4月も末に近づき、いよいよ春の天皇賞が行われる日。
マンハッタンカフェは、アグネスタキオンと共に居た。彼女を担当する結城トレーナーは、アドマイヤベガ、エアシャカールの天皇賞出走に付き添う必要があり、カフェは結城トレーナーの個別練習場にひとり残される状況となっていた。
入学間からひと月になる今、じわじわとながら距離を詰めつつあったタキオンの傍に彼女が居た理由は、単に並んで練習するためではない。
淀駅に降り立った鷹木トレーナーは、京都レース場でのレース開催日にのみ開放される臨時改札口へと向かっていた。観戦客たちで賑わう喧騒の中でも、すぐ背後ではタキオンの声がハッキリと聞こえる。
「トレーナー君、よもやこうもイレギュラーな対応をキミが実現してくれるとは思いもよらなかったよ!どうせ、祝日であろうがトレーニングを真面目に受けさせ、またも中継で天皇賞観戦を済ませるのだと思っていたのだがね!」
「仮に見に行きたくても、簡単にチケットが取れるものじゃない。学園にちょっと無理を言った結果だ……あまりはしゃぎすぎないでくれよ。」
この日、アグネスタキオンとマンハッタンカフェは、鷹木トレーナーが学園に届け出た申請が通ったことにより、京都まで移動して現地での観戦が叶っていた。
天皇賞は、言わずと知れたGⅠクラスの一大レース。現地にて観戦したくとも、チケットを入手するのは狭き門である。
トレセン学園所属のトレーナーに限っては、ウマ娘指導の質向上のため本番舞台を間近で観戦する機会を得られるよう、数に制限はあるものの学園で確保したチケットを入手できる。
昨年の有馬記念などはアグネスデジタルが同行していたため、トレーナー専用ブースを取ることも出来ていた。が、まだ全く戦績を立てていないウマ娘と共にとなれば、学園に依頼してチケットを確保する他に無い。
予想は充分に出来ていただろうが、広々とした改札口から京都レース場にまで繋がる専用通路まで、観戦客で埋め尽くされ話し声や笑い声で満たされている様に、マンハッタンカフェは黄色い目を丸く見開いている。
「……まだレースは始まっていないのに、こんなにも熱気が……観客の皆さん、よく体力が持ちますね……。」
「彼らの熱狂が、そして喝采が、我らウマ娘のレースを支え、幾万と数え切れぬ夢を抱え、褪せぬ栄光を深々と歴史の一幕に刻んでいくのだよ!私も、そしてカフェ、キミも、この多大なる熱量を担ってターフを駆ける日が、いずれ来るだろう!」
「自信満々なのは結構だが、ちゃんと前を見て歩いてくれ、ここではぐれたら観戦どころの騒ぎじゃない。」
鷹木がトレーナーとして責任を持ち引率する、との宣誓あってこそ学園から認可された観戦なのだ。
秋川やよい理事長自らがチケット入りの封筒を手渡してきた際の、"キミならば任せられる"と言わんばかりの満面の笑みを思い出すにつけても、この雑踏の中で鷹木は一刻も気の休まらぬ思いであった。
一瞬でも目を離した隙にタキオンとカフェが姿をくらましていないかと、鷹木は幾度も振り返らざるを得なかった。
「随分とキョロキョロしているがトレーナー君、あまりの人出に道が分からなくなったのではあるまいね?群衆の流れに従って進むと、想定になかった位置にたどり着いてしまうかもしれない、きちんと進路を確認してくれたまえ。」
「……トレーナーさん、きちんと前を見て歩いた方がいいです……。」
もちろん、タキオンとカフェ自身は勝手に行動できぬばかりか、皆で固まったまま簡単に身動きの取れない中、群衆に流されていくように前へ進む他なかったのだが。
思えば鷹木は、こうして一般の観客としての移動経路を用いて、京都レース場に来ることは初めてだった。
トレセン学園に勤めはじめたばかりの頃は、そもそも観戦に向かっている余裕などない。トレーナーとしての勉強を続け、ウマ娘を担当し始めた頃もほぼ無名のレースに出走する彼女らのサポートで手一杯だった。
テイエムオペラオーを担当しだしたばかりの頃は、アドマイヤベガの同期ウマ娘を担当している縁で、結城トレーナーと同行しての移動だった。当然、URAを代表するレジェンドトレーナーは、電車やバスまでもマイカーとして所有していた。
そして……一昨年、昨年と続けて、鷹木はレース出走ウマ娘のためのバスの中、キリキリ痛む腹と頭を抱えながらも、自分の立てた作戦に少しでも粗が無いかと思い悩み続けている内に、現地へ到着することを繰り返していた。すぐ隣で、オペラオーが機嫌良さそうに歌を口ずさむのを聞きながら。
背後でアグネスタキオンのあげた鋭い声が、回想に浸っていた鷹木を現在へと引き戻した。
「おぉい、トレーナー君!一大事だ、群衆が二手に分かれていく!我々は、どちらについて行けばいいんだい?あるいは、観測され得ぬ粒子のごとく、未知の流れに身を任せる他にないのかい?」
「こっちだ、ステーション側の建物にも映像越しに観戦できる施設があるらしいが、俺たちは入場チケットがある。」
「……いつでもチケットを提示できるよう、準備して……いや、まだ早いでしょうか……。」
ますます人の密度が増していく大混雑のなか、カフェはチケットを取り出しかけては、紛失の恐れを鑑みてポケット内に戻している。
隣接する駅から、空中の通路を渡って直接京都レース場へと入ることの出来る巨大なゲートビルの中を歩きながらも、階下を見下ろせば外も群衆で溢れかえっていた。
周囲の様相を見るにつけても、鷹木はウマ娘レースがこの世の中心となって人々を動かしているのだという実感を得ていた。
詰めかける大量の群衆の熱気のみならず、千億にも届かんとするレベルで資金を費やす建築がこうして完成しているのだ。今回、実際にこうやって駅から徒歩で向かうことにより、鷹木が初めて気づかされた部分であった。
かなり時間に余裕をもって来場したつもりだったが、チケット指定の席に到着する頃には出走ウマ娘のパドックでの紹介が始まろうとする時刻となっていた。
「ふゥむ、いずれ我々も本番の舞台に立つ予定となるパドック、直接目に焼き付けても起きたかったのだが、流石に当日にトレセン学園から京都まで移動したうえ、その時間的猶予を確保することは難しかったか、鷹木トレーナーには。」
「どうしてそこで俺の名前を補足するんだ……。」
「レース終了後に、見学させてもらいましょう……やはり混雑の中、かもしれませんが。」
タキオンと話を交わしながら、カフェは席に着いた後もキョロキョロと観戦スタンド全体を見回している。
京都レース場の指定席の中でも、さほど背もたれに余裕のないリーズナブルなブロックである。とはいえ、屋外の自由席と比べれば値段は張る。
大きな窓の向こうには数え切れぬ数の観客たちが詰めかける様を見下ろせ、ファンファーレを奏でる音楽隊の白い制服が点々と見え、更に奥には天皇賞春のゴール板が立っている様が小さく見えた。
その向こう側には、視界の端が霞むかと思われるほど広々としたコースが伸びている。
「カフェ、なぜ観客席ばかり見回しているんだい。前を見たまえ、あれが本番の舞台だよ!今はいかにも手の届かぬような、遠い遠い場所に見えるが、キミ自身がいずれ立つべき舞台だ!早ければ来年には!」
「来年は早すぎます……出走条件は、シニア級のウマ娘です……。」
カフェの指摘は正しかったが、ことあるごとにカフェの将来的な戦績が確定したかのように語るタキオンのことが、鷹木はいまだに不思議であった。
単なる自信過剰なウマ娘なら、自分自身があの舞台に立つのだ、と息巻いていてもおかしくはない。あるいは逆に、自分などよりも優れたウマ娘が同期にいる、と卑下するような性格のタキオンでもない。
タキオンの言動もさることながら、先ほどから観客席の方ばかりを見回しているカフェの挙動も鷹木は気がかりであった。タキオンと同じことを、鷹木も聞き直す。
「……何か、気になることがあるのか?カフェ。ずっと観客席を気にしている様子だが。」
「いいえ……ただ、私に似た姿のお友だちが、いつの間にかどこかへ行ってしまったので……。」
「そ、そうか……。」
"お友だち"も迷子になるのかもな……と鷹木は冗談を言おうかと考えかけたが、真剣な眼差しのカフェの言を茶化すような真似自体を避けるべきだと考えなおし、口を噤んだ。
まだ誰も座っていない席へ視線を向けた時、偶にじっと視線をそらさず見つめ続けているカフェの振る舞いは奇妙であったが、彼女の目にしか探し出せない存在を見出そうとしていたのだろう。
タキオンもカフェがとどまらぬ視線を泳がせている先へと注視しつつ、興味深そうに何らかを喋りかけていたが、場内に実況アナウンサーの声が響き始めたことでそれを中断した。
〈一帖の盾をかけて競う、最長距離のGⅠレース、春の天皇賞。今年も熱き戦いの時がやってまいりました、いよいよ出走ウマ娘たちがパドックに姿を現す時も近づいてきましたが、今回も解説には素晴らしいゲストをお招きしております。皆様お待ちかね、日本総大将、スペシャルウィークさんです!〉
〈はい!スペシャルウィークです!今年も実況席に呼んでいただいて光栄です……私もうお馴染みすぎて、顔を出しても驚かれなくなっちゃったんじゃないでしょうかね?〉
〈いえいえスペシャルウィークさんに来ていただく、その方が有難いことですから。聞こえてらっしゃるでしょう、スペシャルウィークさんのお声で観客席の湧きかえる様を!〉
引退後から精力的に、URAの大看板として活動を続けているスペシャルウィーク。
たしかに一大レースが行われるたびに彼女が呼ばれることはもはや恒例となっていたが、彼女の声がレース場で響くたびに、この広大な空間はパッと明るくなり、観客席はレース開始前だというのに喝采で賑わうのであった。
アグネスタキオンの反応は、と見れば、彼女についてはさほど意外なことでもなかったが、冷静な表情のままに頷いているのみだった。
「スペシャルウィーク先輩とは直接お目にかかったこともないが、確かに喋りを聞くほどに普通のウマ娘だねぇ。だからこそ、あの飛び抜けた戦績も際立つのかもしれないが。」
「そりゃ、一度は食べ過ぎたせいで体重が増え、7着になってしまった京都大賞典の例もあったが……それ以外のレースでは3着以下になったことが無いんだぞ。普通とは呼べないだろう、いくらなんでも。」
鷹木はタキオンの言葉を訂正したが、タキオンはそれ以上言い返すこともなく、じっとレース場の方へ視線を向けていた。
黄金世代の強豪たちと競い合い、しのぎを削り合ったスペシャルウィーク。彼女の示した強さは揺るがぬものであったが、その勝ち様は時に好敵手に脅かされる、レースとしてあるべき形そのものでもあった。
タキオンが鷹木と出会った時、彼女が口にした「特異点」としては見いだされぬレースの歴史でもあったろう。
〈それにしても、私が春の天皇賞で勝ったのも、もう3年前のことですかぁ。つい昨日のことのように思っちゃいますけれど、一昨年と昨年のことを考えると、私が引退した後も本当に濃密なURAレースが続いてたんだなって、実感します!〉
〈えぇ、黄金世代の皆さんが引退した後も、本当に様々なウマ娘がドラマを紡いできました。さて、今回はもうお一方、シークレットなゲストを解説にお招きしております!いや、こちらのお方、よくここまで静かに待っていただいていた、と重ねて感謝したいところではありますが……。〉
〈あっ、私が、私が紹介してもいいですか?〉
実況アナウンサーが予想外の話を持ち出し、さらにスペシャルウィークが笑い声混じりに楽し気な声をあげて、そのシークレットゲストの呼び込みを申し出たこともあり、会場は俄かにどよめきだした。
スペシャルウィークに並んで、誰が来るのか。春の天皇賞に関わりのあるウマ娘といえば……。
鷹木は、直前のアナウンサーの言葉になんとなく妙な予感があった。まさか、と思う気持ちもあったが、鷹木はこのところ彼女に会いに行っておらず、近況を知らないことには違いなかった。
〈一昨年と昨年、春の天皇賞を連覇したウマ娘!私とも一緒に走ったことがあります、テイエムオペラオー君です!〉
〈ハーッハッハッハ!京都レース場よ、ごきげんよう!吾が真心と、吾が心尽くしのなべてを納めよう!ボクだよ!〉
ざわつきは一瞬にして歓声に変わり、ついでに笑い声も巻き起こった観客席は地響きで揺れんばかりであった。
鷹木は、この指定席のしっかりした背もたれがついていなければ、あまりの驚きにひっくり返ってしまっていただろう。
〈直々のご紹介、ありがとう!スペシャルウィーク先輩!しかし実況席へ招かれたは良いが、座ったままではボクの歌声を披露しづらいね!マイクを握って立っていてもいいかい?〉
〈いっ、いいのいいの、歌じゃなくてお喋りだけでいいから!座って座って!〉
〈さぁ、実況席の中でも波乱の予兆が濃くなってまいりましたが、今回はスペシャルウィークさんにテイエムオペラオーさんも加えて、春の天皇賞の実況解説を進めてまいります!〉
テイエムオペラオーが目立つのを好むのは分かり切っていたが……数か月入院していた反動で、こんな大舞台の実況席にまで飛び出してくるとは夢にも思わなかった。
これに関してはタキオンもカフェも予想できなかった様子で、ともども目を丸くしている。
「私が確定し得ない将来に、強烈な未知の事項を存在させるものだね、流石は特異点だ!俄然興味深くなってきたじゃないか、特異点の見守る中で、この天皇賞はいかに可能性の揺らぎを示すのだろうか!」
「……果たして、オペラオー先輩が、無事に解説の役目をこなせるのでしょうか……。」
「分からん……不安だ……。」
カフェの尤もな疑問に鷹木は頷きつつも、タキオンが独りで喋りまくっている内容にも耳を傾けていた。
タキオンが関心を強く寄せる相手、そして「特異点」と呼ぶ対象は、テイエムオペラオーであった。
オペラオーの戦績が歴代の優駿と呼ばれるウマ娘たちに並ぶことは確かであったが、何をもってアグネスタキオンは関心を向ける先を決定しているのか、鷹木には今一つ判断のつかないところだった。