タキオンらがトレセン学園へ入学してきたこの年も11月に突入し、世間は早くもジャパンカップの話題で持ちきりである。
むろん、クラシック級から参戦して、シニア級の先輩たちを抜き去り秋の天皇賞を獲ったゼンノロブロイが次なる栄冠を手にする可能性に期待が集まっていたのは言うまでもない。
が、トレセン学園においては……少なくとも鷹木の中では、ゼンノロブロイ以外のウマ娘へと向ける思いが様々に交錯していた。
「ウマ娘レースは、実力が全てだ。最も速いウマ娘、最も強いウマ娘こそ、URAの歴史に名を刻むというのが必然……だが……。」
強烈な存在感を残したテイエムオペラオー、ならびに世紀末覇王と自称した彼女に肩を並べ打ち倒したウマ娘たちが、つい昨年までURAの舞台を賑わせていた。
その一時代を築いたオペラオーとドトウが引退した翌年、いよいよ自分たちの時代が来た、と大舞台へ上がりかけたウマ娘たち。
しかしナリタトップロードとアドマイヤベガの実力はいまだ健在であり、さらに今、ネオユニヴァースおよびゼンノロブロイという圧倒的な才能を有する後輩たちに早くも追い越されつつある。
むろん、GⅠどころかGⅢのレースに参加できる時点で相当な優駿である証には違いないのだが、実際のところ、彼女らは今年の天皇賞の楯を手にすることはなかったのだ。
「エアシャカールとアグネスデジタルも、かなりの戦績を残しているから世間的にも名は知られているが……その翌年の世代でクラシック級三冠を勝ったのは、シンコウカリド、ダンシングカラー、マイネルデスポット……か。」
殊に、シンコウカリドは去年の皐月賞の後、12着と結果は振るわなかったものの東京優駿にも出走している。
入学できるだけでも名門の仲間入りだと言われる中央トレセン学園の中でも、かなりの上位帯に位置する実力者には間違いない。マイネルデスポットも、かきつばた賞にて後続と3バ身の差をつけての圧勝を披露している。
が、トレセン学園所属の者ならばともかく、世間一般に広く名が知られているウマ娘かどうかと言えば、首を縦に振りづらい面々ではあった。
「同じ世代であれば、金鯱賞でシャカールに勝ってみせたツルマルボーイや、先月の秋の天皇賞で三着にまで食い込んだサンライズペガサスの方が名は知られているか。」
それでも、彼女らもまた強力すぎる先輩ウマ娘や、驚異的な成長速度を見せる後輩ウマ娘に挟まれて、あと一歩勝利に及ばないというレースが多い。
心無い声の中には、覇王世代の直後は最弱世代、とまでの評を与える者たちもある……死に物狂いで大舞台にまで上がってきたウマ娘が、そのような軽視を受けるのは余りにも心外だ……。
鷹木がこのようなことを考え始めてしまうのも、このほぼ魔境とも呼べるウマ娘レースの現環境の中へ、自分の担当ウマ娘を間もなく送り込むことになる時期が近いためであった。
「ナリタトップロード、アドマイヤベガはデビューから5年経った今もなお実力は一線級、ネオユニヴァース、ゼンノロブロイはクラシック級でありながらシニア級のタイトルを掻っ攫っていく実力者……アグネスタキオンの能力なら、彼女らと同じ舞台に立っても、勝てるだろうか?」
それはウマ娘担当トレーナーの抱きうる中でも、相当にぜいたくな悩みであった。
存在を世間に広く認知され、勝てばURAの歴史に名を刻んだも同然となる大舞台の栄冠は、当然ながらほんの一握りのウマ娘でなければ手に入れられない。ましてやGⅠの栄冠ともなれば、なおさらである。
かつての鷹木、担当ウマ娘をせめて条件戦で勝てるように導けば……とのみ考えていた頃であれば、こんな大それた悩みを抱くことはなかっただろう。
一昨年、ウマ娘レースの名だたる栄冠を根こそぎ攫っていったテイエムオペラオーを担当したことで鷹木が得た呪縛であり、オペラオーから与えられた試練でもあった。
「脚への負荷が蓄積するリスクを承知の上で、タキオンには彼女が最も得意とする走りをさせることを決したんだ。タキオン自身も、それを呑んで練習に向き合ってくれている。臆することはない、タキオンは今年の12月にデビュー戦へ向かわせる。」
鷹木が、自身の気を挫けさせぬために続けている独り言を、たった今も練習コースの直線を走っていくタキオンの耳には微かに届いたのだろう。
「それまでなら、十分に仕上がるねぇ。」
いつも浮かべている薄ら笑いの口角を更に引き上げ、タキオンはゴール前の数歩をほぼ全速力にまで引き上げる加速で駆け抜けた。
トレセン学園を覆う秋晴れが、日に日に冬空へと近づくにつれ、GⅠレースの大舞台に向かうウマ娘たちの練習場は異様な緊迫感と集中力で張りつめた空気に満たされ始める。
むろん、天皇賞、ジャパンカップ、そして有馬記念という大きなタイトルが連続で訪れる例年、変わらぬことではあった。が、今年に限っては、ますます様相が常ならざるものとなっていたらしい。
マンハッタンカフェが、アグネスタキオンとの合同練習を求めてやってくる日が増えた。
「タキオン、いつも確認しているんだが、カフェのことを無理矢理引っ張ってきたわけでは」
「こちらも、いつも返答することだが、もちろん無理矢理ではないとも!今回は、カフェ自らが希望してこちらに来てくれたのだからねぇ!」
「はい……」
鷹木は、タキオンに手を引っ張られているカフェの表情が暗く沈んでいる様を見て懸念を抱いたのであるが、よくよく見ればカフェの表情は物思いに沈んでいるといった雰囲気に近かった。
常より言葉少ななマンハッタンカフェは、タキオンと共にストレッチし、ウォーミングアップを済ませ、お互い本気の消耗をせぬように交互に練習コースを走るトレーニングを終わらせるまで、ほとんど口を開かなかった。
マンハッタンカフェが、タキオンや鷹木に対して告げたかった内容を口にしたのは、その後の休憩のタイミングである。
「あちらの練習場では、ご自身に聞かせてしまう恐れがあるため口に出来なかったのですが……アドマイヤベガ先輩が、ますます本来の走りから離れていってしまっています。」
「ほう?容姿に関してはいつも通りのアドマイヤベガ先輩に変わりはなかったが、やはり走り方については以前と同様の現象が継続しているといったところかねぇ?」
問い返すタキオンに、カフェは頷き返す。
むろん、レースごとに自分の本来得意とする作戦からあえて外れ、対戦相手たちの予想外の位置取りから勝負を仕掛けるということは普通に取り得る判断である。
しかし、マンハッタンカフェがここまで表情を曇らせて言うのならば、それはアドマイヤベガという存在自体に影響を与える要素……“お友だち”にとり憑かれた状態を指すのかもしれない。
「以前、アドマイヤベガ先輩を見るたび、全く違う姿のお友だちがとり憑いている、とはお伝えしましたよね……。」
「あぁ、覚えているとも。私の仮説では、それはアドマイヤベガ先輩が3年前に引退したという可能性世界において、『アドマイヤベガが走っていなければ出走していたはず』なウマ娘の存在だろうと考えている。」
タキオンの突飛な仮説はさておき、一時は引退が危ぶまれたほどの長期休養からアドマイヤベガが現役へと戻ってきたことと、彼女の身に起こる異変に不気味な関連性が見いだされることは間違いない。
カフェは再びタキオンの発言に頷きながら、言葉を継いだ。
「しかしジャパンカップへの出走が決定された日から、ずっと特定のお友だちだけが、アドマイヤベガ先輩にとり憑いています……それに伴ってか、アドマイヤベガ先輩は……走り方が、その、違って……」
マンハッタンカフェが言葉を濁したのには、より現実的な側面があった。
同じ結城トレーナーの下で指導を受ける身として、同じ練習場でトレーニングしている都合上、アドマイヤベガがジャパンカップに向けて行っている練習内容をカフェは見ることが出来る。
しかし、その練習内容を外部に漏らすことは、レースの公平性を欠くことに繋がりかねない。仮にこの場で聞いているアグネスタキオンと鷹木が口外しなかったとしても、どこで他者に立ち聞きされているとも知れないのだ。
鷹木は、口を噤んで俯いたカフェに小さく頷きながら告げた。
「分かってる、それについては詳細に触れなくてもいい。しかし、カフェがそこまで心配することを、結城トレーナーは気づいていないのだろうか。あの人が、ウマ娘の異変を見落とすとは思えないんだが。」
「当然、結城トレーナーはレジェンド的な人物だ、ウマ娘としての現実的な異変は無いのだろう!これはあくまでカフェだけが気づける内容だからねぇ……そうだ、カフェ、特定の“お友だち”だけがアドマイヤベガ先輩にとり憑いていると先ほどキミは言ったが、その“お友だち”は具体的にどのような姿をしているんだい?」
不定の姿ではなく、決まった姿で固定された“お友だち”であると認識している以上、カフェはその容姿をハッキリと視認できているのだろう。
カフェの中では、タキオンへの返答を用意することは難しいことではなかったらしい。
すぐに口を開きかけた彼女であったが、しかし、その内容を口にすること自体にかなりの葛藤と、思い切りが必要だったようだ。
「……ジャングルポケットさんに、そっくりな姿をしています。」
……しばらく、タキオンも鷹木も、口を開けずに呆然としていた。
もちろん、ジャングルポケット自身は健常そのものな状態で、今も他のウマ娘たちに混じって合同練習グラウンドを駆けている。年末にはホープフルステークスの出走も目標に掲げ、意欲的にトレーニングへと打ち込んでいる真っ最中である。
カフェの言うところの“お友だち”が、何か霊的な存在であるとすれば、健康に他ならぬ状態で生きているウマ娘の姿を取って現れるというのは、何を意味しているのか……。
鷹木は自ら混乱を解く目処が立たぬ状態であったが、タキオンは独自の理論の中で納得いく仮説に思い当たったらしく、ハタと膝を打って休憩の椅子から立ち上がった。
「そうか、分かったぞ!すなわち、この現実とは異なる可能性世界の中で、ポッケくんはジャパンカップに出走しているはずだったのだよ!もちろん、今年トレセン学園に入学したばかりでは出走はできない、しかしだね、今年の春の天皇賞にて、マンハッタンカフェ、君自身が出走している可能性を見た!」
興奮しながら歩き回って喋るタキオンの中では理論が繋がっているのだろうが、傍から聞かされている鷹木には支離滅裂な情報のままである。
同じくポカンとしているマンハッタンカフェの前で、タキオンは自分の思考を言語に収まる形に取りまとめるよう盛んに手ぶりを繰り返しながら、
「我々の世代、年齢が2歳上である可能性世界が存在するならば、今しがたキミが言ったポッケ君についても計算が合うじゃないか!いや、待てよ、ひょっとすると私自身についても?ネオユニヴァースくんは、私のことを“SNR”すなわち先輩だと思っているほうが馴染むと言っていた。我々が、2年早くトレセン学園に入学していた可能性世界の実在を、複数の証拠が指し示しているじゃないか!」
「いや、それはきっとユニヴァースが、こちらに気を遣わせまいとしてのことであってだな……。」
どうにか自分が口を挟める現実的な部分に食いつきながらも、鷹木もまた何となくタキオンの仮説が現実との奇妙な一致点を見出しつつある様を不気味に感じていた。
そこで示される“証拠”のいずれもが、カフェ、およびユニヴァースという、独特な言動を繰り返すウマ娘から提示されたものばかりだということは、辛うじて確実な現実味を感じずにいられる猶予であった。
……ウマ娘の言動に信を置くべきトレーナーとしては、そこに安堵を求めることは決して褒められた態度ではなかったのだが。
「こうしてはいられないよトレーナーくん!今後も、違和感を抱くような事象には目を光らせていなければ!次に我々の身近で行われるレースは何だい、ジャパンカップの前に何かなかったかねぇ?」
「えぇと……たしか、タップダンスシチーが八瀬特別に出走する。11月18日、京都レース場だ。」
「おぉ、タップダンスシチーくん、か!私が特異点の予感を見出しているウマ娘のひとりだ、いよいよその才能が開花する様を見せてくれるんじゃないか!」
興奮気味に喋り続けるタキオンの横顔を見つめながらも、鷹木はふと、彼女が注目するウマ娘を見出している基準が不明なままであることに気づいた。
たしかにタップダンスシチーは入学当初から、その言動および大柄な体格の目立つウマ娘ではあったが、戦績は今のところ、トレセン学園の中で飛び抜けているとは言えない状態にある。
鷹木の場合は、あのメイショウドトウを覇王に追いつかせた片桐トレーナーが担当している、という点で警戒することは出来る。しかし将来的に優れた戦績を残す可能性はあるにせよ、担当トレーナー以外がその予兆を見出すことはほぼ不可能なはずであった。
早くもデビュー前から、あるいはデビュー戦から優れた能力を示しているジャングルポケットやマンハッタンカフェが相手ならば、注目するのも分かるのだが……。
「タキオン、どうしてそんなにタップダンスシチーのことを気にかけているんだ?」
「根拠はないさ、しかしある程度は勘に頼ってでも目処をつけなければ、観測を始められないじゃないか。」
タキオンが働かせる“勘”もまた、カフェが視認する“お友だち”ほど明確な見え方にあらずとも、現実には見いだされぬ根拠の一端となっているのかもしれない。
歴史を編み出すレースの中で、個々のウマ娘がいかなる将来を辿るのか。
自分の勝ち筋が分かり切っていたように大舞台での勝利を挙げるウマ娘たちの走りを思い起こしながら、鷹木はタキオンの中にも可能性を見出していた。
観測者たるタキオンの中に、可能性を見出せるのは、傍らに立つトレーナーを置いて他にいなかった。