既に鷹木は、アグネスタキオンのデビュータイミングを12月の初頭と決め、いよいよ来月に迫るデビュー戦の登録を済ませていた。
しかし、タキオンと同様にその能力に期待されるマンハッタンカフェは、未だデビューの目途が立たないらしい。結城トレーナーが、カフェのデビュー戦を登録したという話は流れてこない。
以前の併走においてはほぼ本気で走ったタキオンすらも及ばぬほどの脚を披露していたマンハッタンカフェだが、本番のレースにて勝てるか否かとなれば別な問題が絡んでくる。
「殊に、カフェは追い込みペースが主体だからねぇ。前を塞がれずに抜け出すルートを見極めるため、周囲の競争相手たちの気迫に脅かされず冷静に判断できる集中力が保てなければ、実力を発揮しづらいだろうねぇ。」
「はい……やはり、結城トレーナーは、私の精神面が安定していないと判断されているのでしょう……。」
タキオンの遠慮ない物言いに対し、素直に頷いているマンハッタンカフェ。
傍らの鷹木は、トレーナーの立場として何も言えぬままであった。タキオンの推測はおそらく正しいのだろうが、トレーナーたる人間が安易に口にしてしまった内容は、ウマ娘にとっての事実となりかねない。
それに、結城トレーナーほどトレーナー歴の長い人物が考えていることを、自分が易々と推測しきれるとも思えない。
タキオンとカフェへの相槌を避けた鷹木は、代わりに窓外を流れる景色のスピードが緩み始めたのを見て、席を立つよう促した。
「電車を降りる準備をしろ、そろそろ淀駅に到着する。」
「いちいち言われずとも、車内アナウンスを聞いていれば分かることじゃないか。」
それは至極当然のことであったが、それでもなお話に夢中となって周囲の状況を意識外に置いてしまいがちなタキオンに対しては、どれほど念入りに注意を与えても過剰ではない。
今日、鷹木はタキオンとカフェを引率する形で京都レース場へと訪れていた。
12月のデビュー戦を無事勝利で飾れば、そこから先はほぼ休んでいる暇など無くなる。タキオンの能力をもってすれば負ける可能性は低かったが、仮にデビューを逃したとしても未勝利バ戦へと続けて挑むこととなる。
遠出できるほとんど最後の機会となったこの日、選んだ出かけ先は八瀬特別競走が行われる京都レース場であった。
淀駅を降りて、レース場へと直結するステーションビルの中を見回しながらタキオンは口を開く。
「さすがに混雑してはいるが、春の天皇賞の時ほどではないねぇ。あの時は、満足に身動きすら取れぬほどの雑踏だったからねぇ。」
「天皇賞と比べれば、そりゃそうだろ。」
「……ですが、今日のレースに出走する皆さんも、注目を浴びる方々ばかりです。先月の条件戦で勝利したハートランドヒリュさんも、惜しい所まで行ったタップダンスシチーさんも。」
マンハッタンカフェも、タキオンと同じように視線を周囲に巡らせながら言う。
もちろんタップダンスシチーの走りを現地で見届けることが京都までやってきた主たる目的ではあったが、マンハッタンカフェの気晴らしも兼ねて、というのが結城トレーナーの思惑と合致した部分も大きいだろう。
同期で入学したウマ娘の走りを目の前にして、他の心配事に上書きされつつあるレースへの思いを強めることが出来れば、マンハッタンカフェの精神面もデビューに向けて集中させやすくなる。
事あるごとに妙な物が見えてしまうマンハッタンカフェが、純粋にレースだけを鑑賞する機会としての想定だったのだが、アグネスタキオンは別な点での期待を掛けていた。
「そう!タップダンスシチーくんだ!前回のレースは中継番組越しだったが、今回は現地で生に見ることとなる!カフェの眼が何を見出すか、実に楽しみだねぇ!」
「今日ぐらいは変な心配事が増えないよう期待したいんだが……。」
「いえ、私も……楽しみでは、あります。お友だちが示す予兆は、悪いものばかりとは……限りませんから。」
そう答えるカフェの表情は明るくなっていた。トレセン学園から遠く離れた京都の地まで来たことが、彼女のリフレッシュに繋がっているのは間違いなかった。
タップダンスシチーが走る、という事実もまた、このレースの観戦の場を明るくする一要因だったかもしれない。常に朗らかに目立っているタップは、舞台に立つだけで一帯を華やかにするスターとしての素質を備えていた。
指定席のチケットを提示し、屋内観戦ブースへと入る面々。こちらも天皇賞ほどの満員ではなかったものの、世間からの注目度を示して大勢の観客が詰めかけていた。
「ほう!1番人気、ホワイトハピネスはエアシャカール先輩とも菊花賞で競った経歴のあるウマ娘だねぇ!」
「その時の結果は10着だったが、菊花賞に出られるという時点で十分な実力者の証だな。」
他には、先月タップダンスシチーが4着となったレースにおける勝ちウマ娘、ハートランドヒリュの姿もある。
着実に力を伸ばしていっているタップダンスシチーであったが、このレースにおいてもやはり強力なライバルたちが勢揃いしていることには違いなかった。
とはいえ流石に八瀬特別レースに出走する他のウマ娘たちの名を、鷹木も全ては知っているわけではない。GⅠウマ娘となる、ごく一部の者だけが知名度を得るという現実には変わりなかった。
連ねる出走ウマ娘たちの名に目を通しているうちに時間は流れ、発走時刻となる。
〈各ウマ娘ゲートイン完了……スタートしました!まずはウチ枠から先頭に飛び出しましたアストラルブレイズ、その外タガノテーストも続いて2番手争い、トウショウアンドレが3番手に並びまして、ヒダカサイレンスに並びタップダンスシチーがすぐ後ろをピタリとつけています。テイエムチョウテンが5番手、6番手の位置、その外側を1番人気ホワイトハピネスが進んでいます。〉
前回のレースでは綺麗に逃げの位置へつけることが出来ていたタップダンスシチーであったが、今回はスタート直後から先行集団に埋もれることとなった。
ゲート出遅れがあったわけではないのだが、それ以上に逃げウマ娘が最初からハイペースで先頭を取りに行ったのだ。
「トレーナーくん、どう見るかい?私には、そこそこ無茶な先頭の取り方に見えたがねぇ。」
「あぁ、先月のレースでのタップダンスシチーの逃げは、かなり警戒視されてるんだろう。多少無理をしてでも、彼女より先に行こうと判断したんだろうな。」
先頭を進むアストラルブレイズというウマ娘もまた、ホワイトハピネス同様GⅠレースへの出走経験もあるベテランだったが、その走りや表情には焦りが浮かんでいた。
対照的に、タップダンスシチーは片桐トレーナーと繰り返したトレーニング内容を忠実に守り、一定のペースでスタミナを消費し続ける正確な脚運びを淡々と続けていた。
〈さて歓声の響く正面スタンド前の長い直線を抜けて最初のコーナーへ、先頭は変わらずアストラルブレイズ、2番手タガノテースト、すぐ並んでトウショウアンドレといった形。タップダンスシチー、ヒダカサイレンスよりも僅かに前へ出したか、ホワイトハピネス、テイエムチョウテン並んで集団後方、最後方に今レース2番人気のハートランドヒリュがつけています。〉
先月の条件戦と比べて6名少ない、8名でのレース。
必然的に互いの位置取りによってブロックされる率は低く、また直線の占める割合が多い京都レース場2400mのコースゆえ、より一層自らの走りやすい配分が求められる状況となっていた。
「カフェ、何か見えるかい?このレース、“お友だち”が走るウマ娘たちの背を押しているようなことはないかねぇ?」
「いえ、そのようなことは、なさそうです……。」
カフェはじっと視線をレース場へと注ぎながら、返答を迷うことは無かった。
タキオンは少々物足りなさそうであったが、結城トレーナーの許可を得てカフェをここまで連れてきた鷹木としては安堵する思いであった。
妙な物を見ることなく、純粋にレース展開を目に焼き付けることこそ、マンハッタンカフェにとって一番の気分転換になるはずだ。
〈2コーナーを抜けまして向こう正面へ、先頭アストラルブレイズ、タガノテーストが続く形には変わりませんが、ここでタップダンスシチーが3番手に上がってまいりました。トウショウアンドレ、そのウチ側に並んでいますが徐々に位置を下げつつあるでしょうか。間もなく向こう正面の上り坂が迫る、ヒダカサイレンスも位置を後ろに下げ始めました。〉
スタート直後、アストラルブレイズとタガノテーストが一気に加速した影響で、レース展開はかなりのハイペースとなっていた。
「ふゥん、どうやら上り坂でのスタミナ消費を抑えようと意識が働いたのだろうねぇ。」
「確かに妥当な判断だが、自分のスタミナ残量を把握しきれず即興でペースを変えては、ゴール前の攻防に参加できないだろうな。」
実況にて挙げられた通り、タップダンスシチーは3番手にまで順位を上げていた。
しかし、タップダンスシチー自身が速度を上げたのではない。彼女は変わらず、ごく正確なペースを維持したまま、向こう正面の直線を抜けるところであった。
〈さぁ3コーナー、坂を上り切ってじわじわと全体が加速し始める所、アストラルブレイズ、タガノテースト、変わらず先頭争いを続けているが、ここで後方に動きがありました、ホワイトハピネスが外にぐっと出して前へと抜けるタイミングを窺っている、最後方のハートランドヒリュも抜け出す体勢か、しかしまだ動かない!〉
レース前半がハイペースで飛ばされただけあって、先行や逃げのウマ娘は相当にスタミナを費やしてしまっている。
後方から差しきる態勢を整えている面々が迷う要因は無かった。アグネスタキオンも、鷹木に意見を求めるまでもなく展開を見切っていた。
「既に全体が詰まってきているからねぇ、焦らずとも先頭を捉える圏内に入っているとうわけだ。」
「直線に向いたところで、一気に上がってきそうです……タップさん、逃げ切れるでしょうか。」
マンハッタンカフェも、同様にレース展開を予測している。
やはり彼女には“お友だち”がこのレースにおいて見えていないようであった。タキオンが期待していたような“特異点”のない、純粋なレースだということだろう。
〈直線へ向きまして先頭はアストラルブレイズ、しかし早々と外側からホワイトハピネス上がってきた!中からハートランドヒリュも前を目指しているが、先頭は変わってタップダンスシチー!タップダンスシチー先頭!外からホワイトハピネスぐんぐんぐんぐん上がってくる!速い速い、ホワイトハピネス、タップダンスシチーに並んだ!〉
「ふゥむ、流石に菊花賞に参戦しただけのことはあるねぇ!速いねぇ!」
「ですが、タップダンスシチーさんも、粘り続けています……!」
スタート直後の加速が響いたのか、先頭を走り続けていた面々がズルズル下がっていった後も、タップダンスシチーは全くバテる様子もなく駆けつづけていた。
歓声はほぼホワイトハピネスの勝利を確信しており、実際にホワイトハピネスこそが最も優れた能力を有してはいただろうが……まだ勝利を確信するには早い、とばかりにタップダンスシチーは食らいつき続けていた。
〈タップダンスシチー、ホワイトハピネス並んでいる!3番手争い、トウショウアンドレにハートランドヒリュが上がってきた!ハートランドヒリュ3番手に上がって先頭を狙う、だが先頭はホワイトハピネス、タップダンスシチー僅かに届かないか!ホワイトハピネス、今一着でゴールイン!勝ちましたホワイトハピネス、GⅠ出走ウマ娘としての実力を示しました!〉
観客席からは歓声と共に拍手が上がる。
ホワイトハピネスの勝利は当然讃えているが、先行し続けたウマ娘の中で唯一失速の兆しを見せなかったタップダンスシチーの健闘にも拍手は送られているのだろう。
タキオンも席を立ちあがって拍手を送りつつ、口を開く。
「やはりタップダンスシチーくんの能力の伸びは著しいねぇ!先月敗れたハートランドヒリュに勝てているじゃないか!どうだいカフェ、タップくんを導く“お友だち”の姿は見えたかい!?私としては、彼女に特異点の予兆を感じてならないのだが!」
「いえ、そのようなものは、何も……今回のレースは、タップダンスシチーさんの実力が掴んだ純粋な結果、でしょう……。」
相変わらずタキオンは少々物足りなさそうな表情を浮かべていたが、傍らで聞いていた鷹木としては安堵あるのみであった。
このレース場を占めるのは、積み上げてきた練習量と努力の成果によって導かれる結果ばかりである。トレーニングを担当する立場としても、それだけを信じていられる世界であるべきだった。