アグネスタキオンがタップダンスシチー相手にレースを行い、心配した鷹木が彼女に脚の診断を受けさせた日をきっかけに、タキオンは練習の場に自ら姿を現すようになっていた。
あくまで、彼女の気が向けばの話ではあったが。鷹木は走り込みよりもまず、タキオンの筋力を徐々に強化していく方針を立てていた。いきなり強い負荷を掛けることなく、じっくりとタキオンの脚が成長し、いずれ本番で繰り返される加速に耐えられる強さを持つように。
タキオンの脚の壊れやすさに気づいた今、その判断は妥当な物であり、トレーニングメニューを知らされたタキオン自身も鷹木トレーナーの思惑はすぐ理解しただろう。
が、アグネスタキオンは担当トレーナーの判断へと全面的に賛同した様子ではなかった。
「もう1セットだ、軽めだからまだ息切れはしていないだろう……おい、タキオン、どこに行く?」
「あぁ、ちょっと給水にね。」
「ドリンクならちゃんとクーラーボックス内に用意して……あれ?タキオン?もう居ない……」
そして、そのまま待っていても帰ってこない。トレーニング室近くにあるウォーターサーバーやドリンクの自販機、売店、食堂……何処を探し回っても見つからず、『給水』という名目は嘘であったことにようやく鷹木が気づくのは相当遅れてのことであった。
単に、アグネスタキオンにはサボり癖があると断じることも出来た。
まだ走り方が確立されていないとはいえ、タップダンスシチーを大きく突き放してゴールした、あの能力を既に有している以上、自分にはこれ以上練習する意味も薄いと考えているのだ……と。
「いや、タキオンほど頭が良いウマ娘なら、今の自分では本番のGⅠレースにはまだまだ及ばないことぐらい、わかるはずだろう……。」
既に鷹木は、アグネスタキオンに対し過去のレース映像を参照しつつ、本番での走りの作戦についての指導をも行っていた。
スタート後の位置取りやコーナーを回っている間のコース取り、スパートをかけるタイミングの駆け引き、直線に向いた際の競争相手のかわし方、いずれも入学間もないウマ娘の能力では到底勝負にならない世界であることは、映像越しにでも一目瞭然だったはずだ。
その時は、さしものアグネスタキオンも、偉業を成し遂げた先輩ウマ娘たちの走りには感じ入るところがあるのか、深く頷きながら映像を見ていたのだ。
「タキオンも、トレーニングに必要性を見出していないことはないはず、だとしたら……俺の立てた方針が適切ではないと感じているのか?」
たしかに、筋力を強化して身体を作れば、損傷のリスクを下げることにも繋がるが、同時に体つきそのものが変わってしまうと走り方自体に修正が必要になってしまう場合もある。
アグネスタキオンの、軽々とした走り。体の重みやスタミナの消費すら感じさせず、コーナーの出口でも遠心力で外に振られることなく、直線に向いたとたん先頭を追い越し、そのまま悠々と加速していく脚。
余計な重量物を全て削ぎ落とし、構造上の脆さを対価として引き受けた、レースに特化した身体であるとも言えた。
「更に筋肉が付けば、あのように軽々とした走りを変えなければならないのは、確かに可能性としては高い。だが……やっぱり、現状のままにはしておけない。」
鷹木の胸中に深く根付いていた懸念の元凶は……もとい、ありとあらゆるウマ娘担当トレーナーの記憶に刻まれて決して忘れられない存在は、あるウマ娘の名前である。
サイレンススズカ、URA史上最速のウマ娘。
あの時期、鷹木トレーナーはまだレース実績もない入学一年目のテイエムオペラオーに振り回され続ける日々を過ごしていたが、その年の秋の天皇賞にて悲劇は起きた。
東京レース場の長大なコースを、他の競争相手などまるで意にも介さず独走し、サイレンススズカは後方に10バ身もの大差をつけたまま、悠々と最後のコーナーを回っていた。が、その最中、突然に彼女は失速し、倒れぬように必死で減速するのが精いっぱいの状態となる。
コースの外側で、たちまち担当トレーナーや仲間のウマ娘たちによって体を支えられたまま救急車で運ばれていったサイレンススズカは、間もなく脚の粉砕骨折が発見され、そのまま引退となった。
……というのが、今から5年前の出来事である。
彼女と同じ黄金世代のスペシャルウィークやグラスワンダーによれば、もうサイレンススズカの骨折は完治し、今も時々プライベートで会いに行っているらしい。現在はメディア出演で多忙なスペシャルウィークとも一緒に、彼女は時おりウマ娘雑誌にて取材を受けている。
今でこそ無事な姿を見せているサイレンススズカであったが、当時はゴールまであと残り数百メートルのところで、史上最速と讃えられた稀代の俊足が、突如失速していく様を前に……観客席の数万人は一斉に蒼ざめていた。
レース出走前の検査では一切の異状が見つからなかった。サイレンススズカのスピードに、ウマ娘としては万全の状態だったはずの骨格が、耐え切れなかったのだ。
また、こちらは世間的な知名度はサイレンススズカほどではないかもしれないが、鷹木としては忘れられない存在の中にケイズドリームというウマ娘も居た。
テイエムオペラオーが年間無敗を達成した年の、最初のレース、2月の京都記念。最終直線にて先行争いに加わりつつ加速していったケイズドリームは、ガクンと身体がつんのめるようになって、そのまま失速していった。
彼女もまた、過度の負荷が脚に掛かったための骨折であった。
こちらも3年前のこと、既にケイズドリームの脚は治って退院していることだろうが、本番レースに向けてトレーニングを積み、追い求め続けた栄冠が目の前にあるというタイミングで、唐突に選手生命を断たれることは悪夢に他ならない。
そんな事態を目の当たりにし続け、更には以前の担当ウマ娘であるオペラオーもまた、過酷なレースの連続により骨折が発覚して引退したからこそ……鷹木は、アグネスタキオンの脚を案じる思いをますます強めていったのだ。
「走りの速さを保つことなら、担当トレーナーとしてきちんと俺が指導する。走る際のフォームも、脚の運び方も、ペース配分も……だからまずは怪我をしにくい身体を作ることを優先してほしいんだ、タキオン……!」
確かにオペラオーも小柄なウマ娘ではあったが、タキオンほど華奢なイメージはなかった。メイショウドトウもデビューからしばらくは1か月に何レースも連続で走っていたが、彼女の場合は恵まれた体格が、そのハードなローテーションに耐えうる頑健さをもたらしていた。
タキオンに伝えていた言葉を、彼女が姿をくらました後も自分の中で繰り返しながら、鷹木は校舎じゅうを探し回る。
先日とは違い、アグネスタキオンの目撃情報が、すれ違うウマ娘たちから投げ込まれることはなかった。タキオンも、同じように即座に発見されまいと目立たぬように行動しているのだろう。
そろそろ息が切れ始めた彼が、練習グラウンドに面した正面入り口の段差に腰掛けて項垂れているところに、同じく落ち着きのない足取りで現れたのはキングヘイローであった。
「鷹木トレーナー、ここにいらしたんですのね。タキオンさんをお探しのことと思ってはおりましたが。」
「あぁ、キング……もしかして、タキオンの居場所を知っているのか?」
「いえ、私も知りませんわ。たった今、鷹木トレーナーが校舎入り口でへたり込んでいるとの噂を学生から聞きつけて、こちらに来た次第ですの。」
すなわち、キングヘイローもまたアグネスタキオンの所在を知らぬのだろう。
キングヘイローはトレーナーとしての資格を取ってまだ1年、今は先輩トレーナーの下についてサブトレーナーとして働きつつ、経験を積む段階にあった。
今はたしか、結城トレーナーの手伝いをしていたはずのキングヘイロー。アドマイヤベガ、エアシャカール、そしてマンハッタンカフェの3名を同時に担当している結城トレーナー、見るべき相手が多くなっただけに、サブトレーナーの必要性も増している。
……そのキングヘイローが、自分の所在を聞きだしてここに来たと聞いて、鷹木の中では猛烈に嫌な予感が沸き起こりつつあった。
「もしかして、だが……キングヘイロー、結城トレーナーの手伝いとして、誰かを探しているのか?」
「……えぇ。鷹木トレーナーに、そしてアグネスタキオンさんに関わりの深い子なのですけれど……。」
「まさか……。」
「マンハッタンカフェさんが、練習場に来られておられませんの。」
嫌な予感はど真ん中に的中し、鷹木は自分の顔面から血の気が引いていく音を聞いたようにすら錯覚した。
いや、まだ、そうと決まったわけではない。アグネスタキオンが姿をくらましたことと、マンハッタンカフェが何故か練習場に現れないことが、関係あると確定したわけではない。
が……あのごく大人しそうで、練習をサボるなど不真面目な振る舞いとは無縁そうな、マンハッタンカフェの雰囲気を思い返すにつけ、予測のつかない奇行に走りがちなアグネスタキオンが関与している可能性はますます濃くなっていった。
つい先日も、マンハッタンカフェの謎めいた振る舞いに対して多大な好奇心を示し、結城トレーナーの居る個別練習場にまで勝手に押しかけていったタキオンのことである。
キングヘイローは、彼女特有の気遣いを示して言いづらそうに、しかし可能性のひとつを述べ続けていた。
「その、鷹木トレーナーの担当ウマ娘に対し、あらぬ嫌疑を掛けるのは失礼かとは思いますけれど……タキオンさんは、マンハッタンカフェさんに大変興味を示しておいででしたので……。」
「……うん、たぶん、ほぼ確実に、タキオンがカフェをどこかへ連れて行ってしまっているな。いや、俺も担当ウマ娘のことを信用しない、ってのは良くないんだが。」
それでも、担当トレーナーとして、行動予測の容易ではないアグネスタキオンのことを知ろうと努めてきた鷹木には、それ以外の答えを見いだせなかった。
結城トレーナーのマンハッタンカフェに対する指導を、大いに邪魔しているかもしれないアグネスタキオンを、ますます早々に発見して確保する必要性は増したということだ。先ほどまで校舎中を駆けずり回って疲れ切った脚に鞭打ち、フラフラと鷹木は立ち上がる。
キングヘイローが気遣わしそうに見ている前で、彼は大きな手掛かりを思いだした。
「あっ……そういや……タキオンは、自分専用の研究室をトレセン学園内に作る、とか言ってた。」
「えぇ?そんな、入学したばかりの子に、研究室をトレセン学園側から与えられたんですの?」
「いや、違う、許可なしだ、あいつが勝手に空き教室を占拠しようとしていただけなんだ。まさか、本気でトレセン学園の教室を私物化する気だったのか……?」
「ま、まずはその空き教室がどこにあるのか、私にも教えていただけます!?」
先ほどまで落ちつけぬ様子だったキングヘイローも、さらに焦りの色を表情に加える。マンハッタンカフェまでもが、空き教室の許可なしでの占拠に加担していたとしたら、練習場で待っている結城トレーナーに何と説明すべきか、その懸念が立ち上がって来たのだろう。
息切れしかけた状態の鷹木をキングヘイローが支えるようにして、足早にたどり着いた先は理科実験準備室。
果たして、その内部からは話し声が聞こえてきていた。
片方は聞き間違えようのない、アグネスタキオンの声である。往々にして独り言も多そうな彼女であったが、今はそれに返答する声も薄っすら響いていた。
低く落ち着いた、そして言葉をひとつひとつ選んで喋るような、ゆっくりとした語り口調であった。ウマ娘の聴覚は人間の聴覚よりもずっと優れている……キングヘイローは声の主の正体を直ちに聞きわけ、そして頭を抱え首を振った。
「……カフェさんの声ですわね。」
「やっぱり、タキオンは、マンハッタンカフェを連れ込んで、ここに籠っていたのか……。」
すぐさまタキオンとカフェを練習場へ連れ戻そう、と呼吸を整え、理科準備室の扉へと近づきかける鷹木。
だが、彼を引き留めたのはすぐ隣にいたキングヘイローであった。鷹木の腕を掴んで留めつつ、彼女は耳を立てて、先ほどまでの焦りと呆れが入りまじったような表情を失せさせ、どこか真剣な目の色を見せていた。
「な、何?」
「マンハッタンカフェさん、ずいぶんと真剣な様子で喋っておられますわね。ちょっと、待ってあげてもよろしいでしょうか。」
至って真面目な表情のキングヘイローにそう言われれば、鷹木も足を止める他なかった。
結城トレーナーが今なおマンハッタンカフェの到着を練習場で待ち続けている、としても……カフェとタキオンは練習よりも優先すべき深刻な話題を持ち出しているのだ、と気づけるのはキングヘイローもまたウマ娘であるが故だろう。
完全に呼吸が落ち着き、自分の動きを止めた状態であれば、鷹木の耳にも扉越しに漏れ出てくる言葉が断片的に聞こえ始めていた。
「なるほど、確かに一概には信じがたいと判断されるのも無理からぬ現象だろうねぇ。一般的な感性というものは、理解や整理の及ばぬ事象を不気味の一括りに放り込み、自らの認識から遠ざけようとするものだ。しかし、話を聞けば聞くほど、それらは確実に存在するものだとの認識が、私の中でも強まってきたよ!」
「……時おり、行動の意図が分からないこともありますが、私のことを気遣うようなそぶりを示してくれることもあって……ですから、私は、その方たちのことを……『お友だち』、と呼んでいます……。」
マンハッタンカフェの語る内容は途中からしか聞こえておらず、空き教室の中で彼女のボソボソと喋る低い声は扉越しには聞き取りづらかった。
が、キングヘイローと鷹木は並んで、その部屋の入口前に立ち、カフェとタキオンの会話を懸命に聞き取ろうとし続けていた。
鷹木は練習場から勝手に姿を消したアグネスタキオンを連れ戻すために探し回っていたはずであったのだが、今すぐ踏み込んで彼女らを確保しようとはしなかった。
キングヘイローもまた、結城トレーナーという大ベテランの練習場にカフェを連れ帰ることより、カフェが喋る機会を潰さぬことを優先していた。空き教室の扉に手を掛けてはいたが、そのまま開こうとせず動きを止めている。
タキオンもカフェも、こうして真面目に話し合うという振る舞いを、担当トレーナーには滅多に見せないウマ娘だったためである。
「ほう、『お友だち』か。既存の科学では存在を予測されず、物理法則の範疇に収まらぬ現象には、古来より様々な名称が勝手に与えられてきたが、カフェ君の場合は実に好意的な命名じゃないか。初めてそのような存在に気づいてから今に至るまで、その呼び方を変えてはいないのだね?」
「はい……私にとっては、お友だち、以外に呼び方はありませんでしたから……。他の皆に『お化け』や『幽霊』と呼ばれる存在が、私のお友だちのことを指していると初めて気づいたのも、幼少の頃の付き合いを経てのことです……。」
カフェの発言に対して、タキオンはあくまで理屈の上で結論を出し得る部分に踏み込み、整理していった。
そこに示されるのは妄信でもなく懐疑でもなく、徹底した中立の立場であった。根拠もなく信じることをせず、また考証もなしに否定することもしない。
そのようなタキオンの思考であったからこそ、カフェも滅多なことでは他者に喋らない内容を、告げることを決したのだろう。
「大多数との認識の齟齬に、交流によって気づかされることは必然的結果の一種だとも。しかし、一般的な解釈が自らの認識と異なっていることに気づいた後は『お友だち』という呼称の使用も煩雑になったのではないか?いわゆる世間で言うところの、見知らぬ他者よりは交流のある相手としての『友』を指す際に、キミは何と呼ぶんだい?」
「……『皆さん』と……私にとってお友だちは、ずっと変わらず、私や、時には皆さんの背後、傍に寄り添い続ける存在のことを指しますから……。」
タキオンが投げかけた疑問に対してカフェはごくシンプルな答えを返したが、それは他のウマ娘に対して自分がますます異質であるとの認識を自ら高める判断となっていたかもしれない。
親しくなった相手のことを、カフェは『お友だち』と呼びはしないのだ。あくまで『お友だち』はカフェにのみ認識でき、他者の目には見えない超常的な存在を指す呼称であった。
物理的に存在を確認でき、一般に視認される親しい相手は、カフェにとってはどれほど交流を重ねても、どこかよそよそしい『皆さん』であった。
「いいじゃないか、質を異にする存在の呼称を明確に区別することは、論理的思考の良き土壌となる。好意的でありたいと願わしいだけの対象へ無条件に好意的な呼称を与えることよりも、分類を怠らぬことをこそ優先したのだね、カフェ!キミには科学者の才がある!ますます、その思考を好ましく感じるよ!」
「……本当に、風変わりな方ですね、あなたは……私が頑なに、皆さんのことを『お友だち』と呼ばずにいる姿勢を、咎めだてられる場合が多いのですが……。」
自らの定めた呼び方を固持するカフェに対し、向けられる視線の類を想像するに難くはない。
空き教室の扉の外側で、鷹木と共に立ち聞きを続けていたキングヘイローはそっと項垂れる。カフェの吐露する内心を聞き、それに気づかぬまま接していた自分の振る舞いに思うところがあったのかもしれない。
さすがに知り合って数日の後輩から友人呼ばわりされることを求めはしないだろうが、それでもよそよそしさを保つ相手に対し、親しい関係性を築こうとアプローチしそうなのがキングであった。
「……それに、私のお友だちのこと、見えてもいないでしょうに……居るという前提で、話してくれるんですね。」
「あぁ、もちろん私もカフェ君の言うところの『お友だち』が実在するとの確証は得ていない、だが科学は常に仮説を立てることなくして実験的な正否の検証など為せないからねぇ。往々にして一般の認識は機械論的だ、ヒポテセス・ノン・フィンゴ、観測可能な事物に縛られ検証もなしに常識を適用することこそ非科学的じゃないか、コペルニクス的転回など見いだせようがない。」
「……あなたと話していると、変わり者扱いされることへの不安も、忘れられそうです。」
カフェの言わんとするところを、鷹木も理解できるような気がしていた。
覇王オペラオーの元担当トレーナーという、ほとんど唯一無二の、そしてトレーナーとしての実力に見合わぬ実績を背負った己を隠すようにトレセン学園へ勤務していた鷹木。が、タキオンの目立ち方と比べれば相対的に彼の異質さも薄れていった。
今はタキオンの担当トレーナーとして、担当ウマ娘についての理解を少しでも深めようと彼女の言葉に耳を傾けるまではいいものの、タキオンの発言内容を一割も理解できないまま会話が終わるのがしばしばであることが新たな悩みとなっていたが。
親しくなれる相手はかなり限られることは事実だったが、しかしタキオンは確かに誰かの居場所を作り出せるウマ娘であると鷹木は初めて気づいたような心持ちであった。
「変わり者という評はあながち誤りでもないかもしれないが、正確であることは可能だとも、それが科学だよ。賛同者の多寡に拘わらず、実証し得た仮説は定理となり、事実となる。カフェ、私はキミについての検証を進めたい。私の科学で、キミの見ている世界が非科学でないことを証明しようじゃないか!さぁ、思いおよぶが儘に、どんどん語ってくれないか。」
「……と言われましても、当たり前のようにお友だちが居ることについて、何から話せばいいのか……お友だちは、いつも私たちの傍に居て、見守ってくれています。たまに機嫌が悪いこともありますが……私たちを気遣うように、寄り添っているお友だちがほとんどです。」
「フム、確かにそのはずだねぇ、私などは何故か周囲の者を苛立たせてしまうことが多いようなんだが、仮に機嫌の悪いお友だちばかりだとすれば、毎日毎日私に目がけて、手近な物品が見えざる手によって投げつけられていてもおかしくはないねぇ。お友だちは、よほど心の広い存在ばかりだと思われるよ。」
普段から周囲を苛立たせがちであることについては自覚していたのか、と鷹木は顔をしかめながら項垂れた。傍にいて共に立ち聞きを続けているキングヘイローからは、同情の視線が投げかけられる。
鷹木とキングが、この場で扉越しに二人の会話を聞き始める前にどんなやり取りがあったかは知る由もなかったが、カフェの周囲で一般的に言うところの怪現象が起こりがちであることは、間違いないらしい。
「ですが、いつも私に寄り添ってくれているお友だちは、ちょっと乱暴な性格もありまして……悪意はないのですが少々短気で……はがゆい状況などに遭遇すると、周囲の物を動かしたり、音を立てたりすることが多いのです。」
「それが、先ほど起きた現象なのだね!私があまりにキミへと物理的な距離を詰め過ぎたために、強く押しのけられたような感覚を確かに受け取ったよ!では、今一度、カフェへと私が詰めよれば、同様の現象が再現されるのだろうか!」
「……気味悪がることなく、再度体験したがるだなんて、やっぱり変わり者ですね……それに、お友だちは、先ほどからあなたではなく、扉の外を気にしています……この部屋の外、誰かが居るんでしょうか?」
実際に自らも怪現象を体験したことが、ますますタキオンの探求心を熱していたらしいことは分かった。
が、今のカフェの発言を聞いたキングヘイローと鷹木にとっては、今まさに盗み聞きが露見しようとしている状況のほうが重大であった。
極力物音を立てないよう、そして身動きもせぬよう、じっと入り口の扉に身を寄せているだけの自分達に、気づくとは。カフェが言うところの『お友だち』は、確かに物理的な法則を無視して行動できる存在なのかもしれない……。
ガラッ!……と大きな音を立てて、扉が開かれたのはすぐ直後のことであった。
「おや!鷹木トレーナー、そしてキングヘイロートレーナーじゃないか。早くも見つかってしまったようだね、この場所が。いや、鷹木トレーナーは、既にタップダンスシチーくんとのレースで、私がこの空き教室を勝ち得た経緯も知っていたねぇ。とはいえ、想定していた以上に時間は稼げたよ。」
「……練習をさぼってしまい、申し訳ありません、キングヘイロートレーナー。すぐ、結城トレーナーの待つ練習場に戻ります……。」
カフェは謝罪の言葉を述べながら、キングヘイローへと頭を下げ、入り口で呆然と立ち尽くしている鷹木の脇をすり抜けるようにして空き教室を出ていく。
キングヘイローも、顔を蒼ざめさせていた。
「え……?今、鷹木トレーナーも、扉に力を入れておられませんわよね……?」
「……たぶん。」
今の状況を、いわば現実的に説明すれば、練習をさぼってお喋りしていたタキオンとカフェのもとへ、鷹木とキングが乗り込んできたという形になる。勢いよく開かれた扉も、トレーナーたちの慌てぶりを示しているようであった。
……しかし、鷹木も、そしてキングヘイローも、扉に手をかけてはいたものの、いっさい力を入れてはいなかったのである。
扉は、勝手に開いたのだ。まるで、盗み聞きしている者が逃げ出す暇も与えぬよう、内側から不意を突く様に何者かが開いたようであった。
アグネスタキオンも、マンハッタンカフェも、入り口の扉からは離れていた。手を伸ばしても扉には届かない位置で、どこから引っ張り出して来たのか、古ぼけた椅子に腰かけて話し込んでいたはずだった。
「カフェ!また機会があれば話そう!私の探求は、まだまだキミの中に可能性を見出せそうだ!……クールに去られてしまたねぇ、さて、鷹木トレーナー、私を練習場に連れ戻すなら今だよ、今の私は大いに探求心を満たされている!しばらくは満足感に浸っているから、練習を抜け出す気など私は起こさないだろう、しばらくはね。」
「……あ、あぁ……よ、よし、練習場に戻るぞ、タキオン……。」
先ほど目の前で勝手に開いた扉を思い返すにつけても、ますます自分の体験に現実味を見いだせずにいる鷹木は、どうにか間の抜けた声で返事をするだけで精一杯であった。