中継画面から流れてくるアナウンサーの声は、当然ながらトレセン学園から香港へ、このクイーンエリザベスカップの出走へと向かった2名のウマ娘を主に話題へと挙げていた。
が、海外の実況中継においても、その両名が脚光を浴びていたことには変わりなかったろう。かたや、前年度の香港マイル覇者、エイシンプレストン。
そして、こちらも昨年末の香港カップを制し、さらには本調子ではなかったドバイでも力走を見せたアグネスデジタル。トレセン学園が輩出した、現世代最強クラスのウマ娘たちに、世界が注目していた。
「……エイシンプレストン先輩は、アグネスデジタル先輩と同期……トレセン学園に入って3年目から戦績は本格化したのも、デジタル先輩と同じです。」
「通常は、入学1年目の末にデビュー戦、2年目からクラシック路線に入れるか否か、が競われるものだというに、両名ともに遅咲きながら世界の舞台に立っているということか。やはりウマ娘レースの世界は奥深く、そして観測し得ない将来は魅力的だ。」
マンハッタンカフェとアグネスタキオンは、中継画面の向こう側にいる先輩ウマ娘たちに視線が釘付けになりながら喋っている。
共に個性的すぎるカフェとタキオンだったが、相応にウマ娘らしく大舞台のレースに出走する先輩への憧れは抱いているらしかった。鷹木も、近い世代のウマ娘を担当していたトレーナーとして口を開く。
「今でこそ香港での活躍が有名だが、エイシンプレストンとアグネスデジタルは互いに因縁深い相手だ。デジタルが初めてエイシンプレストンと競ったのは、2年前の中山レース場、ニュージーランドトロフィーの時だ。」
エイシンプレストンはデビューした年のうちにGⅠレースで勝利、劇的な快進撃を続けるエース的存在であった。
ニュージーランドトロフィーにおいても、エイシンプレストンの走りは際立っていた。アグネスデジタルは当時まだ芝のコースで目立った成績を残していなかったが、それでも彼女は最終直線、どうにか懸命に先頭へと出たのだ。
しかし、アグネスデジタルに遅れて集団から抜け出したエイシンプレストンは、そのままデジタルを差しきり、一着でゴールしていた。
「その後はマイルチャンピオンシップ、京都記念、安田記念……と、デジタルとはたびたびぶつかり合っている。エイシンプレストン自身もまた、勝ちきれない時期を経験した上で去年の香港マイルを制していた。」
「お互いにそれぞれの執念を抱きながら、時に交わり、かつ離れ、駆け続けた先、あの香港の地で競い合うというわけだねぇ。運命の偶然として片づけるにはあまりに出来過ぎているじゃないか、まるで何者かによって綴られた脚本のごときウマ娘生を、私達も歩みたいものだねぇカフェ!」
「……私たちは、そもそもデビューすら、まだですから……。」
アグネスタキオンの言葉に、マンハッタンカフェはごく冷静な返答を示している。
とはいえ、いつも通りならば確証の無いことを決して口になどしないタキオンが、漠然とした将来像をつい口走ってしまう様は、やはり大舞台のレース開始が刻々と迫る中で浮かれている証ではないかと思われた。
中継画面では、スタート前から大歓声に包まれる中、出走ウマ娘たちのゲートインが進んでいく。
沙田(シャティン)レース場の芝2000mコースは、観客席スタンドの目の前がスタート位置なのだ。
〈いよいよ始まります、各ウマ娘体勢整いまして……スタートしました!グランデラ少し遅れたか、他はおおむね好調なスタートとなりました、先頭争いのウマ娘たちが競うように前へ出る中、アグネスデジタルも果敢に位置を上げていきます!エイシンプレストンは中ほどの位置、ウチと外を挟まれて中団真ん中といったところであります。〉
画面からゲート音が響くと同時に、アグネスタキオンがぐっと拳を握りしめたときの僅かな震えが、腰掛けている長椅子越しに伝わってきた。
そっと横目を向けると、彼女は熱を込めた視線で画面を食い入るように見つめている。その向こう側に座っているマンハッタンカフェがいつも通りに静かな視線を注いでいるのとは対照的であった。
「スタート直後からのデジタル君の加速は飛び抜けているねぇ!あれでなおも、最終直線で他を差しきる脚を残しているというのだから、見上げたものだよ!」
「デジタルは、自分のスタミナ配分を完全に理解してペースを調節しているからな。」
鷹木はそう返答しながら、掴みどころのないアグネスタキオンの性格に、予想だにしなかった側面を見出した思いであった。
これまで練習をサボる回数の方が多かったタキオンであったが、ウマ娘レースに向ける熱意は充分にあるらしい。初めて彼女と共にレースを観戦したおかげで、タキオンの内に秘められた真剣さに鷹木は気づくこととなった。
ますますもって、そんなタキオンが練習をサボる理由が分からなくなったことにも違いなかったが。
〈さぁ最初のコーナーに入っていきます、アグネスデジタルは3番手の位置、しかしウチ側を2名に埋められて外を回る展開。エイシンプレストンはアグネスデジタルのすぐ後ろ、こちらも変わらず集団に囲まれていますが安定した位置取りです。さて、2コーナーを回っていくところですが外を回ってアグネスデジタルより前へと出るウマ娘が数名……上がっていきます。〉
アナウンサーの口ぶりが曖昧になったのも仕方のないことで、現地での英語の実況を聞きつつも、同時に映像からウマ娘の位置を確認して実況を続けなければならない。
現地から送られてくる映像は、ちょうどコーナーの内側に聳える建物に遮られ、一瞬ウマ娘たちの姿が画面から見えなくなったのであった。
アグネスタキオンも、じれったそうに目を凝らして画面を見つめながら口を開く。
「どうして観戦の視界を遮るような建物が、レース場内に作られているんだい?東京レース場の大ケヤキならばまだしも、人工物ならば思った通りの場所に移転できるだろうに。」
「さ、さぁ、なんでかな……。」
こういうときに片桐トレーナーならば、その理由をスラスラと答えられたかもしれないが、鷹木は曖昧に返答するほかなかった。
マンハッタンカフェは、変わらず静かな視線で中継画面を見つめている。アグネスデジタルの明るい黄色や赤をあしらった勝負服を鷹木が改めて見つけ出したとき、画面内のアナウンサーの声も明瞭さを取り戻した。
〈向こう正面を駆けていきます、アグネスデジタルは現在5番手の位置、先ほど後方から上がってきたウマ娘たちが次のコーナーに差し掛かる前から好位置を狙って詰めかけてきた様子です!エイシンプレストンは変わらずアグネスデジタルの後方、しかしこちらも前に出る備えでしょうか、徐々に外側へと出つつあります!〉
国内、URAのレースではあまり見られない光景であった。大抵は、向こう正面をおよそ走り切るまで無理な位置取り変更などせず、最終コーナー前後のどのあたりで仕掛け始めるか駆け引きが始まる頃合いである。
しかし、海外のウマ娘たちはスタミナの残量に余裕があるためか、向こう正面の時点で早くも前へと上がり始めていたのだ。
「じわじわと後ろから来ているねぇ、このままではデジタル君が集団に埋もれてしまうじゃないか。」
「問題は無いだろう、ほぼ。」
鷹木は、自分がデジタルの担当トレーナーでもないにもかかわらず、ほとんど確信をもって迷うことなくそう答えていた。
実際、集団の中から抜け出す技術については、アグネスデジタルの右に出る者は無かった。その小柄な体系もさることながら、磨き抜かれた脚さばきによって、彼女は前を阻まれることなく、最終直線ではすんなりと先頭へ上がってくるのだ。
勝ちあぐねて悩んだ時期に幾度も、前方を塞がれて上がることが出来ずに苦杯を舐めたレースを、アグネスデジタルが経験し続けた上での成長である。
他のウマ娘にじわじわと追いつかれつつも、彼女は焦りを見せなかった。
〈残り1400、外側から上がってきたのは1番人気のグランデラでしょうか、早くも仕掛けてきた様子です!アグネスデジタルはウチと外を挟まれて5番手、6番手と言ったところ。エイシンプレストンが少し後ろに下げたか、ハナを進むのは……オカワンゴ、でしょうか、ライバルたちの蹄音が真後ろに聞こえているはずですが焦りも無くペースを作っていきます。〉
相変わらず海外のウマ娘名には疎いのだろう、アナウンサーが確証をもって口にするのはアグネスデジタルとエイシンプレストンの両名であった。
たしかに先頭のウマ娘も、あえて後方を引き離そうとせず落ち着いた足取りで進んでいる。
「……先頭から最後方まで、差が無いままです……仕掛けるタイミングをミスしたら、確実に置いて行かれてしまいそうです……。」
「そのはずだねぇ、しかしあの青い勝負服、実況に拠れば1番人気のウマ娘、かなり早いタイミングで上がっていくじゃないか。高い水準のレースゆえに、どのような走りを個々が実行するかもまた未知数、といったところだねぇ。」
いよいよ最後のコーナーへと向かう局面、今までじっと静かに画面を見つめていたカフェも、口を開く。
彼女の静かな興奮が伝わったのだろうか、アグネスタキオンもまたますます饒舌に、そして早口になっていった。むろん、鷹木も常通り、中継越しでありながらレースの展開に呑まれかけている。
〈最終コーナーを回っていきます、さぁ各バじわじわと上がっていくところですが、まだ飛び出して先頭を奪おうとする者はいない、アグネスデジタルを囲んで互いに仕掛けどころを見ているか、しかし後方では動きがありました、エイシンプレストンが外へ、大きく外に出したコース取りです!〉
当然ながら、世界に名の知れ渡ったアグネスデジタルを警戒すべきだというのは全ての出走ウマ娘たちに共通した思いであったろう。
ある種の膠着状態に先頭集団が陥っていたのは、当のデジタルが未だに仕掛ける気配なく、後方からライバルたちに迫られても加速することなく淡々と進み続けていたためであったろう。
「デジタル先輩は、大きく位置を動かして、周囲を翻弄するような走りが印象的だったのですが……その印象とは、対照的な走り方です。」
「あれはフェブラリーステークスでの走りだろう、ダートレースじゃないか。芝コースとはまた状況が違う、ということじゃないかな?」
それもまた、アグネスデジタルの走りをライバルたちが読みづらい要因でもあった。
彼女は芝とダート、両方のコースでそれぞれ走りを使い分ける。時には先行し、時には差し、敢えて位置取りを変えることもあれば、このレースのように一切位置取りを動かさず走り抜くこともある……。
底抜けたような明るさを放つアグネスデジタルの普段の姿とは対照的に、レースを最後まで走り切るまでどんな作戦が繰り出されるか分からない、不気味さまでもライバルたちは感じていたことだろう。
〈4コーナーを回っていきます、いよいよ最終直線へ向くといったところ!エイシンプレストンは大きく外に出しています、アグネスデジタルは完全に囲まれている!完全に囲まれているが、どうだ、抜け出せるか、先頭に立ったのは青い勝負服、グランデラ!アグネスデジタルはその後ろだが、軽い、足取りが軽い!一気に加速した!〉
アグネスデジタルは集団の中に埋もれたように見えたが、やはり前を塞がれることなくすり抜けていた。
そして同様に、コース取りをほとんど変えることなく、スタミナの浪費もなく、淡々と運び続けた脚は充分な余力を残していた。
当然ながら警戒していた競争相手のウマ娘たちも食い下がるが、もはや加速力からして段違いであることは観客席からも一目瞭然だったのだろう、ひときわ大きな歓声と共にアグネスデジタルの姿は先頭に躍り出た。
「……速い……。」
「さすがだよデジタル君!己の思い描いた通りに、計算の狂いなくレースを構築し、そして実現しているのだと、今初めて見せられた私にも十分に理解できるよ!しかし猶予はあり過ぎたのではないか、それも計算の内かい?」
カフェはただただ目を丸くしてデジタルのスパートに感じ入り、タキオンもまた彼女なりの独特の興奮の仕方で声を張り上げていた。
が、鷹木には、デジタルが最も警戒している相手に向ける意識までも伝わってくるようであった。
最終直線に向くまで、アグネスデジタルが可能な限り余力を残し続けようとした一番の要因。そうでなければ、競り合えないと判断した最大のライバルの存在。
〈抜け出した抜け出したアグネスデジタル!すぐ後ろの集団も距離を詰めようと迫るが、距離はじわじわと開いていく!アグネスデジタル、やはり強い……大外からエイシンプレストン!大外からエイシンプレストンが飛んできた!先頭に迫っていく!これは、どっちだ!?〉
エイシンプレストンにとっても、アグネスデジタルは片時も忘れようのない好敵手であった。ニュージーランドトロフィーで自分が勝利を飾ったのちは、マイルチャンピオンシップでアグネスデジタルに敗れる。
その後はGⅢレースで14着、12着と苦戦の続いた時期もあったが、昨年の中頃から持ち直し、昨年末の香港マイルでついにGⅠタイトルの栄冠を手にしたのだ。
再び現れた因縁の相手に、再び勝利の栄光を奪わせる気はさらさらなかった。
「そうか……そうかデジタル君!私の計算にはデータが足りていなかった!なるほど、ならばスタミナ残量は過剰ではない、拮抗する!エイシンプレストンが、並ぶじゃないか!」
「……ですが、デジタル先輩、このままでは……。」
マンハッタンカフェの見つめる画面の中で、エイシンプレストンは充分な速度を以て先頭のアグネスデジタルに食らいついていた。
デジタルが並ばれた時、ゴールは、まだ先であった。
〈エイシンプレストンがグランデラを抜き去り、アグネスデジタルに並ぶ!アグネスデジタル、全力で駆け続けるが、差し返すか、差し返せるか、足りないか!先頭に立ったのはエイシンプレストン、エイシンプレストン、今一着のままゴールイン!半バ身の差で、エイシンプレストンが勝利しました!二着はアグネスデジタルです、URAのウマ娘が海外の舞台でワンツーフィニッシュを決めました!〉
割れんばかりの喝采のなか、アグネスデジタルは僅かに俯き、少し頷いた後に再び顔をあげた。
既に、いつも通りに朗らかな表情を彼女は浮かべ、そして観客席から押し寄せる歓声を、すぐ隣のエイシンプレストンと共に両手を挙げて受け止めていた。
「デジタル先輩が、二着……。」
「エイシンプレストン先輩がこの走りを実現することも、むろんデジタル先輩が想定していなかったはずがないねぇ。おそらくドバイから帰還して間もないが故の疲労もあったのだろうが、しかし厳然たるレース結果が確定する前から、予測される過程へ向き合い推測し、最善の走りを実現したと言えるのではないか?」
アグネスタキオンは、中継が終わった後も興奮冷めやらぬ様子で、早口のままあれこれとまくし立てていた。とはいえ、タキオンの言はあながち外れてもいない。
レース後、確かに悔しさを感じて俯いた後、アグネスデジタルが小さく頷いたのも、十分に予測し得た結末だったためだろう。
エイシンプレストンは、確実に自分に追いついてくる。最終直線で並ばれても粘り、先頭で走り切るだけのスタミナを可能な限り残して……実際にエイシンプレストンの追い上げの速度を体感した際、結末は見えたのだろう。
そこに運や願いの要素など無い。もしもドバイからの疲れが無ければ、という仮定の話も無い。
コツコツと積み重ねた練習の成果、レース前の調整の影響が、現実として結果を示すからこそ、レース結果は確定するのだ。
「さぁ、我々の休憩は充分だろう、トレーナー君。練習場が暗がりに包まれてしまう前に、私とカフェとの併走を始めようじゃないか。」
「……あ、あぁ、だな。空いているコースを使わせてもらいに行こう。」
「よろしく、お願いします……。」
タキオンとカフェに急かされるように、鷹木は立ち上がりつつも、アグネスデジタルについての考えをすぐ中断することは出来なかった。
デジタルも、既にトレセン学園4年目に突入しているのだ。エイシンプレストンもまた同年代とはいえ、デジタルの成長に周囲が追いつきつつあることは事実だった。
それがアグネスデジタルの身体能力本格化の時期が過ぎようとしている証ではないか、との懸念も湧き起こりつつあったのだ。