ネオユニヴァースとの併走練習からのクールダウンを終え、鷹木からアイシングの処置を受けている間もアグネスタキオンは全く興奮冷めやらぬといった様子であった。
併走練習の結果は、ネオユニヴァースが先着してゴールラインを跨ぐという形になったのだが、単なる能力差だけではない予測不能の因子が並走中に見いだされたことは、タキオンの好奇心を大いに惹いた。
「私はいつも通り、コーナーを最短距離で、最ウチを回って抜けていたはずだった……しかし!ネオユニヴァースくんは、私よりもさらにウチ側を抜けていったねぇ!内ラチにも触れず、私にも接触せず……そこで初めて、私は自分のコース取りがコーナー外側へと僅かに膨れてしまっていることに気が付いたんだ!」
「その隙間は“MOOM”だったけれど、『余裕がある』見え方だよ。」
相変わらず独特な言葉遣いのネオユニヴァースがアグネスタキオンへと返答している。
言葉そのものは、彼女の担当トレーナーではない鷹木が理解することは未だに難しいものであったが、彼女の発言が示しているだろう状況、そして彼女の表情を考慮に入れれば、ある程度は把握できるようでもあった。
ネオユニヴァースは、併走練習中にアグネスタキオンをウチ側から抜いた時、その隙間を見出すことはさして難しくもなかったと伝えたいのだ。
アグネスタキオンは意外そうな反応を見せる。
「そうだったのかい?私はてっきり、またもネオユニヴァースくんが現実とは異なる可能性世界への観測を行い、私の意識が届かぬほど僅かな可能性の揺らぎを見出し、抜け出てきたものだと考えたのだがねぇ?」
「『わたし』とアグネスタキオンが『併走練習する』について“UAP”は無いよ。見えたものは、純粋な“RLTY”。アグネスタキオンは『意識の範囲』が足りていない。」
発言の締めくくりを、ネオユニヴァースはタキオンの担当たる鷹木に対しても目を向けながら伝えた。
ネオユニヴァースが宝塚記念や神戸新聞杯で示した、もはや超常的とも思われるほどの抜け出し方、勝ち方で駆使した“観測”は、たった今の併走練習では用いていないということだ。
この併走練習自体、突発的にネオユニヴァースが申し込んできたものであり、いよいよ可能性としては白紙の状態で行われた競走であった。
意識外から並ばれ、抜かれたのは、純粋にアグネスタキオンの練習量が不足しているためなのだ。
「鷹木トレーナーは、“TRGDY”を『恐れている』?けれど、ウマ娘同士で『走らなければ分からない』ことは“DEDU”を消すために必要、だよ。」
「……アグネスタキオンが本気になって走るような相手との練習を、トレーナーの俺の判断で避けてきた、そのツケが回ってきつつあるってことか。」
ようやっと真っ当な返答をした鷹木に、ネオユニヴァースは頷き返す。
アグネスタキオンの華奢な脚は、レースや練習のたびに蓄積し続ける負荷に、そう長くは耐えられない。
だからこそ鷹木はタキオンの脚を故障から守るため、担当し始めてから暫くの期間、脚の筋力を増量させるトレーニングを重視し、それに伴う走行フォームの修正を指導し続けてきた。
が、先日の方針転換、アグネスタキオンが自身の身軽さを最大限生かした走りを望んでいることを尊重する、と決定して以降……鷹木はますます慎重に、タキオンの脚に負荷が蓄積する恐れを避けるようになっていた。
その結果が、練習不足。まさに今併走練習を行ったネオユニヴァースのように本気で相手すべき実力の持ち主と相対した際、コース取りへと意識を割く余裕が無くなり、ウチ側から抜かれるという事態になるのだ。
今の短時間で組み立てた鷹木の思考に、もちろんアグネスタキオンも至っていないはずがない。
「トレーナーくん。稀有な機会を用意してくれてありがとう、この機が無ければ私は自分の弱点に気づかぬままだったろうねぇ。」
「あぁ……いや、俺じゃなくて、ネオユニヴァースの方から持ち掛けられた話だから……。」
「タキオンが、スターフルイドの中で『惑ってしまう』のは私も望まない。URAに軌道が合ったのなら、“METI”だよ。」
ネオユニヴァースとしても、来年度から活躍し始めるアグネスタキオンが強力なライバルとなる予感はあるのだろう。
先ほどの併走練習、仮にタキオンがコーナーの最ウチから離れずに回ることが出来ていれば、ネオユニヴァースは外回りに追い越すほかにない。
そうなれば相応の走行距離のロスが生まれ、最終直線を半バ身差での決着は逆転していた可能性もあった。現役クラシック世代最強格のネオユニヴァースの眼から見ても、アグネスタキオンの能力は飛び抜けていたのだ。
その後も、京都大賞典の中継が始まるまでの時間、タキオンはネオユニヴァースと盛んに会話を交わしていたが、ネオユニヴァースの視線は往々タキオンの脚へと注がれていた。
“別な可能性世界を観測”できるというネオユニヴァースが、アグネスタキオンの将来にどのような不安を見出しているのか、鷹木は尋ねることが出来なかった。
明かされたが最後、今からデビューまでの間に繰り返すべき練習量に、再び躊躇いを抱いてしまうかもしれなかったためだ。
「しかしゼンノロブロイくんもまた、シニア級以上の先輩たちへ勝負を挑みに行くとはねぇ!ウマ娘レースのレベルが年々上がっていくのは間違いないようだよ!」
「ロブロイは“ZDAL”、きっと私と『一緒に居る』よ。」
テレビ画面に表示された中継番組の中でも、アナウンサーらはたびたびゼンノロブロイへと話題を向けている。
とはいえ1番人気はもはや大ベテランの域に達しているナリタトップロード、2番人気は今年の金鯱賞にて勝利したツルマルボーイ、3番人気はトップロードと共に長い現役を続けているアドマイヤベガである。
ゼンノロブロイは4番人気であった。京都大賞典はクラシック級ウマ娘によって制覇されたのが4年前、セイウンスカイによる巧妙な釣り逃げが披露された時を最後に例が無い。
現時点では東京優駿にてネオユニヴァースに食らいつきつつも二着となった以外の実力を示せていないロブロイであったが、4年ぶりのクラシック級ウマ娘による京都大賞典制覇へ向けられる期待は大きかった。
〈今年は8名による出走となりました京都大賞典、選び抜かれた優駿たちによるハイレベルなレースが、間もなく開始されます。8番枠ウマ娘もゲートに収まりまして……スタートしました!8名これから1コーナーへと向かいますが、まず積極時に外枠からスエヒロコマンダーがハナを奪うようです。アラタマインディ2番手、ゼンノロブロイがウチにコースを取って3番手の形でスタンド前を駆け抜けていきます。〉
画面内からも、駆け抜けていくウマ娘たちへと大歓声が送られる。
京都レース場、芝2400mのコースは最初の直線が長い。緩い下り坂からスタートして約600mを直進する間に、ウマ娘同士の位置取りもおよそ固まる。
「ゼンノロブロイくんは、東京優駿でも示した先行のペースかねぇ?デビュー以降は追い込みの作戦が得意だとの評判だったのだが。」
「強力な“磁気嵐”を避けてスイングバイしたよ……“RCOL”に至るため。」
レース展開を目の当たりにしながらであれば、鷹木にもネオユニヴァースが言わんとするところはストレートに理解できるようであった。
8名という絞られた出走数の中、ロブロイが追い込みで競い合うにはあまりに強力な先輩ウマ娘が揃っていた。アドマイヤベガは言わずもがな、ツルマルボーイは最後尾にてじっくりと脚を溜める形を作っている。
ナリタトップロードも比較的下げた位置に陣取って、中団から競争相手達のペースを眺め渡している今、ロブロイはペースを握られぬよう先行に活路を見出す他なかった。
〈ホットシークレットが少し空いて4番手の位置、その直後にナリタトップロード前からは5番手。後はアドマイヤベガ追走で、その後ろヤマニンリスペクト、最後方にツルマルボーイです。先頭からしんがりまでは10バ身の圏内ですが、スエヒロコマンダー3バ身から4バ身のリード、アラタマインディが2番手です。ゼンノロブロイ3番手の位置で、最初のコーナーへと入っていきます。〉
先頭を進むスエヒロコマンダーは8名中7番人気であったが、デビュー6年目のベテランである。ナリタトップロードよりも更に年上、現時点で57戦目という歴戦のウマ娘であった。
着実に自身に有利なペースを作って逃げる先頭、そしてやはり引き離され過ぎることなく様子を窺い続ける中団以降に挟まれ、ゼンノロブロイは一瞬たりとて神経を緩められない40秒を既に味わっただろう。
中継画面を見つめながら、ネオユニヴァースは彼女なりに熱の籠った声援を送っている。
「“GENY”だよ、ロブロイ。“インクルージョン”に留まり続けて。」
「しかし最良のペース及び位置取りだ、逃げウマ娘を前に見ながらも、外を塞がれることなく中団先頭に留まり、コースの最ウチを回っていくのだからねぇ。」
アグネスタキオンは、つい先ほどの併走練習にて自分に見いだされた弱点、走ることに意識を持っていかれたが為にコース取りが甘くなったことを思い起こしているのだろう。
単純な期待や恍惚ではない、自身のことをも含めた厳しさがその目には覗くようであった。
〈スエヒロコマンダー、さらに飛ばしてリードを7バ身、いや8バ身と取って、早くも2コーナーを回っていきます。2番手にはアラタマインディ、さらにそこから4バ身か5バ身差、3番手のゼンノロブロイが中団を引っぱっています。その外少し開いてホットシークレット、今レース1番人気のナリタトップロードは5番手、インコースを通って上がってきましたツルマルボーイがピタリとつけています。〉
更に大きくリードを取って逃げるスエヒロコマンダーを前にしても、後方のウマ娘たちはつられて動くことは無かった。
過去のレース展開を頭に入れているのは、全員に共通する条件であった。セイウンスカイの模倣を、他のウマ娘が行ったところで成功を収めることはない。
「あぁ、これで逃げはますます苦しくなっただろうねぇ。何せナリタトップロード先輩が中団の真ん中に居るんだ、彼女のペース配分は常に乱されず正確だからねぇ。」
「まだ『落ち着いている』ロブロイ、『情報』に耳を澄ませているよ。」
すぐ背後から響き続ける蹄音は、前を行く者にとってのプレッシャーとなることは間違いないものの、走りながら振り返って位置を確認するわけにもいかない以上、先行の位置においては貴重な情報源である。
逃げのペースにつられることなく、同時に背後から詰められることなく、絶妙な速度を調整しながらゼンノロブロイは向こう正面を駆け抜けていった。
〈先頭スエヒロコマンダー、リードが6バ身とじわっと縮んできましたが、2番手アラタマインディ、3番手のゼンノロブロイがウチ側にほぼ並びかけています。その外に並んでホットシークレット、先行集団に固まりました、ナリタトップロードは変わらず前から5番手、すぐ後ろにツルマルボーイ。後方2名並んでアドマイヤベガ、ヤマニンリスペクト最後方で、3コーナー頂上を目指します。〉
京都レース場は3コーナーに上り坂がある。逃げのリードが目に見えて縮まり、集団全体が詰まってきたのは、しかし上り坂の存在のためばかりではないだろう。
早くもスタミナ残量に余裕のあるウマ娘たちは、後方から仕掛ける準備を始めていた。3コーナーを抜ければ、下り坂の勢いにのせて加速し、コーナーを抜ければゴールまで平坦な直線があるばかりだ。
「このままだと“ミッシング”だよロブロイ、“エントロピー”に呑まれないで。」
「あぁ、これはトップロード先輩もアドマイヤベガ先輩も、来るねぇ!抜け切れるのかい、ゼンノロブロイくん!」
いよいよ熱をもって中継画面へと声援を送るユニヴァースとタキオン。
彼女らを背後から見ていた鷹木であったが、トレーナーとしての眼から見ても、ゼンノロブロイはかなり厳しい状況にあると判断できた。
ここまでのレース展開、ナリタトップロードを始めとする先輩ウマ娘たちは、まるでスタミナを消耗した様子が無かったのだ。
〈さぁ残り800を切りました、スエヒロコマンダー先頭ですが早くもアラタマインディに並びかけられている、3番手ゼンノロブロイも並びかけているがその外ホットシークレットが早くも前へ抜け出している!そしてナリタトップロードも動いた!ナリタトップロードも動いて5番手から前へと接近、600を通過!ツルマルボーイがインコース、さらにアドマイヤベガも上がっていく!〉
まだ直線へと向いてはいなかったが、この時点で圧倒的な実力差が示されていた。
スタミナを振り絞るラストスパートはまだ発揮せずとも、ナリタトップロードは悠々と先頭を捉えていた。アドマイヤベガも、ツルマルボーイも、最後方から前へと出るコースを確保している。
「あぁ、大勢は決した!残すはゼンノロブロイくんが、どこまで食らいつけるのか、だねぇ!あるいは、観測可能性を振り切って、彼女は全てをひっくり返せるのかねぇ?」
「ロブロイ……!」
ゼンノロブロイは、化け物のごとき速力の持ち主たちに囲まれながらも、コースの最ウチにて食い下がっていた。
その小柄な体躯で、もはや出遅れたと思われる位置でなお、一縷の勝機を諦めてはいなかった。
〈第4コーナーから直線に向きます!今度は堂々と、ナリタトップロード先頭か!ナリタトップロード先頭!2番手にはアドマイヤベガ!アドマイヤベガ突っ込んできた!ツルマルボーイがバ群の中!ウチに突っ込んだゼンノロブロイ!しかしナリタトップロード完全に抜け出した!ナリタトップロード先頭!ツルマルボーイ追ってきた!ツルマルボーイ追ってくるがウチからはゼンノロブロイ!〉
「“DROC”は離れない、よ。」
「……差しきられないか!強いねぇ!」
もはやナリタトップロードの独走状態であった。
それでもゼンノロブロイは2番手にて駆け続けていたのだが……そのすぐ外から飛んできたのは、ツルマルボーイであった。
ゼンノロブロイの身体が熱を帯びて、見る者の視界に焼き付くような印象が一瞬ながら覗かれた。
〈2番手はゼンノロブロイだが、外からツルマルボーイ!ゼンノロブロイ、ツルマルボーイ並んでいる!2番手争いは大接戦だが、ナリタトップロード先頭は揺るがない!ナリタトップロード、いま一着でゴールイン!秋の初戦、ナリタトップロードが勝ちました!王道の君主、なお健在であります!二着はゼンノロブロイ、ツルマルボーイは惜しくも三着となりました!〉
大歓声に応えながら、ナリタトップロードが腕を振ってスタンド前を駆け抜けていく。
テイエムオペラオーもメイショウドトウも引退し、その次代を担うウマ娘らの世代が台頭しはじめてなお、トップロードは盤石たる実力を世に知らしめたのであった。
そのすぐ後ろ……ゼンノロブロイは、ツルマルボーイにほぼ並ばれながら二着に食い込んでいた。
鷹木も中継画面を見ながら、あの速力で上がってきたツルマルボーイからゼンノロブロイが逃げ切れるとは、到底思っていなかったのだが。
「トップロード先輩には勝てなかったが、あの態勢から二着に踏みとどまるとはねぇ。しかし、これで天皇賞秋へのゼンノロブロイの参戦はますます期待が持てるようになった、というわけだねぇ。」
「『わたし』も“SISR”だよ。ゼンノロブロイは、もっと“XACF”を『大きく超える』したかったかもしれないけれど。」
アグネスタキオンの発言にネオユニヴァースも頷き返す。秋からの強豪たるシニア級ウマ娘たちへ挑むだけの資格を、まだクラシック級のゼンノロブロイは存分に示したのだ。
これが前代未聞の“特異点”を見出す序章となるとは、鷹木はもちろん、アグネスタキオンもネオユニヴァースも想定すらしていなかった。