探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 大舞台までの日程が縮まっていく時期ともなればあり得ない話ではないのだが、タキオンの練習への熱の入れようが少々異様なまでに高まっていることを鷹木は案じていた。もとより、過剰な負荷には脆い身体であることはクラシック級の時から自覚があったろうし、シニア級となった今年の序盤も屈腱炎の再発を経験しているタキオン。鷹木の判断でいったんトレーニングに休日を設けられたタキオンは、それを狙っていたかのように、あるライバルの練習場へと向かったのであった。


問われて浮かぶは未完の可能性

 有馬記念まで、残り2週間。変わらず鷹木は、ごく限られた期間内に3名のウマ娘の指導を並行して行わねばならない多忙の極みに身を置いていたが、出走に向けた調整自体は順調であった。

 

 アグネスタキオンとヒシミラクルについては、それぞれ秋の天皇賞および菊花賞で走り終えた後、ジャパンカップへの出走回避を早々に決めていたため時間的猶予は充分である。突如の復帰となったテイエムオペラオーについても、元より復帰を前提とした身体能力維持、自主的なトレーニングを続けていたため文字通りの最終調整に専念することが出来ている。

 

 競走相手たる面々、互いに本番での作戦を見せ合うわけにいかないため練習場所も3名それぞれ別である。必然的に鷹木が直接指導に当たれる時間は三分割されていたが、オペラオーやタキオンは無論のこと、ミラ子もサボり癖を発揮することはなかった。

 

 今年の有馬記念が大舞台であることのみならず、ウマ娘レース史において最も重要な局面を迎えつつある実感が、平時ノンビリしているミラ子の中にも確実に抱かれていたのだ。

 

「そうは言ぅてもですねトレーナーさん、ノンビリできてる方を傍目に鍛錬しなきゃならない、ってなると話は別なんですよ。なんでまた今日はタキオンさんだけ休憩日なんです?私も同時に休みにしてもらってもいいんじゃないですかね。」

 

「休息を入れるタイミングは予定通りのスケジュールに徹するわけじゃない、現時点での必要練習量や負荷蓄積で決めているんだ。タキオンはこのところかなり熱心に走り込んでいた、熱が入り過ぎるぐらいに。ミラ子も最近は真面目に練習を続けてくれているが、タキオンに届くほどではないってことだ。」

 

「いやーどうですかねー、私って外見上ノンビリしてるように見られがちなだけ、って説もありませんかねぇ。」

 

 ぶつくさ言いつつも、タキオンを引き合いに出されては説得力も覆せないと分かっているのか、ヒシミラクルはウォーミングアップを終えて練習コースへ入っていく。

 

 確かに、その日のアグネスタキオンのトレーニングを休みとした判断は、予定外であったが鷹木が急遽決定したものだった。有馬記念への出走日が近づくにつれ、タキオンの練習への熱の入れようは少し異様なまでに高まっていた。

 

 むろん、レースに勝つため、という目標には間違いないだろう。実際、なぜそんなにも我が身に鞭打つのか、と問われればタキオンはそう答えただろう。

 

 だが、3年間彼女を見続けてきた鷹木の目には、その裏に別の意思が透けて見えていた。

 

「去年の皐月賞前の時と同じだ、今のタキオンは。まるで、自分の走りが、このレースで終わりになっても良いと言わんばかりだ。」

 

 練習コース上を走っていくヒシミラクルを見つめながら、鷹木はブツブツと独り呟いていた。

 

 昨年の皐月賞では、タキオンは限界を超え、可能性世界の先を見るため、全身全霊の力を出し切って走り抜く腹積もりであった。それはタキオン自身の意思ではありつつも、やはり可能性世界による既定に干渉された選択であったろう。そのまま進めば、タキオンは皐月賞を最後に引退することになっただろう。

 

 当時のタキオン自身、その展開も想定し承諾していたのだ……鷹木が意を翻させ、仮に脚に不調が生じたとしても現役復帰を可能とするよう、力をセーブして走るように説得するまでは。

 

 そして今、シニア級最後のレース、有馬記念を前にして、タキオンの走りには皐月賞の時と同じ意思が垣間見えていた。

 

「確かに、皐月賞と天皇賞秋をクラシック級で勝ち、さらにシニア級まで現役続行し、有馬出走をラストランとするのはGⅠウマ娘として十分すぎるキャリアかもしれないが……だからといって、身体を壊してしまうのは良い終わり方じゃないんだ、タキオン。」

 

 昨日、タキオンに休憩日をとるよう説得した時に発したのと同じ言葉を、鷹木は今も口の中で反芻していた。

 

 ウマ娘の生涯は引退後も続くのだ。確かに有馬記念はウマ娘レースの中で最も大きな一区切りではある。特に、今年の有馬記念は、この現実世界を歪ませつつある異常現象にひとつの決着を見出す機会だ、との予感は鷹木個人の中でも日々高まっている。

 

 その有馬記念を乗り越えた後も、ウマ娘として走り続ける、引退するとしても平穏な日常を営む。そんな将来の見通しを現実視すれば、ますますタキオンが走りへ異様な熱を入れている様には、不安をかきたてられるのであった。

 

 胸中に抱く思いにトレーナーが気づいていることは、タキオン自身も認識していた。

 

 休息をとるよう強いる鷹木に対し、タキオンが何とも言い返さなかったのは、担当トレーナーとしての思い遣りを酌んだためでもあったが……同時に、自分の意思を決定づける確証を未だ得られていないためであった。

 

「望まぬ運命を拒んだ特異点たるウマ娘の存在が、この現実世界を歪めていくのならば……可能性世界の既定通りの運命をたどるウマ娘もまた、同数必要なのかねぇ。」

 

 一日の休息を言い渡されたとはいえ、じっとしてはいられないタキオン。

 

 今、彼女はひとつの個別練習場の入り口前に立ち、約束の時刻を待っていた。GⅠ出走ウマ娘だけが利用を許可される個別練習場には、現在は当然ながら有馬記念出走を控えたウマ娘がいる。

 

 同じく有馬で競い合うタキオンが、練習風景を覗き見ることは避けるべきであり、親しい仲としてちょっと会うだけのことであっても事前に面会の時刻を厳密に定める必要があった。

 

 とはいえ、いつもならアポ無しでふらりと訪れるタキオンが、わざわざ丁寧に面会の約束を取り付ける振る舞いは、相手方からは少々滑稽に感じられたらしい。

 

 約束の時刻には数分早かったが、予告なしに内側から開かれた扉の勢い、ついでに発された声の大きさに、タキオンは小さく跳びあがった。

 

「よ!!タキオン!!!」

 

「わぁっ!?……からかうのもほどほどにしたまえよ、ジャングルポケットくん。」

 

「悪ィ、タキオンが神妙な顔してんのを見たら、つい、な。」

 

 扉を開けて大声で出迎えたのは、ジャングルポケット。タキオンが虚を突かれて跳びあがっているところを見て、ご満悦な様子である。

 

 実際、タキオンが思慮に沈んでいたのは事実であり、屈託なく笑っているジャングルポケットを目の前にしてようやくいつもの調子を取り戻すことが出来た。

 

 それでもジャングルポケットの方が、遥かに口数が多くなっていたが。

 

「ンだよ改まって、都合の良い時間をわざわざ聞いてから会いに来るだなんてタキオンらしくねーな。おい、まさか有馬も回避するとか言うんじゃねーだろうな?」

 

「無論、有馬出走の意思を翻すことなど無いとも。ジャングルポケットくんと久々に直接対決出来る機会なのだから……いつ以来だい、まさか、1年越しかい?」

 

「そーだよ、タキオン、今年はお前が大阪杯の後で故障再発しちまって、春の天皇賞に出てこれなかったし、俺は秋の天皇賞に出られなかった。ジャパンカップはお前が回避したから、結局去年の有馬以来の対決じゃねーか。」

 

「思い返すほどに、可能性というものはままならないものだねぇ。当然今年は私とポッケくんがシニア級にて競い合うものと世間からも思われていただろうに、おあずけがこうも延びてしまうとはねぇ。」

 

 ようやく口先が温まり始めたタキオンは、ジャングルポケットと喋りながらも練習場内に入っていく。

 

 ちょうど今、ジャングルポケットのトレーニングを見ていたのはキングヘイローであった。桂崎トレーナーのチームのサブトレーナーとしての実地経験も通算3年、いよいよ本格的にトレーナーとしての風格も十分なキングを前にして、タキオンは自然と頭を垂れて会釈していた。

 

「ご無沙汰だねぇ、キングヘイロートレーナー。いや……もう単に『トレーナー』とのみ呼ぶべきかねぇ。」

 

「来年以降、私の教え子になるウマ娘たちからは、ね。けれどもアグネスタキオンさん、あなたからは『先輩』と呼んでもらえる日が来るかもしれないわ。」

 

「要するに、私もまたトレーナーとなって教え子をもつ、ということかい?いやはや、こんな偏屈なウマ娘に、トレーナー業が務まると思うかい?」

 

「私が見る分には、後進の子たちを導く才能は充分だと思うわよ、タキオンさん。」

 

 傍らで“あり得ない”と肩をすくめて首を横に振っていたポッケであったが、キングの言葉を聞いて目を見開き、動作が固まっている。

 

 確かに、自前の仮説や憶測の中に埋没して行きがちなタキオンは、教え子をもつにはあまりにも個性的が過ぎる性格ではあったが、しかし様々なウマ娘の成長や走り、本番の作戦を分析する能力は本物である。

 

「まぁ、キング先輩からそう言われるのは悪い気はしないがねぇ……しかし、うん、身近な所で思い返せば、オペラオー先輩やヒシミラクルくんよりは私の方が、後輩を教える才覚はある気がしてきたねぇ。」

 

「いい気になってんじゃねーよタキオン……いや確かにその面々と比べたら、そうかもしれねーけどよ。」

 

 タキオンにツッコミを入れかけたジャングルポケットは、しかしその言葉の途中で首を縦に振った。

 

 オペラオーに関してはあらゆる局面に対処しうる多才さゆえ、ヒシミラクルに関しては生来の潤沢過ぎるスタミナゆえ、いずれも他者には易々とは真似できない勝ち方を、彼女ら自身も後輩に教えることは難しいだろう。

 

 練習場入り口から休憩エリアのベンチまで移動した面々は腰を下ろし、数カ月ぶりの歓談に耽った。

 

「オペラオー先輩、鷹木トレーナーん所に居るんだよな?いっつもどんな話してんだ、タキオン。」

 

「ポッケくんが期待しているほどは、私もさほど絡みに行っているわけでは無いねぇ。もちろん関心はあるが同じ有馬記念に出走する以上、練習風景を覗き見に行くわけにもいかない。それにこの私とて、少なくとも先輩相手には遠慮もするさ。」

 

「お前の中に遠慮だなんて言葉があったとはな。そーいやキングさんは、オペラオー先輩と絡んだことあんのか?」

 

「えぇ、もちろんよ。何だったら、黄金世代のなかで私が一番、オペラオーさんと関わった機会が多いかもしれないほどね。」

 

 実際にキングヘイローがテイエムオペラオーと競った場は、4年前の有馬記念、そのただ一度であったが、レース以外の場においてはオペラオーの側からキングを慕って会いに行く機会は幾度かあった。

 

 覇王の称号が単なる自称であった時期からオペラオーは、王を名に冠するキングヘイローのレースを欠かさず観ていた。時にはプライベートで商店街の福引に夢中になっているキングに遭遇し、共にひと騒動盛り上げることもあった。

 

「懐かしいわ、あの時は当たりが出るまでムキになって引き続けて、ハズレのポケットティッシュを山のように抱えて帰る羽目になったのよね……。」

 

「オペラオー先輩も、それを止めることなく一緒になって続けたのだねぇ、彼女らしいねぇ。ところで、あの商店街の福引、誰か当たりを引いた者は居るのかねぇ?特賞は温泉旅行券だと聞くがねぇ。」

 

「温泉ではないけれど、あの日、エアシャカールさんがにんじんハンバーグを一発で当てたのは見たわよ。その場で食するように言われて、流石に戸惑っていたけれどね。」

 

「ほう!やはりシャカール先輩は普通ではないのだねぇ、特異点たる素質は当初からあったのだねぇ!」

 

 自分が知り得ない、タキオン入学前のオペラオーやシャカールの話をキングから聞かされ、好奇心の刺激とともに平時の調子を取り戻したタキオン。

 

 彼女の様子を窺ったうえで、ジャングルポケットは気になっていた本題へと入った。

 

「んで、タキオン。楽しくおしゃべりすんのもいいけどよ、そもそもオレに話があって来たんじゃねーのか?何の用だよ、今日は。」

 

「あぁ……いや、その、実際に口にすると、わざわざ聞くほどのことか、ともなりかねない話題なのだがねぇ。ジャングルポケットくん、キミは……オペラオー先輩に勝てるつもりかい?」

 

「あン?なんだぁタキオン、オレにケンカ売りに来たのか?まさか、お前自身がオペラオーを前にして、縮み上がっちまう器じゃねーだろうしよ。オレが勝つに決まってんだろーが。」

 

 威勢の良すぎるジャングルポケットの返答を聞かされつつ、タキオンも予想通りの反応だと頷きながら受け止めている。

 

 タキオンがポッケを煽りに来ること自体は、これまでにもあったことだが……やり取りを傍から見ていたキングヘイローは、タキオンの表情に言葉面以上の意味合いを見出していた。

 

「タキオンさん、あなたが尋ねたいのは、ジャングルポケットさんの能力についての不安ではなくて、突然復帰と参戦を決めたオペラオーさんに対する意気込み、みたいなものかしら?」

 

「そう、その通りだよキングトレーナー。私の言語化が下手な部分を補ってくれて有難いねぇ、そうとも、オペラオー先輩だけじゃない、ドトウ先輩も共に、唐突な復帰が公表されたのがつい先週だ。ジャングルポケットくんが変に戸惑いを抱えてしまっていないか、私は気がかりなんだ。せっかく、私との対決が実現する舞台だというのにねぇ。」

 

「ンだよ、今度は競走相手に気をつかってられる余裕アピールか?さっきも言ったが、今年の有馬はオレが勝つ。タキオン、お前が俺に勝てねー心配でもしてろ。つーか、心配するならクリスエスも無視できねーだろ、アイツ今すげー強くなってんぞ。」

 

 そこまで一気に喋ったジャングルポケットだが、こちらもようやく、タキオンが言外に伝えようとしていたニュアンスを顔つきから僅かに読み取れたようであった。

 

 ジャングルポケットと直接対決し、また共に出走していない時もライバルの走りをじっくり観察しているタキオンが、ジャングルポケットの実力のほどを疑うはずもない。能力面から勝ち負けの心配をするなら、まさに現役世代のトップクラスに到達してなお本格化が進行している、シンボリクリスエスの名を真っ先に上げるはずだ。

 

 敢えて、ジャングルポケットの面前でテイエムオペラオーの名前が挙げられた理由は、ポッケ自身も自らの胸中を顧みてようやく理解できるところであった。

 

「まーその……なんつーか、オペラオー先輩とオレ、いつか競走すんじゃねーかって、勝手に、漠然と思ってた時期もあったけどな。」

 

「……ほう?やはり、ジャングルポケットくん自身も、そう感じていたのかい?」

 

「んなもん、トレセン学園に入る前の話だ。GⅠなんて簡単に行けると思い込んでた、世間知らずな頃だったし……それに、オレが入学する前の年にオペラオー先輩は引退しちまったから、結局有り得ねー夢で終わったもんだと思った。」

 

「だが、今、オペラオー先輩は復帰し、今年の有馬を走るのだからねぇ。」

 

「あぁ、妙な流れだけど、何年越しかで夢がかなうってワケだ。オレは世紀末覇王に勝つ……ま、それ以外にだって、勝ちてぇ相手ばっかりの有馬になるんだけどな!」

 

 信頼のある相手でなければまず語られることのない、ジャングルポケットの思い。それを確認できたタキオンは、ようやく心底に僅かな安堵を付け加えることが出来たようだった。

 

 テイエムオペラオーと競い、勝利するはずだったウマ娘。マンハッタンカフェと、ジャングルポケット。

 

 可能性世界での展開を、遅ればせながらも今年の有馬で再現できるならば……このウマ娘がいる現実世界が可能性から乖離していく現象も、抑えられるかもしれない。

 

 コンコン、と金属扉をノックする硬い音が響く。

 

 今ごろ誰がこの練習場を尋ねてきたのか、とジャングルポケットとキングヘイローは顔を見合わせるが、時刻を確認したタキオンは疑念の色無く立ち上がって出迎えに行った。

 

「ジャングルポケットくんの休憩時間に合わせて会えるように呼んでおいたのだが、ぴったり時刻通りに来てくれたねぇ。」

 

「おい、オレの練習場を勝手に待ち合わせ場所にしてんじゃねーよ。そういうことか、妙に律儀に会える時刻を確認してきたのは。ったくタキオン、勝手に誰を呼び寄せやがった……」

 

 タキオンに対するポッケの愚痴は、扉が開いて訪問者が顔を覗かせた瞬間に語気を薄れさせた。

 

 やって来たのは、ダンツフレームだった。

 

「呼んでくれてありがとう、ポッケちゃん、タキオンちゃんも、揃ってお喋りするの、久しぶりだね。」

 

「お、おう……まぁ座れよ、ダンツ。」

 

「いや呼んだのは私だねぇ。勝手にダンツくんを呼んだことに対して怒っていた数秒前から、急激すぎる掌返しだねぇポッケくん。」

 

 タキオンからのツッコミを聞き流しつつ、ダンツフレームを自分の隣席へと招き寄せるジャングルポケット。

 

 ダンツフレームと対話するのはタキオンにとって、京阪杯のタップダンスシチーを共に観戦した時以来であった。ジャングルポケットも揃ってとなれば、夏合宿以来である。

 

 とはいえ、ポッケの方でも何かとダンツの事を気にかけてはいたらしい。

 

「にしても、マジで楽しみだな、ダンツともまた走れるんだからよ!去年のダービーでオレに迫ってきたあの走り、また味わわせてくれよ!」

 

「そういやダンツくんとポッケくんが競うのは、まさに昨年の日本ダービー以来だねぇ……今年の宝塚記念は私もポッケ君も回避してしまったし、私の場合ダンツくんと競うのは、皐月賞以来か!」

 

「併走練習なら、時々一緒にやっていたけれどね、ミラ子ちゃんとも。だけど本番が近づいてくる感じは、やっぱ練習とは全然違うね、久々で楽しみだなぁ。」

 

「まー無理は出来ねーからな。久々になっちまうのも仕方ねーよ。」

 

 今年に入ってからは宝塚記念の後、夏を挟んで毎日王冠に出走して以降はレース本番への出走をずっと見送っていたダンツフレーム。

 

 練習の場以外で顔を合わせることが無かったのも無理はない。毎日王冠の出走後、担当の結城トレーナーから呼吸器系に負荷がかかり過ぎていると判断を下され、ダンツフレームは天皇賞秋やマイルチャンピオンシップへの出走を回避したのだ。

 

 実際に病気として発症するほどに体調が悪化しなかった以上、出走回避の判断が適切であったと断言できる材料はなかったが……レジェンド級人物である結城トレーナーが下した判断は、確実と思われた。

 

「結城トレーナーも出走させたい気持ちがあったはずだけれど、あの人が本気で心配しているって、すごくわかりやすく伝わってきたから。」

 

「ひとつ尋ねたいのだがねぇ、ダンツくん。もしもトレーナーから何も言われなければ、キミは天皇賞に出走していたかい?」

 

「それは、たぶん、出走してた。そりゃもちろん、私だって同期のみんなと競走したいもの。」

 

 ダンツからの返答を聞いて、タキオンは深く頷いた。

 

 担当トレーナーからの干渉無しに、ウマ娘が自主的に選ぶ道は、おそらくほぼ可能性世界での既定そのものである。既に定められていた運命の通りに歩み、あり得たはずの可能性をそのままに実現するためだ。

 

 結城トレーナーから出走回避を提案されなければ、ダンツフレームは天皇賞秋にも、マイルチャンピオンシップにも出走していたのだろう。その結果、呼吸器系を悪くして病気を発症していたかもしれない。今、ダンツが万全の体調でいられるのは、すなわち可能性世界の展開を拒んだ結果とも言える……。

 

 タキオンが考え込んでいる隣で、キングヘイローが代わりに口を開いた。こちらは、より現実的な視点からの発言である。

 

「出走回避の判断は、私も適切だったと考えているわ。脚の故障がウマ娘の大敵には違いないけれど、呼吸器系の異常となれば、こちらも生涯引きずることになりかねないですもの。」

 

 来年からは本格的にトレーナー業を開始するキングにとっても、重要な話題だった。

 

 キング自身の現役時代、幾度も敗北を繰り返したうえで執念の勝利を獲るに至る過程には、芝の中長距離からマイル、時にはダートに至るまで、あらゆる条件のコースで走りぬく中、身体の状態を保つ努力も欠かせなかった。

 

 それに、同じ黄金世代の面々もまた、拮抗する実力者との熾烈な対決のなかで、悲鳴をあげる身体に悩まされることは多かった。目立った怪我もなく、ただ食べ過ぎでタイムを落としたことがあるだけのスペシャルウィークの頑丈さが際立っていたものの。

 

 ともあれ、タキオンがこの場にダンツを呼んだ目的は、天皇賞秋とマイルCS、ふたつの大舞台を回避した結果として、健康状態が確かに回復したことを自ら確認……いや“観測”することでもあったようだ。

 

「もはや有馬記念まで二週間となった今は、ダンツくんの走りを間近で確認は出来ないが、しかし十分な休養を経て身体の異状は解消されたようだねぇ。」

 

「うん。おかげで有馬記念は完璧な走りが出来そう。ふたりとも手加減なしだよ、去年と同じようにはいかないからね。」

 

「おう!中山の直線でもオレのぶっちぎりを真横で見に来い、ダンツ!」

 

 休憩の時間を終えるまでの数分を惜しむように、有馬記念では競走相手同士となる面々の歓談は続いた。

 

 ダンツの朗らかさとポッケの賑やかさを真隣りに、タキオンもまた楽しげではあったが、同時に彼女の中ではひとつの決心が固まりつつあった。

 

 それは誰にも言えない……担当である鷹木トレーナーにも言えない決心であった。きっと、彼に伝えれば、頑として撤回するように説得されるに決まっている。

 

(けれども、この現実世界の存続をこそ重視できる相手ならば、話を理解してもらえるだろう。せめて、彼女には伝えておこう……ネオユニヴァースくん。)

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