桂崎トレーナーからサブトレーナーとして迎えたいとの声がかかったことは、担当ウマ娘無しの期間を窮屈に過ごしていた鷹木トレーナーにとっては朗報であり、同時にいよいよ恐縮する状況の訪れでもあった。
レジェンド的存在の結城トレーナーほどではないにせよ、桂崎トレーナーも数々の実績を残すベテランの一員には変わりない。テイエムオペラオーとメイショウドトウという傑出した両名が目立っていた間も、ナリタトップロードが三着、ときに二着にまで食い込み続けていたのはトレーナーの腕前も要因として見逃せない。
何よりも、掲げる目標および走法の全てが規格外、あらゆるトレーナーにとって担当が難しいと思われたアグネスデジタルのトレーニングを担当し、実際に芝とダート両方の大舞台で勝利を収めさせていることが、桂崎トレーナーの実績をも確たるものとしていた。
「この度は、お声をおかけいただき、あり、有難く存じます……。」
「いや距離感!鷹木トレーナー、堅くなりすぎですって!ほぼ丸三年の付き合いから出てくる挨拶じゃないですが!」
「こりゃオペラオーから気に掛けられてるのも頷けるかな。」
呼ばれた練習場に早朝から到着して待ち続け、誰かしらが入ってくるたびに直立不動の状態から礼儀正しく角度を付けたお辞儀を披露している鷹木トレーナーに対し、アグネスデジタルもナリタトップロードもさほど戸惑いなく返答を与えていた。
やたらと緊張し、無駄に丁寧な挨拶をしている鷹木の振る舞い自体、まさにこれまでの付き合いから十分に予測し得る光景だったのだ。
デジタルとトップロードに続いて入ってきた桂崎トレーナーも、深々と頭を下げている鷹木にいちいち戸惑うこともなく、すんなりとその日のトレーニングメニューの確認に入った。
「トップロードは充分に併走練習とコース取りの練習を十分に繰り返していたね。これからは僕が直接見る、本番前の追い切りに向けて負荷を徐々に上げていこう。」
「よろしく、トレーナー。先にウォームアップ前のストレッチ、始めてるね。」
自分のトレーニングを直接見てくれるトレーナーが居ない間も、もちろん遠隔からトレーニング内容の指示は受けていただろうが、ひとり黙々と練習メニューをこなしていたトップロード。
トレーナー無しの状態でデビュー戦からしばらく自主練のみによるレース結果を出し続け、弥生賞でアドマイヤベガに勝利するまでにも至った彼女は、今もトレーナーから大まかな方針を聞いただけで自ら為すべきことが明確に見えているようであった。
アグネスデジタルも同様だった、むしろトレーナーに頼らず練習を続けていた時期の長さでは圧倒的である。
「デジタルは、ダートでの走りの感覚を取り戻しつつ、タイム計測を鷹木トレーナーに担当してもらおう。フェブラリーステークスが行われるのは東京レース場のダート1600mだ、他のダートコースと比べてもレースは高速化しやすいことを意識して。」
「了解です!そんじゃ、鷹木トレーナーは先にダート練習コースのスタート地点に向かっててください、私もトップロード先輩とのストレッチを終えたらすぐ行きますんで!」
「あぁ。」
テキパキと進んでいくやり取りを前にして、鷹木はこちらへ向けられたアグネスデジタルの言葉に間の抜けたような声でしか返答できていなかった。
思えば、鷹木トレーナーはオペラオーの担当をしていた際から、大抵話半分にしか聞いてくれないオペラオーを想定し、トレーニングメニューの内容と目的を過剰かつ冗長に伝えてしまう癖があった。
比較して、桂崎トレーナーは練習開始前の時間を無駄にせぬよう、そしてトレーニング場に入ったウマ娘たちのコンディションを落とさぬよう、簡潔にトレーニング内容を伝えていた。
それは細かく説明せずともウマ娘自身が理解できるだろう、という信頼ありきの言葉選びであった。
「お待たせしましたぁー……わっ、鷹木トレーナー、タイム計測にそんなたくさん機材を使うんですかー?」
ストレッチとウォーミングアップを終えたアグネスデジタルが駆け寄ってきて、鷹木の用意した種々の機材を前に目を丸くしている。
これもまたオペラオーのトレーニングを見続けていた鷹木ならではの用意であった。手元のストップウォッチのみならず、アナログ式の時計盤、そして計測数値を表示して掲げられるような大きめのタブレット画面などを、鷹木はゴチャゴチャと携えていた。
「ストップウォッチだけでは、俺の手元にしか計測タイムも表示できないだろ。」
「でしたら、口頭で伝えてもらえればいいですから……あ、もしかして、オペラオー先輩を相手してる時、走り終えた後に喋りかける余裕が無かったりしたんですか?」
デジタルはさっそく、鷹木の身に染みついた習慣の要因を見抜いていた。たしかに、本気で走る練習をしている間、その後息を整えている時間を除けば、隙あらば歌い、踊っているのがオペラオーというウマ娘であった。
ゆえに、練習コースのゴール板前を駆け抜けていった後の彼女に対し、鷹木は視覚的に掲げて計測タイムを示すことが出来る時計盤やタブレット画面を準備するようになったのだ。
GⅠのレースに勝てるようになり、専用練習場を得てから後は、練習場に備え付けられている計測システムを利用するようにはなっていたが。
「あぁ、そうだな、俺があれこれと言いながらタイムを伝えるより、パッとタイムを見る方がオペラオーの性に合ってたようだし。」
「今はトップロード先輩が計測システムありのメインの練習コースを使ってるので、鷹木トレーナーの手元のストップウォッチでしか計れませんけど、それで充分ですって。私、ちゃんとタイム聞きますから!ま確かに、オペラオー先輩に負けないぐらいお喋りではありますけど!」
「そうか……じゃあ、始めようか。」
「はい!よろしくお願いしますね!」
鷹木はストップウォッチ以外の機材を足元に置き、ストップウォッチを構える。あれこれと準備している時間があれば、担当するウマ娘の走りを研究し、必要なトレーニングを見極めるために考え抜く時間に割く方が効率は良かったろう。
考えることとの悩むことの差を見いだせていないのが鷹木であり、見極められずとも自ら必要なトレーニングを選び取っていたのがオペラオーだったのだ。
「まだ脚が芝での走りの感覚なので、ダートの走りに戻すため、まず緩めに行きますね。ペースが遅過ぎたら言ってください!」
「わ、分かった。」
そう返答したはいいものの、ダートの走りの標準的なペースを、まだダートウマ娘を担当したことの無い鷹木が知っているはずもない。
『緩めに行く』と宣言した割には、かなり強く砂を蹴立てて走り出したデジタルに合わせ、ストップウォッチのボタンを押すことだけが、鷹木に出来ることだった。
芝のコースではスピードが出やすい走り、ダートのコースでは脚が取られるので力強く前へと踏み込む走り……と一般的には区分されているものの、実際はウマ娘ごとの得意なペース配分や、レース場および天候で条件は変わってくるため単純な話ではない。
アグネスデジタル自身、多種多様に変貌する条件に翻弄され、いったん勝利に結びつけたかに見えた走法で勝利から遠ざかってしまうなど、試行錯誤を繰り返した経緯がある。
「……今、走り方を修正したか。」
100mほど走り抜いた辺りで、早くも芝の癖が残っている自分に気づいたデジタルが、明確に走り方を切り替えたことは流石の鷹木も気づいた。
芝コースにおいては、後ろへと足を蹴り出す力に重点を置く。芝地が軽く爪先を撫でるため、蹴り出した脚を再び前へと持ってくる際の抵抗は、雨によって重バ場となっていない限りは考慮されることもない。
だが、ダートでは爪先が僅かにでも砂に埋もれれば、それが抵抗となる。先ほどまで少々派手に砂を蹴立てて走っていたアグネスデジタルは、芝コースでの走り方の癖が残っていることに自ら早々に気づき、前へと送る脚の運びに意識を向け直したのだ。
足元で立てられる砂埃は格段に小さくなり、ダートに足を取られることなくスタミナの浪費を抑えるようにデジタルは練習用コースのコーナーを回っていった。
「こういうことに、トレーナーなら先に気づいていかないといけないんだよな……。」
今でこそ、自らの走り方を散々自覚し、試練を乗り越えてきたアグネスデジタルだから自力で走り方を修正できたものの、本来はトレーナーがウマ娘に対して為すべき指導内容である。
来年度、新入生のウマ娘を担当することとなった際、自分がどれほどの役目を担えるのか、と鷹木は考えて表情を暗くしていた。
ゴールし終えてこちらへ寄ってくるアグネスデジタルに対し、鷹木が当然伝えられた内容も計測したタイムだけである。
「1分34秒50……だ。」
「あー、これは飛ばし過ぎましたねぇ。スタート直後に芝の走り方しちゃった分もありますし、本番じゃウチ側をぎっちり詰められて、もっと外回りでコーナーを攻略しなきゃいけないことも考えると、これじゃスタミナに余裕を残せません。」
ダートのトレーニングを見た経験のない鷹木に対し、理解しやすい表現をアグネスデジタルが選んでいることは十分に伝わってきた。
自分もトレーナーらしく、ウマ娘に対して伝えられることは無いかと思考の中を探り回した鷹木は多少の間の後に口を開く。
「とはいっても、ほら、東京レース場の1600mは、最初の150m前後を芝が占めているだろ。そこでスピードに乗るうえでは、芝コースの走り方も取り入れていていいんじゃないか?」
「はい、その通りですね。ですが、終始ハイペースになることが予想されるので、やっぱりダート部分でスタミナをどれだけ残せるかが重要なんです。」
アグネスデジタルはあくまでトレーナーの意向を聞き入れたうえでの持論を述べている、といった体を取っていたが、鷹木は自分が喋った内容があまりに普遍的に過ぎる、すなわちデジタル自身の質に合わせたアドバイスではないことに遅れて気づいた。
タフさの求められるダートウマ娘たちと比べれば、特に小柄な体躯のアグネスデジタル。
スピードに乗ること自体は既に前年度から今年度にかけての特訓で十分に会得しており、大外から差し切る戦術もオペラオーに勝利した際に完成したと言えよう。今は最後の直線で差し切るための余力をいかに残しつつ走り抜くか、が焦点であった。
その後も鷹木はデジタルの練習を見つつも、ほとんどタイムを計るか、話しかけてくるデジタルに相槌を打つかだけの相手と化していた。
そんな彼が浮かぬ様子であることは、桂崎トレーナーからもしっかり見られていたのだろう。トップロードとデジタルが共に昼の休憩時間に入った際、桂崎トレーナーは鷹木を練習場から誘い出した。
「なかなか、アグネスデジタルは器用な子でしょう。走り終わってすぐ、自分自身の走法を分析し、問題点を自力で突き止めようとすることが出来るだなんて。」
「えぇ、そうですね。」
「実際、なかなか出来ることじゃない。デジタルは何しろ、あれだけ単独でのトレーニングを続け、試行錯誤を繰り返したウマ娘ですから。」
鷹木はいつも作り慣れた愛想笑いだけを浮かべて、桂崎トレーナーに対してそっけない返事だけを示している。
普段の鷹木なら、いかに口下手とはいえもう少し言葉を返せただろうが、ますます自分自身にトレーナーとしての価値を見いだせないのではと意気消沈していた彼は、暗い表情を隠すだけで精一杯の様子だった。
桂崎トレーナーは、お節介になるにせよ、やはりその点に触れざるを得ないと判断した。
「鷹木トレーナー、もしかして、ですが……自分自身に出来ないことばかりに意識を取られていませんか?」
「……はい?」
ようやく、鷹木は作り笑いを止めた。
彼が表向きの表情を拵えて構えていないことに、桂崎はまずひとつ安堵していた。下手な自尊心で自らを偽らず、無防備に周囲からの言葉を受け入れる姿勢を整えられるのは、鷹木の長所には違いなかった。
「我々トレーナーにとっては、ウマ娘とともに歩み、駆けること、やがて大舞台での勝利を担当ウマ娘が手にすることが、揺るがぬ目的です。それは、どんなウマ娘を担当することになったとしても、変わらない。」
「その通り、です……しかし、ウマ娘の力になれているのかどうか、不安になることは避けられないんです。」
「むろん不安を抱くことも、時には挫折することも、トレーナーは人間なんですから止められはしません。しかし、それはウマ娘が望んでいるトレーナーの姿ではない。ウマ娘も、トレーナーの感情を理解はしてくれるでしょうけれどね。」
本心を隠すのは先ほど止めていた鷹木だったが、ここでようやく視線を上げ、桂崎トレーナーの顔を直視した。
桂崎トレーナーはこちらを睨んでいたわけではなかったが、いつもの柔和さは薄れ、目には厳しい光が宿っていた。
「自分に出来ていないことや、自分の力が及ばなかったことに意識が向くのも、ごく自然なことでしょう。それは将来的な目標であり、到達地点への指標にはなりますが、トレーナーが実行すべきは、"今の"自分が出来ることじゃないですか?」
「今の自分が、出来ること……。」
「当然のことです、自分が出来るか出来ないかあやふやなことを、ウマ娘のトレーニングに持ち込むことは決して出来ません。彼女らの選手生命、あるいは命そのものを左右しかねない現場で指導を行っているのですから。」
桂崎トレーナーの表情を、ここまで近くで見つめたことは、鷹木にとって初めてだった。
自分より長くトレーナー業を続けてきた彼の表情の真剣さは、言外に置かれた数え切れない経験や挫折に裏打ちされているようであった。鷹木自身のトラウマとして刻まれている担当ウマ娘の競技生活断念なども、桂崎トレーナーは既に幾度も経験しているだろう。
「だからこそ、トレーナーは今の自分が出来ることを十分に踏まえ、ウマ娘と共に先へと歩まなければならない。実現できるかどうかも分からない高すぎる目標を前に、自分には出来ないと膝をついている内は先に進めません。」
間違いなく、桂崎トレーナーが意識していたのは、そして鷹木に意識させようとしていたのは、テイエムオペラオーの打ち立てた前代未聞の偉業のことだった。
担当ウマ娘にふさわしいトレーナーになろうと足掻いても、かの世紀末覇王、異様すぎる特異点には到底届くことはない。
鷹木を打ちのめしていたのは、他でもない鷹木自身の視界を覆っていた無謀な目標であった。
「一度担当したウマ娘が輝かしい実績を打ち立てて、それだけで満足するようなトレーナーはトレセン学園に存在しない。ですから鷹木トレーナー、今のあなたが苦悩しているのは、先へ進む道を求めている証だと、僕は考えているんです。」
「……。」
「担当ウマ娘が引退し、新たに入学したウマ娘の指導を担う……自分がトレーナーとしてあり続ける以上、それは延々と繰り返すことです。鷹木トレーナー、自分の手が届かない目標ではなく、今の自分に可能なことをきちんと見てください。」
新年度が訪れれば、秋川理事長が約束した通り、鷹木にも担当ウマ娘があてがわれることだろう。
その際、過去に担当したウマ娘の戦績がいくら優れていようとも、それは新たに鷹木から指導を受けるウマ娘とは何ら関わりのないことである。トレーナーとしての経験はむろん活かされないこともないが、オペラオーに対して行った指導をそのまま、他のウマ娘の指導へ流用できるわけでもない。
トレーナーが過去の幻影に縛られ、あるいは将来いつ達成し得るとも知れぬ漠然とした希望を追っていては、目の前にいるウマ娘から視線が逸れてしまう。
現状と理想の比較に終始してしまいがちな鷹木を、桂崎トレーナーは諫めたのであった。
「担当されるウマ娘からすれば、指導について頼れるのは誰であろうとトレーナーをおいて他に無い、ですからね……。助言ありがとうございます、桂崎トレーナー。」
「いえ、こちらも差し出がましいことを言ってしまって。相談なら、いくらでも乗りますので。」
鷹木の泳ぎがちな視線は少し落ち着きを取り戻し、午後からのトレーニングにおいてはデジタルから積極的にダートの走りについての意識を聞き出す鷹木の姿が見られたのであった。