合宿開始早々、アドマイヤベガが奇怪な体験をして以降は、夏季合宿中に特筆すべきことは起きなかった。これ以上ウマ娘たちが想定外の事態に遭遇せぬよう、トレーナー達がスケジュールを優先したためである。
新鮮な体験をすることは多少の息抜きとしては最適であったが、心の中に不安やショックを残すような体験は、秋季から本格化するレースの戦績にも響いてしまう。
想定外を遠ざけるように規則正しく、スケジュールに従った日々は練習合宿として理想的な期間であったものの、アグネスタキオンにとっては物足りないものだったようだが。
「トレーナーくん、キミからも提案を頼むよ、想定内に収まった体験を繰り返す合宿を私がいかに無為と感じているか、想像すらできないかい?」
「そんなこと言ったって……ほら、昨晩は皆で花火大会をしたじゃないか。タップダンスシチーもジャングルポケットも当然、マンハッタンカフェまで笑顔を見せて盛り上がっただろ?」
「過塩素酸カリウムと金属粉末による燃焼現象をいくら観察したところで予想外の反応など見出されないじゃないか。」
「予想外の反応が起きないように、安全性を重視して扱うのが花火なんだから当然だろう。」
「……なるほど。道理は通っているねぇ。」
そろそろ鷹木も、担当トレーナーとしてアグネスタキオンの言葉へ淀みなく返答できるようになりつつあった。
タキオンと出会う前の鷹木であれば「ひねくれた奴だな」程度の感想しか持ち得なかっただろうから、これもある種タキオンの思考に鷹木が沿いつつあることの表れではあった。
そんな夏合宿期間中にもたらされた、看過されざる一報といえば、ダンツフレームの初勝利である。
デビュー戦での勝利はタップダンスシチーに阻まれたダンツフレームであったが、夏季期間中に行われる未勝利バ戦にすぐさま再挑戦して、見事に一着を獲って見せたのである。
トレセン学園にて記録されていた映像をオンラインにて視聴した鷹木は、彼女の走りの才覚が並みならぬものである様を見てとった。
「8名で走る1000mのレース、敢えて集団に埋もれる4位前後をキープして走り、最後に抜け出すとは。先頭を走る競争相手を差しきったところで、ちょうどゴールラインを越えているのは、必要なペース配分を計算している証か……。」
「しっかりと競争相手のコース取りを確認し、抜け出せるレース運びができるってのは実力の表れですね。彼女、中距離以上も強いんじゃないでしょうか。」
鷹木とともに画面を覗き込んでいた片桐も呟く。
片桐が担当しているタップダンスシチーはデビュー戦にてダンツフレームに勝ったとはいえ、年齢はタップの方が一歳上である。すなわち今年度入学したウマ娘の中でも、同年代において最速のデビューを果たしたのがダンツフレームということになる。
片桐の目がいつになく真剣な色を帯びていたのも、これからますます成長を遂げるだろうダンツフレームの才能は無視できぬものだと実感していたためだろう。彼に対して鷹木は問う。
「タップダンスシチーも、逃げの作戦を想定していながら、追いつかれ集団に埋もれてしまっても状況に対応して走れていましたし、来年ともなればますますダンツフレームと並んで名勝負を見せてくれるのでは?」
その言葉を聞いて、片桐は初めて真剣な表情を崩し、いつも通りに胸中の底を見せない笑みを口元に取り戻した。
長年の付き合いである鷹木には、彼の笑みが本心を隠す性質を強く有していることが分かっていた。
「いやいや、タップの活躍は、まだ先になりそうです。今は、正確なタイムとペースをキープして走ることに専念している段階ですから。本物の競争相手に囲まれた上で抜け出す勘を掴むには、もっと場数を踏んでいかないと。」
「じゃあ、今後はメイショウドトウを担当してらした時みたいに……?」
「えぇ、地方やOP戦に出来る限り出させて、感覚を掴ませないと。こうすれば勝てる、だなんてメソッドを受け容れるウマ娘じゃありませんから、タップダンスシチーは。」
タップダンスシチーを担当することは片桐自らが定めたと聞いていたが、確かに彼女と相性は合っていた。
正確なタイムを意識し、ペース配分を自ら制御できること。その基本を確立した上であれば、感覚的な指導を行う片桐の方針が、タップダンスシチーを実践に通用するレベルにまで導きうるのだろう。
片桐が以前担当していたメイショウドトウと全く性格は違っていたが、律儀に決められたことをなぞるのが苦手なドトウもまた、片桐の教え方が適合したウマ娘であった。
「きっと、タップダンスシチーよりも、鷹木さんが担当しておられるアグネスタキオンの方がよほど早く大舞台に上がるんじゃありませんか?」
「身体能力を見る限り、タキオンが優れていることは自分も否定しませんが……果たして、ちゃんとレースに出てくれるのか……。」
鷹木でなくとも、ほぼ全てのトレーナーがアグネスタキオンの並外れた走りを見れば、一様に高く評価するだろう。
しかし、合宿所の窓の外、ひたむきにアグネスデジタルとの併走練習を続けているジャングルポケットの隣で、アグネスタキオンは散水用のホースを頭の上でブンブン振り回しては定期的に中を覗き込んでいる。
片桐も鷹木に並んで、練習グラウンド上のタキオンの奇行を見つめている。彼の笑みは、ようやく本来の感情に沿ったものに戻ったらしい。
「……あれもタキオンなりのトレーニングの一環、でしょうか?」
「いえ、フォームを意識する練習を続けるようにと指示していたんですが、即座にサボッていますね……きっと、遠心力でホース内の空気が吸い出されて減圧される現象を用いて、実験しているつもりなんでしょう。」
「おや、私にはただの遊びにしか見えなかった行動を、きちんと理解しておられる。タキオンの担当トレーナーとしての観察眼、かなり鍛えられてきたのでは?」
片桐からは賞賛の言葉が向けられるが、練習以外のことに気を散らすタキオンの思考回路を理解できるようになっただけでは、彼女をトレーニングへ引き戻すに至るまで一歩足りない。
サボッているタキオンを放ってはおけない、と練習グラウンドへ出て行った鷹木の姿を見るや否や、アグネスタキオンは即座に話しかけてきた。
「トレーナーくん、アルコールを持ってきてくれ。」
「タキオン、練習以外のことに時間を費やしている場合じゃないんだぞ。タップダンスシチーに続いてダンツフレームまでデビューを果たしたと聞いて、ほら、ジャングルポケットはあんなに練習へ熱を入れているじゃないか。」
「分かっているさ、私も練習に専念したい気持ちは山々だ、しかし探求心を抑えなければ集中力が削がれて仕方ない。以前も言ったかもしれないが、思いついた時に済まさなければ実証の機会を逃すかもしれないからねぇ、さぁ、今の私にはアルコールが必要なんだ、持ってきてくれたまえ。」
タキオンの考えていることを把握できていない者には誤解されるような言い回しであったが、鷹木は既に理解していた。
何のために必要なアルコールであるかということも、彼女が気が済むまで練習に戻らないことも。後ろ手に回して持っていた消毒スプレーをタキオンの方へ差し出す。
「消毒用のアルコールスプレーでいいな?単なる水分よりも、減圧時に気化しやすいから、望む反応も観察しやすいだろう。」
「おぉ、準備がいいじゃないか!何をもったいぶっていたんだい、ちゃんと私が求めているところを分かっていたというのに!そうとも、私の仮説が正しければ、遠心力によって急速に減圧したホース内に雲が出来上がるはずさ、見ていてくれたまえよ……。」
たっぷりと消毒スプレーのアルコールをホース内に吹き付けたタキオンは、一段と張り切って全力を込め、ホースを振り回した。
ウマ娘の力で振り回されたホース内は想定以上の急減圧が起きたのだろう、先端から白い煙のように気化したアルコールの雲が噴き出し……直後、ホース自体が衝撃に耐えきれなかったのか、ちぎれ飛ぶ。
まるで昨夜の花火のごとく、煙の軌跡を空中に描いて飛んでいったホースの切れ端は、そのまま合宿所の窓ガラスに飛び込んで盛大に破壊した。
その後は何事かと見に来た他のウマ娘たちに囲まれ、一部始終を見ていた片桐がニヤニヤ笑い、ハプニングが愉快そうなタップダンスシチーの笑い声が響く中で、結果的にタキオンのイタズラを助長する形となった鷹木は結城トレーナーに平謝りする羽目になった。
この合宿所が結城トレーナーの個人所有するものである以上、その備品も結城トレーナーの好意で利用させてもらっているものである。
「申し訳ございません、担当トレーナーとしては、タキオンを止めるべきだったのですが……。」
「いや、ウマ娘たちに怪我がないのであれば何よりだよ。しかし……鷹木トレーナーには、割れた窓ガラスと、ちぎれたホースの弁償をしてもらおうか。大した金額ではないが、後腐れなく、この件を収めるためにね。」
「……はい。」
結城トレーナーから下されたその判断は、鷹木の立場を慮ったものでもあり、トレーナーとしての采配でもあったろう。
鷹木が頭を下げ続けている傍ら、アグネスタキオンは悪びれた様子を見せる性質のウマ娘では決して無かったが、それでも彼女にしては非常に珍しいことに、申し訳なさそうな表情を浮かべていたのだ。
その後、飛び散ったガラスの破片を掃除している鷹木からは、怪我の恐れがないよう遠ざけられていたものの、タキオンはその場を離れず彼の作業を見つめていた。
「こっちを観察している時間があれば、練習に時間を費やしてもらいたいんだが。」
「言っただろう、他に気になることがあっては、練習への集中力が削がれるんだ。トレーナーくん……私が悪かった。」
「俺も一緒になってやらかしたことだ、気に病むことはない。」
タキオン自身はさほど気に病んだ様子を表情に出してはいなかったものの、その日以降は指導の通りにトレーニングや勉強へ専念する姿勢を比較的多く示すようになった……あくまで、以前までと比べて、の話ではあったが。
そんなハプニングも思い出の一部として夏合宿期間が幕を下ろし、秋学期が目前となったタイミングにて、鷹木は二つの重大な出来事を経験することとなる。
一つは、言わずもがな、アグネスタキオンの単位取得を認めるための試験である。
「理系教科については問題ないかもしれないが、タキオン、引っかけ問題には気を付けるんだぞ、単なる記号選択でも何を問われているか留意するんだ。古文単語は現代国語と混同されがちなものを狙って出題されかねないから最後まで反復して覚えるんだ、『おどろく』は『目を覚ます』、『かしこい』は『おそれおおい』、あとは……」
「いいから、安心して任せてくれたまえ。レースの時と同様、トレーナーくんが私の代わりに出るわけではないのだからねぇ。」
レース本番へとウマ娘を送り出すことはこれまでも続けてきたが、試験会場へと送り出すことについては余りにも不慣れな鷹木は、その後も結果が出るまで顔色の薄れた状態が続いた。
……どうやらタキオンの頭の良さは今までの勉強でも十分に発揮されていたらしく、試験結果は合格。
それも、仮に本来通りに授業に出席していれば、学年首位を取っていただろう成績で悠々の通過となった。
基礎授業の単位が足りずに今後のトレーニングやレース出走が危ぶまれる状況は回避され、鷹木はタキオンのデビューがまだ先だというのに安堵のあまり目に涙を浮かべていた。
「大袈裟すぎやしないかい?担当トレーナーたるもの、私がデビューすることの方に一層の感動を見出すべきではないのかねぇ。」
「タキオン、お前がちゃんと授業に出席していれば、こんな恐れを抱えずに済んだはずだったんだよ。」
ともあれ目下最大の心配事が解消されたことで胸を撫でおろしていた鷹木のもとに、二つめの重大な報が飛び込んでくる。
ジャングルポケットが、デビュー初戦を勝利で飾った。