探求者たちのタイムクライム   作:Okubo Masau

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 本来の可能性の中ではあり得なかったはずの運命、この一年を駆け抜けてきた18名が揃って出走する有馬記念。タップを除く全員がGⅠ勝利経験のあるウマ娘で構成された、前代未聞のオールスター戦となったこの舞台を、世界に現実として認めさせるためのレースが始まる。望まぬ可能性を遠ざけ、運命をゆがめたしわ寄せは今、歓声が響かない異変となって現れていたが、この錚々たる面々が揃った有馬記念の感動は、現実世界そのものの認識をも切り替え得るだろう。多大なる希望と、タキオンが密かに抱える覚悟と共に、大一番の幕は開いた。


時は繋がり、可能性の成った先に、U=ma……

 地下バ道から勢揃いしてターフ上へと出てきた、ほとんどがGⅠ勝利経験者ばかりの出走ウマ娘たち。

 

 この前代未聞のオールスター戦となった有馬記念に、観戦スタンドは大いに沸き立った……歓声がごく小さくしか響かない異変は継続中であったものの。あくまで、輪郭のぼやけた集団を構成するひとりひとりが立ち上がり、手を叩き、あるいは大口を開けて笑い、興奮している様が視認できたのみである。

 

 ファンファーレが鳴り響く。おそらく、演奏を務める中央音楽隊の隊員たちも、状況が異常であることを明瞭に認識しているだろう。

 

 それでも、ウマ娘たちにとって一世一代の大舞台、GⅠレースの集大成となるこの有馬記念が恙なく進行するようにとの願いも込められて、ファンファーレの音は一切の動揺なく、観客たちの音無き喝采とと共に響き渡った。

 

〈18万人が掲げる手が一気に振られます、中山レース場!いよいよゲートインが始まりますが、解説のスペシャルウィークさん、そしてサイレンススズカさん!今回のレース、予想はかつてないほど難しいんじゃないでしょうか!〉

 

〈そうですね、1番人気のファインモーションちゃん、そして2番人気のシンボリクリスエスちゃんが期待を集める所ですが、予想外の復帰を実現した面々に注目ですね!今年のダービーを勝ったタニノギムレットくん、さらには3年ぶりに走るテイエムオペラオーくん、メイショウドトウちゃんの存在感からも目を離せません!スズカさんはどうですか?〉

 

〈タップダンスシチーさん、かしら。私とは違った逃げを毎回見せてくれるから、これまでのレースでもこっそり応援してきたの。他には……5年前からずっと現役で居続けているナリタトップロードさんやアドマイヤベガさん、ベテランの実力を見せてもらえそうね。同じくベテランといえば、エアシャカールさん、アグネスデジタルさんもそうだし、とにかく速さを極め続けてるアグネスタキオンさんに、同期の実力者ジャングルポケットさん、マンハッタンカフェさんも……〉

 

〈さ、さぁ、話の尽きないところではありますが、もう間もなく全出走ウマ娘たちのゲートインが完了するようです!〉

 

 このまま放っておいたら、出走する全員の名前を挙げるまで喋りが止まらなくなりそうなスズカの言葉を遮り、実況アナウンサーが場を慌てて引き継ぐ。

 

 出走直前のウマ娘レース場とは思えぬほどの静寂の中でありながら、トーク内容に大勢の観衆が笑顔となっている様は視覚的に確認できた。

 

 もちろん、異変に関する情報共有が徹底されたおかげで、フルゲート18名の出走ウマ娘たちにも動揺の色など皆無である。

 

 あとは、この現実世界に実在を認めさせる有馬記念を、ただ実行するのみだ。

 

〈全出走ウマ娘、収まりまして……今年最後のGⅠレース、全ての総決算、有馬記念!体勢完了!ゲートが開いて、スタートしました!綺麗なスタートを切っております18名!さぁ、まずはファインモーションが早くも行ったか!しかしウチからはタップダンスシチー、タップダンスシチーにどうやら先に行かせるようです!ファインモーションは2番手に控えました、そしてウチを突いて上がってきたのはタニノギムレット!そのすぐ後にテイエムオペラオー、更に外に並んでナリタトップロードが来ています!〉

 

〈夢みたいなレースだっぺ……でもホントに目の前で、こんな光景を見られるだなんて、もうスタート直後から瞬きできませんよ!〉

 

〈冷静ね、ファインモーションさん。私ならあのまま先頭を譲らないけれど、今回はタップさんが皆を引っぱって行くのね。〉

 

 音としては響かぬ観戦スタンドからの大熱狂を代弁するかのごときスペシャルウィークと、既にレース序盤の展開へと没頭しているサイレンススズカ。

 

 観戦スタンドの最前列、柵越しに直にコースに臨んでいるトレーナー用観戦ブース内の鷹木は、先ほど地下バ道に向かう直前のヒシミラクルから念押しされた通り、オペラオーに贈る予定の花束を抱えて出てきていた。

 

 遠目からもやたらと目立つ真っ赤なバラのブーケはケースに入れたまま、足元に置かれている。

 

 既に鷹木の意識は、運命のコース上を駆けだしたタキオン、オペラオー、そしてミラ子の走りへと釘付けになっていた。

 

「オペラオーは作戦通りに前目につけたな、そのままの位置取りで十分に先頭を脅かせる、いるだけでも周囲へのプレッシャーになるだろう。タキオンも先行の位置に入った、最ウチを空けて回っていきやすい理想のポジションだ。あとは最後方のミラ子が、このメンツの中でどこまで追い上げられるか、だな……。」

 

 トレーナーとして、本番のレース中には他のことに意識は向かない。有馬記念の真っ最中とは思えないほどに静まり返った中山レース場の様相など、鷹木はまるで気にならなくなっていた。

 

 スタート位置からすぐ3コーナー、4コーナーを回り、1周目の直線を駆け抜けるウマ娘たち。

 

 ここで巻き起こるはずの大歓声も今は聞こえず、ただ静寂の中で輪郭のぼやけた大集団が飛び跳ね、腕を振り上げて熱狂している姿だけが観戦スタンドに見えるという、異様な状況となっていた。

 

〈そして最ウチを通ってシンボリクリスエスがここにいます、前から6番手あたりでしょうか!続いて外を回っていくアグネスタキオン!負けじと先行集団について行くのはノーリーズン、ウチに並びかけるのはゼンノロブロイです!これほどの優駿が密集して走る光景、今後二度と見られるでしょうか!さぁ正面スタンド前、18名が出てまいります!まだひとかたまり、先頭でペースを作っているタップダンスシチーはそれほど速く逃げようとはしていないようです!〉

 

〈いつも冷静で正確なレース運びが特徴的ですからね、タップさん!きっと後ろ、最ウチを回って行ってるクリスエスちゃんの仕掛けどころを意識してると思いますよ!〉

 

〈全体がバラけない、ゆっくりしたペースね。確かに、先頭のウマ娘が自分のペースを持ち込んでいるレースの形よ。〉

 

 十分にスタミナの余裕を残し、各区間のペースも几帳面なまでに均等に、淡々と脚を進めていくタップダンスシチー。この有馬記念が全ての集大成、異変との決着をつける大きな節目であるにせよ、勝つための最善を彼女は冷静に尽くしている。

 

 このまま進めば、タップが最終直線、ゴール直前まで先頭争いに参加し続けることは明白となっていた。

 

「いや、現時点での頂点クラスのウマ娘だけが集まっていることは、走っている全員が分かり切っているんだ。焦りが入る余地なんてない、最後の勝負所まで見誤るんじゃないぞ……。」

 

 鷹木は、それが今さら直接教えるような内容ではないからこそ、声の届かない観戦スタンドから独り自分の中で唱え続けていた。

 

 タキオンも、オペラオーも、先行策においては右に出る者などいない。他の出走ウマ娘たちにおいても想定外が一切挟まらないからこそ、ますます以て可能性の向かう先は未知数となっていた。

 

〈先頭ではタップダンスシチーの外、じわりじわりとファインモーションが並んで行っています!その斜め後方よりナリタトップロードも接近しつつありますが、今ファインモーションが大胆にも上がって行って先頭交代!掛かった様子は見られません、これは行ってしまおうとの計算ありきでしょうか、ファインモーションが足を速めて先頭!3バ身から4バ身のリードをつけていっています!2番手タップダンスシチー、そしてナリタトップロードが3番手であります!1周目の直線を抜けて1コーナーへ入っていくどころです!〉

 

〈これはタップさんのペースを見越しての作戦でしょうね、ファインモーションさん!集団に埋もれず前に出て、リードを稼ぐ形なんだと思います!〉

 

〈ファインさんなら、バテてしまうペースにはならないわ。こうなると、後方を走ってる子達がどう判断するのか、楽しみになるわね。〉

 

 実況アナウンサーとスペシャルウィークの声が熱を帯びているのは前々からであったが、淡々と喋っていたサイレンススズカもまた前のめりになり、レース展開に熱中しつつある。

 

 確かに、ここに来てファインモーションが一気に先頭へ出てリードを稼ぎ始める展開は、誰も予想していなかった。彼女のこれまでの走りであれば、最終コーナーまで先頭を他に譲っていたとしても、楽々と1番手へ躍り出ることは可能であろうと思われたためだ。

 

 しかし、明らかにファインと競走相手との実力差が大きかったティアラ路線とは、有馬記念は状況が明確に違う。

 

「もしかすると、間近で他のGⅠクラスの面々の走りを感じた結果、リードを取っておくべきだと判断したのかもしれない。並んで走れば、力量の程を感じ取ることも出来るだろうし……なら、このタイミングでそろそろ前を目指し始めろ、ミラ子……!」

 

 鷹木は、まだまだ最後方付近にいるヒシミラクルの足取りをじっと見つめた。

 

 先頭で早めにペースを上げる面々が増えれば、レース終盤で瞬発力勝負を仕掛けてくる相手もそれだけ減っていく。潤沢なスタミナによるロングスパートで前を目指すミラ子にとっては、より有利になっていく状況だ。

 

 が、歴戦の猛者揃いのレース、そう易々と良い位置を取れるわけではなかった。

 

〈ファインモーションがペースを作ります、先頭4バ身のリードをつけまして、2番手にタップダンスシチー、少し空いて3番手にナリタトップロード、続いてテイエムオペラオーにアグネスタキオン、そしてシンボリクリスエス!優勝候補が先団に集結しています!さて中団後方にはジャングルポケット、ノーリーズンが並んで、その外をメイショウドトウがまわっていく!外を通ってダンツフレーム、さらにマンハッタンカフェもじわじわと全身、並んでアグネスデジタル、これを見るように後ろの方からスーッとエアシャカール!内々を突いてネオユニヴァース、さらに最後方にはヒシミラクル、こういった態勢で向こう正面の直線を進んでいきます!〉

 

〈先行の駆け引きが、ベテラン揃いなだけあって、かなりシビアなものになってますね!ちょっと後ろから突っ込んでいくのは難しいでしょうか!〉

 

〈でもヒシミラクルちゃん、着実に速度を上げて来てるわ。これなら、最後方から脱するのも早いんじゃないかしら。〉

 

 現役時代とは違って、後輩たちのレース観戦に専念する機会が増えたおかげか、後方から追い上げようとする面々にも目を向けて解説しているサイレンススズカ。

 

 向こう正面の中ほどで下り坂は終わり、そこからは4コーナーの出口まで平坦なコースが続く。

 

 そして、有馬記念のレース展開が大きく動き始めるのも、この区間からであった。ファインモーションは流石に速度を控えたのか、変わらぬペースを刻み続けているタップダンスシチーに先頭を譲っていた。

 

「タキオンも、オペラオーも、まだ仕掛けるのは早いか。ファインモーションは最ウチをキープする目的もあったようだな、ここで中団から前に出ようとすれば大外を回らされる、とはいえ外を塞がれるなよ……!」

 

 2番手の状態で中団の先頭まで下がってきたファインモーションは、コースの一番内側に位置を占めて3コーナーへ入っていく。

 

 かなり早い段階で先頭に躍り出てタップが作るペースを崩し、その後に自分は最良のコースとスタミナを維持して後ろに下がるという、かなり高度な作戦を彼女は実行していたのだ。

 

 しかしGⅠウマ娘揃いの今回の有馬記念、簡単には他の出走者たちも惑わされない。

 

 鷹木の注目の先、オペラオーとタキオンは変わらず先行の位置取りをキープし続け、ミラ子はなかなか前へ出るルートを見出せずとも徐々に速度をあげつつあった。

 

〈さぁ先頭はタップダンスシチーに切り替わっております、ファインモーションは5番手後方へと下がり、そのすぐ外にナリタトップロード、こちらは安定した位置取りのまま進めてきます!内々をタニノギムレット、並んでテイエムオペラオー、間もなく3,4コーナーの中間地点!ここでアウトコースにジャングルポケット進出している、そしてマンハッタンカフェも連れて上がってきた!先団にはノーリーズンが粘っている、そしてシンボリクリスエスまだ集団に埋もれたままか!先頭のタップダンスシチーここでギアをあげてきた、リードは6バ身!さぁ4コーナーを回っていきます、残り400を切りました!〉

 

〈もう動く!もう全員動きますよ!バ群の中の子たちも一斉に来ます!〉

 

〈先頭に、食らいついてくる、わね……!本物の、レース!〉

 

 スペシャルウィークにとってはいつものごとく、今日初めて実況席についたサイレンススズカにとっても同様に、レースの白熱によって語彙力が蒸発していくような状況。

 

 いつにもまして、この有馬記念は見るものを熱狂させている。そのはずである、唯一GⅠ勝利経験のないタップダンスシチーが先頭でリードを稼ぎ、その背後から迫りくるのは全員がGⅠウマ娘なのだ。

 

 もはや幻影かと思われるほどに、狂乱しながらも静寂であり続ける18万人の大群衆を背に、鷹木は血走らせた目をターフに向けたまま、強い耳鳴りを感じているようだった。

 

 集中力が極まった際、周囲の音が遮断されるような錯覚はあるが……今は実際に、本来ならばあり得ない沈黙が中山レース場を包んでいるのだ。

 

「そこだ、オペラオー!直線に向いてすぐ、先頭へ抜け出せる!ミラ子!中団後方も動いてる、そのすぐ後につけて集団をかわせ!」

 

 普段であれば、大歓声によって簡単にかき消される自分の声が、何にも阻害されることなくターフの上を飛んでいく。

 

 その時、ターフ上へ飛んだ声は、鷹木のものだけではなかった。世界がどれだけ異変に見舞われようとも、現実性が失われていこうとも、ウマ娘との繋がりを断たれることのない存在。

 

 すなわち、トレーナー達の声は消されることなど無いのだ。

 

「ノーリーズン、無理して外を回らずとも構いません!前が抜けたら一気呵成です!タップは充分、焦らずスピード維持を!ドトウ、容赦なく末脚発揮です!」

 

 片桐の声は、いつもの冷静さを残しつつも、彼の平常の声量を遥かに上回って響いていた。

 

 同僚や、指導していないウマ娘の前では常にニヤニヤと、余裕ある態度を示している片桐も、レース本番では本気をそのままにぶつけているのだ、と鷹木は初めて知った。

 

「トップロード!行け、お前ならもっと速められる!焦るなクリスエス!脚は充分に溜めているんだ、勝てる!ポッケも抜け出しさえすれば、いくらでも本領発揮できる!」

 

 こちらは桂崎トレーナーの声だ。常に安定したウマ娘の戦績を紡ぎ、着実に上位を取らせる実力派の中堅トレーナー。

 

 彼の思いも本気であればこそ、トップロードの長い現役期間にも、ジャングルポケットのクラシック期間にも、勝利を飾ることが出来たのだ。

 

 そして、結城トレーナーも、その老いを全く感じさせることなく、若手たちに負けず劣らず、思いもよらぬ声量で激励を飛ばしていた。

 

「確実にクリスエスとの競り合いになるぞ、ギムレット!位置を見誤るんじゃない!タイミングは悪くないシャカール、本気で前を目指すんだ!」

 

 いつもであれば、大音響のレース場内でターフ上まで届くはずのないトレーナー達の叫びが、走っているウマ娘たちの蹄音の合間を縫って聞こえてくる。

 

 そこに例外はなかった、全ての担当トレーナーは、自分の担当ウマ娘のことを全霊で想っているのだから。

 

 ネオユニヴァースは、視線こそ前方に向けていたが……意識の一部が、空へと引っ張られるような感覚を得ていた。それは、彼女が別宇宙に存在するトレーナーと“交信”する時と同様の感覚であった。

 

(トレーナーからの……“DSN”……?)

 

 

(一心に走れ、ネオ。きみたちと僕が選んだ現実は、決して断たれない。)

 

 

(……“CONT”……分かった。……みんな、『つながる』よ。)

 

 ネオユニヴァースが出来ることは、ただ“観測”することのみ。

 

 この場を大きく突き動かし、この選択を現実として認識し、世界に事実を証明することは、今まさに走っている全てのウマ娘と、レース場に詰めかけた幾万人の観客、画面越しにレースを観戦している全世界の幾億人だ。

 

 だから、その予兆を知ることが出来たネオユニヴァースは、ただ目を見開き、耳を立て、レースの最高潮が大歓声で覆われていく様を感じ取るだけでよかった。

 

 タキオンの仮説は、斯くして証明された。

 

 GⅠウマ娘が勢揃いした有馬記念、残り400を切った最終コーナー。

 

 時間的にも空間的にも、この一点に集中した大観衆の極大なる感情の奔流を、いかなる“現実”もせき止められるはずがない。

 

 シンボリクリスエスとタニノギムレットが並び、すぐ背後から抜け出るテイエムオペラオーと、外から回ってきたジャングルポケットが競り合い、マンハッタンカフェに続いてダンツフレームも後方から上がって来て、メイショウドトウとアドマイヤベガ、アグネスデジタルも直線に向いて前へ進出し、ゼンノロブロイの隣にネオユニヴァースも並んでゴールを目指している、この有馬記念は現実なのだ。

 

 全てのウマ娘ファンが願い、担当トレーナーが願い、ウマ娘自身が願った通りに、選択された運命。

 

 それが、異変の入り込む余地のない、完全なる現実となってあらわれた今、中山レース場は一瞬にして大轟音、大歓声に包まれた。

 

 実況アナウンサーは一瞬目を丸くしてヘッドセットをおさえ、並んで実況席に座っていたスペシャルウィークとサイレンススズカも耳を伏せてから、あらためて場内の音を聞き直したが、紛れもなく大歓声は現実である。

 

 異変の解消が為されたという認識を得るには時間が無さすぎた。一瞬の沈黙を挟んだものの、実況アナウンサーはプロとして即座に喋りを再開した。

 

〈さぁ間もなく最終直線、スタンド前に出てまいりました!お聞きください、この大歓声!タップダンスシチー先頭!ファインモーション2番手!外にナリタトップロード来ている!ウチを通ってタニノギムレット!そして濃緑の勝負服、シンボリクリスエス!200を切りました!タップダンスシチーが変わらず先頭だが、シンボリクリスエスがバ群から抜けてきた!さらに大外からジャングルポケット、ウチを突いてノーリーズン!中を通ってテイエムオペラオーが来る!さらに外からエアシャカール!マンハッタンカフェ!一気に末脚を発揮して迫ってきた!〉

 

〈行けるべ!そっから差し切れェ!!〉

 

〈逃げ切れる!逃げ切って!!〉

 

 先ほどの、一瞬にして本来の声量を取り戻した大歓声で受けたショックも手伝ってか、もはや口を開けばただの観客も同然な状態となっているスペシャルウィークとサイレンススズカ。

 

 出走している全員が勝利する圏内にいる、この大波乱を前にしては無理もないことであった。

 

 ……出走者が知らぬ間に17名になっていたことに、気づく者が居らぬのも、仕方がなかった。

 

 アグネスタキオンは、自分の周囲の空間がパリパリと割れていくような錯覚を見出していた。が、それは錯覚ではなく、視野を僅かに動かせば、実際にその空間が欠けているのであった。

 

 有馬記念の終盤という極限状態に至って、いよいよ幻覚のようなものを得てしまったのかといったんは考えたタキオン。

 

 しかし、一歩踏み出すごとに進む空間のひび割れは収まらず、遂にタキオンは完全に大歓声も熱狂も無い、空間が欠け落ちた後の暗闇に取り残された。

 

(思った以上に……派手な代償を要求するのだねぇ、この世界は。)

 

 本来は実現するはずの無かった可能性、それを無理矢理にでも現実に押し通そうとすれば、しわ寄せが来る。何も代償なく、望んだ通りの展開を実現することなど出来ないだろう。

 

 そう考えていたタキオンは、自分がこの有馬記念で脚を壊し、本来の運命通りに引退してしまうことを覚悟していたのだ。

 

(だが……まさか、私の存在ごと、持っていくとはねぇ。)

 

 可能性世界と現実世界の齟齬に既に気づいていながらも、積極的に可能性世界からの乖離を推し進めてきたタキオン。それは自分の知るウマ娘たちが、皆望むがままに走り続けるための選択であった。

 

 しかし彼女は、あまりにも多く干渉し、世界と歴史の行く末を変え過ぎたのだろう。

 

(ポッケくんとカフェは、オペラオー先輩に勝てそうだねぇ、ならば可能性世界の要素は回収される。あとは、ヒシミラクルくん……あまりトレーナーくんを困らせないように……。)

 

 世界に意思を持った神のような存在はなくとも、現象はただ進行し、齟齬の埋め合わせが行われる。

 

 誰にも知られぬまま、誰にも知られていない状態になりながら、タキオンは世界と時間から切り離され“ただ何もない”暗闇の中へ取り残されていった。

 

〈タップダンスシチー先頭!だがシンボリクリスエスが来た!すぐ後ろにタニノギムレット、ファインモーション!そしてテイエムオペラオーも来るが、ここで外からジャングルポケット!さらにマンハッタンカフェも上がってきた!残り100!先頭は、シンボリクリスエスに変わった!シンボリクリスエスだ!3番手争いはタニノギムレットか!だが先頭、シンボリクリスエスが、凄い脚で差し切った!勝ったのはシンボリクリスエス!二着にタップダンスシチー!!〉

 

〈あそこっから差し切っちゃう……!?やっぱ強すぎますよ、クリスエスちゃん!〉

 

〈逃げのペースも最高の調子だったのだけれど、頑張ったわ、タップさん。〉

 

 耳をつんざくばかりの大歓声の中で、辛うじて実況アナウンサー、スペシャルウィーク、サイレンススズカの声が響いてくる。

 

 鷹木は、急激に本来の音量に戻った中山レース場の歓声、その音圧に頭を殴られたように、興奮の熱も手伝って呆然としていた。

 

 歓声が全く聞こえない異変が急に解消されたのは間違いない様子である……いかなる経緯で解消されたのか、理解することは殆ど不可能であったが。

 

「あぁ……オペラオー、良い位置まで来ていたが、ジャングルポケットとマンハッタンカフェには差し切られたか……いや3年ぶりの復帰で、中団から後ろに下がらなかったのは流石だ……ミラ子も、最後尾から7名は抜き去って上がってこれたんだな、このメンツの凄まじさを考えたら、大した戦績だ……。」

 

 まだハッキリとしない思考を、どうにか整理しようとボソボソ呟き続けている鷹木。

 

 自分の理性が、どうにか無事に働いていることは間違いないようだったが、胸中からあふれ出してくるように、巨大な不安がせり上がってくるのには数秒と掛からなかった。

 

 何か、重大な事を忘れ去っている気がする。

 

 決して忘れてはいけないことが、自分の意識から、零れ落ちている感覚がある。

 

 まるで寝起きの様に脳内は呆然としつつも、自分の腕が勝手に動くように持ち上がり、目を覚ませとばかりにピシャピシャ頬を叩く。

 

 そうしているうちに鷹木は、足元のケースに昨日買ってきた花束を用意していることを思い出した。

 

「あぁ、そう、そう……ミラ子が言ってたんだ、レースが終わったら、すぐにこの花束をオペラオーに贈りに行け、って……3年ぶりの復帰だし、これが本当のラストランになるかもしれないんだから……。」

 

 震える指先でケースを開けた鷹木は、抱えるのも一苦労な大きさの、赤いバラが数え切れないほどに束ねられたブーケを手にして、ヨロヨロと歩き始めた。

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