有馬記念を目前にして、トレセン学園理事長室では沈鬱な空気が淀んでいた。
もはや“気のせい”では済ませない域となった、ウマ娘レースにおける異変。観戦スタンドが満席になるほど観客が居るのに、彼らの歓声が全くターフ上の出走ウマ娘に届かないという現象。
学園としても何ら対処しないまま放置するわけにもいかず、上部組織であるURAにも状況を説明して対策を打診していたのだが……ようやく得られた返答は、通り一遍の内容でしかなかった。
「『有馬記念開催の周知目標は達成され、有馬記念関連広告のユニークインプレッション数は充分に増大したと認識しております。引き続きURA広報部が有馬記念への関心増大に励み、当日の現地集客数およびライブ配信の閲覧数は例年以上になると見込まれます。中央トレーニングセンター学園御中におかれましては、出走ウマ娘の皆様を安心して送り出していただければと存じます。』……返答内容は、以上です。」
「世塵、我々の懸案事項は、些細な不安のひとつに過ぎぬと片付けられた……ということか。」
何ひとつ具体的な内容を含まないURA上層部からの返答を駿川たづなが読み上げ、その傍らで秋川やよい理事長は腕組みして眉根に小皺を寄せている。
レース出走ウマ娘のほぼ全員、そしてトレーナーをはじめとするウマ娘レースに関わる人間が気づいている異変も、世間の大多数を占めている一般人たちには認識されていない。異常現象について騒がれることもなく、ニュースとして報道されることもない。
おそらくURAという組織の中においても、レース出走を経験したウマ娘や、あるいは人間でもトレーナー経験者は、レースに纏わる異変に気付いているかもしれないが……レース開催準備自体が順調に進んでいる中、無用の混乱を敢えて引き起こすような発言は出来ないのだろう。
そも、言及したところで、現象自体を認識できない相手に異変の実在を証明することは不可能なのだ。更には理解されたところで、異常現象をいかに解消すべきか、方針を立てられる者は居ない。
小さな額にしわを寄せ、じっと考え込み続けていた理事長であったが、やがて組んだ腕を膝の上に置き、口を開いた。
「……分内!相手がこちらの打診に、形式的のみとはいえ応えた以上、そのうえに苦言を畳みかけることは出来ない!こうなった以上、学園として出来る範疇のことに集中しよう!」
「はい、もちろん、その前提で動いております。とはいっても、おかしな現象を解消する確実な手段を、私たちも知っているわけではありませんが……観客の歓声をターフ上に届けるため、思いつく限りのことは実行できます。」
言いながら、たづなはPCの画面を切り替え、別の送信元から届いたメッセージを表示する。
送信者名は、スペシャルウィーク。トレセン学園公式に対してではなく、駿川たづな個人のアドレスに対する返信であった。
〈無事に、スズカさんも参加しての打ち合わせが終わりました!いつもは人の多いところが苦手なスズカさんですけど、実況アナウンサーさんやスタッフさんたちと打ち解けるのは早くてなによりです!当日サプライズで実況席に登場していただく予定なので、それまで極秘ですよ!〉
「こちらの算段も、無事に進んでいますね。放送局や学園OGへと話を通してくれたスペシャルウィークさんには感謝しなければ。私個人へのアドレスとはいえ、極秘の内容を記載してしまうのはいかがなものかとは思いますが。」
「誉望!引退以来、一度も公然の場に姿を見せなかったサイレンススズカが特別ゲストとして現れたとなれば、観客たちの関心は一気に引き付けられるはずだ!」
「理事長も、学園内とはいえ、サプライズ予定の企画、それも漏れれば多方面に影響の出る話ですので、あまり大声で喋るのは控えてください。」
「謬錯……小声で話すようにする……。」
しゅんとした表情の秋川理事長であったが、彼女をそうさせてしまうほどに駿川たづなの口調が硬くなったのには、一つの理由があった。
理事長室の入り口は、分厚い木製の扉であり、易々と音が漏れることはない。しかしピタリと耳をつければ扉越しに物音を聞くことは出来る……そしてたった今、理事長室の前に何者かがやって来て、立ち止まった足音がしたのだ。
まさか、盗み聞きを目的に理事長室まで来る不届き者は学園内への侵入を許されないだろうが、警戒するに越したことはない。たづなは文面を改めて記憶に焼き付けた後、キーボードを叩いて今しがたスペシャルウィークから届いたメッセージを消去する。
「疑問、誰か今の時間帯に面会する予定があったか?」
「いえ、その予定は入っていません。ウマ娘ではなく人間の足音です……誰でしょう?」
じっとしているように理事長へと目くばせしながら、たづなは廊下の様子を窺いながら、そっと入り口扉へと近づいていった。
一方、鷹木はこれまでも同様のことはあったが、やはり盛大に頭を悩ませながら理事長室へと向かっていた。
発端は、タキオンからの頼みである。
先日、オペラオーからタキオンを案じるような発言があったことを、ずっと気に掛けていた鷹木。
ウマ娘レースでの異変について真っ向から探求を続けているタキオンが、思案に耽る様を示すのは常のことである。また、身体面においては、ずっと担当トレーナーたる鷹木が見続けている限り、過剰な負荷もなく、故障の兆候はない。心身どちらの面においても、タキオンはいつも通りだ。
だが、殊に勘の鋭いオペラオーが、今になってタキオンを心配しだしたことは、鷹木の胸騒ぎをかきたてるに十分な振る舞いであった。
そしてついに自力ではタキオンのいつもと違うところを見いだせなかった鷹木は、最終的に直接タキオン自身へと尋ねることを決意したのだ。有馬記念という集大成の大舞台を目前に、なりふりを選んでいる猶予はなかった。
「タキオン。俺に隠していることがあれば、ちゃんと話してくれ。お前が本気で隠し事をしたら、俺は気づけないんだ、今までの付き合いでも分かるだろ?」
「ふぅン、私の情に訴える手法を学んだといったところかい?いいだろう、いずれトレーナーくんの協力を仰ごうとも思っていたことだ、私が用意した最後の計画を明かそうじゃないか。」
タキオンがシラを切ることも覚悟していた鷹木であったが、想定していたよりもアッサリと胸の内を明かしてきた彼女には拍子抜けする思いであった。
彼女が用意した“最後の計画”とは、同じく今回の有馬記念に出走するウマ娘たちへ、共通のメッセージを送ることである。
「本来、我々は競走相手同士ゆえ、本番まで直接会うことは避けるべきだ。コミュニケーションをとることも推奨されない、本番での作戦を明かしあってしまっては、八百長も疑われかねない、公正な競走になり得ないからねぇ。」
「あぁ。だがそれでも、伝えたいメッセージがあるんだな?」
「こっそりとメッセージを送れば、誰にも気づかれずに済むかもしれないが、得てして秘密裏にコソコソと実行した行為こそ悪目立ちするものだからねぇ。トレーナーくん、私が作ったメッセージを学園理事長にいったん提出し、有馬記念の開催前に競走相手たちへ見せても構わないものだとお墨付きを貰ってきてくれないかい?」
そしてタキオンからメモリスティックを受け取り、その足で鷹木は理事長室前まで来たのである。
まるで鷹木から話しかけられる内容まで予測していたかのように、タキオンが手渡すものまで全て用意済みであったことには引っかかる所はあれど……それ以上に鷹木の脳内を占めていたのは、理事長に対しどのような伝え方をすべきか、という点であった。
既に、先月のジャパンカップ後、スペシャルウィークが学園理事長のもとを訪れ、観客満員のGⅠレースで歓声が全く響かない異変について話はしている。ゆえに、異変そのものについては理事長も駿川たづなも理解はしているだろう。
「とはいえ、タキオンが競走相手達にメッセージを送ろうとしている、だなんて話、通してもらえるだろうか……?」
ただでさえ、入学式の日に薬品を混ぜての爆発を起こした所から、タキオンに対するイメージは芳しくないはずである。
競走相手に送るメッセージに、相手の戦意を挫くような内容を含んでいるのではないか、と判断される恐れもある。
担当トレーナーたる鷹木は、むろんそんな疑いなど抱いていないし、実際にメッセージの内容を確認した際、伝える必要性が確かにある内容だとも感じていた。
「いやでも、理事長もお忙しいだろうし、ここは一旦引いて、あらためて面会予約を取ってから来るべきか?でも、俺自身もスケジュールなんてそうそう空いてないし、次の機会を待ってる余裕ももうない……。」
「ここまで来られたのなら、遠慮なくお入りを。」
「わっ……!?」
グダグダと悩んでいた鷹木の前で、理事長室の扉がガチャリと開き、駿川たづながにっこりと出迎えている。先ほど、扉の前で立ち止まった足音に気づいた時から、ブツブツと続いていた鷹木の独り言をしっかり聞いていたのだ。
理事長室の奥では、秋川やよい理事長が鷹木の姿をみとめ、満面の笑みで手招きしていた。
「歓待!アグネスタキオンの担当トレーナー、尻込みせずに入室したまえ!用件があるなら聞こう!」
「はっ、はい、失礼いたします……いえ、用件といったほどのことでも、ないのですが……。」
有馬記念の迫る今の時期となれば、URAのお偉いさんが理事長室を訪問しているのではないかと警戒していた鷹木であったが、室内に居たのが秋川理事長と駿川たづなであることでひとまずの安堵を得た。
とはいえ、この両名もまた鷹木の緊張感を生むに十分な存在にはちがいない。おずおずと部屋に入っていった鷹木は、ぎこちない動作でタキオンから受け取ったメモリスティックを取り出した。
「先ほど、タキオンから頼まれたことなんですが、ここに保存されているメッセージを、理事長に確認していただきたい、と……問題が無ければ、今回の有馬に出走する競走相手達に伝えたい、とのことです。」
「確認いたしますね。」
理事長自身に見せる前に、先んじてたづながメモリスティックを受け取り、理事長のデスクから離れた位置にあるPCにて内容を確認している。
やはりタキオンが作成したものと聞いて、有害な内容やウイルス等が含まれていないか警戒されているのではないか……やきもきしている鷹木であったが、たづなによる内容確認を待つ間も理事長からは声を掛けられ続ける。
「質疑、アグネスタキオンは何の目的で、競走相手へ伝えるメッセージを今作成した?」
「彼女の言う所によれば、誰一人動揺することなく今回の有馬記念に臨めるように、と……昨今のレースでは、何かと、異常な現象が起きることも確認されているので。」
「辞服、ライバルの事まで思い遣れるとは、見上げた精神だ!たづな、その内容を私が見ても構わないか?」
視線を向けた先、想定以上に厳しい目つきでディスプレイを睨んでいた駿川たづなの迫力に鷹木は縮み上がりかけたが、まもなく内容を全て確認し終えたのだろう、いつもの笑みを取り戻したたづなは柔和に頷いた。
もちろん、鷹木も事前にメッセージ内容を確認しているため、これが対戦相手に害をなす内容では無いと分かっている。
秋川理事長が見つめるPCの大型モニターに映し出された画面内のタキオンは、いつも勝手に入り浸っている実験室の壁面をバックにして語り始めていた。
〈今年の有馬記念に出走する諸君、最終調整は捗っているかねぇ! 私はアグネスタキオンだ……今さら不要だと思うが、念のため自己紹介は挟ませてもらうよ。さて、冗長な内容を好まぬ者も多いだろうし、さっさと結論から語らせてもらおうじゃないか。
今回の有馬、たとえ何が起きようとも、不安を抱く必要はない!
無用の心配で、我々の走りを鈍らせる必要などない、と私は伝えたいのだよ。既に薄々感じている、どころかガッツリと気づいている者も居るだろうが、昨今のウマ娘レースにおいては異常な現象が観測されている。
最たるものが、観戦スタンドを満員とするほどの観客が集まっているにもかかわらず、歓声がほぼ響かない、遂にはゴール直後だというのに無音に近い静寂が、走者たちを迎える現象だ。先月のジャパンカップでも発生したねぇ、勝利したエアシャカールくんや共に走ったシンボリクリスエスくんは、特に強く印象に残っていることだろう。
だが、この異変は先月になって唐突に発生したものではないねぇ。あれほど明瞭ではなくとも、近しい現象は以前から繰り返し発生していた。
そしてほぼ確実に、今月の有馬記念でも発生するだろう。
パドックに姿を見せても、準備を終えて地下バ道から出ていっても、我々を出迎える歓声がほぼ聞こえないかもしれない。
しかし繰り返しになるが、それは決してファンの皆から期待されていないということではないとも!せっかくのGⅠレースの集大成で、自分に向けられる歓声が無くとも、意気消沈することはないねぇ!
不安を消し去る手段は実に容易だ、観客席へと目を凝らしたまえ。声こそ届かぬとも、観客たちはきっと出走ウマ娘の全員に向けて喝采を送っているはずだ。聴覚ではなく、視覚によって、我々へ向けられるファンからの熱量を確認できるだろう!
有馬記念の当日、きっと全員が動揺もなく、戦意を損なうこともなく、互いに全力での競走を行えるよう、願っているよ。
……さて、私が伝えたかった本題は以上だ。
現状なぜ、このような異変が起きているのか、異常現象が発生する条件は何か……などなど、こまごまとした話をこのあと始めるが、ほぼほぼ私の憶測語りになる。率直に言えば、ただ私が語りたいから語るだけの時間が始まる。興味のない者はここで閲覧を止めてもらって構わないねぇ。
特に、小難しい話が苦手な面々には退屈だろうからねぇ、ジャングルポケットくんや、タップダンスシチーくんのように。あるいは……おーい、寝ていないかい、ヒシミラクルくん!私のメッセージを垂れ流しつつ居眠りするぐらいなら、もっと有意義なことに時間を使いたまえよ!〉
後輩の挙動を予測したように、コンコンと撮影時のカメラを叩くタキオン。おそらく、ここから動画メッセージの後半へと入るための編集点を記録するためでもあるのだろう。
真面目な話をしつつも滑稽さの残る、いかにもタキオンらしい振る舞いを見つめながら、秋川理事長は深く頷いていた。
「許可っ!万全の状態で、全ての出走ウマ娘が有馬記念へと臨めることこそ最優先事項、ライバルたちの不安を払拭しようとする務め、実に素晴らしい!たづな、すぐにこのメッセージを複製し、今回の有馬出走者たちの手に渡るように頼む!」
「承知しました。……ところで鷹木トレーナー、このメッセージの内容を文面でも確認できるように印刷されてはいませんか?現状、全ての練習場には動画の閲覧環境が整ってはいますが、練習時間の合間に閲覧する時間が取れるとも限りませんし。」
「いえ、それは……用意していません。タキオン自身、やけに動画の形で皆に伝えることにこだわっているようでしたので。」
「ふふ、せっかくご自身でカメラをセットし撮影したものですからね。それに、紙面に印刷してしまっては、風に吹かれて不意に紛失する恐れもありますし。それでは、タキオンさんの希望通り、動画形式で今回の有馬出走者たちにメッセージが伝わるよう計らいます。」
タキオンの謎のこだわりも、駿川たづなから好意的に解釈してもらえた。鷹木はようやっと自分の役目を果たし、額を湿らせていた冷や汗を拭きつつ理事長室を後にした。