今日に関しては、鷹木トレーナーがアグネスタキオンのサボり癖に悩まされる状況は無かった。
鷹木がタキオンを探してトレセン学園の敷地じゅうを探し回る必要もなく、今日のアグネスタキオンはちゃんとトレーニング開始時刻通りに練習場へと姿を現した。
……彼女が、その傍らにマンハッタンカフェを伴っていたために、鷹木はあわや腰を抜かしかけたが。
「タ……タキオン……?」
「どうしたんだいトレーナー君、あたかもヨウ化物イオンを触媒とする過酸化水素水の発熱反応を目の当たりにした子犬のような狼狽えぶりじゃないか。」
「な、なぜタキオンが、マンハッタンカフェを連れてきているんだ……?」
アグネスタキオン特有の伝わりづらい喩えかたはさておき、鷹木はマンハッタンカフェがこの場所に連れてこられた事自体にまず驚き、続いて短時間で様々な憶測からの不安が沸き起こってくるのを感じていた。
マンハッタンカフェを担当しているのは、結城トレーナーである。URA界のレジェンド、トレセン学園の重鎮。
またしてもタキオンが、カフェを結城トレーナーの待つ練習場へ行かせず勝手に連れてきたのか、との懸念が真っ先に鷹木の中では浮かんできた。
そんな鷹木が考えていることを、マンハッタンカフェの方はある程度予測できていた様子である。
「心配しないでください……今日は、私は結城トレーナーの許可を得て、ここに居ます。」
「結城トレーナーが、許可……?」
「私が、アグネスタキオンさんと合同で練習したい……と告げて、その練習内容に承認をいただきましたので。」
言いながら、マンハッタンカフェは彼女自身の手でトレーニングメニューを書いたのだろう、畳まれたメモ用紙をジャージのポケットから取り出す。
結城トレーナーの方針においては、ウマ娘自らに練習内容を決めさせる。他者から指摘されなければ練習の必要性を見いだせない者は、トップクラスの舞台に立てないとの指針である。
数多くの優駿、実績あるウマ娘を指導してきたレジェンド的人物の言葉を、鵜呑みにさせまいとの思惑もあった。当然ながら、元から余程優秀な能力を有しているウマ娘でなければ、練習内容を一任されても戸惑うばかりであろう。
マンハッタンカフェは、先輩であるアドマイヤベガやエアシャカールの練習を間近で見学したうえで、自分に必要なトレーニングを判断して結城トレーナーに申告し、その内容は適切であると認められたことになる。
すなわち、鷹木トレーナーのもとに行き、アグネスタキオンと共に練習するという内容が、である。
「確かに秀でた脚を有する先輩たちの傍で練習することも大きな進展に繋がるだろうが、同年代、能力の近い者同士で走ることもまた練習としては有効だろうねぇ。というわけで、今日はカフェとの合同トレーニングと行こうじゃないか、トレーナー君。」
自らの言葉に頷きながら、鷹木がまだ返答していないにもかかわらず、既に決定事項のようにアグネスタキオンは言い放った。
実際、覆しようのない状況であった。事ここに至って、まさかマンハッタンカフェを結城トレーナーのもとに追い返すわけにもいかない。
「わ……わかった。じゃあ……タキオンのトレーニングメニューは決めてあるんだが、マンハッタンカフェが決めた練習内容について教えてくれないか?」
「……?私は、タキオンさんと同じ練習をするつもりで、ここに来たのですが。」
言いつつも、マンハッタンカフェは先ほど取り出したメモ用紙を開き、鷹木へ見せた。
そこには何ら細かなトレーニングメニューが示されているわけでもなかった。単に「アグネスタキオンと合同練習する」とだけ、書いてあるのみだった。
このメモ書きを結城トレーナーが見て、そして承諾したということは……すなわち鷹木トレーナーに、少なくとも今日だけはマンハッタンカフェの練習を委ねたということになる。
重大すぎる責任を何の予告も無く負わされたことを実感しつつある鷹木がじわじわと顔を蒼ざめさせている傍ら、アグネスタキオンは変わらぬ調子でカフェに話しかけまくっている。
「いやはや、カフェ、キミの走りをも間近で研究する機会を得るとは実に嬉しいねぇ、今日はじっくりと観察させてもらうよ。」
「タキオンさん……以前の練習場にてタップダンスシチーさんと競っていたあなたの走りを見て、私は今日の合同練習を決したのですが。」
例の、練習グラウンドじゅうから注目をあびつつ、タップダンスシチーと空き教室の使用権を争って突発的に行われた練習レース。
マンハッタンカフェも、それを見ていたか、あるいはレースの様が噂として耳に入っていたのだろう。周囲をどよめかせた、あのタキオンの直線における速度の伸びを、同期ウマ娘としても体感しておきたかったのだろう。
タキオンが怪我をしにくい身体づくりに向けたトレーニングを、今日も重点的に行う予定だったのだが、鷹木は一部を変更することとした。
「ストレッチ、ウォーミングアップを終えたら、筋力トレーニングに移る。走行中の靭帯や骨格への衝撃を和らげるため、それを支えるための筋肉を柔軟に鍛えることが目的だ。走行フォームの確認も行う。実際に走るのは、それに休憩を挟んでからだ。」
「最近のトレーナー君は、こればかりなんだよ。すまないねぇ、退屈な練習風景になりそうで。」
「……ですが、理に適っています。さっそく、始めましょう。」
むろん、自らの脚が損傷しやすい可能性を把握しているタキオンも、鷹木のトレーニング方針は理解している。
それに……これは結城トレーナーに聞かなければ確信のある内容とはならなかったが、マンハッタンカフェもまた、アグネスタキオン同様に華奢な脚の持ち主であった。
カフェの方がさらに小柄であり、その体重が脚に掛ける負担はより軽いだろうとは思われたものの、多大なる負荷がかかるレース本番を繰り返せば、故障の不安も増していくことは明瞭だった。
鷹木というトレーナーが、そういった不安へ真っ先に意識を向ける性格であることを、結城トレーナーは理解していたがために今回の合同練習を承諾したのかもしれなかった。
「そういえば、先輩ウマ娘がたはそろそろ春の大舞台だねぇ。天皇賞は、もう来週なんだから。」
ストレッチを行っている間も、アグネスタキオンの喋りは止まらない。
出来れば呼吸を整えるためにもストレッチに集中してもらいたい、と鷹木は思いながらも、タキオンが珍しくサボっていない状況、そしてカフェが話に応じている様を邪魔することも出来なかった。
「はい……アドマイヤベガ先輩、エアシャカール先輩は、共に出走を目前に、本番へ向けた調整の最中です。」
さらには、ナリタトップロードも、春の天皇賞へと出走する。
昨年の今ごろは、鷹木もテイエムオペラオーが再び天皇賞へ勝てるよう、彼女の高笑いを個別練習場にて聞きながらレースデータと睨み合っていたのだ。まだオペラオーの引退には遠く、気の休まらぬ状況の連続であった。
GⅠレースへ出るウマ娘を担当するトレーナーとしては、一つの鬼門ともなり得る春の天皇賞。淀の坂を抱いた3200mの長距離レースに臨めば、いかに実力のあるウマ娘でも勝利の確証など無い。
「ふむ、カフェ、キミはそんなレースに向け、練習する先輩がたの……邪魔にならぬよう、こちらに来たのかい?」
「そうではありません……結城トレーナーからは私にもきちんと指導していただけます……私自身の、判断です。」
柔軟ストレッチも終え、トレーニング機器を用いてゆっくりと負荷を掛けながらの筋力トレーニングに入りつつ、タキオンは問う。
カフェの返答は、多少曖昧なものであった。単に、アグネスタキオンと並んで走りたいから、という理由だけに収まらぬ余白が、挟まれた僅かな沈黙の中にあった。
さすがに走行フォームの確認のために、各々コースを走り始めたときには、タキオンもカフェへ話しかけるわけにいかない。黙って練習コースを走るタキオンという、まず見ることの出来なかった光景がそこにあった。
「……鷹木トレーナーは……タキオンさんの速さの源、いかがお考えでしょうか……。」
並んでカフェも、じっとタキオンの脚運びに視線を注ぎつつ、低く静かな声で鷹木へと問いかける。
そう問われても、鷹木は明確な答えを示すことも出来なかった。なにぶん、タキオン自身が真面目に走っている様を見せること自体、少ないのだ。
「正直、まだ分かってない。むしろ修正すべき点が多く見える、ほら、直線からコーナーへ入っても、直線での走り方のまま、脚運びを変えていない。本来は、コーナー攻略用のフォームに切り替えるべきなんだ。」
「タキオンさんなりに、走りを研究なさった結果、かもしれませんね……。」
鷹木の指摘は、教科書的には正しい指摘だった。遠心力で外側に体重が振られるコーナーを抜ける際には、内側と外側の脚それぞれに掛ける体重も変わってくる。直線を走る時と同様のフォームでは、スピードも伸びないはずだった。
が、それでも目の前でタキオンはコーナーで速度を落とす様子もなく軽々と走っていく。
その体重を感じさせない走り方は、可能な限り脚への負荷を軽くすることを意識した結果、タキオンが独自で見出したスタイルでも有り得た。だとすれば、足の故障を危惧する鷹木としては指摘する部分は少なかった。
「どうだったかな?私の走りは何ら変化のない、退屈なものだったろう。そうでなければ、変化のある競争相手とのレースに適応しづらいからねぇ。」
「あぁ、その理屈は分かる……だったら、競争相手が居る状態での走りも見せてもらわないとな。競う時には、また脚への負荷の掛かり方が変わってくるかもしれない。」
「ふゥん?確かに、私もつい夢中になって走ってしまうこともある、その場合は客観的な観測が不可欠かもしれないねぇ。トレーナー君、確かに道理の通ったことも言うじゃないか。」
続いてマンハッタンカフェの走行フォームを鷹木はタキオンと並んで確認したが、こちらはまるでケチのつけようのない、模範的な脚運びであった。
先ほどのタキオンとは違い、コーナーでは体重をしっかりと内側の脚に掛け、外側の脚で芝の地面を蹴って速度を維持している。コーナーから出て直線へ向いた時の、直線コース用の脚運びへ移行する様も実にスムーズであった。
結城トレーナーが、自主的に練習メニューを定めさせることを認めているウマ娘は、やはり相応の能力を有しているのであった。
少なくとも、軽く走り終えて戻って来たマンハッタンカフェに、鷹木は伝えるべきことなどなかった。
「マンハッタンカフェ……その、綺麗な走りだった。体重の掛かり方も理想通りだ、本気を出して走れば思うように速度が上がるだろう。」
「そうでしょうか……?トレーナーさんの視点から、指摘をいただけるのなら、遠慮なく仰っていただきたいのですが。」
真っ黒な髪をまとめながら、印象的な黄色い目にじっと見つめられても、鷹木はそれ以上返す言葉が見つからなかった。
決して、自分の担当ウマ娘ではないからといって指導を疎かにしているわけではない……本当に、鷹木の目には、マンハッタンカフェの走りに改善点など見いだせなかったのだ。
そんな彼の胸中をも察しているのか、アグネスタキオンが頷きながら口を挿む。
「トレーナー君、一度きりの試行では、是正点を見出すことも難しいものだよ。ここはやはり、私とカフェの併走と行こうじゃないか。私もカフェが走っている様に技癢を覚えてしまってねぇ。」
トレセン学園に入ったばかりのウマ娘とは思えない口ぶりではあったが、偉そうな口の利き方が不思議と似合うのもアグネスタキオンという存在であった。
タキオンの言葉を受けて、カフェも静かに乗り気になっているのか、その目の輝きを僅かながらに増している。
しかし、鷹木がトレーニングの進め方に対しあくまで慎重であるスタンスは変わらなかった。
「待て、待て。トレーニングの後に走行もしたばかりだ、十分な負荷が掛かっている。いったん休憩を挟んでからだ。」
「すぐこれだよ、本当に心配性だねぇ、鷹木トレーナーは。」
「……タキオンさん、ここはトレーナーさんの仰る通りに、休憩しましょう。」
カフェの視線は、何故かトレーナーでもタキオンでもなく、トレーニング室の一角を向いていた。
授業を終えた放課後の時間帯、既に夕刻の色に染まった陽射しが、窓枠に黒々と区切られて光を室内に落としている。
「……あれ?」
そちらにはテレビ画面が設置されている。本来は、その脇にある箱にリモコンは収められているはずだった。
しかし、鷹木もカフェにつられるように視線をそちらに向けた時、まるで誰かが散らかしたかのごとく、テレビのリモコンや今日の番組表などが取り出されて散乱していたのだ。
「おやおや、行儀の悪いウマ娘もいたものだねぇ。誰だい、トレーニング室での機器の後片付けもしないで立ち去ったのは。」
「いや、さっき見た時は、ちゃんと片付いた状態のはずだったんだが……。」
何者かが、トレーニング室に設置されたテレビを利用するつもりだったのなら、立ち去るには妙なタイミングである。今からまさに、重大なレースの中継が始まる時刻だったのだ。
鷹木が今の時刻に休憩を予定していた理由は、今日行われる大きなレースをタキオンと共に観戦する目的でもあった。香港、沙田(シャティン)レース場で行われる、クイーンエリザベスカップである。
そこに、アグネスデジタルが出走するのだ。彼女はドバイから帰ってきてすぐに、桂崎トレーナーとともに現地香港へと飛んでいた。
首を捻りつつも鷹木がテレビ画面をつければ、既にチャンネルは香港、沙田レース場の中継チャンネルに合っていた。
〈さぁ今年度は二名のウマ娘がURAから出走しますクイーンエリザベスカップ、昨年は香港マイルにて勝利しましたエイシンプレストンにも好走が期待されるところですが、香港カップ、そしてドバイと今や世界を活躍の舞台としているアグネスデジタルにも注目が集まっております……。〉
「へぇ、準備が良いじゃないか。誰かさんが、わざわざ中継チャンネルを合わせた状態で放っておいてくれたんだねぇ。」
「あ、あぁ、そう、かな……?」
「……。」
不可思議な状況を飲み込めきれずに立ち尽くしている鷹木の隣、タキオンがスポーツドリンクを片手にサッサと座り、カフェもそれに続く。
テレビ画面前の長椅子は、3名が余裕をもって腰掛けられる大きさのはずだったが、何故かカフェは若干タキオンの方に寄り、隅にもう1名が座れる余地を残すような位置に腰掛けているのであった。