結局のところ、タキオンの提案に従い大歓声の京都レース場から一足早く抜けて帰ったところで、マンハッタンカフェは自分の目にした光景を明確に伝えられるわけではなかった。
端的に伝えようとすれば言葉が足らず、詳細に伝えるための的確な表現を見出すには時間がかかる。
他者と共有可能な概念……いわば常識の、その埒外にある光景をずっと目にし続けてきたカフェは、彼女の目にのみ映る"お友だち"の振る舞いについて他者に伝えることがいかに困難を極めるか、散々理解していた。
問うた時に満足な返答を得られなければ、大抵の相手は「気のせい」「考えすぎ」として間もなく関心を失っていっただろう。
だが、幸運にも……その執拗さに曝され続けるカフェにとっては不運にもと言うべきか……アグネスタキオンはひとたび抱いた関心を決して逃さぬウマ娘であった。
淀駅から離れていく、まだ比較的空いている京阪電車の車内で、先ほどの光景を自分なりに消化しようと俯き続けているカフェに向かって、タキオンは告げる。
「キミの中で先ほどの状況をまとめることが出来れば、その時に伝えてくれたまえ。私とトレーナー君はいつだってカフェの話の相手となるさ。そうだろうトレーナー君?」
「お、おう。」
またしてもごく自然にタキオンのペースに巻き込まれながらも、隣に座っていた鷹木は少々遅れて頷いた。
彼の手にしていたスマホ画面には、ウイニングライブの準備が進められる間、スペシャルウィークとテイエムオペラオーが繋ぎとして、もはや漫才に近いトークを披露している最中であった。
かつての担当ウマ娘の姿を現地で目に焼き付けておきたい思いは、鷹木の中にもちろんあった。
が、笑い声と歓声で満たされた観客席に身を置き続けていては、カフェの記憶に刻まれたばかりの奇妙な光景はそのやかましさによって上塗りされ、印象は散逸してしまっただろう。
「……すみません……お伝えするためには、時間がかかります……まだ私の中でも、先ほどの光景が整理できていません……。」
今、それだけをようやく返事したマンハッタンカフェを包んでいるのは、車体越しに小さく響く車輪とモーターの音だけであった。大歓声の中でのウイニングライブとは、比べ物にならぬ静かな空間であった。
カフェの抱いた印象を何者にも阻害されることなく保存するうえでは、すぐに帰ろうと言ったタキオンの提案は正しかったのだ。
にしても、ウイニングライブの賑わいや熱量は充分な気晴らしとなったろうに、その鑑賞抜きで帰るカフェの表情が今までになく暗い様が鷹木は心配だった。
「カフェ、疲れが溜まっていないか?ほら、スマホでウイニングライブの中継もやってるが、見るか?」
「問題、ありません……静かにしていたいです、今は……。」
言葉少なに返答するカフェの視線は、彼女自身の足元に向けられたままであった。
帰りの新幹線を予定より早められたおかげでトレセン学園への帰還もさほど夜遅くにはならなかった翌日、鷹木はウマ娘たちのトレーニング開始時刻が来る前に、キングヘイローと面会する約束を取り付けた。
彼女は新年度が始まる前と同様、サブトレーナーとして桂崎トレーナーを手伝う日々を続けている。
キングヘイローに会い、ウマ娘としての立場からの助言を求めるつもりだった。むろん、キングヘイローとて、マンハッタンカフェのように特殊な性質を有するウマ娘のことなど、全くの未知数であろう。
それでも、トレセン学園に入学して間もないウマ娘が、慣れない環境で精神的に追い込まれている可能性が無いかという懸念は、現実的にトレーナーとして抱き得るものだった。
ついでに、タキオンが執拗に好奇心の矛先を向けることが、心労の一端を担っていないかという懸念も。
「時間を作ってもらって済まない、キングヘイロートレーナー。……その、練習時間の最中なら、俺に構わず続けてもらって構わないんだが、デジタル。」
まだ昼間、新入ウマ娘たちが教室で授業を受けている時間帯、他に誰も居ないトレーニングルームの一角にて鷹木と待ち合わせたキングヘイローの隣には、アグネスデジタルも付き添っていた。
先月のドバイワールドカップ、そしてつい先週行われた香港でのクイーンエリザベスカップ、と海外での連戦を終えたばかりのデジタル。
いつもの彼女とどこか違う雰囲気を見出した鷹木は、ほどなくデジタルの後頭部に幾本か寝癖の毛先が跳ねていることに気づいた。いつも多忙なレーススケジュールの中でも、しっかり髪をセットしている彼女には珍しい状態であった。
先んじて自分へと鷹木からの視線を向けられたアグネスデジタルは、両手を小さく振りながらいつも通りの笑顔を作る。
「いえいえ、鷹木トレーナーこそ、デジたんにはお構いなくですよ。私は休憩中……というか、しばらくお休みすることにしましたので。」
「デジタルさん、昨年からはずっとお忙しい日々の連続でしたものね。桂崎トレーナーとの相談も重ねた結果、いったんは長期休養という形が決定されました。」
海外遠征など万全のコンディションではない中でも最善の結果を追い求め、律儀に走り続けることには相当な負担が伴っただろう。無理を重ねれば、レース中の負荷蓄積によるリスクも上がってしまう。
桂崎トレーナーと共にデジタルが下した休養の判断は、鷹木にとって初耳ではあったが驚くことではなかった。それに、引退ではない以上、アグネスデジタルがまた復帰する日は訪れる。
「そうだったのか……デジタル、休養ってことは、またレースの場に戻ってくるつもりがあるんだな?」
「もちろん!新年度もまだまだ魅力的なウマ娘ちゃんがトレセン学園へ入って来てますし、あの子達が並んでくる日まで、デジたんは走り続けますよ!」
鷹木の問いかけに、アグネスデジタルは迷いなく、力強く答えた。
思えば、先週の香港で勝利したエイシンプレストンも、アグネスデジタルの同期ウマ娘である。身体能力本格化の時期は過ぎているだろうが、彼女らが引退するにはまだ早い。
それに、更に先輩格のナリタトップロードもアドマイヤベガもまだまだ健在なのだ。オペラオー、ドトウが続いて引退したことによって鷹木が感じている世代交代の予感は、すぐ現実となるものでもなかった。
……と言っても、当のデジタルが何も不安を覚えていないわけではなさそうだったが。髪に寝癖を残したまま、彼女は鷹木を待つキングヘイローと話し込んでいた様子だったのだ。
相談相手として真っ先に上がる候補がキングヘイローであることは、アグネスデジタルも鷹木と同様だったらしい。
「んな、私のことはいいんですよ鷹木トレーナー、キングヘイローさんにご相談があったのでは?」
「あぁ、そうだな。マンハッタンカフェのことなんだが……昨日、タキオンとも一緒に、春天皇賞を見に京都レース場に行ったんだが、その時に妙なものを見たらしいんだ。」
鷹木が知り得ているのは、アドマイヤベガが一着でゴールする瞬間、マンハッタンカフェが身を乗り出してその光景を凝視していたこと。
惜しむらくは、あの大歓声の中で呟かれたカフェの言葉を、鷹木が聞いていなかったことである。アグネスタキオンの、ウマ娘の聴覚をもってようやく聴きとれる程度だったのだから、無理もない。
とはいえ、キングヘイローも、そしてアグネスデジタルも、鷹木と共に昨年の有馬記念でアドマイヤベガに起きた異変は目の当たりにしている。
目の色も、顔つきも変わり、足元に伸びる影がアドマイヤベガ自身とは似ても似つかない、華奢でほっそりしたウマ娘のシルエットに見えたという、あの異変である。
「昨日のレースでも、アドマイヤベガは本来得意とする追い込みのスタイルではなく、先行寄りの作戦を採っていた。それがついに実を結んだのか、昨日の天皇賞は見事に勝利していたんだが……。」
「彼女自身が意図して避けたはずの異変が、昨日は起きていたというわけですのね。私も、中継越しにではありますが、見ておりましたの。」
キングヘイローは、鷹木が言わんとする所を理解しているとばかりに頷きながら、タブレットを取り出し画面を操作している。
鷹木は、京都レース場の指定席にてレース模様を観戦していた。それ故に、ゴールするアドマイヤベガまでの距離は遠く、その顔つきをハッキリと直接見ることは出来ていない。
中継越しにではなく、直接レース場に赴く事でマンハッタンカフェには見える物があるのでは……との期待も込めての、京都レース場観戦であった。
タブレット画面を操作する手を止め、キングヘイローはアグネスデジタルと鷹木の方へ画面を向けて見せる。
「昨日の録画を見返しても、この通り、ゴール時のアドマイヤベガさんは顔つきが完全に別ウマ娘のようになっておられますわ。」
「うひょぉ……たしかに、これは完全に変貌してますねぇ。」
詳細にレース出走ウマ娘を見るためならば、画面がズームされる中継を見るに越したことは無かった。
キングヘイローが動画を一時停止し、画面を拡大して見せたアドマイヤベガの顔つきは、確かに豹変していた。時に鋭く冷たく前方を貫くような眼差しは、普段決して無いほどに見開かれ、でありながら口元は緩く結ばれている。
そして……目の色はハッキリと黄色く変わっていた。
「……これぇ、結構な超常現象の証拠映像では?こういう時、ネットニュースとかで騒がれたりしてないんですかね?」
「一部ウマッター上では触れている意見もありますけれど、本番中に必死で走っているのだから顔つきが変わるのは当然、と流されていますわ。常識で考えても、そのように結論付けるのが妥当ではありますもの。」
デジタルの問いに、キングヘイローからはごく現実的な反応が伝えられる。
アドマイヤベガの目の色についても、夕陽が差し込む中でのレースだったのだから、色味が変わって見えることも十分あり得るだろう。
昨日、マンハッタンカフェが何か重大な異変に気付いたような振る舞いをしていなければ、そして何よりもアドマイヤベガ自身が本来得意とする作戦を意図的に避けるような走りを続けていなければ……鷹木も、世間の大多数と同様の結論を出していただろう。
アドマイヤベガが、アドマイヤベガではない別のウマ娘に変貌してしまう恐れに怯えている。それゆえ自分にとり憑こうとする何かに抗うように、本来得意ではない先行寄りの走りをしていることだけは、先月の阪神大賞典後に彼女自身の口から確かに語られていた。
すべては憶測の域を出ぬ内容であったが、小心者な鷹木の不安はいよいよ増大する一方だった。
「だが、もしも、この映像のなかでアドマイヤベガが、その懸念を振り払えず追いつかれてしまい、何か得体のしれないウマ娘への変貌をきたしていたとしたら……?」
「でも、昨日のレース後のウイニングライブでは、きちんとアヤベ先輩として振り付けを踊り、歌ってましたし、今のところ大丈夫じゃないですかね?このデジたん、ウマ娘の歌声を聞き違えることはありません。」
「そのはず、だよな。昨日観戦していたマンハッタンカフェは、一体何を見たんだ?タキオンも、結局彼女が呟いた言葉を教えてくれない。」
そのことも、鷹木の気持ちを昨日からずっとやきもきさせ続けている一要因であった。
マンハッタンカフェが、自分の見たものをきちんと相手に伝えられる表現を整理できるまで、口を閉ざし続けていることは理解できる。
が、タキオンの方は、カフェが何と喋っていたか聴きとっていただろうに、それを鷹木に伝えはしなかった。カフェが伝える気になるまで、それを隠匿するのも、タキオンなりの心遣いなのかもしれないが。
しかし、その回答は存外にあっさりと得られた。それも、鷹木がそのことを口にした、たった今である。
「『あれは、私だ』と彼女は言ったのだよ、トレーナー君。」
「タキオン!?……まだ授業中のはずだろ……?」
こっそりとトレーニングルームの入り口に近寄り、これまでの鷹木とキングヘイロー、アグネスデジタルの間で交わされた言葉を立ち聞きしていたのだろう。
タキオンは鷹木の疑念に答えを与えつつ、スタスタと入ってきて先輩ウマ娘たちの隣にストンと腰を下ろした。
トレーナーと先輩ウマ娘の間でどんな考えが交わされているか気になって立ち聞きしていたのだろうが、自分が知り得る情報の方が多そうだと気づき、今度は自らの考えを披露したくてうずうずしている様が、その表情に表れていた。
デジタルは後輩ウマ娘を満面の笑みで迎えていたが、キングヘイローは鷹木同様にトレーナーとしてタキオンを窘める。
「タキオンさん、またあなたは教室での授業から抜けてきたのですか。初年度の最初の学期なのですから、きちんと授業には出席なさいよ。」
「むろん膨大な情報の中から留意すべき要点を強調し習得の容易さを増してくれるプロセスの意味を見出していないわけではないが、私とてウマ娘レースに関する基礎知識を得る努めを怠ってはいないとも。それよりも、昨日の天皇賞春の観戦時、カフェくんが何を口走ったか、そして私がいかに考察したか、聞きたくはないのかい?」
「……教えてくれ、タキオン。」
キングヘイローから鋭い横目の視線を受けつつも、鷹木はタキオンにこの場に残っての語りを促した。
彼女が出席していない授業に関しては、後ほど担当トレーナーの責務として補講を行うよう学園から指示が下るだろう。自分の仕事が増やされる状況は甘んじて受け入れるとして、今はカフェについての情報を最も多く掴んでいるタキオンから話を聞き出す機会を逸すべきではないと判断した。
予想通り、タキオンは実に得意げな表情を浮かべ、咳払いしつつもったいぶって話し始める。
「先ほども伝えた通り、カフェくんは昨日、アドマイヤベガ先輩が一着でゴールする時、『あれは、私だ』と呟いていた。この一言だけを手掛かりに推察するのは実に難解な試みだったが、私は一つの仮説に到達したのだよ。」
「おぉー、タキオンちゃんの語り、なんか聞いてるだけでワクワクしますよぉ。」
「彼女は我々の視認できぬ存在、“お友だち”が他のウマ娘にとり憑いている様を見ることが出来るとのことだったね。すなわち、あのゴールの瞬間、アドマイヤベガ先輩にとり憑いていたのはマンハッタンカフェ自身だ。むろん、カフェ自身は確かに我々と共に観客席に居た。ならば、姿無き存在のごとくアドマイヤベガ先輩にとり憑いたのは、異なった可能性により分岐した、並行世界に生きるマンハッタンカフェではなかろうか?」
アグネスデジタルが合いの手めいて口にする言葉も手伝い、タキオンはすっかり気分も乗り、饒舌となっていた。
……しかし、その発想はあまりにも荒唐無稽であった。辛うじて鷹木が少年期に目にしたことのあるSF作品で登場した用語まで出され、何のことかさっぱり分かっていないキングヘイローは目を白黒させている。
各々、異なった理由で沈黙を続けている鷹木とキングヘイローに変わり、口を開いたのはやはりアグネスデジタルであった。
「おぉー、スゴい話になってきましたね!聞いてたら、なんか『UMAINS;GATE』みたいな話に思えてきましたよ!」
「それは架空の作品だが、得てして似通った状況かもしれないねぇ。観測され得ず確定していない世界が、あのレース場における幾万人もの感情渦巻く空間で、その思いを一身に引き受けて走ったアドマイヤベガ先輩を軸として、我々が生きるこの時間軸に絡みついたのかもしれない。そう、その世界では、マンハッタンカフェが昨日の天皇賞春に出走し、そしてナリタトップロード先輩をも差しおいて勝利していたのかもしれない!」
「……唐突すぎる内容で、私の理解が追いついておりませんけれど……無理がありすぎる話ではありませんの?天皇賞への出走条件は、トレセン学園デビュー3年目以上のウマ娘ですのよ。」
ポカンと口を開いて、デジタルとタキオンの間で勝手に進んでいく話を聞き流していたキングヘイローであったが、辛うじて自分の理解できる部分で話に参加しなおす。
確かに、マンハッタンカフェはまだトレセン学園に入学したばかりで、デビューすらしていない。いわゆるシニア級、トレセン学園では中等部3年や高等部に入ったウマ娘でなければ出走できない天皇賞を、カフェが走っている可能性は万に一つもないように思われた。
鷹木もタキオンの語りが想定をはるか超えて飛躍していく様に唖然としていたが、どうにか気を取り直してツッコミを入れる。
「それに、マンハッタンカフェは、追い込みで走るのが得意だったはずだ。昨日の天皇賞でのアドマイヤベガは、スタート直後は先頭争いに加わるほど前に出ていた。カフェの走り方とは、似ても似つかないだろう。」
「ふゥん、確かにその通りだ。ならば、確定していない世界に生きるマンハッタンカフェは、今よりも2年早く生まれていたのかもしれない、そして追い込みではなく先行の作戦を得意としていたのかもしれない、という話になるねぇ。」
「かもしれない、かもしれない……と言い続けていては、何でもありになってしまいますわよ……。」
キングヘイローからは、至極もっともな言葉が投げかけられる。
むろん、その程度で口を噤むタキオンではない。妄想の域に熱意を注ぐことに関しては年季の入ったアグネスデジタルが目を輝かせている傍らで、鷹木を真っすぐに見て語り掛けた。
「そのようなことは承知しているさ、あくまで実証を得ていない仮定の話だからね。だが現時点で確証の無い可能性を消してしまっては、未来の道は拓かれない。そうだろうトレーナー君?」
「う……トレーナーとしては、否定しづらい言葉だな……言っていることも間違いではないが。」
「そうだろうそうだろう、我々が科学の手を振るい、共にこの学園に巻き起こる異変の正体を暴いていこうじゃないか!」
単に彼が押しに弱いだけではあったが、鷹木が渋々頷いている様をタキオンは満足げに眺めていた。
アグネスタキオンは自分の担当トレーナーとなった彼を、まるで確証の無い仮定を証明しに向かう旅へと連れ出す事を、既に決定しているようであった。