それでも、とても重大なことが意識から抜け落ちている実感が拭えぬまま、鷹木は花束を抱えてウマ娘たちのほうへ歩を進めていった。この花束を受け取るべき相手が誰であったか……分かっているはずだというのに、故の知れぬ焦燥は膨れ上がるばかりだった。
中山レース場には、途切れることなど無いかと思われるほどの大歓声が響き続けている。
有馬記念の決着を見た直後なのだから、それは当然のことだった。今までの異変、どれほどの大レースが行われても、その結果が本来あったはずの可能性を僅かでも覆していれば歓声が響かないという異常現象は、もはや消え去っていた。
有馬記念の芝2500mを走り抜いたウマ娘たちは今、レース中の神経の集中状態、および実際の静寂を脱して、いまや耳を聾するほどの大音響に包まれている。
その大喧噪に負けぬ声で、真っ先に口を開いたのはタニノギムレットとテイエムオペラオーであった。
「漆黒にして不動の戦士(シンボリクリスエス)よ!魂(プシュケー)の浮かれを知らぬオマエも、至高天(エンピレオ)の叫喚が聞こえているだろう!さぁ冠を掲げろ、歓喜(フロイテ)を叫べ!全て素晴らしい(アレテー)!」
「いざ誇りたまえ、シンボリクリスエスくん!数多の顔(かんばせ)、数多の瞳、数多の心を捉えて、キミは絶妙の神技をこの世に示したのだから!」
「I appreciate……for the compliment、ギムレットも、オペラオー先輩も。私、なりに、アピールしている、つもりなのだが……。」
確かにシンボリクリスエスは、その勝利を讃える大喝采に応えるよう、観戦スタンドの方を向いて拳を突き上げてはいる。
とはいえ、その堂々たる長身、生真面目な表情と真っすぐに正された背筋ゆえ、のっそりと突っ立っているような印象はぬぐえない。立っているだけでも見栄えのするウマ娘であることは事実なのだが。
ギムレットとオペラオーに引き続き、ジャングルポケットとタップダンスシチーも寄ってきた。大歓声のなか、喋っている言葉を相手に伝えられる声量の持ち主は限られていた。
「もっと全身で喜ぶんだよ、オレみたいに思いっきり叫べ!真面目すぎんだよクリスエス!」
「Exult your victory,Kris-S!わたしだけじゃない、とんでもない連中全員に勝ててんだからよ!跳ねまわって転げ回って喜び爆発させてみろ!」
言いながら、ポッケとタップはクリスエスの突き上げる拳を更に高く、掲げさせてぴょんぴょんとジャンプを始めた。
必然的に、クリスエスもまた小刻みに跳躍を繰り返すことになる。
「Ooh,わっ、ポッケ、先輩……あんまり、密着、すると、汗が、にじんで、移る……」
「気にしてる場合かよ!史上最高の有馬記念が決着ついたんだからな!こんなスゲー状況、二度とないぞ!」
さらにオペラオーとギムレット、少し距離を置いて眺めていた他の面々も、クリスエスの周りに集まってきて、この多少独特だが的確な歓喜の表現を、皆で繰り返し始めた。
同期や先輩のウマ娘たちにもみくちゃにされながら、徐々に生真面目な顔が緩んで頬が持ち上がりつつあるクリスエスの表情が、大型スクリーンに映っている。
観客席から湧き起こっていた大興奮の歓声は、じわじわと笑い声に変わり始めていた。
もちろん、競走を終えたウマ娘たちの、闘争心、極限までの集中、そして悔しさ、全てを乗り越えたうえで抱き合って生まれる笑顔が、観る者たちの胸中にも移っていったためである。
彼らの声々が何にも遮られないのと同様、既に、幾万人もの観客たちの輪郭が霞んでぼやけることはなかった。ひとりひとりに注視しても、全体を眺め渡しても、その現実性、存在感は明瞭であった。
大熱狂の叫喚が多少は落ち着き……それでも、まだまだ普通の声量では全く会話できない状況には違いなかったが……少なくともスピーカーから流れる声が通る程にまでは落ち着いたのを確かめてから、実況アナウンサーは語りを再開した。
〈物凄い歓声に包まれております、有馬記念の決着がついたばかりの中山レース場よりお送りしております!今、勝利したシンボリクリスエスの周囲に、競走していたウマ娘たち皆が集結して、まるで興奮をまだまだ抑えきれぬかのように全員でぴょんぴょんと飛び跳ねて客席へアピールしているところであります!今までのGⅠレースでも、なかなか見る光景ではないですねスペシャルウィークさん!〉
〈いや今のレースを味わったら、そんなサッサとターフから退場したくないですよ!そりゃ本気の勝負ですから悔しさも絶対ありますけど、なんたってGⅠウマ娘だらけの有馬記念ですから!あーでも、スズカさんだったら、真っ先に地下バ道に帰っちゃってるかも!〉
〈そこまで私も愛嬌無しじゃないわ、スペちゃん……けど、現役の時の私だったら、誰よりも早く控室に帰ろうとしてるかもね。〉
〈でしょー!?〉
スペシャルウィークもサイレンススズカも直接言及はしないものの、この有馬記念の決着が大歓声で包まれている状況そのものが、全てのウマ娘の勝利を示していることは理解していた。
本来の可能性の中では、既に引退しているはずのウマ娘、怪我や不調で出走できていないはずのウマ娘。そんな暗い運命を跳ねのけて進んだ彼女らの選択が非現実ではなく、紛れもなく現実世界を構成する出来事として認識されているのだ。
留まるところを知らず、終わることもないかのように響き続ける大歓声。
その狂わんばかりの歓喜の中、鷹木は独り、千鳥足でよたよたとターフ上に歩を進めていた。
下手をすれば、レース場の警備員に止められかねない見すぼらしい振る舞いであったが……鷹木がウマ娘担当トレーナーであること、そして手に大きな赤いバラの花束を抱えていることが、彼が不審者として断定されない材料になっていたのかもしれない。
「このバラの花束は……オペラオーに渡す……」
ボソボソと喋る言葉は、この喧噪の中では無論、誰に聞こえるはずもない。鷹木は、自分の行動している理由を、自身に言い聞かせているのだった。
いきなり大歓声が響き始めた瞬間、感じた頭を殴られたような衝撃は、まだ彼の思考能力をボンヤリとさせ続けていた。単なる音圧によるショックではない、あの瞬間、確かに世界は大きく切り替わったのだ。
あり得ないはずの可能性が認められない世界ではなく、ウマ娘たちの選択が確かに現実となる世界へ。
何かを、置き去ることを代償に。
「いや、忘れてない、はずだ……ミラ子と一緒に買いに行った、この花束を、オペラオーの復帰祝いに……。」
だからこそ、鷹木はずっと独り言を繰り返し続けていたのだ。
どれほどの状況に置かれても、決して忘れるはずのない、忘れてはいけない事項が、自分の意識からすっぽりと抜け落ちた感覚が残り続けている。
前代未聞のオールスター戦となった、この有馬記念ゴール直後の歓喜の場面を、このまま終わらせるわけにはいかないことだけは疑いようもなかった。
ウマ娘たちのもとへ、大きな赤い花束を手にしたトレーナーが近づいていくのは、観客席からも視認されるところとなったのだろう。歓声の中にどよめきや、囃し立てるような口笛が混ざり始めた。
もちろん、ウマ娘たちも、鷹木トレーナーが花束を誰かに渡そうとして寄ってきているのを認識している。
とはいえ、誰に対してであるか、については即断できるものではなかった。この有馬記念を制したシンボリクリスエスは、鷹木トレーナーではなく桂崎トレーナーの担当ウマ娘である。
「Thanks for your wishes、鷹木トレーナー。だが……その花束は、私が、受け取るべきもの、か?」
「あぁ、おめでとう、シンボリクリスエス。この花束は、えぇっと……そう、オペラオーに。」
鷹木の言には、クリスエスも、周囲で聞いていたウマ娘たちも納得の表情を浮かべる。
この有馬記念出走のため、一旦の引退から3年のブランクを越え、自主的なトレーニングの末に鷹木の元へ復帰してきたテイエムオペラオー。
可能性世界の展開の一部を回収するように、ジャングルポケットとマンハッタンカフェには差し切られる形となった今回の有馬記念であるが、それでもずっと現役を続けてきたウマ娘たちと遜色ない走りを示した彼女は、鷹木から花束を贈られるに相応しい存在である。
このプレゼントの発案者であるヒシミラクルも、鷹木が約束を忘れず花束を持ちだしてきた姿を前に、腕組みしてうんうんと頷いていたが……ふと、何か違和感に突き当たったかのように、人差し指を頬にあてて小首をかしげる。
それはまるで、鷹木自身が先ほどからずっと抱き続けている、何かを忘れてしまっているかのような感覚と共振したかのような振る舞いだった。
……そして、テイエムオペラオーは更に明瞭に、現状の誰もが意識できていない異変を捉えたようであった。
彼女が何よりも好きなはずの赤いバラの花束を差し出された時も、オペラオーは笑顔を浮かべず、真顔で鷹木に視線を向けたのだ。
「歩いて来るキミの姿を見たことで、たった今ボクは気づかされたよ……鷹木、その花束を贈るべき相手は、ボクではないんじゃないかい。」
「えっ?でも、オペラオーは……」
「復帰したばかりだというのに、ボクはすぐ引退するつもりなどないよ。ラストラン、フィナーレを飾るつもりであれば最初からそう周囲に伝えているはずだからね。」
確かに、3年前のジャパンカップにて引退した際には、足の怪我が原因であり、華々しい幕引きという状況ではなかった。
その続きを改めて飾るように、今年の有馬記念を走ったオペラオーの脚は、たった一度の舞台で満足しきる状態ではないのだろう。実際、今しがたのレースを走り抜いた直後も、脚の不調を気にするようなそぶりなど一切示していない。
しかし、オペラオーに受け取られないとなれば、ふんだんに赤いバラを束ねたブーケは、行き所なく鷹木の腕の内に収まり続けるのみである。
狼狽えを表情に浮かべる鷹木の傍らで、不意にタニノギムレットが大きな声を上げた。
「ククッ、素晴らしき(バンドーラーな)贈り物も、受け取る腕がなければ時の流れ(パンタレイ)の中で褪せゆくのみ!いずこに姿を隠しているのだ、この真紅の花束(スカーレットブーケ)を受け取るはずのウマ娘は!」
観戦スタンドから響いてくる、観客たちの声々には戸惑いを込めたどよめきが高まっている。花束を持ってきたトレーナーが居るにもかかわらず、誰にも受け取られずじまいで立ち尽くしているのだから無理はない。
が、その場にいるウマ娘たちの中では、じわじわと状況が共有されつつあった。
レース終了後の興奮、悔恨、歓喜、それらを全て吐き出した後だったがゆえに、気づいたのだ。
「“MISM”……“ヴォイド”の『存在を観測』したよ。“CUTT”が『ここにある』。」
そう告げたのは、ネオユニヴァースである。
彼女もまた、ゼンノロブロイに手を引かれて、シンボリクリスエスを中心に寄り集まってレース後の興奮を分かち合う一群の一部となっていたのだが、早々に違和感の正体を見出していた。
とはいえ、ネオユニヴァースの発言内容を完全に理解できるのは、ゼンノロブロイと、エアシャカールぐらいのものである。
いや、その2名だけではない。他にも居たはずなのだが……。
内容理解はさておき、ネオユニヴァースの発言によって何らかの異変を勘でつかんだジャングルポケットも口を開く。
「……なんか、ひとり足りなくねーか?オレたち、18名フルゲートで走ったはずだよな?」
ジャングルポケットの勘は、確かに当たっているようであった。ウマ娘レースの出走上限である18名で行われた今回の有馬記念、しかしこの場にいるウマ娘は18名に足りないようにも見える。
だが、たった今シンボリクリスエスの周囲で、ウマ娘たちは互いに抱き合うように押しくらまんじゅうの状態になっている。このままの状態では、正確に数えることは難しい。
ポッケに引き続き、エアシャカールが喋る。
「アー、そんじゃ、一旦離れて整列するか。いつまでもベタベタと抱き合ってても汗臭ェし、地下バ道に引っ込む前に観客に改めて挨拶も出来るだろ。何名いるのか数えるンなら、ロジカルなやり方だ。」
「……ネガティブ!それは“デコヒーレンス”だよ……!!」
ネオユニヴァースが普段決して聞かせることのない、鋭い警告の声に全員が耳を立て、動きを止める。
「デコヒーレンス」とは、量子系の干渉性が失われてしまう現象だ。一般に分かりやすいたとえを挙げるならば、箱を開けるまで生死が判明しない「シュレディンガーの猫」を実際に観測してしまい、その生死を確定させてしまうこと、とも称せる。
たった今の状況は、量子もつれ……というよりも“ウマ娘もつれ”のような状態であった。
皆がクリスエスの周囲にぎゅっと集まり、互いに抱き合ってぴょんぴょん跳ねて喜びあう密集状態だったのだ。パッと見では何名居るのか数えられず、誰が居て、誰が居ないのかもハッキリしない。
彼女の言葉を理解できるエアシャカールが、瞬間的にユニヴァースの意図を把握したおかげで、“今ここにいるはずなのに居ないかもしれない”存在は保たれた。
「マジか、そんなギリギリの状況かよ……悪ィ、さっきの俺の発言、撤回する。皆、このまま全員でくっついててくれ。出走したはずの奴が、ここに居ないことをハッキリ観測しちまったら、ホントにこの世界から消えちまう……ってことだろ?」
「アファーマティブ。“ANS”が『確定する』まで“JAM”だよ。」
エアシャカールとネオユニヴァースが、彼女らの間でしか理解しあえない内容を喋り、その眼前では顔面蒼白な鷹木が花束を抱えたまま呆然と立っている。
考えの及ばない状況を前に焦れたのか、ジャングルポケットだけは集団から離れて、つかつかと観戦スタンドの方へ歩いて行く。エアシャカールが慌ててポッケを引き留めようとする。
「おい、ポッケ!話聞いてねェのかよ、皆から離れるんじゃねェ!このまま帰っちまったら、ハッキリとは分からねェが……なんか、マズいことになるのは、お前も感じてンだろ!」
「分かってるって、シャカール先輩!けどよ、こっちで確かめた方が早いんじゃねェのか?」
ジャングルポケットが観客席へ歩み寄っていった意図は、すぐに明らかになった。彼女の意思決定は常に簡潔で、単純だ。
ウマ娘の中でも際立って強く響き渡る声量を以て、ジャングルポケットは観客席に向かって大音声で叫んだのである。マイクやスピーカー無しに、中山レース場の全客席まで届く声を出せるのは、ポッケぐらいのものだった。
「みんなァァあああ!フルゲートの有馬記念、アツかったよなァァァあああ!?」
「「「ウオオオォォォオオオォォッ!!」」」
観戦スタンドからは、ジャングルポケットの叫びに呼応して、18万人の歓声が返ってくる。
観客たちの視点からは、少々長らくウマ娘たちが抱き合って喜んでいる様、そして花束を抱えて寄っていった一人のトレーナーが何かを待っているかのように立ち尽くしている後ろ姿がずっと見えている。
きっと、今しがたのポッケの呼びかけも、何らかのイベントの前振りのように聞こえたのだろう。
ともあれ、「フルゲート」という表現には誰も疑念を示していない。
ジャングルポケットの衝動的な行動の結果であったが、おかげで「今回の有馬記念は18名が出走した」という事実は確定したこととなった。
実況席の面々も、これから何が起きようとしているのか全く知る由もないが、出走ウマ娘たちと独りのトレーナーが何かを始めようとしている予感だけは受け取っていた。アドリブを求められる状況ながら、ベテランの実況アナウンサーは迷わず口を開く。
〈おぉっと、これは……?ジャングルポケットが客席を盛り上げていますが……花束を持って歩み出てきたトレーナーを前にして、ウマ娘たちは何を始めようというのでしょうか!〉
〈勝ったシンボリクリスエスさんに渡す、ってワケじゃなさそうですね。あのトレーナーさん、私も知ってますけど、担当してたのは別の子ですし。〉
〈そうよね、たしか、あのトレーナーさんが担当していたのは、テイエムオペラオーさんと、ヒシミラクルさんと……あら?もう一名、居たはずよね。〉
実況アナウンサーの隣席にて、スペシャルウィークとサイレンススズカは目を見合わせる。
明らかに、自分たちの記憶から重大な要素が抜け落ちている。大盛況の歓声を浴びているターフ上で、今まさに何か、消えるべきでない存在が消えかけていることに彼女らも気づいたのだ。
状況に真正面から直面している、一番の当事者である鷹木は、既に極限状態の精神を抱えて蒼ざめていた。
ここから先の身の振り方は、迂闊なものであってはならない。
それこそ発する一語のひとつでも間違えれば、今まさに消えかけている大切な存在を、本当に消滅させてしまう。
先ほどからずっと立ち尽くしたままだというのに、もはや憔悴しきり、ほとんど怯えている鷹木。
彼の背を押したのは、やはりどんな状況でも動揺や焦りを示すことのない、リラックスしたヒシミラクルの言葉であった。
「トレーナーさん、ふつーに渡しましょ。贈る相手が居るから、その花束を私と一緒に昨日買いに行ったんですよ。プレゼントなら、名前を呼んで差し出すだけです。」
「……ミラ子……?」
「いやいやいや、贈る相手は私じゃないですよ。サプライズで贈る花束を、自分自身で買いに行くわけないじゃないですか。」
花束を抱えながら一歩踏み出した鷹木に向けて、オペラオーもまた声をかける。
「そうとも鷹木、ただ名を呼べばいい!彼女はボクたちと共に走り、今も共にある!ごく当たり前のように、彼女が今ここにいることを疑わず、その名を口にするんだ!たった今、目の前に彼女が居るのだから、呼びかけたまえ!」
言いながら、他のウマ娘たちと抱き合っている集団から離れていくオペラオー。少々大袈裟な手振り、足どりはまさに舞台の上での演技のようだ。
もはや機は熟した、これ以上長引かせていては、観客たちの異様な興奮状態も冷めていってしまう。まさに劇場の舞台のうえで非現実が現出されているかのような熱気の中でしか、奇跡は起こり得ない。
オペラオーに続いたのは、これまた芝居がかった口調には苦労しないタニノギムレットだった。
「これこそはラ・ディヴィーナ・コメーディア(神聖なる喜劇)……行き着くは理想郷(エリュシオン)だ、何を恐れる事があろうか!お前の腕に抱えるものは何だ、運命(フェイト)の筋書き(シナリオ)すら変える一滴のガーニッシュ!さぁ叫べ!その真紅の花束(スカーレットブーケ)を引き受けるべき者の名を!」
タニノギムレットも、絡み合う一団から自らの手足をほどくように離れ、オペラオーに負けず劣らずの芝居がかった振る舞いでポージングを決める。
だがまだ鷹木は、乾ききった唇を動かせず、一言も発せそうにない。彼の背を更に後押ししたのは、ネオユニヴァースの言葉であった。
「“MAZN”の観測が、“INTI”の『存在している』を“PRVE”するよ。彼女は、必ず、ゴールラインを越えている……それが、ネオユニヴァースの“NAV”だから。」
ネオユニヴァースも、皆と抱き合うのをやめて集団から離れる。
こちらはさほど芝居がかった振る舞いをしていなかったが、ただ真っすぐ視線をこちらに向けて歩いて来るだけでも十分な存在感であった。
それに、彼女の勝負服姿は、鷹木の記憶の陥穽をいたく刺激するものだった。白を基調にした、たっぷりとした袖で素手が隠れているデザイン。ネオユニヴァースの場合は青や黄色の意匠が散りばめられているが、もっとディテールが細かく、白の面積が多いデザインを見慣れていた気がする。
そう、まるで白衣を羽織っているかのような姿だったはず。
「あんまり俺たちが抱き合ったままじーっとしてても、観客連中が不審がりはじめちまうな……おい、鷹木トレーナー、いいかげん思い出したか?お前が名を呼んで、俺たちが隠すのをやめて、ここに18名揃ってることを証明しなきゃならねェ。」
先ほど、全員が離れないようにと忠告を出したエアシャカールであったが、確かにこれ以上長引かせることに意味はないと結論付けたらしい。真っ先にネオユニヴァースと目を見合わせて頷き合い、彼女もまた抱き合う集団から自らの身を離した。
シンボリクリスエスを中心に密集していたウマ娘たちが、次々と離れていく……まるで舞台上で、巨大な蕾が花開く演技を披露しているかのように。
ゼンノロブロイも、マンハッタンカフェも、ダンツフレームも、そしてウマ娘たちと抱き合っていられる至福のひと時が名残惜しそうなアグネスデジタルも、離れていく。アグネスデジタルの冠名もまた、鷹木の意識からすっぽりと抜け落ちた空虚の真ん中に刺さる要素であった。
ノーリーズン、ヒシミラクル、アドマイヤベガ、さらにファインモーションも、抱き合うのをやめて一団から離れ、ファインは真っ先にエアシャカールの傍へ駆け寄っていった。
華麗なポーズをキープして待っているオペラオーに対し、呆れ顔で腕組みしているエアシャカールであったが、ファインはせっかくだからと舞踏会で相手を待つようにポーズを決め、シャカールの呆れ顔をさらに加速させていた。
抱き合う集団の中には、ダンツフレーム、ナリタトップロード、メイショウドトウ、タップダンスシチー、そして中心にいるシンボリクリスエス……と、比較的体格に恵まれた面々が残っている。他のウマ娘に比べて隠せる視野は大きい連中ばかりだったが、彼女らも抱き合っていた腕をほどき、離れていこうとしている。
この集団の中に、今まで姿が隠れていただけで、決して消滅したわけではないはずの、ウマ娘が残っているはず。
鷹木は、それでも記憶から消えかけている彼女の名前を思い出せなかった。
ギリギリまで出かかってはいるのだが、もう完全にほどけて離れようとしている集団の動きには、思い出すのが間に合いそうもない……。
その時、鷹木の背後からイライラと大声を掛けたのは、観戦スタンド前から焦れて駆け戻ってきたジャングルポケットである。
「おい!いつまで時間かけてんだよ!さっさと思い出せ!」
「わぁっ!?」
唐突な大喝を後頭部に受けて、跳びあがった鷹木。
意識も飛ぶかと思われるほどのショックで、鷹木の身体は変調をきたした。それは、一般的な人間には起こりえるはずのない、しかし“彼女”を担当していたトレーナーであればこそ発生する変調だった。
鷹木の全身は、強烈な発光を放ったのである。
見るものの視野に、人間の形をした残像が焼き付くほどに、燦然たる物理的な輝き。
以前、妙な液体を飲まされ、時には鷹木自身が望んで飲んだ実験にて、繰り返し体内に摂取された成分は今なお残留していたのだ。
こんな災難な体質を鷹木に刻み付けた、その元凶たる存在、担当ウマ娘。
忘れられるはずがない。
「タキオン!……アグネスタキオン!!」
目の前でフラッシュを焚かれたかのような閃光を前に、この場の全員が一瞬視界を奪われていたが、回復した視野の真ん中では、鷹木トレーナーと向かい合うウマ娘の姿が映っていた。
彼女の名前は、アグネスタキオン。
その戦績も、普段の振る舞いも、独特な喋り口調も、印象的すぎて意識から抜けるわけもないウマ娘の存在は、確かに鷹木トレーナーの目の前にあった。
芝や土がついて多少ヨレヨレになった、長い袖の白衣を模した勝負服姿のアグネスタキオンは、暫しキョトンとした表情を浮かべ続けていた。まるで、自分がこの場に存在し、ウマ娘たちや、担当トレーナーや、レース場に集まった幾万人もの観客と、同じ空気を吸っていることが信じられないことであるかのように。
それでも、タキオンの思考回路はあくまで優秀だった。
鷹木が次の言葉を発せるようになる前に、彼女は理解したのだ……この中山レース場に居る全員が、アグネスタキオンというウマ娘が存在することを望み、実在を観測し、消滅させなかったことを。
「……私は……せっかく、可能性世界との辻褄を少しでも合わせようとしたのに……世界への干渉を過度に行った私が存在し続けることで、異変の一部もまた持続してしまう恐れがあるねぇ……もう、知らないねぇ、手の打ちようがない、凡庸な望みを抱く連中だねぇ……。」
「たっ、た……た、タキオン!!!タキオン!!!!」
「うるさいねぇ、そんなデカい声で呼ばなくても聞こえるねぇ、こんなに近くに居るのだから。」
言葉通り、タキオンは自らの担当トレーナーと、最も近くに居た。
観客席からは、賞賛の喝采や口笛が熱狂と共に巻き起こっていた。有馬記念を走り抜いたウマ娘を、花束を手に出迎えた担当トレーナーが抱きしめているのだから、それは感動を呼ぶシーンに他ならなかった。
「ハーッハッハッハ!!いかなる苦難も仲を裂く能わず!やはりボクの予感は当たったようだ、ハイメンが連れ来たるは真の歓びだ!」
「盃を掲げろ、そして酩酊しろ!数限りない鑑賞者(ビホルダー)よ!我らが蹄跡は、酷烈(インフェルノ)を踏み越え、刻(クロノス)をも揺るがす!ハァーッハッハッハァ!!」
やはり劇的な演出を好むオペラオーやギムレットが、観戦スタンドに向かってもっと盛り上がるようにとアピールしていることも手伝っていただろう。
少々過剰な力で自分の身を抱きしめてくる鷹木の思いが分からぬでもないタキオンだったが、とはいえ少々厄介な状況であることに意識を向けられるのも、タキオンの優れた理性であった。
「……ところで、この花束は何だい、トレーナーくん。私へ贈るために持ってきたのかい?」
「……ふぇ?う、うん……。」
「ちょっと待ちたまえ、こんな感動のフィナーレめいた状況で、私に花束を贈られたら、まるで私がこの有馬記念をラストランと定めたように観客からは見えてしまうじゃないか!」
「あ……そっか……。」
「あ、そっか、じゃないねぇ!まだまだ私は引退する気はないねぇ!ただでさえ、私の実在は存続してしまったんだ……あぁ、やっぱり、勝ったのはクリスエスくんだろう?この私が、有馬記念で敗れたままの戦績で終わりたくはないねぇ!」
自身の存在の消滅を受け入れかけていた状態から、現実的な懸念へと立ち返るまでの時間の短さは、いかにもタキオンらしかった。
この模様を直接見ていた幾万人もの観客、配信画面経由で閲覧していた幾億人のファンに向けて、誤解を解くための手を尽くすことがいかに気の遠くなる取り組みとなるかはさておき……鷹木は、常通りの調子を取り戻したタキオンの健在だけを今は喜び、今しがたのやり取りはさておいて花束を彼女へ差し出していた。
はねのけるわけにもいかず、渋々ながら真紅の花束(スカーレットブーケ)を受け取ったタキオン。
それを抱きかかえているアグネスタキオンは、確かにここで途絶えるはずのない、将来へと存在が続くことが確信できる姿であった。