病床のテイエムオペラオーは眠っていた。血色は良く、緩く閉められた口元から、かの高笑いが溢れ出さぬのが不思議なほどである。
脚の骨にヒビさえ入っていなければ、今すぐにでも病室を飛び出して外へ走りに……いや、外へ出る前に廊下の鏡で立ち止まり、ひとしきり自らの姿に見とれてからのことかもしれない。
骨折した脚に体重をかけるにはまだ早すぎたが、入院期間中に運動機能を損なわぬためのリハビリは既に開始されていた。座った状態で、あるいは寝そべった状態で、関節の曲げ伸ばしを行う程度だったが。
ウマ娘としての最盛期を過ぎたとはいえ、つい先月までレースに出走していたウマ娘の身体である。人間とは比べるべくもなく、また大多数のウマ娘よりはるかに優れた能力を宿した肉体は、その気休めのような運動を味わうたびに疼き、全霊を賭して地面を蹴り、全身を風が打つ感覚を狂おしく欲した。
リハビリが終わるたびに目を閉じて静かに眠るオペラオーは、その衝動を抑えつけるために費やした気力を回復させる目的が大きかったろう。
「お邪魔しまーす……お久しぶりです、オペラオーさ……ん?」
聞こえるか聞こえぬか程度の、微かな寝息だけが空中に消えていく病室。扉をそっと開けておずおず覗き込んだ小柄なウマ娘は、自分の中にあった印象とは正反対の状態にあるオペラオーの姿を見て小さく息をのんだ。
香港カップからの凱旋を終え、メディアからのインタビューもこなしたアグネスデジタル。トレセン学園にてファンや友人たちと言葉を交わした後、彼女は直ちに入院中のオペラオーを見舞いに来ていた。
思えば2か月前、秋の天皇賞以来の対面であった。あの後、アグネスデジタルは香港カップ出走へ向けての調整のため、海外レースの環境に合わせて海を渡っていた。ジャパンカップにてテイエムオペラオーが敗れ、かねてからの約定通り引退、そして骨折が発覚といったニュースが届いても、日本に戻って見舞いに行くわけにもいかなかった。
いかに気がかりに感じたとしても、気に掛けていられる状況ではなかった。世界中が注目する大舞台を前にしていたのだから。
とはいえアグネスデジタル自身が最も強く輝きを感じていたウマ娘のひとりを、あえて心配することなく目を逸らしていたという事実は香港カップ終了後、悔恨と共に胸中へ押し寄せていたのだ。デジタルらしい律儀なオタク気質であった。
「か、か、桂崎トレーナー。わっ、私の見舞いがあんまりに遅れたために、オペラオー先輩はすっかり意気消沈なさっているんじゃないしょうかぁ?」
「いや、相当に血色は良く見えた。それに、確かに眠っていたとはいえ、さっきの声はちゃんと聴いていた様子だったね。」
アグネスデジタルは不安げな表情で、付き添っていた桂崎トレーナー、ついでに案内のため付き添っていた看護師の方も振り返る。が、桂崎トレーナーのほうは笑みを崩すことなく、改めて病室の扉を開くように促す。
ウマ娘が人間を凌駕しているのは脚力のみならず、聴力においても同様である。あまりにも静かすぎる世紀末覇王の姿に慌てたデジタルが顔を引っ込める直前、オペラオーの耳がピクリと反応しているのがドアの隙間から見えたのだ。
再びアグネスデジタルは、細く病室の扉を開けて覗く。すっかり脱力した様子で緩く首を傾けていたはずのオペラオーは、目を閉じたままではあれど今やすっかり気力の漲った顔つきのまま、首を真っすぐにしてピンと耳を立てていた。
眠っている姿に変わりなく、彼女は早くも舞台上の演者と化している。
それと悟ったアグネスデジタルは、見舞いの品として持ってきた花束を仰々しいポーズとともに掲げ、扉の隙間を撫でながら高らかにセリフを読み上げた。
「さぁ、剣よ、病室の扉を切り裂け!」
背後の桂崎トレーナーは、また始まったとばかりに微笑みを浮かべている。長らく彼女の担当を続けていれば、唐突に始まる即興劇にも慣れきっていた。
当然ながら、付き添っていた看護師の方は戸惑いと苦笑を示さずにいられなかった様子だったが。
まるで剣で切り裂く様に、花束の先で扉を撫でたアグネスデジタルは、今度は迷いなく勢いよく扉を引き開ける。窓から注ぐ陽射しを浴びているオペラオーの姿を、しばし息を呑んで見つめていた……それは半ば演技であり、半ば本心からの反応だったろう。
「覇王では、ない?魔力が私の心を焼き、燃えるような恐れが私の視線を捉えて……動揺も眩暈も止まらない、いったい誰に救いを求めればいいんでしょうか?」
病床のオペラオーは相変わらずじっと目を閉じたままだったが、そこにはありありと表情が浮かんでいた。舞台上の演者も、長らく会いたかった相手との再会へ抱く喜びを隠しきれずにいられなかったらしい。
あまりに迫真の演技を続けるアグネスデジタルが、実際にめまいや苦しみを訴えているのかと看護師は心配そうに様子を窺っていたが、桂崎トレーナーは笑顔を見せながら手振りで制した。
覇王と勇者の独特過ぎる再会を、邪魔を入れず存分にやらせてやりたいと考えたのだ。
「どうすれば、このウマ娘を起こし、目を開かせることが出来るんでしょうか?いや、目を開かせて良いものか、もしも見つめられたら、私はキラキラのあまり目が見えなくなってしまわないでしょうか?それでも、やるべきでしょうか?この光に耐えられるんでしょうか?あぁ、もう、考えているだけで頭がボーッとして、グラグラして、ふらふらに……。」
改めて、桂崎トレーナーは後ろで心配そうに見ている看護師に、大丈夫だと頷いて念を押してみせた。
感情が昂れば、たびたび鼻血を噴いて卒倒するアグネスデジタルを長らく担当しつづけていれば、本格的に体調が悪くなっているのか、単なる演技であるかの明確な区別などは容易につく。
「あぁ、この息吹き……!何と心地良く温かい香り!すぅー……ん、んっあぁ、目覚めてください、目覚めて、神聖なるウマ娘!聞こえてらっしゃらないのですか?それなら、私は、あなたの命を吸ってしまいましょう!そのために私が消えてしまうとしても!」
アグネスデジタルは、大袈裟な身振りと共にオペラオーの横たわるベッドに近寄り、やにわにオペラオーに覆いかぶさるようにマットレスの上に手をつく。
そして、まるで接吻でもするつもりであるかのように顔を近づけていく……既に匂いは存分に堪能しているらしい。看護師はますます慌て、流石の桂崎トレーナーもすでにデジタルの理性のタガが外れてしまっているのではないかと案じ、万一があれば引き留めようと数歩近寄った。
テイエムオペラオーが目を開いたのは、ようやくデジタルの顔が触れるほどに近づいてからのことだった。
「……あぁ、太陽よ、麗しゅう!光よ、祝福あれ!輝きに満ちた日よ、光栄だ!長い眠りだったけれど、今目覚めた!このボクを、眠りから覚ました勇者は誰だ?」
自ら顔を至近距離にまで持っていったデジタルであったが、オペラオーからの直視をもろに浴びた直後、まるでその視線が心を直に打ったかのように竦み、慌てて顔を遠ざける。
先ほどまでの振る舞いは演技でありつつも、やはりアグネスデジタル自身が本心から示した行為でもあったようだ。彼女が次の言葉を紡ぎ出すまでに要した空白を、オペラオーがベッドから上体を起こし、眠気を追い払っているかのような仕草で繋いでいた。
「岩山を取り巻く炎を越え、荒れ狂う海原を越えて来ました、この世界の栄冠をもぎ取っても来ました……あなたの目を覚ました私の名は、アグネスデジタル。」
「神々よ!世界よ!煌めく大地よ!万雷の喝采を!ボクの眠りは終わった、目を開けばボクの目の前にいた……ボクの目を覚ましたウマ娘の名は、アグネスデジタル!」
「ひょわぁぁ……お母さんありがとう、私を産んでくれて、そしてありがとうトレセン学園、私を育ててくれて!私を見つめるこの瞳は、今、幸せの極致にある私にだけ微笑んでいる!」
「あぁ、アグネスデジタルを産んだ今という時代に栄えあれ!キミの瞳だけが、ボクを見つめていていいんだ!ボクは、今日、キミのためだけに目覚める定めだった!あぁ、アグネスデジタル!祝福されし勇者!世界を目覚めさせる勝利の光よ!世に歓びを齎すウマ娘!」
折しも、窓外の空では太陽を半端に隠していた綿雲が流れ、いよいよ強まった陽射しが窓から差し込んできた。
デジタルはオペラオー流の全力の賛辞を受け取り、病床のオペラオーが光に包まれている姿に神々しさまで感じていた。が、両名が共に陽射しの中にある様を背後から見つめているトレーナーと看護師にとっては、アグネスデジタルもまた玉座に列席する一員であることに変わりはなかった。
呆れ返るほど朗らかに振舞い、今会えたことを必要以上に、ばかりか一切の限度なく全力で表現しきったアグネスデジタルは、しばらくの間、感銘の震えを止められない様子だった。
放っておけば勇者と覇王による第二幕が始まってしまいかねず、静穏のまま入院しているべきオペラオーの体力を費やさせてしまうと考えた桂崎トレーナーは、頃合いを見て口を開いた。
「オペラオー、ジャパンカップの件は聞いていたのだけれど、遅くなってからの見舞いになってしまって済まないね。」
「世界の舞台にデジタルは立っていたんだ、そちらを優先して然るべしだよ!勇者を導きし賢者、桂崎トレーナーも顔を出してくれて嬉しいよ!」
賢者、まさにその呼称に相応しい人物が桂崎トレーナーであった。芝とダートの両方で活躍したい、アグネスデジタルのそんな無謀とも思える夢を後押しし、遂に世界の舞台にて勝利へと導いたのだから。
世紀末覇王が眷属を引っぱって玉座を得たかのごとき、テイエムオペラオーと鷹木トレーナーの関係性とは対照的な関係性であった。
「それに、あぁ、ボクの方が祝いの席に駆けつけられない無沙汰を詫びるべきだ、香港カップでの勝利おめでとう、デジタル!」
「あぁぁあありがとうございます!きっとあなた様ならそう言ってくれると分かっていましたけど、分かったうえでも聞けるなら世界の裏側からでも走ってこれますねぇ!今の言葉が響いたこの部屋ごと買い取れませんかトレーナー?余韻が消えるまでここで暮らします!」
「病室なんだから、ここで寝泊まりしないに越したことはないだろ。」
相変わらずのオーバーリアクションを連発するアグネスデジタルを前に、桂崎トレーナーは苦笑しながら返していた。
アグネスデジタルに賞賛の言葉を送りつつも、時おりこちらへチラと視線を向けるオペラオーの仕草に彼は気づいていた。彼女が桂崎トレーナーに対して告げたいことがあるとすれば、その内容はおおよそ察せる所でもあった。
「少々気が早い話かもしれないが、アグネスデジタルの次の出走レースは決めてあるんだ。来年2月の東京レース場、フェブラリーステークス。」
「はい!香港カップでの栄冠で満足しているだけで止まっていられません!覇王からのはなむけを受けた者として、常に前を目指し続けるのみです!」
「おぉ、次はダートでの勝利を掴みに行くんだね、アグネスデジタルは!むろんボクも応援し、心から祈ろう、輝ける勝利を!」
アグネスデジタルはオペラオーからの言葉を受けて、存分に気力を滾らせるための燃料が充填された様子であった。
が、桂崎トレーナーが次なるデジタルの挑戦に言及したのは、それだけをオペラオーに伝えることばかりが目的ではない。
「だが、僕は今日からトップロードのトレーニングにつきっきりにならなければ。彼女は有馬記念に出走するんだからね。」
「あぁ、トップロードくんならば当然ながら有馬を走るだろうと分かっていた!」
「はっ!そっ、そうでした!今まで桂崎トレーナーは私についていてもらってましたけれど、今度はトップロード先輩の練習にも向かってもらわないと!すみません、ヘンテコなお目見えの儀に時間を使っちゃって!」
「いやいや、デジタルがずっとオペラオーの見舞いに行けないことを気にしていたのは分かってたから。さておき、その間、僕の手伝いを鷹木トレーナーに頼もうかとも考えているんだ。」
いわば、サブトレーナーを務めてもらうという提案である。
トレーニングやレースに向けての調整方針は今まで通り担当トレーナーが決めるが、その間のデータ記録や練習場の準備および片付けを手伝う者が居れば、よりメインで担当するトレーナーは指導そのものに注力できる。
また、単独でのみウマ娘を担当していた鷹木と違い、桂崎トレーナーのように複数のウマ娘を同時に担当している場合、単にトレーナーとして見る目が増えるに越したことはない。
その決定は、桂崎トレーナーほどになれば自身の判断で下して構わないところではあった。トレセン学園へと手伝いのトレーナーを要請し、指名することで手続き自体は済む。鷹木の元担当ウマ娘であったオペラオーへ事前に告げる必要はない。
それでもこの場で桂崎トレーナーが口にしたのは、オペラオーが案じ続けているだろうことに気づいていたためだ。
「彼も、今ごろは誰も担当できずに手持無沙汰な時期を過ごしていることだろう。それに、ダートへ出走するウマ娘のトレーニングを見た経験は少ないだろうからね。自身の担当が決まった後は他に目を向ける暇もない、トレーナーとしての経験を積む良い機会でもあるだろう、今の時期は。」
「あぁ、考えてくれていたんだね、桂崎トレーナー。鷹木のことを、ずいぶんと窮屈な場所へ押し上げてしまったんじゃないかと、ボクは考え続けていた……案じてくれるトレーナーの存在を知れて、ボクも心休まる思いだよ。」
「あのぉ、鷹木さん、窮屈そうになさってたんですか?」
「彼がここに一度だけ見舞いに来た時は、そんな様子を見せまいとしてはいたけれどね。けれど、鷹木は、隠し事が上手い人間じゃないさ、演技もまるでなってない。自身が世紀末覇王たるボクにつりあわないと感じているのか、恥じて隠そうとし続けていたんだ、恥じることなどないというのに。」
オペラオーはその言葉も朗らかに言い放ってはいたが、こちらも演技では内心を隠しきれてはいなかった。
いかほどに重大な経歴を、そして至難を極める課題を、自分が担当トレーナーに背負わせてしまったか、すっかり理解してしまったウマ娘の顔であった。
デジタルも、その胸中の全てを把握できたわけではなかったが、オペラオーの瞳の中に言いようのない不安が混じっている様を見出し、息を呑むように口を噤んでいる。沈黙は、桂崎トレーナーが言葉を継ぐまで続いた。
「人はウマ娘と比べて成長が遅い、だが必ずたどり着くだろう。鷹木トレーナーが、トレーナーとしての実力をもって、世紀末覇王に比肩する実績を担当ウマ娘とともに打ち立てる日に。」
「このボクが現出させた世紀末を、鷹木が再来させるというのかい?どだい無理な話だ、というのはボクの思い上がりか!ならば桂崎トレーナーの言葉も信じて、その日を待つとしよう!ハァーッハッハッハ!!」
桂崎トレーナーの心強い言葉と視線を受け止めて、オペラオーは病床に居る間ずっと胸中を占め続けていた暗雲が払拭されるような思いを抱いた。その高笑いは、鷹木が以前見舞いに訪れた時以来、久々に病室の中に響き渡った。
ウマ娘の抱いている不安を言い当て、同時に和らげられる桂崎と、それが出来ない鷹木との技量の差は実感せずにいられなかったが。
そろそろトレセン学園へと戻らざるを得ない桂崎トレーナーと共に席を立ち、アグネスデジタルは振り返って問いかける。
「オペラオー先輩、きっと、退院したら見に来てください、私のレース!あの笑いをレース場に響かせてほしいのです、歓びの覇王!私の力になってください、私の!」
「あぁ、アグネスデジタル、ずっと前からキミのものだ!これから永久にキミのものだ!」
「あなたの輝きを愛しています!私のかけがえのない宝物!!」
「キミだけのために笑い、歌おう!ボクのかけがえのない宝物!!」
ベッドに腰掛けたオペラオーが伸ばす片腕に向け、アグネスデジタルもまた片腕を伸ばして別れを惜しむようにじりじりと後退していく。
病室から廊下へと出ていっても、その珍妙な別れの姿勢をキープして離れていくアグネスデジタル。どのタイミングで扉を閉めればいいのか、と看護師はただただ戸惑いながら見つめていた。