる時刻よりも先に、これら注文の品を作り上げるため、夜が明けるずっと前から職人が作業を開始していただろうことは明白であった。
「……あらためまして、本当に、お忙しい時期に無茶を言ってしまいまして、恐縮です……」
「何かあれば、また持ってこい。打ち直す。」
ペコペコと頭を下げている鷹木に対し、既に職人は視線を向けず、やはり言葉少なにボソボソと語るだけであった。
それは遠回しに、さっさと学園に戻って新たな蹄鉄を試せ、と言っているようでもあった。確かに、この場で無駄に感謝の言葉を連発しているよりは、早々にオペラオー自身に蹄鉄を使ってもらい、走り心地を確かめる時間を設けた方が生産的である。何しろ本番までの猶予はほぼ無いのだ、工房でも有馬記念に出走する他のウマ娘用の蹄鉄を打ち続けねばならない。
口を閉じた鷹木は、注文通りに作られた品を、持参していた蹄鉄用ケースに丁寧に収め、あらためてペコリと頭を下げ、鎚の音に背を向けて工房から出て行こうとした。
……が、出口の脇、打ち損じの蹄鉄が積まれている場所で、しゃがみ込んでいる何者かの姿が視界に入り、歩を止めた。
後ろ姿からも、それがウマ娘であることは頭にピンと立った耳で判別できたし……そもそも、鷹木にとってあまりにも見慣れ過ぎた姿ゆえ、顔を確認せずとも何者であるかはすぐわかった。
「タキオン、なんでここに来てるんだ。今日は集団指導のコーチにも来てもらって、フルゲート出走時の立ち回り練習をやる予定だぞ、今すぐトレセンに戻るんだ。」
「分かっているねぇ、とはいえ練習開始時刻にはまだまだ早いからねぇ。どうせウォーミングアップでジョギングするのならば、トレーナーくんが向かった方へ行くのも一興だと思っただけだねぇ。」
鷹木の方を振り返りもせず、タキオンは返事しつつ立ち上がる。
先ほどまで彼女がしゃがみ込んで見ていたのは、打ち損じの蹄鉄のひとつであった。それが誰に合わせて作られたものか、特徴から推察するのがタキオンにとっては楽しかったのだろうか。
共にトレセン学園へ戻るよう促しつつも、鷹木としてはどこか懐かしい状況であった。
「……そういや、ここだったな。俺がタキオンに初めて会ったのは。たしか2年前の春前、新米トレーナーになったキングヘイローと一緒に、ここで打たれた蹄鉄を受け取りに来た時だ。」
「おや、覚えていたのかい。いやはや、今となっては余り鮮明に覚えていてもらいたくもない記憶だねぇ。私は随分と浮かれてしまっていたからねぇ、いよいよ特異点たるウマ娘に近付く糸口を捉えたのだと舞い上がってしまってねぇ。」
「ま、確かに、変なウマ娘だって印象はバッチリ残ったけどな。」
奇抜な言動、独特な言葉選び。トレセン学園に入学する前のアグネスタキオンは、おそらく当時から“特異点”なる仮説を自らの内に有していたのだろう、世紀末覇王を担当した鷹木との関わりを得ることを優先していたのだ。
今になって思い返して見れば、あの時のタキオンはことさらに変わり者としてのアピールに余念がなかったようであった。
「入学式の日に爆発を起こした問題行動もあって、晴れて問題児として俺の担当に決まったワケだが……実際の所、どうだったんだ?毎度、目立つことをやろうとするたび、前もって台本を作っていたりしたのか?」
「まだ掘り返すつもりかい、私は思い出してもらいたくないと言っているのに!……まぁ、たしかにトレーナーくんをあてがわれるための計算ずくの行動だと言われれば否定はしないがねぇ、しかし言動自体は私も素面の状態でスラスラ出てきたのだから、あながち芝居とも言い切れないねぇ。」
「そうか、じゃあ問題児担当になりがちな俺と会う展開も、偶然と必然が半々だった、ってところか。」
鷹木のその言葉に、タキオンは頷いた。
正確には、縦に首を振って頷く動作のまま、殆ど項垂れるような仕草であった。
そのまま、暫し何らかの物思いを続けて沈黙したタキオンは、少し言いづらいことを脳内でまとめ終えたのか、あらためて口を開いた。
「……そうだねぇ、偶然と必然が半々、とは言い得て妙だ。私が常々口にする仮説、可能性世界からの干渉もまた同じような状態に落ち着くのが妥当なのかもしれない。要するに、前もって定められた選択を全て受け入れるわけにはいかずとも、一部は可能性世界を参照した展開をも残さねばならないと私は考えている。具体的に説明するには少々難儀するが……ちょっと、聞いているのかい、トレーナーくん!」
「すまん、タキオン……ただ、ちょっと待ってくれ……」
せっかく、自分が言葉選びに難渋しながら語っているというのに、そっぽを向いて話を聞いていない様子の鷹木を前にタキオンは不満顔である。
とはいえ、彼の視線が向かう先を目で追い、さほど時間もかけず鷹木の関心が何に囚われているのかタキオンも理解した。
鷹木は、トレセン学園へ戻るのとは反対方向、商店街の出口の先を見ていた。
即ち、そこから先には府中市の街並みがある。
「今の時刻は……午前8時過ぎたところ、だよな。なんか……ぜんぜん、人も、車両も、通行してないんだが。」
「そんなはずはないねぇ、府中市は東京の中でも随一の住宅街かつ繁華街だ。地元店舗の営業準備にしても、都心の職場へ向かうにしても、そろそろ交通ラッシュが始まる頃のはずだがねぇ。」
つい先ほどは率先してトレセン学園へ戻るように言っていた鷹木が、帰り道とは反対方向へ歩き出し、タキオンも彼と並んで商店街の出口へ向かった。
思えば、鷹木が外出の機会を得ることは殆ど無かった。基本的にはトレセン学園内で指導にあたり、休日もトレーナー寮の自室で練習データの整理をし、担当の出走日にはレース場へと向かう。遠出と言えば、夏季の合宿所へ向かう以外にない。
だから、こうして用事もなく街へと歩み出ることなど今まで無かったのだ。
府中市がまるごと無人のゴーストタウンと化したのか、とも思われるほどの光景を前にして、鷹木の隣ではタキオンも目を丸くしている。
「……ニュースでは、何も言っていなかったねぇ?災害が起きたとか、感染症が拡大したとか……あるいは、大型連休で皆が行楽地へ旅行に出かけた、とか。」
「そんなニュースはない、今日は何の変哲もない平日だ。だから、住民が忽然として消えただなんてことは……」
背後から軽くクラクションを鳴らされ、慌てて道を空ける鷹木。
先ほどまで商店街の中で品物の荷下ろしをしていたのだろう、軽トラックが商店街の出口から街へと走り去っていく。
その車体を見送りながら、鷹木は改めて言葉を継いだ。
「住民が消えただなんてことは、無いはずだ。交通量もゼロじゃない、電車も動いてるし、よく見たら車両にも乗客がいる。うん、朝だし、偶然、外出してる人が少なかっただけだろう。」
「そうかねぇ?先ほども言ったが、朝の8時となれば、通勤ラッシュが始まって良い頃だがねぇ?東京の中でも特に住民数が多い府中市の朝が、こんな光景になるかねぇ?」
目の前に見えている現実に、どうにか納得しようとして鷹木がひねり出した理屈であったが、タキオンの疑念を解消する役には立ちそうになかった。
いくら無人ではないことが確認できたとはいえ、大都会のど真ん中、これから住民たちの生活が開始される朝の時間帯に、交通量が疎らであるはずがないのだ。
人口そのものが減っているわけではないことは明白だった。ウマ娘レースが開催されるたびに、レース場には数万人単位で観客が詰めかけ、観戦スタンドは満員になる。つい先月のジャパンカップでも、同様の光景が見られたのだ。
今見えている光景が異変の結果であるとすれば、それはタキオンの語った仮説の通り、この現実世界が参照元となる可能性世界からかけ離れていっている影響の表れなのかもしれない。
観戦客が何万人もいるというのに歓声がほぼ聞こえないという、現状のレースにおける異変は、氷山の一角だったのだ。
「実際に多数の行方不明者が出れば、ニュースにならないはずもないねぇ。しかし商店街の住民も、あのように何事もなく日常通りに行動しているねぇ。すなわち、現実においては何も異常はなく、観測者たる我々の認識だけがおかしくなっているのかもしれないねぇ。」
「……どういう意味だ?実はたくさん人が歩いているけれど、俺の視界では透明になってしまって、見えていない、とか?」
「だったら、既に姿の見えない何者かと我々がぶつかっているはずだねぇ。これは視覚の問題じゃない、観測上の話だねぇ。要するに、観測されていない対象は存在しないも同然だということだねぇ。特に、ウマ娘とトレーナーは、ウマ娘レースに関わる事項にしか意識を向けない。今朝のような機会でもない限り、用事の無い街並みに出かけて光景を眺め渡すような真似などしないだろう?」
タキオンは、彼女なりに導き出した憶測をスラスラと述べていたが、それはタキオン自身の不安を紛らわせるため口数を増やしているに過ぎない、と鷹木には見てとれていた。
鷹木は、タキオン独自の理屈を理解しようとすることよりも、タキオンが必要以上の不安を抱えてしまっていないか、その表情を凝視する方に自らの神経を集中させていた。
「だから……つまり……我々は、確かにウマ娘レースにおいて、望ましくない展開を拒み、トレーナーとウマ娘の意思を共に形として、新たな可能性を切りひらくことは出来たわけだねぇ。私は引退を免れ今も現役続行できているし、カフェはフランス遠征を中止して国内レースを続けている。そしてオペラオー先輩とドトウ先輩は現役復帰、3年前は実現しようがなかったポッケくんやカフェとの直接対決を可能にしたねぇ。」
「あぁ。どれも、担当トレーナーが、ウマ娘の選択に影響したから、実現したことだ。」
「しかし、この世界はレース場だけが全てじゃない。可能性世界から切り離された、この現実世界の全てを、常に観測し続けることは出来ないわけだから、観測者の関心事が及ばぬ領域は、ゆっくりと現実性を失っていっているのかもしれないねぇ。本来の可能性ではあり得なかった展開が確定した時、その影響が波及する先を完璧に我々が認識することなど不可能なわけだし……。」
「タキオン。戻ろう。トレセン学園に。今は、結論が出せないことだ。」
タキオンの顔から血の気が薄れ始めたのを見てとった鷹木は、彼女の言を遮った。タキオンも、彼の思惑には気づいたのか、特に不平を言うこともなくおとなしく従った。
踵を返し、再び商店街を通り抜けてトレセン学園への帰途へと就く鷹木とタキオン。
そろそろ開店準備も済み、営業開始の早い店舗には客も寄っている。さきほど、ほぼ人が歩いていない府中の街並みを見た後では、この商店街だけがやけに繁盛しているギャップがますます不気味であった。
おそらくは、トレセン学園所属トレーナーも、ウマ娘も、この学園間近の商店街にだけは頻繁に立ち寄るためであろう。
そのなかに可能性世界から外れる選択へと進んだ特異点たるウマ娘がいれば、彼女も商店街の光景は毎日“観測”するだろう。
だからこそ、この場所だけは変わらないのだ。人通りも、店構えも、商店街の中の光景の全てが。
「……すこし道草を食ってしまったねぇ、遅刻しそうな件を学園に連絡しなくても良いかい?」
「いや、まだ余裕はある。とはいえ、せっかくウォーミングアップしたのに体温が下がってしまったな。駆け足で戻ろうか、タキオン。」
古びた店構えの駄菓子屋、過去のままの姿で設置されている公衆電話。
鷹木とタキオンは、それらに視線を向けることなく、背後から迫ってくる寒気から逃れようとするかのように、足を速めて商店街から去っていった。