札幌ステークスから戻ってきたジャングルポケットは、既に平静を取り戻そうとはしていた様子だったが、それでも自分がトレセン学園一年目、9月の時点でGⅢレースに勝てたことへの昂揚は未だ収まっていないようだった。
いつもは自分の後を追ってくるライバルたち、そしてデビューにおいては先んじた今なお自分よりも上に居るカフェやタキオンの存在を思ってか、気難しい表情を薄っすらと浮かべていることが多かった。
が、今のジャングルポケットは、浮かれるとまではいかずとも、少なからず朗らかさを取り戻していたらしい。
トレセン学園にて、キングヘイローとジャングルポケットの帰りを待ちわびていたアグネスデジタルが手を差しのべながら駆け寄っていくと、照れくさがりもせずジャングルポケットもその手を握り返したのである。
「ポッケちゃん、札幌ステークスでの勝利おめでとーございます!ひょぁああ、寛大なるファンサ有難やぁ!なりませんなりません、そう易々と推しを沼に引きずり込んでは……いやもうちょっと手を握っててくださいませんか!」
「何を言ってんだよ、世界の舞台で走ってきたデジタル先輩とは比べ物にならねーよ。けど、いい経験だったぜ、新しくお互い認めるライバルも出来たしよ。」
ジャングルポケットはちょっと握手する程度の認識だったのだが、むしろアグネスデジタルの方が強く手を握ったまま離さない。
そのままの状態で、二人分の荷物を担いだキングヘイローの到着をジャングルポケットは待った。
「デジタルさん!?ジャングルポケットさんの手を握ったまま、顔色がどんどん蒼白になってらっしゃいますが!?」
結局、アグネスデジタルが尊みに溺れて気絶する前にキングヘイローが引き離し、三名は無事に自身の脚で歩いて栗東寮への帰路を再開することが出来た。
「ところで、ポッケちゃん!新しくお互い認めるライバルというのは、一体どちら様で?」
「タガノテイオーだ。デビュー戦では初めて会ったばかりだったが、アイツとも因縁みたいなもんが出来ちまったからな。」
ジャングルポケットが初のデビュー戦で勝利したとき、二着だったのがタガノテイオーである。
その後タガノテイオーは半月後のデビュー戦で勝利し、晴れてGⅢの札幌ステークスで再びジャングルポケットとぶつかり……またしてもジャングルポケットが勝利、タガノテイオーが二着といった結果になった。
条件の異なるレースにおいても上位に食い込んでくるのは本物の実力が備わっている証でもあり、タガノテイオーからすれば二度も勝利を阻んだジャングルポケットこそが因縁の好敵手となる。
「札幌で別れるときは笑ってた……でもアイツ、マジの目をしてた。次に競走する時にも、本気で俺に迫ってくるだろうよ。」
「えぇ、私の目からも、タガノテイオーさんは不屈の闘志を備えたウマ娘と見えましたわ。きっと、敗れるたびに勝利への執念は強く燃え立つでしょう。」
歯ごたえのあるライバルを得た実感に加えて、キングヘイローからの太鼓判もまた、ジャングルポケットに満足げな表情を浮かべさせるに十分な材料であった。
またしても興奮のタガが外れかけ、唐突に鼻血を噴出させたアグネスデジタルの有様に、キングヘイローもジャングルポケットも歩みを止めざるを得なかったが。
「ちょっと、また、デジタルさん!?すごい鼻血ですけれど、寮までもちますか!?保健室に向かった方が良いでしょうか!?」
「いえご心配なく……しかし次も本気で競い合う約束が、お互いライバルとしての信頼感にて、離れてもなお堅く結ばれ続け……こんな恐ろしく熱い概念、デジたんの脳じゃなきゃ焼ききれちゃいますね……。」
「いや、別れたのは札幌でだけどよ、タガノテイオーもトレセン学園に今ごろ帰ってきてるからな?」
どうにかジャングルポケットも冷静な言葉をデジタルの認識に与え、興奮をある程度冷ましたアグネスデジタルは事件性のある血溜まりを路面に残し、寮へと帰っていった。
世間を賑わせる神戸新聞杯は、札幌ステークスの5日後であった。
その年のクラシック級三冠の最後、菊花賞へ向けての前哨戦ということもあり、トレセン学園のウマ娘たちの中にもソワソワした雰囲気が見いだされる。
鷹木は既にアグネスタキオンが練習を途中で抜ける口実として、神戸新聞杯の観戦を持ち出すのだろうと警戒していたが……その日の朝に思いもよらぬ招待を受けることとなった。
結城トレーナーから合同練習、および中継観戦に招かれることとなったのだ。鷹木もまたソワソワし始めたことは言うまでもない。
「なぜ、今になって、結城トレーナーから……?」
「さてねぇ、しかし心当たりはある。おそらく、結城トレーナーの担当ウマ娘のひとり、エアシャカール先輩が何か新たなことに気づいたんじゃないかねぇ。」
以前、エアシャカールの組んだプログラム、レース結果シミュレーション『Parcae』について、アグネスタキオンは助言を与えたことがある。
2年前から暫く結果を表示することが出来なくなっていた『Parcae』であったが、タキオンはエアシャカール自身の能力が予測を超える範疇にまで成長したのだとの仮説を唱え、シャカール自身のデータを抜くように伝えたのだ。
結果、シャカール抜きであれば、そして他にも予測外の因子が含まれないレースであれば、『Parcae』はレース結果予測を表示することは判明していた。
が、それで疑念はすべて解決したわけではないらしい。
意気揚々と結城トレーナーの指導担当する個別練習場へ踏み込んでいくタキオンと、鷹木を真っ先に出迎えたのが、当のエアシャカールであった。
鷹木は練習場の奥、こちらに会釈を送る結城トレーナーにペコペコとお辞儀をしていたが、そんな彼を視野の隅にも入れることなくシャカールは真っすぐにタキオンへと向かい、前置き無しに告げる。
「ネオユニヴァースだ。この前の宝塚記念、ネオユニヴァースを抜きにすれば、Parcaeは正確にレース予測結果を表示する。」
「ほぅー?それはそれは……意外、でもないねぇ。」
以前タキオンが述べた仮説の通り、プログラムでも予測できないほどの成長を遂げたウマ娘が、シミュレーションに収まらないのだとすれば、ネオユニヴァースがその一員であったとしてもおかしくはない。
皐月賞、東京優駿の2冠を既に獲ったうえで、宝塚記念でも勝利し、今まさに菊花賞へ向けて前哨戦での活躍も目されているほどの存在なのだから。
が、続いてシャカールから知らされた内容は、流石のタキオンにも予想できないものであったらしい。
「他にも色々と条件を変えて試行したんだけどよ……ネオユニヴァースを抜いたうえで、このオレ、エアシャカールのデータを入れても、前の宝塚記念の結果はParcaeに正確に表示されんだよ。」
「……それは……思いもよらない、しかし、実に興味深いねぇ!」
エアシャカールが、既にプログラムの予測を超えた成長を遂げていたのならば、シャカール込みでのシミュレーションは既に機能しないはずである。
その条件を崩す試行結果を知らされ、アグネスタキオンは見開いた眼を輝かせていた。自らの思惑から外れた現象は、いつも彼女の探求心を大いに刺激するものであった。
とはいえ、シャカールにとっては面白がっていられる状況ではなかったが。
「笑ってんじゃねェよ……お前に当たっても仕方ねェけどよ。タキオン、どう考える?オレにはもう、成長の見込みがないとParcaeは判断したってのか?」
「まぁ、待ってくれたまえ、シミュレーションによる予測が成功した場合も、レースで一着を獲る存在はきっちりと表示されるのだろう?予測の範疇に収まっていることが、弱さの証というわけではあるまい。」
既にシャカールはタキオンを、Parcaeの予測結果を表示したノートPCの前に連れてきていた。
確かにそこには、今年の6月に行われた宝塚記念の実際の結果に、非常に近い予測結果が表示されている。
ネオユニヴァースを抜きにして、エアシャカールを含めた結果……すなわち、上位から順に、ツルマルボーイ、ローエングリン、そしてエアシャカールという並びであった。
「このシミュレーション結果を元に言えることとしては、ツルマルボーイくんが十分に勝利する実力を備えている、ということだ。シャカール先輩自身も、それに異論はあるまい?」
「あぁ、金鯱賞の時の、後ろから捲って上がって来る脚は、今でも忘れねェ。……ったく、何が違うんだ?Parcaeの予測を崩す奴と、そうじゃねェ奴は。」
「あくまで私の仮説に過ぎないがねぇ、プログラムにおいても可能性として観測できる世界、すなわち我々ウマ娘が活動している世界とは別の可能性世界、運命と言い換えてもいい!そこから大きく外れることが出来るウマ娘こそ、予測を崩し得るのではなかろうか?そう、まさに特異点たるウマ娘だよ!」
タキオンは得意げかつ高らかに自説を述べ立てていたが、シャカールも、そして傍で聞いていた鷹木も、また始まったとばかりに視線を逸らしただけである。
ウマ娘レースの勝敗が運命づけられたものであり、特異点などという特殊な能力を持ち得た者がそれを覆せる。そんな説は、エアシャカールに言わせてみれば、全くロジカルではない説であった。
「ンなSFの話に持ち込んでも答えは出ねェだろうよ……仮説を言うだけなら自由だけどよ。もういい、タキオン、オレの相談に付き合ってくれたのには感謝する。」
「待ってくれたまえよ、ここからが本番じゃないか!ネオユニヴァースが特異点のひとつであることは言うまでもないが、シャカール先輩もまたその因子を有している可能性は大いにある!何しろ、ウマ娘史上最大級の特異点と目される覇王テイエムオペラオーを破った経験があるのだからねぇ!一時的に可能性世界への揺り戻しがあったにせよ、再び運命を引き離すことは充分にあり得ることだ!」
「分かった、分かったから。そろそろ始まンぞ、神戸新聞杯の中継。」
真剣な表情で自らの仮説を喋り続けようとするタキオンの言葉は、後輩なりの励ましの言葉であるとしてエアシャカールは受け取っていた。2年前ごろのシャカールであれば、ロジカルではない内容など聞き入れもせず撥ねつけていただろう。
デビューから4年目、後輩ウマ娘も増えたシャカールは、かなり丸い反応を示すようになっていた。
しかし、アグネスタキオン自身にとっては真剣な説の提示であった。
ウマ娘が運命とも称される可能性世界から外れ、運命づけられた敗北をはねのけることは、きっと誰にでも出来ることではない。
しかし当初は予測可能な範疇に収まっていたシャカールが、そこから抜け出し、再び収まるということを繰り返している。ときにはParcaeが予測できなかった勝利を実現し、あるいは予測通りに敗北している。
特異点と目される性質が、先天的に定められたものではなく、ウマ娘自身の努力や、トレーナーからの助力次第で得られ、あるいは失われるものだとすれば?
「……トレーナーくん。」
「あ、あぁ?なんだ?」
完全にタキオンの熱弁を前に蚊帳の外となっていた鷹木は、唐突に話頭をこちらへ向けられて動揺した反応を示すほかにない。
タキオンがいつになく真剣な視線をこちらに向けていることが、その動揺をますます強くした。
「私も、可能性世界を、すなわち向こう側の世界を、振り切れるだろうか。」
「……え?」
「済まない、キミに理解しやすく言い直そう。私は、長く活躍を続けられるだろうか?」
相変わらず、鷹木には脈絡の理解できない問いかけが急に発されたようにしか思えなかったが、言い直した後のタキオンへの返答は、迷われるものではなかった。
そのために、タキオンへのトレーニングメニューは慎重に、かつ綿密に組んでいるのだから。タキオン独自の理屈でサボられることも多々あったが。
「当たり前だろ、故障しにくい脚を作るために日々練習を続けてもらってるんだ。それを気にしているのなら、今後はもっと真剣にトレーニングに打ち込んで……」
「あぁ、そうするとも。さて、せっかく先輩方からお誘いを受けたんだ、神戸新聞杯の観戦へと向かおうじゃないか。」
小言を口にし始めた鷹木へアッサリとした返答だけを返し、タキオンは背を向けてスタスタと離れていく。
確かに肯定の言葉は返されたものの、あまりにも薄い反応を前に鷹木はポカンとしていた。
つい先ほどの真剣な視線、そして声色だけは、演技でも嘘でもない、本心からのものであることは分かっていただけに、余計にタキオンというウマ娘の掴みどころの無さは際立ったのだ。