タップダンスシチーの出走した八瀬特別レースを観戦しに行った日を最後に、アグネスタキオンにはわき目もふらずトレーニングへと打ち込む日々が続く。
それは当然ながら、12月の初めに予定しているデビュー戦の日がいよいよ迫ってきているためである。流石のタキオンも鷹木から急かされずして、自らの走りをレース条件へ向け最適化するプロセスに努めていた。
「タキオン、最初のコーナーに入り始めるまでのペースは、もう少し抑えていい。未勝利バ戦は逃げ・先行のウマ娘が多くなる傾向にある、タキオンの能力なら無理に前へと出て、わざわざ先行争いに巻き込まれる必要はない。」
「随分と私の追い込みに期待を掛けてくれているんだねぇ、いいだろう、理にかなった提案だ。」
実際のところアグネスタキオンが必要としているのは勝つためのアドバイスではなく、可能な限り消耗を抑えて勝つ手段であったろう。
ただでさえ故障の不安が他のウマ娘より大きいタキオンが、デビュー戦を勝利で飾った後に出走するのはホープフルステークスである。満足な休養がとれるとは言えない半月そこそこの調整期間を経て、すぐに本番の舞台へ挑まねばならない。
それを理解しているため、鷹木もタキオンも、世間がいよいよ近づくジャパンカップで話題持ち切りとなっている状況には構わず、最終調整に向けて神経を張りつめさせる日々が続いていた。
唐突にアグネスデジタルからの訪問を受けたのは、そんな日々の最中のことである。
「聞きましたよぉ、タキオンちゃん、デビューがもうじきって話じゃないですか!」
いつになく精神を尖らせ、鷹木も険しい表情で練習コース上を走っていくタキオンを注視し続けていたところであった。
が、そんな空間にもアグネスデジタルが笑顔と共に飛び込んでこれるのは、やはり世界の舞台に上がったウマ娘としての貫禄が為せる技である。
「デジタル……!せっかく来てくれたのは有難いんだが、タキオンは今大事な時期だから……」
「分かってますって、今のところは目立たないように居させてもらいますから。」
ちょうどタキオンはここから離れた向こう正面へ向かって走っていく最中であり、デジタルが練習場所を訪れたことに気づいていない。
アグネスタキオンが事あるごとに練習をサボりがちだったのは夏ごろまでのことであったが、今なおその気は残っており、デビュー戦が迫りつつある今ますます鷹木としては油断ならない。
アグネスデジタルは、そんな事情も理解した上でか、朗らかな声は変わらぬもののタキオンに届かぬように声量は抑えていた。
「にしても、すっかり完成しきってるんじゃないですか?タキオンちゃんの走り。」
国内のタイトルを総なめにしたのみならず、香港やドバイの舞台でも活躍を見せたデジタルのその発言は、事実そのものを称したに過ぎないだろう。
実際、鷹木もデビュー前の時点を比べれば、オペラオー担当時以上の手ごたえをタキオンには感じていた。
ウマ娘に対してネガティブな意見を口にすることのないアグネスデジタルは、同時にお世辞を口にすることもない。だが鷹木はデジタルへと頷いて見せる前に、トレーナーとしての反応を優先した。
「勘繰るようで悪いんだが……敵情視察、ってところか?」
「えぇとですねぇ、正直なところを言うと、その通りになっちゃうかも……いや、でもでも、タキオンさんのデビュー戦で予定している作戦を、外に漏らすような真似はしませんよ!」
デジタルが両手を横に振りながら大袈裟に否定してみせた点については、もちろん鷹木も疑ってはいない。アグネスデジタルがウマ娘レースへと注ぐ情熱がいかに真剣な物であるか、オペラオーを担当していた頃からずっと知らしめられ続けている。
敵情視察と鷹木が称したのは、タキオンと同期のジャングルポケットの練習を、アグネスデジタルが見続けているためであった。
「その、やっぱりポッケちゃんの同期の子がどれぐらい走れるのか、ってのはどうしても気になっちゃいまして。現時点でデビューしてる、トレセン学園1年目のウマ娘ちゃんたちの中では、ポッケちゃんはトップクラスの能力で間違いないんです。」
「じゃあ、タキオンがデビューしたら……?」
ハキハキと喋るのが常のアグネスデジタルは、珍しく口を噤んで返答を遅らせる。
彼女の視線の先には、早くも向こう正面を走り抜け、こちらへと戻ってくる4コーナーを回ってきたタキオンの走りがあった。
デジタルの表情は曇らぬままであったが、その目の内には本番舞台を幾度も経験してきたウマ娘だからこそ浮かべられる厳しい光があった。
「難しいですねぇ、ポッケちゃんがタキオンちゃんに勝つのは。もちろん、ポッケちゃんが一番の頑張り屋さんですし、能力も本物ではあるんですけど……なんというか、既に走り方も全部分かってる、って感じですかねぇ。」
「……確かに。タキオンは学園に入学する前からよほど良いコーチに教えてもらっていたのか、あるいは独学で自分の走りを極めたのか、と俺は考えていたんだが。」
「あの直線とコーナーとで走り方を変更しない独自の走法は、きっと独学でしょうね。本来は、我流で練習しても上達が遅れるか、全く上達できないかなんですけれど……。」
デジタルは一旦言葉を区切る。ちょうど、タキオンが練習コースのゴールラインを超える瞬間であり、鷹木が手元のストップウォッチを止めるタイミングであった。
鷹木が確認したストップウォッチの画面には、スタート直後の加速を緩めに変更したうえで、更に縮まったタイムが表示されていた。
「教える立場の人間としてはあまり使いたくない表現だが、今年入学した世代に走りの天才という表現を当てはめるとしたら、アグネスタキオンとマンハッタンカフェの両者を置いて他にないだろう。」
「特にタキオンちゃんは、頭の良さも備わってますからねぇ。まさに、超高性能なレーシングマシンに、ハイスペックな演算装置が搭載されてるようなものですよ。」
アグネスタキオンの強さは、世紀末覇王の異名を取ったテイエムオペラオーの強さとは全く別種であった。
なぜ、あんなにも勝てたのか、どうやって勝ち筋を見出したのか、鷹木にはまるで分からなかったオペラオー。対照的に、タキオンの強さは理屈に裏打ちされていた。
タキオン自身は現実味のない、突拍子もない説を好んでいたが、実際の走り自体は自らのスタミナ残量を常に計算しながら、コースの状態、競争相手との位置取りから最適なペース配分を導き出す、この上なく現実的な根拠に則っていた。
デビュー戦が近づいてくる中でも、勝てないのではないかという不安は薄かった。鷹木がそれでもタキオンについて油断できなかったことは、彼女の脚に掛かる負荷である。
「タキオンは、勝てと伝えられて送り出されれば、確実に勝ってくるだろう。俺の見立てでは先行に向いた脚質だが、追い込みで勝てと言われればその通りにして、勝つことも出来るだろう……だが、勝った後のことまではレース本番中、意識に上らないだろう。」
「よかった、私がお伝えしなくても、鷹木トレーナーさんは、ちゃんと分かっておいででしたね。だからこそ理事長から、タキオンさんの指導を任されたってことでしょうけど。」
デジタルの視線に含まれていた厳しさは、自らが応援しているジャングルポケットがタキオンに及ばぬことについてと同時に、アグネスタキオンの選手寿命が維持されがたいことについても向けられていたのだ。
相変わらず、アグネスタキオンの脚はほっそりとした華奢なシルエットのままだった。
細身とはいえ、マンハッタンカフェや、それこそアグネスデジタルよりは体格の大きいタキオンであれば、もっと筋肉をつけていなければ、レースのたび骨格や腱に掛かる負荷は無視できぬ大きさになる。
担当し始めた当初は鷹木もそれを思って、筋力トレーニングを重視した指導を行っていた。だが、その結果として走りの練習量が不足し、さらにタキオンが得意とする走り方を奪ってしまっては本末転倒であるとの結論に至ったのだ。
きっとデビュー戦ではタキオンが勝つだろう。しかし、彼女がその後も活躍を続けられるか否かは、勝敗と別の問題だ……。
「タキオンも普段はマッドサイエンティスト気取りで妙なことばかりやってるが、精神の根っこにはウマ娘本来として有する走りへの衝動がある、と俺は思ってる。本人は、そう簡単に認めないだろうけれど。」
「いや、そりゃあそうでしょう。自分以外のウマ娘ちゃんを応援してばかりのタキオンちゃんですけど、自身も走りたいという思いが無ければ、ここまで走りの練習には向き合わないですよ。」
「あぁ、だからこそ、本番で羽目を外したように脚を酷使して走り出したら……止めないといけない。まだ完全に理性のタガが外れたところは見たことが無いが、タキオンはその点、危ういだろうから。」
デジタルも黙ったまま、頷く。
少しでも興味を惹く対象が視野に入れば簡単に興奮状態に陥るタキオンは、さらに自分が深くかかわることが出来るとなれば、歯止めは利かなくなるだろう。
殊に、ウマ娘レースの歴史に刻まれるほどの存在を“特異点”と呼んで特別な執着を見せるタキオン、彼女自身がそれを創り出し得るとなれば……鷹木はタキオンに制止を掛けられる自身は無かった。
十分に、アグネスタキオンというウマ娘自身が、デビュー前から規格外の能力を有することは明らかだったのだ。
アグネスデジタルはちょっと背伸びをし、その小柄な身長から鷹木の持つストップウォッチを覗き込んでいる。
クールダウンのためにコース上を流して走っているタキオンへ、ぼんやりと視線を投げかけていた鷹木はデジタルの仕草に遅れて気づき、慌ててストップウォッチを差し出した。
「あ、済まない、気づかなくて……今回のタイムだ、デビュー戦に予定している条件と同じ、芝右回り2000mだ。」
「ひょぇぇ、2分0秒台に届かんとするレベルですか、デビュー前の時点でこれは破格ですよぉ。私なんかデビューしてから暫く、2000mを走り切るのもしんどかったんですけどねぇ。」
「実際のレースでは、他の競争相手との駆け引きや位置取りの調整があるから、もっと遅くはなるだろう。」
そして、それ以上速くする必要はない。
12月2日のデビュー戦を乗り越えれば、同月12月23日のホープフルステークスまでちょうど3週間しか空きが無い。本気を出して競うべき相手の居ないレースで、その華奢な脚を削る思いをしてまで走り抜くことはない……。
デビューの時期が冬にまで遅れたのは、ある意味好都合な側面もあった。ここまでデビューウマ娘が出揃えば、同世代の中での実力者たちも見えてくる。
先ほど鷹木の手にしたストップウォッチの数値を目にしたデジタルは、笑みを崩さぬまでも目を細め、難しそうな表情を浮かべていた。
「いやぁ、ギラギラなポッケちゃんを応援したい気持ちはもちろん山々なんですけど、こんな実力を見せつけられちゃうと、タキオンちゃんに軍配が上がっちゃいますねぇ。」
「俺としては、常に真面目に鍛錬を続けるジャングルポケットの方をよっぽど警戒してるんだけどな。」
タキオンの走りが完成されており、現役GⅠウマ娘と同レベルの能力であるということは、翻せばそれ以上の成長の余地を見出す事が難しいということでもある。
自分の脚が競技生命のなかで長持ちしないだろうことにもさして悲観的ではないタキオンは、自分の活躍だけを世間に端的に示す、短い活躍だけで満足するつもりであるのかもしれない。
これまでに担当してきたウマ娘たちのいずれとも似ていない彼女について、未だ指導法の答えが見えていない鷹木はなおも頭を抱えていたが、クールダウンを終えて戻ってきたタキオンは能天気な声を上げていた。
「おや!デジタルくんが来ていたとはねぇ!そうか、今日のジャパンカップの中継を共に観戦するために来てくれたんだねぇ!」
「それもありますけど、タキオンちゃんのデビュー前を応援しに来る思いの方が上ですよ!」
時刻は、ちょうど鷹木が計算した通り、ジャパンカップの発走時刻前にちょうど間に合うタイミングで、タキオンは休憩へと移れている。
単に勝利すること以外の問題を種々に抱えた鷹木、そして顔には出さぬまでも、それらの問題を意識できていないはずがないタキオン。
能力だけは十分に備えていながらも、曇天に覆われた彼女の先行きを気分上だけでも晴らすべく、本日のジャパンカップ観戦を鷹木は予定していたのだが……その日のレースは、まさに前代未聞の事態に見舞われることとなった。