タキオンに続き、走行フォームの確認も兼ねて練習コースを走り始めるマンハッタンカフェ。
入学直後の時期から結城トレーナーに見いだされた才能はますます磨かれ、見ている側が惚れ惚れするほどの滑らかな脚運びとなっていた。タキオンもカフェの走りを凝視しつつ、感銘を受けたような声色を発する。
「あぁ、トレーナーくん、心がけるべきだとキミが言っていたのは、まさにあの走りだろう?コーナーの外側の脚に蹴り出す力の主を置き、内側の脚を前に出し、遠心力との釣り合いを取るように、と。当然私も、理屈では分かっているさ。」
「まさに教科書通りの走り、だな。マンハッタンカフェは、それが出来ている……トレーナーとして、俺からケチをつけられる点は何一つない。」
直線時の走りとコーナー時の走り、前に踏み出す脚はしっかりと切り替えており、そしていつ切り替えたのか見逃してしまうほどに滑らかな脚運びの変化を実現している。むろん、速度維持も十分だ。
マンハッタンカフェの抱える不安や、彼女がじわじわと体重減に悩まされている現状を知らなければ、担当トレーナーとしては今すぐにでもデビュー戦へ向かわせたくなるような走りであった。
「カフェは何がしかデビューへ向かうためのヒントを得に来たのかもしれないが、結城トレーナーに見いだせない問題点を、俺ではますます指摘できるはずもない。トレーナーとして、不甲斐ないな。」
「構わないさ、トレーナーくん。相談というものは往々にして、具体的な解決策を要求するものではないからねぇ。解決できない悩みを共有する相手を得ること自体が、不安の解消に繋がることも多い。そも、ベテラントレーナーとも称せぬキミに対し、どれほどの事を期待できるというんだい?」
「あ、あぁ……そういうもの、か。」
カフェであれば明確には口にせぬような内容も、遠慮なく告げてくれるタキオンが居るからこそ、鷹木が認識できる事物は多かった。
コースを一周して戻ってきたカフェのタイムは、現役で走っているウマ娘の本気のタイムに迫るほどのものとなっていた。あくまで、走行フォーム確認としてコース上を流しただけである。
肝心のタキオンのタイムを鷹木が計り損ねていたため、比較することは叶わなかったが。
「ともあれ、マンハッタンカフェ、俺の眼からは脚運びに問題は見いだせなかった。体重減少に悩まされているのなら、筋力の低下を防ぐことを食事管理やトレーニングにて優先目標に掲げるべき……といったところか。」
「ご指導、ありがとうございます。」
「何を当たり前すぎることを言っているのやら、だねぇ。トレーナーくん、そんなことより菊花賞の観戦の時間が迫っている、準備は出来ているんだろうねぇ?」
タキオンに急かされながらとはいえいつもながらの準備であり、流石の鷹木も他のことに時間を取られなければ手間取りはしない。
その年の菊花賞も例年に倣い、出走者は最大上限の18名であった。その年のクラシック路線を締めくくる大舞台。
京都レース場の3000mを走り切るだけのスタミナ、そして長丁場を出来得る限りロスなく回り切った者が勝つ。すなわち、走り続ける3分間以上、極限の集中力を保ち続けなければならない。
まさに『最も強いウマ娘が勝つ』と称されるにふさわしいレースである。
早くも枠入りは始まりつつあり、画面下に表示される字幕に目を走らせたタキオンが口を開いた。
「やはり、ネオユニヴァースくんが1番人気だねぇ!これまでの活躍を見るに、当然と言ったところか!」
「ゼンノロブロイさんが出ておられれば、きっと2番人気には入っておられたでしょうけれど……菊花賞ではなく、天皇賞の方に出られますからね。」
マンハッタンカフェも、タキオンに寄り添うように座り、中継番組の画面に視線を注いでいる。
ゼンノロブロイの舞台は、翌日の東京レース場にあった。稀代の優駿、ネオユニヴァースとの直接対決を避けたような形とはなっていたが、しかし挑む相手が相手であるだけに“逃げた”との評は聞かれない。
天皇賞には、現シニア級最強格のナリタトップロード、アドマイヤベガ、そしてエアシャカールを始めとして、エイシンプレストン、ツルマルボーイ、アグネスフライトといった錚々たる面々が出走するのだ。
同じ舞台に立つことこそ無くとも、ネオユニヴァースとゼンノロブロイは、互いにより高みへと活躍の場を見出していた。
枠入りが完了し、いよいよ発走の時刻となる。
〈スタートしました!……揃いました、綺麗なスタートとなりました。まずは最初の3コーナーへと向かいますが、ウチをついてまずはサウスポールぐんぐんと飛ばしていきました、しかし外を突いたシルクチャンピオンが果敢に上がっていって、飛ばした、飛ばした、リードを早くも3バ身に取りました。2番手にはマイネルダオスがとりついて、外をついてテイエムテンライ並んでいます。〉
菊花賞のスタートは向こう正面、ここから3コーナー4コーナーを抜け、正面スタンド前の直線を通過した後、改めて1コーナーからコース全体をもう一周し、ようやくゴールである。
京都レース場の向こう正面出口付近には上り坂がある。
ここで良いポジションを取りに行くか、それとも下手な消耗を避けるかは作戦次第であったが、18名もの出走者が居れば確実に前へと出ようとするウマ娘は数名居た。
「まだまだ長丁場だというのに、ここで飛ばしていく気概は見上げたものだねぇ。多少、無謀とも思えるほどだよ。」
「ネオユニヴァースさんは……ほとんど最後方、ですね。」
アグネスタキオンとマンハッタンカフェも互いに口を開きながら、気にかけているのはネオユニヴァースの走りばかりであった。
1番人気の宿命ゆえか、ネオユニヴァースは後方で集団に囲まれて淡々と足を運んでいた。包囲された状態でも、彼女の位置取りには不安を感じさせるものはなかった。
〈3コーナー頂上から下り、サウスポール、ニシノシンフォニーが4、5番手の位置にとりついてまいりました、やや前にトリリオンカット追走しております。1番人気のネオユニヴァースは中団後ろに控えた形となりました、やや縦長、前の集団が縦に長くなってまいりまして、最初のスタンド前、第4コーナーから直線コースへ入ってまいりました。好位にニシノシンフォニー上がってきた、ネオユニヴァースはまだまだ控えた走りとなっています!〉
逃げのウマ娘が大胆なリードを取り、続く先行集団も良い位置を獲ろうと入れ替わりが激しい。
本来ならばスタミナの浪費を防ぐため、下手な位置取りの変更は控えられるべきであったのだが、ネオユニヴァースという大きすぎる存在が後方に控えている焦りには抗いがたいのだろう。
「それにネオユニヴァースくんばかりではない、サクラプレジデント、それにリンカーンくんも、ごく優れた戦績を叩き出しているウマ娘だからねぇ。」
「サクラプレジデントさんは……七着になったダービーの時以外は、今のところ一着か二着しか獲ったことが無い、という戦績でしたね……。」
ゼンノロブロイが参戦しておらずとも、ネオユニヴァースに比肩し得るウマ娘はまだ他にも居る。
タキオンが挙げたリンカーンというウマ娘は、これまたダービーにてネオユニヴァースに敗れるまでは、デビュー以来一着を獲り続けていた。
さらに、今回は4番人気となったザッツザプレンティも、ダービーにてネオユニヴァース、ゼンノロブロイに次いで三着となったウマ娘であった。
〈スタンド前先行争いですが、飛ばしているウチを回ったシルクチャンピオン、リードを3バ身取りました。2番手には、マイネルダオスを引き離しましたテイエムテンライです、そのすぐ後にニシノシンフォニー3番手、4番手にはインコースにサウスポール、外をついてはマイネルダオス、その後にはトリリオンカットが追走、このあたり入れ替わりが激しくなっております。そして中団の先頭にはザッツザプレンティが出てまいりました。〉
鷹木の眼には、勝ちを獲れそうなウマ娘の走りが際立って見えるようになっていた。
ザッツザプレンティにとっては、今を時めくネオユニヴァースに対して大金星を挙げるための、千載一遇の、そして二度と訪れない好機であった。
それでも全く気負いや力みを示すことなく、冷静に脚を運び続けている。
「なるほど、中団の先頭は安定しているねぇ。気の逸ったウマ娘には先を行かせ、後に下がるウマ娘に対してはこちらの作ったペースに合わせさせる、と。」
「まさにタキオンさん自身が、得意とする作戦そのもの……ですか?」
カフェからの鋭い指摘に、タキオンは誤魔化すような笑みと共に無言を返す。
まさに、アグネスタキオンにとって、本番の舞台に上がった際のことを思えば、最もシミュレートしておきたい状況だったろう。
ネオユニヴァースという最高クラスの実力者が、自分の作戦に対しどのように仕掛けて来るのか、と。
〈ザッツザプレンティから1バ身半差、リンカーンが中団のウチ、そしてその後固まってヴィータローザ、その外を突いたコスモインペリアル並ぶような体勢になりました。後の圏内にはインコースを回って2番人気のサクラプレジデント、そして、1番人気、ネオユニヴァースが並ぶような形になっています!先頭からは12、13バ身といったところ、やや後方集団にとりついて、各バ第2コーナーから向こう正面の直線へと向かいます!おっと先頭、シルクチャンピオンにテイエムテンライ並びかけている!〉
人気度上位の実力者たちがおおよそ同じような位置取り、そして落ち着いたペースを保ち続けている様に対し、他のウマ娘たちは対照的な走りであった。
前へ、前へと出ようとして、頻繁に順位の入れ替わりを続けている。
一定のペースを保って逃げ続けるウマ娘に、向こう正面へ入ったばかりの段階で並ぼうとするなど、シニア級ではまず見られない光景だろう。
「ふゥむ、こんなにも焦ってしまうものかねぇ?あくまでも、クラシック級の、それも中央のGⅠレースに出走できるウマ娘となれば、数え切れぬほどの練習を重ねた実力者揃いであるはずなのだが。」
「……それだけ、尋常じゃないプレッシャーがかかり続けるってことだ。周囲からは暴走同然だと思われるとしても、走っているウマ娘自身の中ではれっきとした作戦のひとつだ、と自分に言い聞かせてしまうケースもある。」
鷹木は言葉を選びながら、タキオンの問いに答えた。確かに、理想的とは言えない作戦が功を奏し、誰もの意表を突くような形で勝利を得られる場合もある。
が、例えば大逃げを打ってスタミナ切れを起こしたかと競争相手達を騙したセイウンスカイのように、それはごく周到に練られた作戦として成立している場合においてだけのことだ。
とても勝てないと思えるほどの相手と並び続け、あるいは背後に蹄音を聞かされ続け、レース場の異様な熱気の中、冷静さを完全に失った自分に気づけないことは、どれだけ練習を重ねたウマ娘にも起こり得た。
そんな状況に陥らないウマ娘は……まさに今、鷹木の隣で唇を歪めた笑みを浮かべているタキオンが代表格であるのかもしれない。
〈さぁ再び先頭争いが過熱しておりますが、リードは3バ身、ニシノシンフォニーが3番手、4番手にはマイネルダオス、ウチを回ってはサウスポールが追走、続いてトリリオンカット、やや早めにザッツザプレンティが動いて行って外をじわじわと上がっていく、更にリンカーンが追走しています!続くヴィータローザ……外からネオユニヴァース動いた!ネオユニヴァースがスーッと中団のやや前へと上がる形になりました!さぁネオユニヴァース早い段階で脚を使っていきましたが、これがどう出るか!〉
3コーナーへ入っていく上り坂、ザッツザプレンティが好位につくため動いた直後、ネオユニヴァースは目に見えて加速した。
1番人気の、そして追い込みを得意とするネオユニヴァースが、まだ向こう正面を抜けきる前に見せた動きに、観客席からは大きなどよめきの声が上がる。
それは、ついに仕掛けたことへの歓待でもあり、同時に早すぎるタイミングへの不安でもあった。鷹木は、自分の担当ウマ娘が出ているわけではないにもかかわらず、冷や汗がじんわりと浮かんでくるのを感じていた。
「ここで、もう来るのか……いや、ネオユニヴァースほどのウマ娘となれば、焦って釣られたということなど無いと思いたいが……。」
「これまでのレースが、ほぼほぼ囲まれた状態からの脱出だったからねぇ。今度こそブロックされて前へ出られなくなることへの警戒かもしれないねぇ。」
確かにタキオンの言った懸念もあっただろう。しかし、だとしてもネオユニヴァースの脚をもってすれば、もっと遅いタイミングで仕掛けても先頭を捉える圏内には入れるはずだ。
京都レース場、最後の直線は404m。その距離を以てネオユニヴァースに捉えられない相手は、同世代のウマ娘の中にはゼンノロブロイをおいて他にない。
そして今、ゼンノロブロイは菊花賞に出走していない……。
〈中団の前、好位を窺い始めましたネオユニヴァース!その後の圏内にはマッキーマックス、半バ身差がついてコスモインペリアル、坂を上り切りましてここから下りであります、徐々に全体のスピードも上がってきた!800の標識を通過!最後方からは、ややペリフェットも動いてまいりました、2番人気サクラプレジデントはまだ後方です、今度はザッツザプレンティも動いて行った、外をついて上がってくる!ネオユニヴァースもとりつくか、いや少々抑えているか!〉
ネオユニヴァースは、何かに気づいたようだった。
そのままの勢いを保っていれば、今しがた先頭へと駆けあがっていったザッツザプレンティにピタリとついて加速していったことだろう。
だが、コーナーを回りながらそれ以上の加速は控え、前へと間が広がっていくザッツザプレンティの背を見送っていた。
「お友だちが……見えたのでしょうか?」
唐突に、マンハッタンカフェが口を開く。
無論、ここで見えているのは中継番組の画面であり、京都レース場を現地で見ているわけではないため、カフェにだけ見える“お友だち”の姿を直接確認できる術はない。
しかし、今しがた何かに気づいたかのように加速を緩めたネオユニヴァースの姿に、カフェの視線はしっかりと注がれていた。即座にタキオンが反応する。
「よもや、ネオユニヴァースくんが毎度口にしている“観測”が彼女の判断に干渉したというのかい?いったい、何が見えたんだ、実に気になってしまうじゃないか!」
「画面越しでは、分かりません……けれど、このレースの結果は……。」
やり取りの詳細を理解できていない鷹木を傍らに、マンハッタンカフェとアグネスタキオンは、中継画面に視線を注いでいる。
画面内では、既に先頭へ躍り出たザッツザプレンティが最終直線を駆けだしていた。
〈ザッツザプレンティ先頭!ネオユニヴァースはまだ抑えているか、現在4番手あたり!直線コースへ向いた!ザッツザプレンティ、2バ身ぐらい差がついて、外をついては、ネオユニヴァースが2番手の位置!さらに外をついてマッキーマックスが追い込んでくるが、さぁネオユニヴァースは、今ようやく2番手に上がってきた、凄い加速だ、見る間に差が詰まっていく!……大外からリンカーンが突っ込んでくる!〉
ザッツザプレンティは、全く速度を落とす気配なく、ゴールへ向かっていく。
あのまますぐ後にピタリとついてネオユニヴァースが上がっていては、その差を全く縮められることなく、先頭が譲られることなど無かっただろう。
集団をかわしながらコーナーを抜けつつ前に出る、というプロセスが何よりもスタミナを消費させるのだから。
この菊花賞、仮にゼンノロブロイという最大の好敵手の姿があれば、ネオユニヴァースはそのリスクを負ってでも前に出ざるを得なかったろう。
「この末脚か!この末脚は、観測によって得られた、というわけなのかい!?知りたい、見せておくれよ、私にも、向こう側の世界を!!」
「きっと、そうです、本来なら、こうじゃなかった……!」
興奮の極致にあるタキオンの傍らで、カフェが口走った“本来”の意味を、鷹木は全く理解できなかった。
今まさに、現実に、行われているレース以外に、本来と呼べる現象など無いはずではないか……。
〈大外からリンカーンが突っ込んできた!ザッツザプレンティにも迫る勢いだ!だがその間を抜けてネオユニヴァース!ネオユニヴァース更に加速する!ネオユニヴァース抜けた!ネオユニヴァース、今、先頭へと抜けだしてゴールイン!勝ちましたネオユニヴァース!やりました!ネオユニヴァース、三冠達成!ナリタブライアン以来、9年ぶり、クラシック三冠ウマ娘の誕生です!!〉
一時、中継画面の音声が割れたほどの大歓声が、京都レース場に響き渡っている。
ゆっくりと減速していったネオユニヴァースは、掲示板に灯る確定のランプと、自分が確かに一着である表示を視野に入れた後、いつも通りにゆっくりと手を、高らかに掲げた。
偉大な戦績を打ち立てたウマ娘を讃える思いは、鷹木の中でも迸らんばかりであったが、それ以上に彼はすぐ傍らで行われているタキオンとカフェの会話内容が気になって仕方が無かった。
「聞かなければ!尋ねなければ!ネオユニヴァースくんが、何を見て、何を観測したのか!これは特異点だよ、間違いない!異なる可能性世界をひっくり返した、そして全く新たな可能性世界自体を拓いたのかもしれないよ、彼女は!」
「ネオユニヴァースさんの、お友だちは、きっと……知っていた、と思います、こうならなかった菊花賞を……。」
タキオンの語る、突拍子もない仮説。そしてマンハッタンカフェの見る“お友だち”。さらにはネオユニヴァースが行う“観測”。
いずれも現実的には信じることが困難な内容ばかりであったが、鷹木の全く理解が及ばぬところで、探求心に焦がれるウマ娘たちの意思は繋がりつつあった。