アグネスタキオンの入学初日から、彼女の担当トレーナーとなった鷹木が翻弄されっぱなしであるのを余所に、トレセン学園の内部では早くもひとつの話題が持ちきりとなっていた。
URA界のレジェンド的人物である結城トレーナーが、今年度あらたに担当するウマ娘を決めたとの情報が出回ったのである。
本来そのことはトレセン学園とトレーナー間のみで交わされる内容のはずだが、結城トレーナーほどの人物に関する情報ともなれば漏れ出た噂話が広まるのも早い。確実にGⅠの舞台へ連れていってくれるトレーナーに担当してもらえることは、ほぼ全てのウマ娘たちの憧れなのだ。
もう年齢も相応に取っているだけに、かつてのような大規模チームを率いることもない結城トレーナー。そんな彼が厳選したうえで指名したウマ娘は、これまた確かな素質を見出された稀有な存在ということになる。
放課後間際、タキオンが教室で授業を受けている姿をだけ確認し、その授業終了後に予定している基礎トレーニングのための準備をしつつ、鷹木はキングヘイローと話していた。
「さすがは結城トレーナーだよな、こんだけ話題になるだなんて……にしても、アドマイヤベガ、エアシャカールの担当を引き受けた後は、しばらく新たな担当ウマ娘を引き受けようとはしていなかったし、これ以上担当を増やさないつもりじゃないかと思っていたんだが。」
「ですけれど、どうしても放ってはおけない子を見つけたのでしょう。他のトレーナーさんに担当を任せるわけにはいかない、との自負が結城トレーナーにもおありですのね。」
「まぁ、あの人にそう言われたら、口出しできる実力のトレーナーは他には確かにいないんだが。で、まだ聞いてないんだが、結城トレーナーが新たに担当するっていうウマ娘は、誰なんだ?」
「あくまで噂ですけれど、ほぼ確定してますわね。……マンハッタンカフェさん、ですわ。」
キングヘイローは鷹木を手伝ってトレーニング用器具の準備をしつつ、彼からの問いかけに答える。現状のキングヘイローは、桂崎トレーナーのサブとしても手伝いつつ、ひとりでは担当ウマ娘に振り回されかねない鷹木のフォローに回る働きを続けていた。
その答えは、鷹木をさほど驚かせはしなかった。まだ実際にマンハッタンカフェが走る所を見てはいなかったものの、昨年の有馬記念にて直接会った際、僅かに感じた特有の存在感は徐々に増していた。
会った一度きりの記憶の中で、マンハッタンカフェの印象はひとりでに膨れ上がり、並みならぬウマ娘であるとの感覚が勝手に醸成されつつあったのだ。
「入学したあと、まだ他のウマ娘との合同練習で走る所しか見せていないだろうに、それでも結城トレーナーが早々と担当を決めるぐらいだ。マンハッタンカフェの素質は本物なんだろう。」
「カフェさんのお母上も、アイルランドにてウマ娘レースにおける実績を残しておられますし、体格の小柄な彼女にも光るものを結城トレーナーは見出しておられるのでしょうね。」
それに……この場で口には出さなかったが、アドマイヤベガの経験した奇妙な体験にも、マンハッタンカフェが絡んでいる可能性がある。
そもそも現実的には直接の関わりはなく、また結城トレーナーが昨年の有馬記念にてマンハッタンカフェがみせた振る舞いを知ってはいなかったろう。が、アドマイヤベガの身に起きる奇妙な変貌、その現状に干渉できる存在に、カフェはなり得るかもしれない。
キングヘイローも同じようなことを考えていたかもしれないが、やはり現実味のない事物を敢えて話題に挙げることはしなかった。それよりも、もっと現実的な問題が眼前にあった。
「……もう授業時間終了のチャイムも鳴ったのに、タキオンが来ないな。」
「トレーニングを行う予定、場所もきちんとタキオンさんにお伝えなさったのですわよね?」
「あぁ。なんなら入学式の翌日早々に、タキオン自身を連れてこの場所だと教えている。」
トレセン学園にて基礎学力を養う授業終了後は、レース出走ウマ娘を目指してのトレーニングに最大限の時間を費やせるよう、ホームルームなどは必要最低限の通達で済まされるため、時間が長引くことなど無い。
嫌な予感が湧き上がってきた鷹木は、それ以上の言葉を口にする前に立ち上がり、授業用の校舎の方へと足早に向かっていった。
キングも小走りに彼の後についてきて、共に抱いている予感の中身を話す。校舎からは既に授業終わりのウマ娘たちがほぼほぼグラウンドへ出て行った後であり、まだ校舎内に残っている者たちも練習に備えてシューズを履き直している最中であった。
「授業は終わっていますわね。と、なれば……タキオンさんは、トレーニングの予定をすっぽかして、どこかへサボりに向かっておられるのかもしれませんわね。」
「あぁ……そうであってくれた方がまだマシだ。単なるサボりならいい、変に危険な実験めいたことをしていないのなら。」
鷹木の脳裏には、先日、グラウンドへ上がる階段の途中で自分の巻き込まれた"実験"の光景が浮かんでいた。
大量のボールを転がした階段を、転倒の恐れも鑑みることなく、上から勢いよく駆け下りてくるタキオンの姿を思い返すたび、今なお掌にじんわりと冷や汗が浮かぶ。
担当ウマ娘が勝手な行動をしたがために怪我したにせよ、それを事前に予測できるのならば止める努力をしていなかった担当トレーナーにも責任の一端はある。
いや、責任の所在云々よりも、何よりも鷹木自身がウマ娘の故障、骨折という事態に強いトラウマがあった。走れなくなったがために夢への第一歩から挫かれたウマ娘を幾人も見てきたし、昨年まで担当していたオペラオーは疲労蓄積での骨折が引退の一因となった。
「ひとたび誰かの担当を始めれば、気の休まらぬ日々が延々と続くのがトレーナー、ですのね……私も今トレーナーの立場である以上、いずれ担当ウマ娘を得る時には相応の覚悟をもって臨まねばなりませんわ。」
「タキオンの場合は、かなり特殊な部類に入るとは思うんだがな。さて、どこに行ったんだろう、オペラオーの場合はだいたい予想がつくんだが。」
以前、オペラオーが練習場に姿を現さなかったときは、たいてい自らの容姿に見とれることのできる大型の鏡が設置されている箇所、あるいは探すまでも無く特有の朗々と響き渡る歌声が聞こえる場所に居た。
しかし、アグネスタキオンの場合はどこへ向かうのか、完全に予測不可能であった。
ちょうど、キングヘイローの存在に気づいて、ざわめきながら視線を向けてくる新入ウマ娘の一団へとキングは尋ねることが出来た。
「あなたたち、ちょっとよろしいかしら?アグネスタキオンさんは、授業が終わった後どちらに向かったか、ご存知?」
「たしか、皆が噂しているマンハッタンカフェちゃんに、会いに行ったとか……。」
「まぁ、そうだったのね。教えていただいて、どうもありがとう。あなたたちも練習、頑張ってらしてね。」
キングヘイローは丁重にそう告げ、深々と頭を下げつつ練習用グラウンドへと出ていくウマ娘たちに手を振って見送る。
そんなやり取りが為されている背後で、鷹木はいよいよ蒼ざめていた。
「よりによって、会いに行っただなんて……ということは、結城トレーナーの個別練習場か……。」
「緊張なさるのも無理はないでしょうけれど、ちょうど良い機会じゃありませんの?マンハッタンカフェさんが、結城トレーナーのもとでどのような練習をなさっておられるのか、見に行くうえでは。」
確かに気にはなるが、鷹木としては噂話が流れて間もない今、自分が結城トレーナーのもとへ押しかけていくような形となる状況自体を、気重く感じていた。
かのレジェンドトレーナーが新たな担当ウマ娘を得たからと、その練習風景を好奇心に耐えかね覗きにいく者たちと行動は何ら変わりない。万が一タキオンがそこに居なければ、自分の目的が野次ウマ行為ではないことを伝えることは、いよいよ難しくなる。
とはいえ、今まさにタキオンが結城トレーナーの練習場に押しかけているのならば、ますます急いでいかねばならない。
「俺がタキオンの担当トレーナーである以上、彼女に勝手な行動を許していることは、俺の責任だ、よな……。」
「ぐずぐずなさっておられないで、さっさと向かうべきではありませんの?もしも結城トレーナーのお近くにもタキオンさんがおられなければ、いよいよ真剣に探し回らなければなりませんわよ。ほら、私も同行いたしますから。」
無駄に自問を繰り返して決意を固めようとしている鷹木の胸中を慮りつつも、トレーナーとして優先すべき行為をキングヘイローは急かす。たしかに、今まさにタキオンが危険を伴う実験を行おうとしていたり、既に怪我をしていたりするのなら、事は一刻を争う。
こういう場面でも、鷹木の重い腰を上げさせるうえでキングヘイローの存在は重要であった。
広大な敷地面積を誇るトレセン学園においても、本番同様の環境を整えられる個別練習場はトップクラスの戦績を有するウマ娘にしか与えられない。天候に合わせ開閉する巨大天井を有し、練習風景を覗き込まれぬよう高い位置にある採光用の窓を除いて壁で完全に囲われている。
オペラオーが引退した今、こんなにも早く、望まぬ形で、個別練習場のエリアへ踏み込むこととなろうとは鷹木も思わなかった。
結城トレーナーがこれまで担当し続けているウマ娘、すなわちアドマイヤベガとエアシャカールの練習場の場所はしっかり覚えていたため、行くのに迷うことはなかった。そして間もなく、先ほどの自分の懸念が杞憂であることを彼は知ることとなる。
「……タキオンの声、聞こえるな。」
「えぇ、聞こえますわね。ほら、早く入っていって、タキオンさんをお連れ戻しになって。」
おそらく一方的に喋り続けているのだろう、アグネスタキオンの特徴ある声だけが練習場の内側から響いている。招かれもせず、また面識もない相手を前に、それだけ滔々と喋り続けられる胆力だけは見上げたものであった。
キングヘイローから背を押されながらも、鷹木は練習場入り口の扉をノックする手の震えを抑えられていなかった。
この状況で尋ねてくる者などほぼ限られている、と向こうも踏んだのだろう。足早に歩み寄ってくる足音の後、速やかに開かれた扉の向こうには他ならぬ結城トレーナー自身の姿があった。
レジェンドトレーナー自らに出迎えられた鷹木は見事に面食らうこととなったが、ここはウマ娘の練習場、ウマ娘たちがトレーニングに専念する時間であり、訪問者を出迎えることはトレーナーの役目であることに間違いはない。
「ど、どど、どうも、失礼いたします、結城トレーナー……その、自分がトレーニングを担当しているアグネスタキオンが、こちらに勝手にお邪魔していると聞きまして……。」
「あぁ、来ているね。どうぞ、入って。」
結城トレーナーの表情も口ぶりも温和なものではあったが、言葉少なに迎え入れられたことは、すなわち練習以外のことに時間を費やしたくないとの意思の表れである。
それはすなわち、アグネスタキオンが勝手に押しかけて喋りかけまくっている行為が、この練習場においては間違いなく邪魔になっているということでもあった。冷や汗をいよいよ絞り出すように額から流し始めた鷹木は、その喋り声のもとへぎこちなくも急ぎ足を向ける。
練習コース上では、アドマイヤベガが次の大舞台……春の天皇賞を想定しての走りを披露している真っ最中であった。
新入りのマンハッタンカフェは、その様を見学しているところなのだろう。トレーナーが口出ししすぎず、ウマ娘が自らの課題を見出して練習メニューを定める、それが結城トレーナーの方針である。
そんな中、常に制服の上から白衣を羽織っているタキオンは、後ろ姿だけでも容易に彼女だと分かった。真っ黒な長髪で、小柄な背中がほとんど覆われているマンハッタンカフェも同様、特徴的すぎる外見で判別は容易である。
何をそんなに喋ることがあるのか、と耳を澄ましても、タキオンの口から出てくるのはほぼ妄言と称しても支障ない内容ばかりだった。
「そんなにもキミ自身の意図から離れた干渉が、無作為に、そして突発的に発生する場合があるというのだね?それもキミ自身の意識が明晰な状態だ、すなわちキミの周囲に姿無き何かは実在するわけだ!今もまさに、すぐ傍に居るかもしれない、実に興味深いじゃないか、私の目の前にも姿を現してくれないだろうか!」
「……見えない、と思います……。」
「見えない、ということは、実際には居るということかい?クッ、なんと口惜しい、私には見えていない!だが、あくまでも現状は、の話に過ぎないさ。そう、この場における観測に限定すれば私の視覚によっては捉えられない、だが条件を変えれば?あるいは聴覚や触覚によって感じ取ることは?あぁ、試したい!今後の予定に空きがあるならば、私の実験に付き合ってはくれないだろうか!」
「付き合いません……あの、そろそろ先輩方の練習見学に集中したいので……。」
騒がしいタキオンに、気怠げに返答しつつ、マンハッタンカフェはチラと背後を振り返る。長い前髪でほとんど隠れた目元から、あの印象的な黄色い目が鷹木とキングヘイローの姿を捉えていた。
柔らかなターフの上で立てられる鷹木らの足音は、ほとんどタキオンの声でかき消されていただろうに、それに気づくマンハッタンカフェには本来の五感以外の感覚が備わっているのではないかとも思われた。
……その迷惑そうな表情に関しては原因もハッキリしており、何ら不思議なところはなかったが。カフェからも急かされたように感じた鷹木は、口を開いた。
「タキオン、勝手に自分が招待されてもいない練習場に入り込むんじゃない。今日はトレーニングルームに来るよう、ちゃんと伝えたはずだろ。」
「おぉ!鷹木トレーナーも聞いてくれないか、こちらの彼女、マンハッタンカフェは既存の物理学の埒外の存在と交流が可能らしいんだ!これは一大発見への橋頭保たり得るかもしれない!さぁ、キミ自身の口からも、こちらのトレーナーたちに話を披露してくれないか、どうにも私だけの物言いでは説得力を認めてくれないようだからね!」
「話しません……もともと、あなたにだって話すつもりはなかった……。」
「だが私は気づいた!キミがいかに目立たぬよう平々凡々たる自己紹介に済ませ、教室の隅にちんまりと座っていても、私の勘は最初からキミという存在を注目していたとも!その耳の動き、視線の向く先、明らかに物理的に観測される事物とは異なる存在を追っていたからねぇ!」
要するに、マンハッタンカフェ自身はごく普通に振舞っていたつもりが、意に留まるものを探し求めるアグネスタキオンの視線に捉えられてしまったのだろう。
教室の自分の席に大人しく座っている間も、タキオンは授業をマトモに聞きもせず、カフェの様子をじっくり観察し続けていたと思われる。その結果、確かにカフェが何か奇妙な物を感じ取っている様に気づいたのだ。
とはいえ、ここまで厚かましく迫られることを、相手が受け入れるはずもない。まくし立てるタキオンに鷹木が気圧されて口籠ったのを見越し、キングヘイローがつかつかと近寄る。
「タキオンさん?練習時間の邪魔をなさってはいけません、カフェさんも空き時間というわけではなく、アドマイヤベガさんの練習を見学なさっているところなのでしょう?」
「だが、見るだけであれば私の話を聞くことに聴覚を割いてくれたっていいじゃないか。ほら、私は彼女の視界を阻害しない位置に留まるよう心掛けているし……。」
「いいから、この場から早くお引き取りなさい!」
しびれを切らしたキングヘイローが、タキオンの脇から差しこんだ手で彼女の身体を立たせ、そのまま引きずるようにして練習場出口へ向かう。
ウマ娘の膂力で抵抗されても問答無用で引っ張り出すことは、人間のトレーナーである鷹木には真似できぬ芸当であった。ただでさえ華奢なタキオンは、キングヘイローの腕力に自分の体格では抵抗し得ないと悟ったのか、もがくのを途中で止めてマンハッタンカフェに向かって叫んだ。
「いずれ、キミのことを本格的に研究させてもらいたい、今はまだ環境が整っていないが、いずれ専用の場所を学園内に用意しよう!その折には声を掛ける、芳しい返答を期待しているよ!」
「やめろ、また結城トレーナーのところに迷惑をかけるつもりか。」
「……。」
どうにかタキオンを窘める言葉を口にしている鷹木の背後で、マンハッタンカフェは無言のままに視線だけを返していた。
迷惑な存在であることについては間違いないものの、他の人間やウマ娘たちに告げても決して信じてもらえないだろう存在を、大真面目に実在すると断じて興味を抱くアグネスタキオンは、確かに稀有な存在であると思われた。
キングヘイローの腕に捕まってズルズルと引きずられていくタキオンが出ていき、恐縮しきった様子の鷹木が幾度もお辞儀を繰り返しながら練習場の扉を閉めた後、マンハッタンカフェは静かに視線を練習用コースの方へと戻す。
マンハッタンカフェの黄色い目には、アドマイヤベガの背後にしがみついている真っ黒い靄のような存在が、しっかりと映っていた。