菊花賞の優勝レイを体にかけ、天を仰ぎ、そして大衆の面前ではごく珍しく笑顔を浮かべているネオユニヴァースの姿は、翌日ありとあらゆるメディアのトップ記事を飾った。
当然ながら世間では9年ぶりのクラシック三冠ウマ娘の誕生こそが話題の中心である。
デビュー以降完全無敗とまではいかなかったものの、クラシック級で宝塚記念を制するという史上初の偉業を達成した上での三冠取得は、ネオユニヴァースが文句なしに最強格のウマ娘である証そのものだった。
アグネスタキオンにとっては、全く別種の点から彼女へのアプローチを望んでいたようであったが。
「トレーナーくん!今日は流石にユニヴァースくんもトレセン学園へと帰ってきているだろう、会いに行こう!」
「無茶を言うな、ネオユニヴァースは今まさに、会いに行くのが最も難しいウマ娘だ。あちこちから取材を申し込まれてるだろうし、練習時間の確保のために外部との接触は極力遮断されてるはずだ。」
鷹木は、テイエムオペラオーの現役時、どれほど勝利を重ねて世間の話題を浴びても、メディアの取材に悩まされはしなかったことを思い出しながらタキオンへと返答する。
引退後のウマ娘であれば直接メディアからの取材を受けることもあるが、あくまで現役続行するウマ娘はどれほどの戦績をあげようとも、次なるレースに向けての練習が主たる活動となる。
当然ネオユニヴァースへとインタビューを求める声も上がるだろうものの、トレセン学園に居る以上はウマ娘のトレーニングが最優先である。
世間から現状最も強い注目を集める存在であるネオユニヴァースが、トレセン学園によって最も厳重に外部の干渉から守られていることは言うまでもなかった。
「だが私は部外者ではない、トレセン学園に在籍するウマ娘だ。すなわち自由に会いに行くだけの権利と立場を有しているはず、間違ったことは言っていないねぇ。」
「いや間違ってる。」
「私ならば、話を終えた後にユニヴァースくんの練習相手を務めることも出来る!決して邪魔にはならないはずだねぇ、よし行こう!」
「いや行くなって。」
担当トレーナーとして鷹木の存在を認めるようになりつつあったタキオンだが、自分が強く思い込んだこと、実行の意を硬くしたことを前にして、全く周囲の声を聴かなくなるのは相変わらずであった。
現状最強格の三冠ウマ娘を相手に練習相手が務まるという自信も、実際にタキオンが根拠あるだけの能力を有している点で否定できるものではなく、ますます鷹木は彼女を引き留められなかった。
一度進み始めたウマ娘の脚を物理的に人間が止められるはずもなく、ずかずかと歩んでいくタキオンの背に、届く見込みのない説得の言葉をかけながら鷹木は無力についていくほかにない。
ネオユニヴァースの練習場は、学園の正門から最も遠く、敷地奥部に集められている個別練習場の一つである。
ほとんどのウマ娘が、学園の中心である広大な練習コースを共同で利用している。一方、GⅠクラスのレースで戦績を残したウマ娘は、天候に関係なくトレーニングを行える、屋内型の専用の個別練習場を与えられる。
ごく優れた能力を有するひとにぎりのウマ娘のトレーニングのために、本番同様の広大なコースを用意するのは中央トレセン学園であればこそ為せるわざであった。
「お邪魔するよ!ネオユニヴァースくん!いるかい!?」
「ホントの意味で邪魔になるのは間違いないんだ、悪いことは言わないから帰った方が……。」
インタビューを求める外部メディアの記者はそもそもこの付近には立ち入れず、さらには他のウマ娘たちも接近を憚り、近寄るのを自重するほどの静けさと緊張感が、個別練習場の周囲に満ちている。
そんな中で、声を張り上げ、今最も注目を集めている存在の名を呼ばわるアグネスタキオン。
鷹木は今さらながらに、彼女の胆力に感嘆し、そして後ほど担当トレーナーとしての監督不行き届きを責められるだろう自分の処遇を勝手に想像して肝を冷やしていた。
タキオンが示した最後の分別は、ネオユニヴァースの練習場の扉を勝手に開けなかったことである。
「返事が無いねぇ。もしかすると、この練習場には居ないのかねぇ。カギは掛かっているかどうか分からないが、少し開いて覗いてみようかねぇ?」
「まっ、待て待て!さすがにこれ以上はダメだ、ネオユニヴァースの次の出走予定は公表されていないが、実戦に向けた練習中だとしたら、その作戦をリークするような振る舞いはいよいよマズい……!」
練習場入り口のドアノブに手を伸ばしかけたタキオンの前に、鷹木は大慌てで割り込み、立ちはだかる。ウマ娘の腕力で怪我をさせられたとしても、そこだけは譲れなかった。
GⅠレースに出走を予定しているウマ娘、およびそのトレーナーが一番気に掛けるのが、事前に作戦が漏洩する恐れである。
ウマ娘の走りの傾向は、ライバルたちにも分析され、対策を練られている。だからこそ、その裏を突く形で新たな作戦を立て、本番レースでは誰も見たことの無い走りを披露し、次なる勝利を得る。
ゆえに、練習風景の秘匿は厳重であった。トップクラスのウマ娘に屋内型の個別練習場が与えられ、易々と覗き見られることが無い環境となっているのも、それが理由である。
ネオユニヴァースの場合は追い込みを得意とする脚質が知られているが、神戸新聞杯では先行寄り、そして菊花賞では最終コーナー手前から早めに仕掛けるという、いずれも他の競争相手から予測されづらい作戦を披露し、勝利を得ていた。
「タキオン、お前も分かってるだろう。きっとネオユニヴァースは、この調子でいけば今年のジャパンカップか有馬に出る。そんな大舞台にむけてユニヴァースが練習しているのを、お前が覗き見していたとなれば不要な噂も立つぞ。」
「分かっているさ、そんなことをしたって私には何の得にもならないけれどねぇ。ただ、こうして待っている時間も勿体ない、せめてネオユニヴァースくんがここに居ないという確証が得られれば、別の場所へと探しに向かえるのだが……。」
「“ULKD”扉を開いたよ。」
おそらく、最初にタキオンが声高に呼び声を上げた時、ネオユニヴァースは聴きとっていたのだろう。
それは広大な練習コースを走っている時でも周囲の音を拾いうるウマ娘の聴覚だからこそでもあり……同時に、ユニヴァースだけが為し得る“観測”が、扉の向こう側で待つタキオンの存在を感じ取ったのかもしれない。
しっかりと施錠してあったのは、自分の練習風景を見に来た後輩ウマ娘が、意図せずネオユニヴァースの作戦を覗き見てしまうという状況を前もって防ぐためでもあったろう。
「おぉ、やはりこの練習場に居たんだね、ネオユニヴァースくん!随分と静かだったから、誰も居ないのかと思ったよ!」
「本当にタキオンを入れてもらっていいのか?練習中だったのなら、邪魔しないようにすぐ帰らせるが。」
「『わたし』は“SETO”と『交信する』をしていただけ。“MAZY”な仲間が来てくれるのは、『歓迎する』よ。」
全く遠慮の欠片も見せず、ズカズカと入っていくアグネスタキオンを迎え入れながら、ネオユニヴァースの青い目は僅かながら光を帯びているようにも見えた。
走っていないのならば、担当トレーナーと会話している最中であったのかとも思われたが、広大な個別練習場の内部はガランとしておりネオユニヴァース以外の姿は無い。
今まで、ネオユニヴァースと関わる機会は幾度かあったのだが、鷹木は未だに彼女の担当トレーナーと一度も会えたためしがなかった。
アグネスタキオンは遠慮なく踏み込んでいった後、備品から引っ張り出して来たパイプ椅子を勝手に置いてドッカと座っている。
見れば、前もって置かれているパイプ椅子も、ネオユニヴァースが座るための一脚だけであった。担当トレーナーのための椅子は、そもそも出されてすらいなかった。
「さて、ネオユニヴァースくん!勝利後のインタビューでは勝因について散々聞かれたかもしれないが、私が尋ねたいのはもう少し踏み込んだ内容だ!単刀直入に行こう、昨日の菊花賞にて、キミは何を観測した?」
「“QOAX”の向こう側にあったのは、『焦り』そして『警戒』。『わたし』はゼンノロブロイに勝つための“PLN”をなぞっていた……彼女こそ“ZDAL”だったから。」
前置きなく本題に踏み込んだタキオンに対し、全く面食らうことなく彼女なりの返答を淡々と続けているネオユニヴァース。
挨拶や世間話を前置きとして挟むという、非効率的なやり取りを不要とする交流は、確かにタキオンとユニヴァースの間でこそ自然に成立し得るやり取りであったろう。
「だろうねぇ、しかし昨日の菊花賞にゼンノロブロイは出走していなかった。彼女が出るのは、今日行われる、秋の天皇賞なのだから!そうと分かっていてなお、トレーニングにおいてはゼンノロブロイの存在を念頭に置き続けざるを得なかった、というところかねぇ?」
「『誰に勝つ?』を“CONT”したとき、『警戒する』相手に挙がるのはゼンノロブロイだけ、だから。」
昨日の菊花賞、最終コーナーよりも手前で仕掛け、ぐんぐんと上がっていく作戦は、ネオユニヴァースがゼンノロブロイに勝つための走りであった。
同じく追い込みの作戦を得意とするロブロイに対し、前の位置を取り、レース終盤のペースを握ったうえで、最終直線で追いつけぬほどに突き放す。
それはゼンノロブロイについては効果的であったかもしれないが、さらに先行寄りのペースで走るウマ娘……例えばザッツザプレンティやリンカーンのような相手と競う上では、有利とはいえない。
最終コーナーを回りながら加速しなければならないとなれば、直線で加速する以上にスタミナ消費は激しくなる。その分、もとから前寄りの位置に居たウマ娘の方が、ラストスパートに残しておけるスタミナ量は多くなるためだ。
「ゼンノロブロイくんが居れば、確かにあのまま、最終コーナーを抜けるまでにもっと前へと出る作戦を取らねばならなかったろうねぇ。しかし、それではロブロイくんに対し先着できても、ザッツザプレンティやリンカーンには勝てなかったかもしれない。」
「“観測”も『勝てない』可能性を見せた。“軌道投入”を終えた“STDA”に並び続けたら、きっと『ロフテッド』していたよ。」
昨日のレースの記憶を掘り起こすにつれ、走っている時の感覚が蘇りつつあるのか、熱を帯び始めたネオユニヴァースの言い回しはまたもや解釈の難解な語彙で埋められはじめていた。
しかし、鷹木もレース時の状況を思い起こせば、彼女が言わんとする内容については何となく理解できていた。
背後から上がってくるゼンノロブロイを突き離そうとすれば、先行ウマ娘に対して厳しい戦いとなっていただろう、ということだ。
ロブロイが菊花賞への出走を択ばず、あの局面に居なかったからこそ、前へと上がりかけていたネオユニヴァースは落ち着いて脚を溜め、最終直線での競り合いに勝てたのだろう。
鷹木はその点において一応は納得したが、タキオンが聞きたい話はその先であった。
「本題はここからだ、ユニヴァースくん。先ほど君は『ゼンノロブロイと競う前提での作戦を立てていた』と言い、その原因はゼンノロブロイこそ最たる警戒の対象であったためと述べた。しかしだね、現に菊花賞にて走り、最終コーナーまでゼンノロブロイくんが居ない事実に意識が向かない……というのも少々考えづらい。」
確かに、言われてみれば無視できぬ違和感のある状況だった。
出走者のリストは当然ながらレース前から全員に明かされているし、そもゼンノロブロイが菊花賞ではなく天皇賞への出走を予定すること自体、最も彼女に近しいネオユニヴァースは早々から知っていただろう。
それでも、まるで菊花賞本番を走っている最中に、改めてゼンノロブロイの不在を認識したような走りをネオユニヴァースが見せるというのは……実に奇妙であった。
「ネオユニヴァースくん。私は一つの仮説を立てたんだ。キミは毎度、レースのたびに“観測”を行う。それは、この現実とは異なる、別の可能性があり得た世界の観測であり……観測先の世界においては、ゼンノロブロイが出走していたんじゃないかねぇ?」
「……アファーマティブ。『ぼく』の知る“菊花賞”は、ゼンノロブロイが出走していた。」
ほんの些細なことであったが、ネオユニヴァースの一人称が『わたし』ではなくなった途端、まるで別の存在が語っているかのごとき響きがあった。
アグネスタキオンも、その変化に気づいたのだろう。僅かな異変も聞き逃すまい、見逃すまいと、口をはさみたくなる衝動をぐっと抑え、沈黙のままにネオユニヴァースの次の言葉を待った。
しかし、先ほどの返答を終えた後、ネオユニヴァースはいつも通り、トレセン学園の一員たるネオユニヴァースに戻っていた。
「“ZDAL”に勝とうとする“MABTE”は、とても苦しい“XACF”だった。でも、スイングバイの後は、もう『見えない』になったよ。」
「おそらく、異なる可能性世界においては、キミはゼンノロブロイに対しては先着し、しかし一着にはならなかったのだろうねぇ。あのレースの流れにおいては、おそらくザッツザプレンティが菊花賞ウマ娘になっていたはずなのだろう。」
ネオユニヴァースが菊花賞を勝利したばかりの翌日だというのに、彼女が勝てなかった可能性について語るのはいかがなものか……と鷹木は気を張りながらタキオンとユニヴァースの表情を見比べていた。
しかし、当のネオユニヴァース自身も、タキオンの語る“異なる可能性”について迷いなく頷いていた。
そして、アグネスタキオンの方はといえば、ますます満足げに、そしてこれまで抑え続けていた興奮を吐き出すように目を輝かせ、声を高めていた。
「であるならば、だ!ネオユニヴァースくんが“観測”する可能性世界、この現実とは異なる世界は、やはり実在すると見てよさそうだねぇ!カフェの言う“お友だち”もまた知っているような反応を示すんだ、現実とは異なる可能性を辿った世界を!全く異なる観測者が、近しい結果を見出したのならば、ほぼ実証されたも同然、ということにならないかい!?」
「いや、実証にはならないだろ、あくまでそんな風に感じた、って程度の話なんだから。」
タキオンとユニヴァースの難解なやり取りを前に口を噤んでばかりの鷹木は、ようやくタキオンから話しかけられて返答できた。
実際的に考えるのならば、それはレース本番という極限状態まで神経が研ぎ澄まされる環境の中で、ウマ娘がレース展開を可能な限り正確に推測できた結果、ということになるだろう。
ネオユニヴァースが、同期の中でも最大のライバルであるゼンノロブロイの存在を無意識に考慮し続けてしまうことも、レース終盤になって想定していた作戦では勝てないと気づき修正することも、幾度も練習を重ねた結果としてあり得ることだろう。
マンハッタンカフェが見えるという“お友だち”や、それに伴いアドマイヤベガの身に起きている異変については、相変わらず説明がつかぬままであったが。
「トレーナーくんは、もう少し新たな考え方を受け容れる思考の猶予を持った方がいいんじゃないかねぇ。そうだ、今日の天皇賞、ユニヴァースくんとともに観戦、いや“観測”してみようじゃないか!ユニヴァースくんの見え方は、きっと大いに参考になるだろう!」
「さすがに、その時間まで居座るわけにはいかないだろ。ネオユニヴァースにだって練習時間が必要だし……。」
いつもながら大それた提案を躊躇なく行うタキオンを窘めながら、鷹木は周囲を見回し、ネオユニヴァースの担当トレーナーがそろそろ帰ってこないかと気にしていた。
ネオユニヴァース自身に迎え入れられたとはいえ、事前に面会や合同練習のアポイントメントもなく練習場へと踏み込んでいることは、あまり褒められた話ではない。ましてや、ネオユニヴァースのトレーニングを邪魔する形で居座ってしまっていては、なおさらである。
しかし、ネオユニヴァースの担当トレーナーは、未だ姿を見せなかった。菊花賞を勝利したばかりとなれば、最も疲労の蓄積している状態であり、ウマ娘にとって大事な時期のはずなのだが。
まるで代わりを務めるかのように、ネオユニヴァース自身が応える。
「アファーマティブ。『わたし』は、しばらく“フェーズ0”を挟む予定だった。それにタキオンとの時間は“CDR”。今日は、一緒にゼンノロブロイを『応援する』を提案するよ。」
「そうこなくては!キミが天皇賞をどのように“観測”するのか、実に楽しみだよ!しかし確かに、ユニヴァースくんには休息が必要なタイミングだろう。ならば、天皇賞の発走時刻となるまでの間、私が独りでここの練習場で走らせてもらおうかねぇ?」
勝手に踏み込んでいった上に、ネオユニヴァースと共に天皇賞を観戦する約束を取り付け、さらには彼女の個別練習場を勝手に使って走ると言い出すタキオン。
たしかに、合同練習場よりもはるかに質の良い芝が維持されている個別練習場のコースであれば、タキオンも脚への負担をより軽くトレーニングできるだろう。しかし、本来は許可されていないはずの場所で練習するなど、認められるはずがない。
鷹木も普段では得難い状況の中に身を置いていることは違いなかったのだが、先ほどから背を走る冷や汗はとどまるところを知らなかった。
「タキオン……!自主的にトレーニングへ向かうようになってくれたのは良いが、ここはネオユニヴァースのために用意された練習コースだぞ。練習場の芝は、傷めば張り替えの手間が必要なんだ、勝手に使うだなんて……」
「“NPBM”トレーナーも、『構わない』と言っているよ。」
まるで聞く耳を持たぬまま遠ざかっていくタキオンの背を、引き留めようと言葉を掛けている鷹木の隣で、ネオユニヴァースがポツリと告げる。
ネオユニヴァースの担当トレーナー自身から許可が得られたのなら……と鷹木は僅かに安堵しかけ、しかしこの状況をネオユニヴァースがいかにして彼女の担当トレーナーへと伝えたのか、その手段を見いだせないことに気づいて固まった。
彼女がスマホのひとつでも手にしていれば、せめて納得することはできたのだろうが、ネオユニヴァースは相変わらずパイプ椅子にちょこんと座ったままである。
怪訝そうな表情の鷹木からの視線を受け、ネオユニヴァースは青い目に僅かな光を帯びさせながら首を傾げた。
「どうか、した?」
「い、いや……何でも……。」
ネオユニヴァースの頭頂部から電磁気を帯びた直後のようにピンと立っていた金髪の毛束が、彼女が首を傾げると同時に傾いて撓んでいた。