まだ無名のウマ娘たちがデビュー戦で鎬を削る日々も過ぎ、いよいよ世間が待ち望む宝塚記念の当日となった。
天皇賞春を見に行った時のように現地へと観戦しに行きたがっていたアグネスタキオンだったが、流石にたびたび遠出を繰り返すわけにもいかない。宝塚記念が行われるのは阪神レース場、日帰りで戻ってくるのもかなりの強行軍だ。
そも、天皇賞春を京都レース場へと見に行ったのは、中継越しにではなく現地で走るアドマイヤベガの姿を、タキオンに同行したマンハッタンカフェに見せてみたいという思惑ありきでの話である。
その時は、アドマイヤベガに正体の知れぬ“お友だち”がとり憑いている様にマンハッタンカフェが気づき、タキオンが独自の仮説に裏付けを得たらしい……トレーナーたる鷹木には、結局アドマイヤベガにまつわる奇妙な現象の詳細が、未だ理解できぬままであるが。
ともあれ、自分達よりも1年先輩、すなわちクラシック級のウマ娘であるネオユニヴァースが、ほとんどシニア級ウマ娘ばかりの出走する宝塚記念へと挑む様を、中継越しにであっても観戦しく思うことはタキオンにもカフェにも共通していたらしい。
放課後の練習時間に入り、満面の笑みのアグネスタキオンがマンハッタンカフェの手を引いて仲良く鷹木トレーナーのもとへ向かってくる光景は、傍目からは微笑ましいものだったが、当の鷹木としてはじんわりと滲み出てくる冷や汗を呼ぶ光景でもあった。
「やぁやぁトレーナーくん、ついに宝塚記念の日となったねぇ。カフェも実に楽しみにしているそうだよ、私と並んで宝塚記念の中継を見ることをね!」
「タキオン……一応聞いておくんだが、無理にカフェを引っぱってきているわけじゃないだろうな?」
アグネスタキオンはたびたび鷹木のもとへマンハッタンカフェを連れ込んでいるが、本来カフェは結城トレーナーの担当ウマ娘である。
自分以外のトレーナー、しかもURAの生ける伝説とも呼ばれる人物の、担当ウマ娘の指導時間を邪魔してしまっているとなれば、責任を負うべきはタキオンの担当である鷹木トレーナーとなる。
「もしも結城トレーナーに何の断りもなく、練習に行くはずのマンハッタンカフェを引っぱってきているのなら、俺が連絡を入れないと……。」
「心配し給うなトレーナーくん!きちんとカフェに事前連絡させているさ、私の誘いに応じて鷹木トレーナーのもとへ行く、とね!」
「はい……私も当然、今日の宝塚記念を観戦しようと考えていましたから……。」
一応事前連絡は入れているとはいえ、やはりタキオンが原因となってマンハッタンカフェを結城トレーナーの練習場から遠ざけてしまったことには違いない。
鷹木の表情には安堵が広がるどころか、ますます血の気が引くばかりであった。
そのことに気づかぬタキオンではないはずだったが、緊張を隠せぬ顔つきの鷹木の前で全く笑みを崩すことなく、こちらはさほど表情らしい表情も浮かべていないカフェの手を引き寄せた。
トレセン学園所属トレーナーらしからぬ小心や臆病さを示してしまう鷹木に、まるで影響を受けないウマ娘をあてがった学園の判断は、やはり正しかったのかもしれない。
「さぁさぁ、トレーナーくん!さっさとトレーニングを始めようじゃないか、そしてさっさと切り上げて宝塚記念を観戦し、レース展開についての考察を存分に語り合おうじゃあないか!」
「さっさとは切り上げないでくれ、トレーニングは。きちんと宝塚記念の発走時間に合わせて休憩できるようにメニューを組んでいるから、真面目に頼む。」
「私も共に行いますから、タキオンさんはサボらないでしょう……。」
マンハッタンカフェは、自分が居合わせている限りアグネスタキオンが他に興味を惹かれて離れてしまうことがない、と早くも自覚しているようであった。
スピードを高めるトレーニングと並び、故障を防ぐためにも筋力トレーニングを重視している鷹木。大舞台の本番レースに連続で出走し続けたテイエムオペラオーを担当していた頃から、変わらぬスタイルである。
あるいはマンハッタンカフェも、単なる速さを求めるのみならず長くレースで活躍し続けるため、筋力で脚を守るようなトレーニングを望んで、ここに来ていたのかもしれない。
「そうそう、今回の宝塚記念、トレセン学園2年目から出走するのはネオユニヴァースくんだけではないらしいねぇ。」
「あぁ、そういえば……。」
トレーニング開始前のストレッチを行いつつ、アグネスタキオンが口を開く。
鷹木は、タキオンのために予定していたトレーニングメニューを、そのままマンハッタンカフェにも行わせて良いものか、とメニュー内容を見返していた最中だったため、生返事を返すばかりだったが。
「ローエングリン、彼女は皐月賞や日本ダービーに出走できていないが、しかし未勝利戦でのタイムが非常に優秀だったとのことだ。たしか、昨年の天皇賞秋と同日に行われたレースで、その日天皇賞で勝利したアグネスデジタルくんと0.6秒しか違わない、鮮烈なデビューだったらしいねぇ。」
「タキオン、今はトレーニング準備に集中して……えっ、そんなにタイムが早かったのか?ローエングリン、というウマ娘は。」
ストレッチ中の無駄口が多いことはいつも通りのタキオンだったため、鷹木はその話題を途中までほぼ聞き流していた。
が、そのローエングリンというウマ娘がアグネスデジタルに近いタイムを出した、という情報が耳に飛びこんできたことで居ずまいを正した。
むろん、昨年までテイエムオペラオーを担当していた鷹木としても忘れようのないレースである。アグネスデジタルがオペラオーからGⅠでの勝利を奪い、勇者たる称号を揺ぎ無きものとした、あの歴史的な瞬間。
オペラオーの引退が近づいたことで、彼女の脚の故障を心配し続ける日々からそろそろ解放されそうだとの安堵が湧き上がってくるところを、トレーナーが担当ウマ娘の勝利を望まずしてどうする、と鷹木が自らを叱りつけ、自責によって抑えつけていた時期でもあった。
年間無敗の世紀末覇王の引退を現実的なものとして感じさせるほど、あのレースでのアグネスデジタルは並みならぬ激走を示していたのだ。
そのデジタルから0.6秒の差、となれば……その天皇賞秋では三着となったメイショウドトウと同タイムである。
むろん、レース中の駆け引き、ペース配分はトレセン学園1年目ウマ娘たちのデビュー戦と、URAの頂点を占めるウマ娘たちが出走する天皇賞ではまるで異なる。
単純な比較をするわけにはいかなかったが、それでもローエングリンというウマ娘が類稀なる能力を有していることは間違いなかった。
「そんなローエングリンさんが……皐月賞や日本ダービーに出走できなかったというのは、よほど今年度の競争率が激しかったのでしょうね……。」
口を噤んで黙々とストレッチをしていたマンハッタンカフェも、つい目を丸くして口を開いた。
自分が問われる側に回ることが好きなのだろう、タキオンは得意げに喋り続ける。自分以外のウマ娘に強く興味を抱き、そのデータを抜け目なく集めるという点では、タキオンもトレーナーに近い素質を有しているのかもしれない。
「それも仕方のない話さ、何と言ってもネオユニヴァースくんは皐月賞までの戦績は5戦4勝、唯一勝てなかったレースでも三着だ。彼女に並ぶ存在と目されるゼンノロブロイくんは4戦3勝、こちらも一度きり三着を獲った以外は全て一着という優等生なのだからねぇ。」
「あぁ、日本ダービーでの走りを示して以降、世間の注目を集め続けている2名だ。来年度以降も、彼女らが活躍し続けるのはほぼ確実だな。」
「ククッ、実に楽しみだよ!私は再び、特異点たるウマ娘に相まみえることが出来るだろうかと案じていたが、その候補は存外に早く、そして続々と現れているのだからねぇ!」
来年度から本番の舞台に上がることを目指す立場でありながら、アグネスタキオンは強力な先輩ウマ娘たちに行く手を阻まれることをまるで不安視していない様子である。
単に強い自信を抱いているため、と取ることも出来たが、これまでタキオンを見続けてきた鷹木には、彼女が自分以外のウマ娘の活躍の方をより強く期待しているがゆえの反応にも思われた。
その姿勢は、先日のタップダンスシチーのデビュー戦にて応援に熱を入れていたことからも、同期で一番の期待を寄せられているマンハッタンカフェに入れ込んでいることからも明らかであった。
担当トレーナーたる鷹木としては、アグネスタキオン自身をこそ活躍させ、勝たせることが最大の目標だったのだが。
「……まぁ、優れたウマ娘の走りを数多く見ることでも、タキオン自身の走りを向上させることにはつながるよな。」
アグネスタキオンとマンハッタンカフェが並んでトレーニングをしている姿に視線を注いでいる間も、鷹木はそう自分に言い聞かせて焦りを抑えていた。
やがて宝塚記念の発走時刻が目前となったとき、わざわざ鷹木が声を掛けるまでもなく、タキオンはカフェを連れてトレーニング室に備え付けのテレビ画面のもとへやってきた。
カフェがすぐ隣に居ることでいつになく真面目にトレーニングに取り組んでいたと思しきタキオンだったが、ちゃっかりと練習を切り上げる時刻は把握していた。
「さぁ、さぁさぁ!トレーナーくん、当然ながら私達が宝塚記念の中継観戦をスムーズに開始できるように、万全の準備を整えていてくれているはずだねぇ?」
「担当ウマ娘がトレーニングを行っている最中、トレーナーが暇して時間を潰しているわけじゃないんだぞ、タキオン……。」
タブレット画面と紙のメモ用紙をテーブル上に並べ、たった今行ったトレーニング内容を、タキオンとカフェそれぞれについて記録をまとめていた鷹木。
マンハッタンカフェの練習時間を預かっている以上、本来の担当である結城トレーナーにも指導内容およびトレーニング達成による反応を報告することは鷹木の責務であった。
そんな鷹木をタキオンが急かしてレース中継番組にチャンネルを合わせさせている傍ら、カフェはごく小さい声でポツリと呟く。
「ネオユニヴァースさんが、出るんです、よね……?」
「え?あ、あぁ、それで今まさに世間の話題になっているな。」
当然ながら、つい先ほどまでタキオンもローエングリンに並びネオユニヴァースのことを話題に上げており、今さらになってカフェがその事実に気づいたというわけではないはずだ。
鷹木は、宝塚記念のレース開始目前となった今、シニア級のウマ娘の中にクラシック級のユニヴァースが参戦することへ、現実味を得るための再確認をマンハッタンカフェが行ったのだと判断する他に無かった。
アグネスタキオンは、そこに別の可能性を見出したようだったが。
「カフェ……きみの“お友だち”は、このレースに違和を見出しているのかい?」
「はっきりとでは、ありませんが……とても、意外そうな反応を、見せています。」
マンハッタンカフェが口にしたのは、あまりに漠然とした返答であったが、タキオンはすぐさま、深く考えこみ始める。
この世界とは別の可能性を選択した未確定の事実の中では、ネオユニヴァースが今年度の宝塚記念に参戦していないはずだった、とでも言うのだろうか……?
が、テレビ画面をつけてスピーカー音量を調整している鷹木が何気なく口をはさんできたために、その思考は大いに邪魔されてしまった。
「今年は特に、クラシック級のウマ娘が2名も参戦する宝塚記念だからな。例年と比べても珍しいことには違いないだろう。意外に感じるのも当然だ。」
「ちょっと黙ってくれないかトレーナーくん!私の思考を阻害するような真似はよしてくれたまえ!」
「えっ……あぁ、うん、ごめん……。」
タキオンから想定以上に鋭い声が突き刺さったことで、鷹木は大人しく口を噤み、そして彼らしい卑屈な落ち込みかたを味わった。自分は担当ウマ娘の様子をきちんと確認していなかった、そのためタキオンの機嫌を損ねてしまったのだ……と。
無言のまま、唐突に複雑な思考へと予兆なしに踏み込んでいくタキオンが、話しかけられたくない状態であることを外見から読み取るのは、至難の技には違いなかったのだが。
いよいよ宝塚記念が始まるという場面がテレビ画面には映っていたが、不機嫌そうなタキオンと申し訳なさそうな鷹木に挟まれる羽目になり、マンハッタンカフェは気まずい雰囲気のなか横目でキョロキョロと両者を見比べていた。
その雰囲気を崩すきっかけは、中継画面の中から唐突に飛び出してくることとなった。
〈はいぃ、よろしくお願いしますぅ……いえいえ、私ぃ、こういう場所、初めてでしてぇ……わかりましたぁ、リラックス、リラックス、ですぅ……。〉
「おや?実況アナウンスにしては、妙に間延びした声が聞こえてくるねぇ。何者かと会話しているような内容だが、片方の発言者だけの声がマイクに乗っているのだろうか?」
先ほどまで不機嫌そうな表情を浮かべていたタキオンだったが、レース場内に反響してスピーカーから流れている声を聴いた瞬間、興味を見出すべき対象として判断したのだろう。
いつもの好奇心に満ちたニヤニヤ笑いへと瞬時に戻り、鷹木の手からリモコンを受け取り、スピーカー音量を上げた。
既にその違和感は現地の阪神レース場の観客たちも受け取っているのか、戸惑いを伴ったざわつき、そして笑い声も至る所で混じっている。
広大なレース場じゅうに響き渡っているその声は、鷹木にとっても大いに聞き覚えのある声であった。ノンビリした調子で、しかしオドオドした雰囲気の拭いきれない、オペラオーと伯仲し続け猛将とも呼ばれたウマ娘。
「……メイショウドトウの声、だな。そうか、宝塚記念だから……今回の実況席に解説役として呼ばれたのは、メイショウドトウなのか。」
去年の宝塚記念、メイショウドトウにとっては初のGⅠ制覇であり、世紀末覇王テイエムオペラオーを破ったレースでもある。
世間的にも深く記憶に刻まれた彼女が、今年の実況席におそらくスペシャルウィークと並んで呼ばれたことは想像に難くなかったが、彼女のドジが本番の機材にまで影響を及ぼすとは誰も想像できなかっただろう。
おそらく放送スタッフたちは画面の裏で慌て、機材音声トラブルの解消のため奔走し続けているのだろう。
が、放送に乗るはずのないメイショウドトウの雑談の声は変わらず大音量で響き渡り続けていた。
〈この、台本に書いてあるのを、読むんですかぁ?……そのままじゃなくていい、というのはぁ……なるほどぉ、ある程度は、自由に喋っていいんですねぇ……で、でもぉ、緊張で、私、頭のなか真っ白でぇ……。〉
「会場を盛り上げることに、一役買っていることは間違いありませんね……しかし、世にも珍しい現象です。私のお友だちも、食い入るように見つめています……。」
「その通りだねぇ、ウマ娘レース本番には、なかなか遭遇しないアクシデントだよ。あるいはメイショウドトウ先輩も、ウマ娘レースの歴史に名を刻む特異点のひとつなのかもしれないねぇ。」
ますます笑い声で満たされつつある阪神レース場の様子を中継画面越しに眺めつつ、カフェとタキオンはそれぞれ独特な視点から語り合っている。
先ほどまでの気まずい空気はすっかり払拭され、せっかくタキオンに付き合ってこの場で中継観戦しにきたカフェにまで窮屈な思いをさせる恐れが解消された鷹木は、その点についても胸を撫でおろした。
テレビ画面の中では、ようやく異変が実況席にまで伝えられたのか、無警戒に響き渡っていたメイショウドトウの声に変化が訪れた。
〈それにしても、みなさん、楽しそうに笑ってますねぇ……宝塚記念、楽しみにされている方が多いんですねぇ……マイクですかぁ?はいぃ、ちゃんとつけてますぅ……えっ、私の声が、スピーカーから出続けてる……!?すっ、すみません!すみませ〉
ドトウが慌ててマイクのスイッチを切ったためか、中途半端なところで途切れた謝罪の声が、阪神レース場に幾度目かの笑いの波を引き起こした。
レース前からのある種微笑ましいアクシデントであったが、その日の宝塚記念の波乱を予感させる出来事でもあった。