桂崎トレーナーの手伝いとしての役割を得た鷹木は、今のところほぼアグネスデジタルの練習に付き添うためのトレーナーと化していた。
主に有馬記念へと出走するナリタトップロードのトレーニングに桂崎トレーナーが専念しているため、それも当然のことではあった。その日、鷹木は併走練習の誘いに応じてアグネスデジタルと共に、エアシャカールの練習場を訪れていた。
この練習は、エアシャカールから提案が持ち掛けられたものであった。デジタルとは同学年であり、覇王テイエムオペラオーに挑み勝ったのも同様のウマ娘である。
とはいえ、芝でのレースに専念し続けていたシャカールとは異なり、芝とダートの両方で結果を残すという器用さに加え、先んじて世界の舞台たる香港カップにて栄冠を手にしたアグネスデジタルを前に、シャカールは自らが闘争心を燃やすことを理解していたのだろう。
「受けてくれて助かる。そっちが想定してる次のレースと、だいぶ条件が違うのは悪ィが……そろそろ本気の併走相手とやり合いてェんだ。」
「この時期ともなれば、名だたるウマ娘さんたちは有馬記念へ向けて追い込みをかけてる頃ですからねぇ。」
エアシャカールも、集団に揉まれながらのコース取りや他のウマ娘ありきでのペース配分を確認するため、トレーナーのついていないウマ娘たちを招待し本番を想定しての併走練習は続けている。
練習相手を担うウマ娘たちからすれば、GⅠクラスのウマ娘の走りを間近で体感できることは良い経験になったろうが、やはり有馬記念に出走するウマ娘と比べれば、エアシャカールと競り合うだけの実力は期待できない。
当然ながら有馬記念に出るウマ娘の練習風景を、競争相手に直接見せるわけにもいかない。どのようなペース配分やコース取りを想定しているのか、手の内がバレてしまっては大いに不利となる。
だからこそ、シャカールは自分と肩を並べられる実力を有するウマ娘との併走練習を望んだとき、よほど気心が知れていて情報を漏らさぬだけの信頼もあるアグネスデジタルを選んだわけである。
「何より、デジタル、お前はどんな走りをしてくるのかさっぱり予想出来ねェ。お前が勝ったレースを見返しても、差しだの先行だの……まるきり違う走り方をしてやがる。」
「いやぁ、まぁいろいろ迷走してたといいますか、試行錯誤していた時期もありまして。」
「どんな走りを見せるか分からねェ相手と競うってのは、こっちとしても願ったりだ。それが世界を制したウマ娘となりゃ、なおさらだな、よろしく頼む。」
「こちらこそです!不肖デジたん、美しき好敵手のため、いっちょ頑張ってみましょう!」
鷹木トレーナーはすぐ傍に居たのだが、結局一度も発言することなく会話は完結した。シャカールは挨拶だけを済ませ、ウォーミングアップのため練習コースへとスタスタ入っていった。
実際のところ、鷹木の方からシャカールへ通達する必要のある内容など無く、ますます口を開くタイミングを見いだせずにいるのがいかにも鷹木らしい振る舞いではあった。
とはいえ、現状は彼の能力が求められぬ状況でもない。アグネスデジタルは鷹木からさほど離れていない位置でストレッチを開始しつつ、口を開く。
「さてさて、どうしたもんでしょ。私、有馬記念どころか、2000mより長い距離のレースに出た経験がないんですよねぇ。」
今でこそ国内および海外で栄冠を手にしているアグネスデジタルだが、才能が開花する以前の戦績を見返してみれば、中距離レースにもなれば早くも苦しくなっていたのは事実である。
昨年度、唯一2000mに達するジャパンダートダービーに出た際は11着と惨敗、それ以外では1600mや1800mのいわゆるマイル戦にて結果を残している。
デジタルの戦績だけはしっかり頭に入っている鷹木トレーナーは、ようやく自分が語れる内容が出てきたことで口を開いた。
「とはいっても、秋の天皇賞、それにこないだの香港カップはいずれも2000mだ。そこでしっかり勝てているんだから、もう相応の実力は身についてると見ていいんじゃないか?」
「もちろん私としても、自分の成長は実感してますけど、有馬は2500mですから。もう別世界ですよ。それで、ですねぇ、鷹木トレーナーのご助言を戴きたいんですよ。」
アグネスデジタルは、ストレッチの体勢を続けながら、鷹木へと真っすぐ視線を向けた。
オペラオーに引けを取らず珍妙な言動が目立ちがちな彼女であったが、デジタルは既に鷹木が感じている不甲斐なさを察していた。それは先日のトレーニングにて、デジタルが自身の走りを分析している横で頷くしかなかった鷹木の様子からも、一目瞭然でもあった。
もちろんここに来たのはシャカールとの併走練習がメインの目的だったろうが、鷹木でなければできない助言を求めることはデジタルの想定にあったのだろう。
「昨年と一昨年、オペラオー先輩は二度も有馬記念に出走しておられますから。あの時、どんな作戦を鷹木トレーナーは立てられたのか、今ならお教えいただけますか?」
「あぁ。やっぱり、集中的にマークされて囲まれてしまう前に、先行の位置につけるように……。」
そう鷹木は言いかけていたが、あまりに凡庸な作戦であることは、実際に口に出して初めて気づいたようでもあった。
一昨年の有馬記念、オペラオーは教科書通りに理想的な先行の位置につけ、最終直線ではツルマルツヨシの背を追い続けていた。そのままのペースをキープしていては、交わすこともできなかったろう。
大外から飛んできたスペシャルウィーク、グラスワンダーに続く三着にまで食い込んだものの、その好成績は鷹木の作戦のおかげではなく、オペラオー自身が大舞台でこそ発揮し得る底力によって為されたものだと、想起を繰り返すたびに鷹木は確信していた。
そして昨年は……周囲をライバルウマ娘たちにガッチリと固められてしまい、先行策は早々に阻止されていた。想定していた作戦から完全に外れてなお、オペラオーは最後方から集団の隙間を抜けて差し切り、一着となったのだ。
何度思い出しても、効果的に機能した作戦には思い至らず、目立つのはテイエムオペラオーというウマ娘の特異さばかりであった。
「……向こう正面からは全体のペースが上がり始めるから、ラストスパートの時点で出遅れないように、そしてゴール前の坂までスタミナを使い果たさず失速しないよう駆け抜ける……すまない、普通の作戦だな。」
「いえ!実際に有馬記念を勝たせた担当トレーナーさんのお言葉、デジたんは有難く頂戴しますよ!」
アグネスデジタルの方も、テイエムオペラオーの異様なまでの地の強さが導いた勝利だということは理解していただろう。それでも、鷹木の語る作戦にしっかりと耳を向けられるのは、デジタル生来の性格ゆえであった。
鷹木トレーナーもまた、自分が与えられるアドバイスがあまりに空疎、GⅠを勝ったウマ娘を相手にはまさに釈迦に説法という状況ではないかと案じつつも、語ることを中断しなかった。
先日、桂崎トレーナーから窘められた通り、今の自分に可能なことを実直に続けようとした結果だった。実際のところ、有馬記念のコースを見たトレーナーがほぼほぼ口にするだろう内容だったが、基本に忠実であることは勝利の鍵に違いない。
「準備、いいか?タイム計測、練習コースで自動的に記録されンだけど、鷹木トレーナーはストップウォッチ使うのか?」
「あ、あぁ、いちおう。」
「きっちり構えて私たちの練習を見てくれるんですよ、真面目なトレーナーさんですから!ささ、シャカールちゃん、始めましょ!」
アグネスデジタルとエアシャカールは共に練習用コースのスタート地点に並び、間もなくスピーカーからゲート音が響くとともに走り始めた。
デジタルは鷹木が前もって伝えた通り、先行のイメージで駆けていく。とはいえ、2500mの距離を体験したことが無いだけに、少々オーバーペース気味ではあるが。
シャカールはといえば、確かにデジタルよりは後ろであったものの、そこまで大きく距離を開けずに走っていた。
エアシャカールはアドマイヤベガに似て、差しの作戦を得意とするウマ娘であったが、昨年度の皐月賞と菊花賞を獲って以来、覇王世代のウマ娘を相手に苦戦する状況が続いていた。
ようやくテイエムオペラオーに勝利した先月のジャパンカップにて、シャカールが見出したのは最終直線で一気に駆け上がる作戦である。最終コーナーから加速し始めるアドマイヤベガとは違い、多少前方よりに位置取るよう修正したのだろう。
「2500mのペースにしてはスピードが出過ぎているが、シャカールとしては逃げウマ娘を相手取っての練習としてちょうどいいか。」
本番ではスタンド前の直線、1週目の坂を上っていくデジタルとシャカール。オーバーペースとはいえ、流石のアグネスデジタルはまるで無理などしていない様子でスピードを緩めない。
明らかな動きが見えたのは、2コーナーを回って向こう正面へと入った辺りである。アグネスデジタルが、僅かながら走りを緩めた。
"緩めた"と言っても、素人目にはほぼ違いが分からぬ程度である。長らくウマ娘の走りを見続けていた鷹木には、流石に気づけたが。
「向こう正面からはペースが上がっていくはず……自分に残されたスタミナが、ペースを維持していては持たないことに気づいたか。」
この時点で既に1400m走っており、デジタルが経験した最も長いレース、2000mであれば今ごろ最終コーナーに突入している辺りの距離である。
だが、有馬記念は2500m。ここから向こう正面を駆け抜け、コーナーを回り、最終直線の上り坂を含めて走り切らなければならない。身に染みついたペースのままでは、とても体力が持たない。
それゆえに、ウマ娘レース本番ではまずあり得ないことではあったが、デジタルはレースの最中でペースを切り替えたのである。経験不足ゆえに採らざるを得なかった土壇場の策には違いなかったが、柔軟な思考の為せる技でもあった。
背後から迫ってくるエアシャカールの足音を聞きつつ、だからと焦って無理な加速をしない辺りも、アグネスデジタルが既にベテランの域にあるウマ娘としての証でもあった。
「……しばらくはマイルやダートへの出走が予定されてるだろうが、デジタル自身も有馬への出走を望んでいるのかもしれない。」
むろんエアシャカールとの併走練習相手として、途中で息が上がってしまう前提の走りは披露できないと考えてのことでもあったろうが、有馬記念を走り抜くイメージをアグネスデジタルはこの機に自らの中へと刻んでおきたかったのかもしれない。
最終コーナーを回ってくる辺りでは、すでにエアシャカールはアグネスデジタルと横並びになっていた。実際のレース本番では、中団の大外に位置どって、最終直線で一気に駆け上がる体勢を整えている頃だろう。
実際、この本番を想定した併走練習でも、最終直線に向いた際、エアシャカールの爆発的な加速は鷹木の度肝を抜いた。
「速っ……!」
これまで散々ウマ娘の走りを見てきた、ほかならぬ世紀末覇王テイエムオペラオーの走りを目の当たりにしてきた鷹木が、ついそう口走ってしまうほどであった。
途中でスタミナ配分の無理に気づいたアグネスデジタルが走りを緩めていたこともあったが、エアシャカールの脅威的な末脚はあっという間にデジタルを置き去って、鷹木の目の前で最終直線を駆け抜けた。
見る者の肌を粟立たせ、蒼ざめさせるほどの気迫は、その走りもさることながら、ゴールへと一直線に向かっていくシャカールの鬼気迫る表情にも宿っていたろう。
今は本番ではなく併走練習だということはシャカール自身の意識から抜けてはいなかっただろうが、それでも勝利へ向けてのあくなき執念は、大舞台へ向かうウマ娘皆に共通して抱かれる感情だった。
「いや……にしても、まるで目の色が違うような……。」
文字通り何かにとり憑かれたかのようなシャカールの容貌に気圧された鷹木は、そう口走っていた。
あるいは、有馬記念……その年のウマ娘レースの集大成へ向かうウマ娘には、勝利への執念に惹かれるように何かが憑依することもあり得るのかもしれない。
顔色を失ったまま立ち尽くしている鷹木の前を、アグネスデジタルが遅れて通過していく。エアシャカールには差を付けられてしまったものの、事前に鷹木が告げていた通り、ゴール前の坂でバテて失速することなど無く走り切っていた。
「ひぃー、いやぁ、さすがシャカールちゃん、強いですねぇ!もう向こう正面の辺りで、これは追いつけないって実感しましたよ!」
「そりゃまぁ、さすがに全然違う条件のレースを目指している相手に、ずっと専念してきたコースで負けるのはロジカルじゃねェよ。」
クールダウンのためにコースを流して軽く走りながら回ってきたデジタルとシャカール。
既にシャカールの目の色が通常のものに戻っていることを鷹木は確認し、胸の内で小さく安堵していた。
が、滅多に目を合わせてこない弱気なトレーナーが自分を直視していたことに、気づかぬシャカールではない。
「なぁ、鷹木トレーナー、オレの顔になんかついてんのか?」
「いや、別に、その……あまりに凄い走りだったもんだから。」
「あぁ、有馬も目前となりゃ、自然と本気になるからな。あの最終直線、練習だってわかってても、何かに背を押されてるみたいに、ひたむきになっちまうンだよ。」
シャカールが返した言葉は、ウマ娘の口から出てくるには当然すぎ、意欲に満ち溢れていてなお当たり障りのないものではあった。
しかし、鷹木が常になく顔色を失っている点については、シャカールも勘付いていた。
「……オレも負けてねェつもりだが、アドマイヤベガ先輩はもっと雰囲気違うぜ。練習してるところは見れねぇけど、ここんところ纏ってる空気が変わってる。」