同日、行われた金鯱賞にはエアシャカールが出走する。例によってタキオンとカフェは共にそのレース模様を観戦しながらも、シャカールの次の世代のウマ娘が早くも台頭しつつある様を目撃するのであった。
春の天皇賞の観戦時、目にした光景をマンハッタンカフェが語ったのは翌月になってのことであった。
結城トレーナーのもとで練習に励むカフェとなかなか顔を合わせる機会が無かったのも、彼女が口を開くまでこれほど時間がかかった原因ではあったが……一番は、カフェすらも混乱するほどに奇妙な現象を、言語化し伝える難しさのためだったろう。
むろん、アグネスタキオンがちょくちょく練習をサボってはカフェを連れ出す真似を繰り返してはいたものの、カフェは伝える相手を慎重に選んだらしい。
「先んじて、私に断片的にでも伝えてくれていたって良かったじゃないか。現状のトレセン学園にて、カフェと最も長く共に過ごしているのは、ほかならぬ私なのだから。私ならば、君の語る言葉が不明瞭な表現であっても補完し、推測し、理論を見出す事が出来ように。」
「……タキオンさんの解釈を聞いて、私がそれに納得してしまうと……私の認識に、あなたによる脚色が含まれてしまいますから……。」
「ほう!なるほど確かに、君の言う通りだよカフェ!観測者が観測対象に影響を与えてしまっては、観測結果が純粋なものでなくなってしまう!それゆえに他者に解釈を委ねる時期を慎重に検討したのだね、実に科学的な立場による判断だ!」
合同での練習のため、という名目で結城トレーナーに許可を得たマンハッタンカフェが自分のもとに来るたび、アグネスタキオンは殊更に快活になるようであった。
結城トレーナーの担当ウマ娘を預かるという立場に当初は恐縮していた鷹木も、今となってはタキオンが勝手に練習場を抜け出す心配がない証となるカフェの存在をありがたく思うようになっていた。
並んで軽くウォーミングアップをし、筋力トレーニングを済ませた後の休憩時間、僅かに夕映えの色が混じりつつある陽射しの差し込むトレーニング室。
マンハッタンカフェは、タキオンと鷹木の見守る前で、口を開く。
「あの日……天皇賞を見た日、アドマイヤベガ先輩に、奇妙なお友だちがとり憑いているのを見ました。私の姿によく似ていて、でも、違和感は確かにありました……。」
「確か、それを見た時、カフェは『自分だ』と言ったんだったか?」
「トレーナー君。口をはさむのは最低限にしたまえ、今はカフェがようやく整理し終えた言葉を聞くんだ。」
相槌のつもりで気安く声を出した鷹木を、アグネスタキオンがすかさず窘める。
こういう場で適切な気遣いというものが行き届かないのも、鷹木という人間の交友関係が大きく制限され、あるいは片桐のような曲者ばかりが知り合いとなっている一因であったろう。
ばつの悪そうに口を噤んでいる鷹木の隣、静かに頷いているタキオンと目を合わせ、一呼吸おいてカフェは語りを再開する。
「レース場を出た後……私にそっくりなお友だちは、遅れて私のもとに戻ってきました。とても、怪訝そうな雰囲気で……何があったの、と尋ねても、何も反応してくれず……。」
タキオンや鷹木に内容を伝える前に、カフェがよくよく自らの経験を整理し直す時間は確かに必要だったのだろお。
鷹木の安易な推測、すなわちマンハッタンカフェによく似た姿の“お友だち”が、アドマイヤベガにとり憑いていたのではないかという内容は、おそらく外れていた。
カフェが普段から一緒にいる“お友だち”にすら理解できない現象が、その日起きていたのだ。
「次の日、練習場でアドマイヤベガ先輩に会ったんですが……アドマイヤベガ先輩には、まだ、天皇賞のレース時にとり憑いていた“お友だち”が傍に居ました。」
「カフェによく似たお友だちとは、また別の存在だというわけだね?」
「……はい。私の姿に似ていることには違いないのですが、いつも私の傍に居る“お友だち”は、その時も、私のすぐ背後に居ましたから……。」
トレーナーとして必要な業務、タキオンおよびカフェの行ったトレーニング内容を後ほど結城トレーナーに伝えるためにも記録する作業を続けながら、カフェの言葉を片耳で聞いている鷹木には早くも理解の難しい状況となりつつあった。
そも、マンハッタンカフェに良く姿の似た“お友だち”とは何者か、それ自体が分からない。
それが2体存在し、その片割れがアドマイヤベガを狙ってとり憑いている……カフェの言葉を信用する気のない者に聞かせても、きっとマトモに取り合われない内容であることだけは明白であった。
が、アグネスタキオンは、もちろんカフェの言葉に興味深く耳を傾けていた。
「続けたまえ、私なりの解釈は立っているが、キミが全て語り終えるまで待とう。」
「……私は、アドマイヤベガ先輩の背後にとり憑いているお友だちに、接触してみました……そのお友だちは、私たちの方を振り向き……そして驚いたような表情を見せました。」
マンハッタンカフェが「私“たち”」と表現したのは、彼女自身および彼女の傍に居る“お友だち”も含めてのことだろう。
すなわち、マンハッタンカフェの見ている空間において、そこではマンハッタンカフェにそっくりの姿が本体も含めて3体、向かい合っていたことになる。
「彼女の顔をハッキリ見た時……私は、違和感の大きな理由に気づきました。アドマイヤベガ先輩にとり憑いていたお友だちは、私によく似ていながら、私達よりも……年上だと思われる、雰囲気だったんです。」
「……年上、というのは……どの程度、かね?」
アグネスタキオンは、努めて自らの言葉を抑えるようにして、マンハッタンカフェへと質問を投げかけた。
鷹木の目から見てもハッキリわかるほどに、タキオンは興奮を抑えるのが精いっぱいの様子であった。自らの仮説の正しさを証明するピースのひとつが目前にあるが、しかし自分の仮説を構成しやすい方へ誘導してはならない。
客観的な情報を求めるために、端的に述べられたタキオンの問いかけに対し、カフェは言葉に詰まりつつも答えた。
「トレセン学園で言えば、高等部に入るか入らないか……今のエアシャカール先輩や、アグネスデジタル先輩と同じか……ひとつ下の学年か……済みません、そう見える雰囲気だった、というだけですが……。」
「いや、良いさ、それで良い!なるほど、ならば私の仮説にも合致する可能性が高い!失礼、まだカフェは全てを語り終えていなかったか?」
要するに、マンハッタンカフェとしては、自分の未来の姿を見たかのような経験だったのだろう。
マンハッタンカフェの回答は、あまりにも曖昧な表現で満たされていたが、種々の想定を張り巡らせていたタキオンとしては、彼女の仮説のひとつが大いに強化されたらしい。
今すぐにでも推察をまとめたいのは山々だろうが、カフェの喋る内容の先を聞く方が優先であった。
「私たちの姿を見て、そのお友だちは……姿が薄れ、消えていきました……お友だちの振る舞いとして、珍しいことではありませんが……まるで、居るはずがない場所に居ることに、気づいたかのような表情で……。」
「確かにだねぇ、『居るはずがない』か!あとは……そう、アドマイヤベガ先輩は、そのお友だちにとり憑かれている間、あるいはお友だちが去っていった後、何か変わったことはなかったかい?」
「いえ、特には……。私がお友だちと向かい合っている間、アドマイヤベガ先輩は結城トレーナーとのお話し合いの最中でしたから……重要な、海外遠征についてのお話でしたので、邪魔は出来ません。」
カフェが語る、奇妙な経験についての内容はそこまでであった。
タキオンとしては、カフェが遭遇した“お友だち”の姿が本来のカフェよりも年上らしく見えた、という点に大きく心惹かれている様子であった。
「やはり……やはり、私の仮説通りだったんじゃないか?この世界とは別の可能性、確定し得ぬ世界からやってきたマンハッタンカフェだったのだよ、天皇賞の日、出現し、アドマイヤベガ先輩にとり憑いたのは!我々が知るマンハッタンカフェ、キミよりも年上となれば、天皇賞に出走していた可能性とも矛盾しない!」
「俺には、お前が語る解釈のほうが、よほど突拍子もない話に聞こえるが……。」
興奮した様子で語るタキオンに対して鷹木は返答しつつ、カフェの反応を見るも、彼女もまた不可解が残されたまま、腑に落ちぬ表情を変えていなかった。
ウマ娘たちのことを信じ、彼女らの言葉にも真剣に耳を傾けることこそ、トレーナーとしてあるべき姿ではあるのだが……。
話を信じることのみならず、理解すること自体が困難なマンハッタンカフェ、アグネスタキオンが相手ともなれば、その理想像を実現することも容易ではなかった。
鷹木なりに、自分の認識から語れそうな内容を必死で探った結果、彼が口にしたのはカフェの語った一番最後の部分のみである。
「海外遠征……アドマイヤベガが、海外遠征を希望しているのか?俺としては、それがちょっと意外だな。」
「はい……ですが、天皇賞を制したアドマイヤベガ先輩なら……。」
「だが、アドマイヤベガはクラシック級の年、菊花賞を走った後、ほとんど1年間の長期休養を経験している。そのまま引退してもおかしくないと言われたほどの状態から、シニア級の途中で復帰したんだ。」
現状のウマ娘レースにおいては、そろそろ後輩たちへと世代交代することも視野に入れられつつも、アドマイヤベガがナリタトップロードと並んで勝利争いの最前線に立っていることに疑念の余地はない。
しかし、脚の不調による長期休養を経験したウマ娘は、国内レースに出すにつけても慎重に様子を見るべき存在であり、ましてや思わぬアクシデントに巻き込まれかねない海外レースでは、リスクはいよいよ高まる。
長年、数々のウマ娘を見てきた結城トレーナーが、故障の不安を押してまでアドマイヤベガを海外レースへ送り出すとは考えにくかった。
「その時、結城トレーナーはなんと返事していた?」
「いつもウマ娘の意向を尊重する方ですので、特には……しかし、深く考え込むような雰囲気ではありました……。」
「……だろうな。俺がアドマイヤベガから海外遠征の希望を聞かされても、迷わず頷くことは出来ないだろう。」
トレーナーとしての判断はそれが妥当であったが、そもそもアドマイヤベガ自身、自らの脚の抱える不安については重々承知しているはずである。
マンハッタンカフェが言うところの“お友だち”がとり憑いた影響のひとつではないか、とも鷹木は頭の隅に考えがよぎったが、その域へ踏み込んだうえでは、ますます確かなことなど言えなかった。
先ほどから自分の思考内で興奮と共に仮説を補強していたらしいタキオンは、思考の整理がひと段落したところなのか勢いよく立ち上がった。
「カフェ、キミの見る世界が羨ましいよ!また再び、そのように奇妙な存在を目にしたら、私にも教えてくれ!ともすれば、ここではない別の世界を覗き見る縁を得られるかもしれない!」
「タキオンさんが、お友だちの姿を見ることが出来るかどうかは……分かりませんが……。」
「そうだ、これから行われるレースでも、カフェの目に見える存在があるかもしれないねぇ!中継画面越しでは、無理があるかもしれないが!」
タキオンが立ち上がってトレーニング機器の方へと向かったのは、ちょうど前もって決めていた休憩時間が過ぎたためであることに、鷹木の方が遅れて気づいた。
普段はサボりがちな練習に対し、カフェからの話を聞くごとにタキオンのやる気が引き出される理屈はよく分からなかったが、担当トレーナーとしては有難い反応には違いなかった。
レース本番でのみ見える光景、本番の舞台における興奮を思い返すごとに、タキオン自身がその場へ足を踏み入れたいと感じる思いが強まるのかもしれない。今日も、カフェと共にレースの中継観戦を予定していた。
時は5月の下旬、金鯱賞に出走するエアシャカールが走る時刻まで、あと数十分といった頃であった。
その年の金鯱賞は、出走ウマ娘の数が特に多かった。
一昨年、メイショウドトウの出走時は11名。昨年、ミッキーダンスやイブキガバメント、ダイワテキサス等のベテランウマ娘たちが参戦した際は13名。今年はさらに増えて、18名である。
理由は推測する他に無かったが、現時点で最も安定した戦績を上げるナリタトップロード、そして同じく長きにわたって活躍を続けるアドマイヤベガがそこに居なかったことは確かに要因であったろう。
「しかしエアシャカール先輩の実力を侮ることなど出来ないはずだがねぇ。クラシック級での二冠をはじめ、昨年は遂にオペラオー先輩にも勝ち、今年も日経賞を制しているんだからねぇ。」
ひとわたり筋力トレーニングを終えたアグネスタキオンが、タオルで汗を押さえながら、トレーニング室隅のテレビ画面前に陣取った。
普段は練習に対して不真面目な姿勢ばかりが目立つ彼女も、現在活躍している先輩ウマ娘についてのデータがスラスラと出てくるあたり、情報収集は欠かさず行っているようであった。
マンハッタンカフェもまた、汗を拭うスポーツタオルを首に掛けた姿で、タキオンの隣に腰掛ける。
「アドマイヤベガ先輩と、ナリタトップロード先輩……この両名が出てこられないレースに、出走希望者が集中しているのでしょう……。」
「ふゥむ、少しでも勝率のあるレースを選択することは至極真っ当な判断ではあるねぇ。果たして、いったい幾名がシャカール先輩の後塵を拝するウマ娘となるか、見ものではあるけれど。」
既に世界に名を轟かす存在となったアグネスデジタルと同期、デビューから4年目のエアシャカール。
まだまだウマ娘として全盛期の身体能力を有している彼女に、強豪と当たるのを避けて出走するような者たちの中から勝てる者が出てくるのか、甚だ疑念の大いに残る所ではあった。
練習から戻ってくるタキオンやカフェよりも一足先に、中継番組に目を通していた鷹木が告げる。
「言うまでもないかもしれないが、圧倒的1番人気はエアシャカールだ。」
「聞かずとも分かるさ、観測せずとも確定している事実じゃないか。私としては、他の出走者について教えてもらいたいねぇ。」
既にゲートインが始まっている画面内に目を凝らしながら、アグネスタキオンが即座に返す。
ゲート前のウマ娘たちを映す方が優先されているためか、今は中継画面上に人気順の表示はない。先んじて確認していた鷹木がそれを告げる他にない。
「3番人気はトーホウシデンだ。シャカールの同期で、東京優駿と菊花賞を共に走ってる。勝ててはいなかったが、クラシック級ながらその年の有馬にも出走したほどの実力者だ。」
「しばらく名前をお見かけすることが、ありませんでしたが……。」
「理由は公表されていないが、去年は丸ごと休養期間としてレースには出走していない。調子を取り戻し、3月の日経賞に出ている。確か……四着だったか。」
トーホウシデンが長期休養を決めた理由は、鷹木には何となく予想がついていた。
彼女がクラシック級を走った年の有馬記念と言えば、覇王テイエムオペラオーがほぼ全員からマークされて走った、あの年間無敗を達成した最後のレースである。
その時、トーホウシデンは14着と後方に位置していたのだが、世紀末覇王を討伐せしめんと迫るライバルたちの激闘を間近で、肌で味わうことは、クラシック級を走り抜こうとするウマ娘にはあまりに強い刺激だったのではなかろうか。
同じレースに出走したウマ娘の中には、その翌年もオペラオーとドトウに食らいつこうと出走し続けた、トーホウシデンの同期、アドマイヤボスというウマ娘も居はしたが。
「敗北を乗り越え、万全の態勢を整え、2年越しにシャカール先輩に挑もうというわけだねぇ。いやはや、レースが行われる都度、因縁は新たに生まれ、未確定のレース結果へと影響を与える一因子となっていくものだ。」
「おそらく、人気度投票にも影響を与えているだろうな。彼女に寄せられる期待は大きい。」
日経賞ではまたもシャカールを超えることができていなかったものの、水をあけられた状況から這い上がってきて先頭を行くライバルに食らいつこうとするウマ娘を、応援する声もまた大きい。
中継画面の中、研がれたように鋭くも静かな眼差しで、鹿毛のウマ娘はゲートインしていった。
「それから、2番人気は……」
「あぁ、もういいトレーナー君、画面に表示された。2番人気はツルマルボーイ先輩か、確かシャカール先輩のひとつ下の学年で……GⅠレースに名を連ねた経験は、まだ無かったねぇ。」
律儀に説明を続けようとした鷹木の言葉を、タキオンが遮る。既に画面には人気順の表が映し出されていた。
ツルマルボーイ。トーホウシデンやエアシャカールの出走経験と比べれば派手なものは無かったが、デビュー戦から初勝利をおさめ、その後はなかなか勝ちきれない状況が続くも人気度上位をキープし続けた、実力あるウマ娘であることには違いない。
彼女もまた昨年、半年近くの休養を経てレースに復帰、今年に入ってからは中京記念やメトロポリタンステークスなどで一着となり、その身体能力が本格化を迎えている様を世間に知らしめていた。
「エアシャカール先輩に届くかどうかは定かではありませんが……GⅡレースでの勝利を獲ることは十分あり得ます、ツルマルボーイ先輩……。」
「確実に勝ちを取りに来るウマ娘が集結しているのが、今回のレースってことになるな。」
頷きながら、鷹木は自分がこれまで指導してきたウマ娘を出走させるレースを選ぶ際も、同じことを考えてきたのだと実感を掘り起こしていた。
強敵に勝てないから、有力なウマ娘が出るレースを避けるという意識ではない。結果的に同じ選択ではあるにせよ、出走を決める側は勝てるレースをこそ選ぶ。
ナリタトップロードやアドマイヤベガとの競走を回避することと、十分に勝ちを得る圏内の実力者であることは、ウマ娘として決して矛盾する要素ではなかった。
弱いからではない、勝てるからこそ、このレースに出走するのだ。
〈各ウマ娘ゲートイン、揃いまして……スタートしました!まずは正面スタンド前、前に飛び出したのはアンブラスモア、デビュー7年目の大ベテランが先頭へとつきまして、その外から続くはアサカディフィート、そしてダイワジアンといった形で先頭集団が形成されています。3番人気トーホウシデンは前から6番手、最初からぐっと下げた位置、最後尾から2番手当たりの位置に、ツルマルボーイ、エアシャカールが並んでいます。〉
ゲートが開く音がテレビ画面から届くとともに、タキオンとカフェの耳はピクリと動き、会話を中断して中継画面へと集中し始める。
普段からレース以外のことに話題を持っていかれがちな両者であるが、やはりレースで走ることが意識の中枢として軸となっている、ウマ娘の一員であることには変わらないのだろう。
「ほぅ、かなり下げた位置で走るんだねぇ、シャカール先輩も、ツルマルボーイ先輩も。」
「中京レース場の左回り芝2000mコースは、スタート位置が上り坂の途中にある。コースの後半でスピードを出しやすいこともあって、今は無理に前へ出す必要が無いと判断しているんだろう。」
とはいえ、スタート時点でスロー気味の展開になるということは、単純に考えれば逃げや先行のウマ娘がスタミナを温存しやすくもなるということでもある。
エアシャカールほどの実力者ならば、その状況をも呑んだうえで最後方に位置どっているのだろうが、このレース一番のベテランが早々に先頭へ出たことは、逃げの判断も誤りでないことの証である。
アンブラスモアは、かの黄金世代よりさらに前から走り続けているウマ娘。グラスワンダーやスペシャルウィーク、メイショウドトウ、アグネスデジタルとも競い合った経験の持ち主だ。
〈先頭集団に続きましてはパープルエビスが4番手、そのウチを突くようにイナリコンコルドが並んでいます。その後少しおくれてトーホウシデンが続き、外側からスエヒロコマンダー、タマモヒビキが並びかけます。アドマイヤカイザーとジョービッグバン、そしてサイレントセイバーにエイシンエーケン、ベテランのウマ娘が中団後ろに続きまして、各バ最初のコーナーへと入っていきます。〉
「実況アナウンサーは大変そうだねぇ、なにせ18名ものウマ娘の名を読み上げながら、レース状況も伝えなければならないのだから。いっそ、読みやすいニックネームで呼んでもらってもいいのではなかろうか?カフェ、キミは特に名を呼びやすくなる!」
「それでは観客の皆さんに伝わりづらいです、タキオンさん……。」
総勢18名のウマ娘が大歓声を浴びながらホームストレッチを駆け抜け、コーナーを回っていく壮観な光景を目にして興奮しているのか、タキオンはますます口の回る様子であった。
デビュー3年目のシニア級に上がったばかりのウマ娘から、デビュー7年目の経験豊富なウマ娘までが共に走っていくためか、最初のコーナーからコース取り変更を意識した位置につけているウマ娘が目立った。
おそらく、向こう正面からライバルより前に出ようと足を速める気でいる者が多いのだろう。その争いに巻き込まれて下手にスタミナを使わされぬよう、エアシャカールは計算していたのかもしれない。
〈1コーナーから2コーナーへ、後方集団はブリリアントロードの外に並ぶようにエアシャカールが落ち着いた足取りを運んでいきます。その後ろにラムセスロード、ウチを突くようにツルマルボーイ。最後方には4番人気ロサード、そしてユノピエロがその外に付けまして最後尾、こういった形で先頭は既に向こう正面へと入っています。ハナを進みますは変わらずアンブラスモア、アサカディフィートがそれを追う態勢です。〉
逃げウマ娘たちは一定のリードを保つように進み続けていたが、後方では早くも前に上がろうとするウマ娘たちが動き出していた。
最後尾にいたユノピエロが徐々に前へと位置を押し上げはじめ、スエヒロコマンダーやタマモヒビキも前を塞ぐ集団をかわすように外側へとズレ始める。
「エアシャカール先輩は、まだ後ろに位置どっているねぇ。たしか、このところは最終コーナーを回り切る前に、位置を上げ始める走りが多かったようだったけれど……。」
「さすがに、この数が相手だ、下手に位置取り争いに巻き込まれても体力を使うだけだろう。だが、そろそろ仕掛けそうか?」
相変わらず正確にレースを見ているタキオンの観察眼にも頷きつつ、鷹木も中継画面へと目を凝らす。
エアシャカールは自分が競争相手からマークされていることを意識しているように、目立った動きを見せていなかった。しかし、真っすぐに前方の集団に向けられる視線は、既に前へと抜け出す道を探っているようにも思われた。
〈さぁ、そろそろ全体のペースもぐっと上がり始めたか、先団への距離も詰まってきました。先頭は外からアサカディフィート、ダイワジアンも1番手争い、外に出していましたスエヒロコマンダーを追ってタマモヒビキも上がってくる!アドマイヤカイザーも前を目指す勢いですが、ここでエアシャカール、エアシャカールが中団の間を縫うように順位を上げ始めた!〉
「コーナーを攻略しながら……集団を抜けて、上がってきます……シャカール先輩。」
「中京レース場は、3,4コーナーのスピードが落ちにくい、だから進むほどに集団は外へ振られて隙間も開いていく……!」
早くも常通りにレースの雰囲気にのまれて言葉を詰まらせている鷹木の代わりに、アグネスタキオンがマンハッタンカフェへの返答を口にしている。
エアシャカールの選択は、走るコースのデータを完璧に理解したうえでの作戦であった。わざわざ大外に出して前を塞ぐライバルをかわす必要などない、直線に向いた時、前を塞がれていない位置へ上がっていけばいい。
〈いよいよ4コーナーを抜けます、直線へ向きまして、先頭はアサカディフィートですがトーホウシデンが上がってきた!トーホウシデンが先頭!外からダイワジアンも続く、しかしエアシャカールが来た、エアシャカールが一気に追い上げてくる!既に先行のウマ娘をとらえる位置から、この加速、これは強い!エアシャカールが一気に躍り出た!〉
もはや勝ちは決まったとばかりに、ほとんど喝采のごとく沸き立つ歓声を浴びながら、エアシャカールは寸分の狂いの無い計算の通り、十分な速力で直線を駆けあがっていく。
因縁のライバル、トーホウシデンをも既に後方へと置き去っている。上り坂でもシャカールが減速する気配などない、勝負はほぼ決したように思われた。
「……違います、大外から……!」
「ツルマルボーイ!これは、届くねぇ!」
シャカールがコーナーを上がっていくのを見送って、最後方に残っていたウマ娘の末脚が尋常ならざる加速を示していた。
〈アサカディフィート食い下がっている、位置を上げていたユノピエロも、ブリリアントロードも差を詰めてくるが、エアシャカールは変わらず先頭……大外からツルマルボーイ!ツルマルボーイが上がってきた!ツルマルボーイとエアシャカールが並ぶ、ツルマルボーイが抜いた、差しきった!ツルマルボーイいま一着でゴールイン!〉
ひときわ大きな叫びが、観客席から沸き起こる。中継画面越しにでも、耳をつんざくような大歓声の中、ツルマルボーイに1バ身と少し遅れてエアシャカールがゴール板前を駆け抜けていた。
人気度上位には違いないとはいえ、勝利が確実と見られていたエアシャカールを破ってのツルマルボーイの勝利は、レース場全体を少なからず動揺させ、中継画面に見入っていた面々についても同様であった。
カフェと並んで鷹木は暫し呆然と画面を見つめている。
タキオンは早々と立ち上がって、興奮した調子で周囲を早足で歩き回り、両手で何事かジェスチャーを繰り返していたが、なかなか言葉がまとまるには時間がかかったのか、数秒経ってからようやく口を開いた。
「あぁ、これだ!レースの結末を確定させる要因は事前に知り得るものばかりだが、その全てを理解し、レース中に予想外の事態が起きずとも、やはり結果は予想に従わない!ここに、かの観戦の熱狂も加わり、ウマ娘レースが未知の扉をこじあけるのだろう!」
「……予想がつかないのは、当然のことだと思われますが……。」
マンハッタンカフェからの冷静なツッコミに対して言い返すこともせず、アグネスタキオンは変わらず興奮した様子で、口の中でブツブツと何事かを呟きながら数分間は歩き回っていた。
傍から見れば、レースを見終わったばかりで興奮した様子となんら大差ない振る舞いであったが、タキオンなりの理解は、レース結果以上の……何か摂理のようなものを掴もうとしていたのだろう。