今月末、すなわち一年の締めくくりを飾る有馬記念が近づき世間の話題をさらい、またアグネスタキオンのデビュー戦も小さな話題となっているのと同じ頃。
タップダンスシチーもまた、本番レースへの出走を続けていた。その日、中京レース場で行われたのは天竜川特別レース。先月行われた八瀬特別よりも更に長い、2500mを走り抜けるレースである。
彼女を担当している片桐トレーナーが、中長距離のレースを選んで出走させ続けていたことには、将来を見越しての思惑があった。
「タップ、あなたの逃げのペースはますます正確になってきています。走り慣れた距離ならば末脚も申しぶんない。あとは、距離が伸びた際にどこまでスタミナの余裕を残せるか、です。」
「Ahh,It's simple.わたしの限界に上乗せして行きゃあ済む話だ。アンタが教えたかったのは、そういうやり方だろ?」
普段よりも長い距離を走るレースともなれば、自分のペースやスタミナ残量を把握しきれていないウマ娘は、慎重にスタミナを温存しようとするあまりレース前半の速度を抑え過ぎてしまう場合がある。
全体のペースを見据えて動ける差しや追い込みのウマ娘と違い、逃げウマ娘は最終直線までにリードを取っていなければ差しきられる。逆に焦って先へ行こうとスタミナを使いすぎれば、最後の最後で失速してしまう。
この場合、周囲の状況に全く動じない胆力の持ち主たるタップダンスシチーであればこそ、徹底して正確な速度維持という作戦が通っていたのである。
「えぇ、全体の割合を計算しつつ走るというのは少々厄介ですが、増えた距離の分のスタミナを足し算するという話ならば、トレーニング目標も本番での走りも明確になるでしょう。」
「もっとデカい目標にも通じるからな!ジャパンカップは2400m、有馬記念は2500m、先月と今月のビッグタイトルにわざわざ距離まで合わせやがって、このわたしを煽ってるつもりか?トレーナー。」
タップダンスシチーの強い目力で顔を覗き込まれ、流石の片桐も半笑いで誤魔化すしかなかった。
11月の八瀬特別は2400m、そして12月に挑む天竜川特別は2500m。それぞれ、ジャパンカップと有馬記念の距離に、意図せず合致した偶然だと称すにはあまりにもピッタリと合いすぎていた。
距離に応じて速度を調整するのはかなり困難なものとなるが、自分が一定の速度を保って走り続けられる最適なペースを固定しておけば、距離が伸びても脚を抑え過ぎることなく、またスタミナを浪費しすぎる恐れも無い。
そこにあるのは、自分のスタミナ量が最後までもつかもたぬか、シンプルな一点のみの課題であった。
走るフォームと速度維持を徹底して練習させつつ、片桐トレーナーはタップのスタミナトレーニングに重点を置き続けてきた。
「不変の速度と、無尽蔵のスタミナ。競争相手が最も恐れる逃げウマ娘が備えている、大きな要素です。」
「入学してすぐポッケとやり合えたのはluckyだったな、そうじゃなきゃ今でも私は速く走ろうと焦りまくってただけだったかもしれない。」
速度を不安視する必要はほぼ無かった……その大柄な体格、豪快なストライドから繰り出される走りは、他のウマ娘には真似できぬほど僅かな時間で想定通りの速度域にまで到達するのだ。
焦る側ではなく、焦らせる側へ。もとより周囲を圧する存在感を放つタップダンスシチーには、その役回りの方がふさわしかった。
今のところ条件戦あるいはOP戦が主たる出走レースになるだろうといった見立てではあったが、条件さえ整えばタップダンスシチーはGⅠレースにも通用する能力を十分に発揮し得るだろう、と片桐は確信していた。
タップダンスシチーと片桐が京都へと発っていった後のトレセン学園では、当然ながらアグネスタキオンが鷹木へと天竜川特別レースの中継観戦を求めていた。
既に練習時間の合間を取って中継観戦の場を準備することには慣れていた鷹木。だがその日はいつもと状況が違っていた。
入学当初と比べれば劇的に分別の備わった彼女は、それでも自分の観戦仲間を引っぱりこんでいた……今回はマンハッタンカフェではなく、ジャングルポケットであったが。
「なんでオレなんだよ、いっつもだいたいマンハッタンカフェと一緒に居るだろ、タキオン。」
「むろん、カフェを連れてくるつもりではあったとも。しかしあまり結城トレーナーの担当ウマ娘を引っぱり出していると、こちらのトレーナーくんの心労が蓄積するようだからねぇ。」
タキオンから指さされた鷹木は、同時にジャングルポケットから忌々しそうな一瞥を投げかけられて萎縮していた。
マンハッタンカフェを担当している結城トレーナーよりも、ジャングルポケットの指導を担当しているキングヘイローやアグネスデジタルの方が、よほど傍に居て緊張しない相手であることは確かであったが。
「それに、いずれにしてもポッケくんの意見は聞きたいと思っていたのさ。入学以来、幾度もタップくんとは練習レースを続けていたじゃないか。」
「最近はやってねぇよ、お互いに出走しなきゃならないレースがあるわけだし。」
ジャングルポケットは気乗りのしない時の常に倣って素っ気ない返答ばかりであった。
が、それは同時に、彼女がタキオンの意図を警戒していることの表れでもあった……何しろ、今月末には有馬記念の後、ホープフルステークスの日程が待ち受けているのである。
ジャングルポケットは既に出走が決まっていたし、今月頭のデビュー戦を勝利で飾ったアグネスタキオンも、同じくホープフルに出走する。
「しかし随分と口数が少ないねぇ、ポッケくん。せっかくのレース観戦だ、例の賑やかな声で盛り上げておくれよ。」
「お前相手だから口数も少なくなるんだよ、俺が喋っちまったせいで、何を嗅ぎつけられるか知れねぇし。」
たしかにタキオンならば、ジャングルポケットがホープフルステークスでいかなる作戦を予定しているのか、レースを観戦する口ぶりから推測することも十分に可能であろう。
とはいえ、当のタキオン自身は、そこまで気に留めていないのではないかと思われた。
いつぞや、ジャングルポケットが札幌ステークスを走ったレースを観戦し終えた時、タキオンが言った「私なら勝てる」の言葉は、十分に彼女自身のデビュー戦で裏付けられていた。
ジャングルポケットの背を見つめ、この場に同席していたのは、キングヘイローである。
彼女もタキオンのことをそこまで疑っているわけではないが、しかし探りを入れられたジャングルポケットがつい作戦を漏らすような真似をしてしまわないか、少々不安な様子であった。鷹木は早々に頭を下げる。
「すまない、タキオンが無理に引っ張りこんでしまって……次のホープフルステークスについて言及しようものなら、俺がタキオンを止めるから。」
「いえいえ、お喋りをするぐらいなら、あの子達にとっても発散の場になるでしょう。それに、競争相手の存在をすぐ傍に置けば、ジャングルポケットさんにも良い刺激になるはずですし。」
キングヘイローからの穏便な対応を受けつつも、鷹木はいつも共に居るアグネスデジタルの姿が無いことが気に掛かっていた。
以前、練習中のジャングルポケットの姿にアグネスデジタルが一目惚れして以来、キングヘイローの指導を補佐するような形でデジタルもジャングルポケットの近くに居るのが通例となっていたのである。
「ところで、アグネスデジタルは……?」
「デジタルさんなら、トップロードさんと共に桂崎トレーナーのもとにおられます。有馬記念に出走するトップロードさんの応援と、来年復帰するご自身への激励も兼ねて、とのことでして。」
「……お、おぉ、ついにデジタル、長期休養から復帰するのか。」
鷹木の反応を聞いて、キングヘイローはしまったとばかりに口を閉じる。
図らずも、タキオンではなく自分が相手から情報を引き出すような真似をしてしまった鷹木。気まずい状況のなか、キングヘイローは周囲を見回し、画面近くの席でタキオンが間断なく喋り続けているのも確認し、鷹木へ補足する。
「あっ……あの……今のは内密にお願いしますね。デジタルさんの中ではそう決めているというだけで、まだ公にされている決断というわけではないので。」
「だな、分かってる。」
もちろん、鷹木も少々遅れてであったが、たった今話題に出た内容の重大さを理解して頷いた。アグネスデジタルほどのウマ娘が決定した事項となれば、国内どころか世界中のニュースのトピックとなり得るだろう。
いよいよレースが始まる直前となって、いつも通りにテンションが上がりまくっているアグネスタキオンの声がやかましかったのは幸いであった。
「ついに始まるよトレーナーくん!ポッケくん!キングヘイロー先輩!タップくんは2番人気だ、先月のレース結果は観客の印象にも残っているのだろうねぇ!」
「うるせぇ、黙って見ろ。」
「しかし10名の出走者で、10枠、一番外の枠になってしまったか、スタート後まもなく坂のあるこのコースで、少々厳しいかねぇ?」
ジャングルポケットが悪態をつくのにも構わず、タキオンは喋りまくっている。
タップダンスシチーのペース配分が、片桐トレーナーの指導もあって非常に正確なものとなりつつあったことは鷹木も十分に理解していた。
が、走り始めた直後に上りがあるのみならず外枠からスタートとなれば、加速して逃げの位置につくまでに相応のスタミナロスがあるのではないか。傍目からは、それが最大の危惧であった。
〈全ウマ娘、ゲートイン完了しました……スタートしました!好スタートを切ってまずハナを取ったのはトウキョウマンボ、一気に上がっていったトウキョウマンボが先頭であります、続く2番手にタニノサイレンス、ウチ側にキンショーテガラと続きまして、2番人気タップダンスシチーは4番手といった形でまず最初の直線、スタンド前を通過していきます。〉
レースは、スタート直後に早くも勝負の分かれ目を迎えていた。
タップダンスシチーよりも一つ内側の枠、9枠から出たトウキョウマンボが上り坂の登攀を承知の上で、一気に駆け上がっていったのだ。
釣られるように先頭争いに参加したウマ娘も居る中、逃げの位置につかない選択を早々に決めたタップダンスシチーは4番手、先行の位置となっていた。
「タップの奴……随分と器用な判断が出来るようになりやがった。」
「どうだろうねぇ、私には彼女が、周りに惑わされずいつも通りの走りを貫いているのみのように見えるねぇ。」
おそらくアグネスタキオンは理解しているのだろうが、スタート直後の状況を分析しきれるのはトレーナーとしての眼を持つ者だけであった。
その点、キングヘイローは状況分析も的確であり、鷹木と並んでタップダンスシチーの現状の能力が最大限の効果を発揮したことを確認し合っていた。
「タップさんの加速を、全力で先頭を取りに行ったためのものと取り違えた競争相手が、慌てて前に出た形となりましたね。」
「あぁ、タップダンスシチーは速やかに想定通りの速度に達しただけなんだが……おかげで、スタート直後の上り坂で想定以上の脚を使わされてしまった面々が先頭争いをしているな。」
片桐トレーナーの指導による走りの精密さと、タップダンスシチー生来の豪快な走りが融合した結果、ごく自然にレース展開はタップの有利となるように誘導されていた。
そも、タップダンスシチーはウマ娘の中でもかなり大柄な体格である。至近距離で見れば威圧感すら覚えるその図体が、スタート直後に急加速すれば、慣れないウマ娘は瞬く間に置いていかれるかのごとき錯覚を抱くだろう。
実際のところ、スタートして1秒以内のごく短い時間、タップダンスシチーが先頭を走っていた。彼女に逃げの位置を取らせてはまずい、と周囲の面々が慌てて加速した様は明らかだった。
〈最初の直線を抜けて1コーナーへ、先頭は変わらずトウキョウマンボ、続くタニノサイレンス、そしてキンショーテガラといった形、おおよそ全体の順は固まったか。4番手タップダンスシチーを追ってボヘミアンチェリーがウチを突き、1番人気レッツファイトがそのすぐ外に並んでいます。そのあとガーネットシチー7番手、ハイファッションと続きまして、テイエムチョウテン、最後方にナイキギャラントであります。〉
長い直線を通ってのコーナーであったため、外枠による不利はほぼ無い。
先頭争いにも、また中団以降の位置取り調整にも、タップダンスシチーは巻き込まれていない。先ほどのスタート直後における駆け引きを制した今、彼女が勝利する条件は大半が揃っていると見て良かった。
アグネスタキオンは、スタート直前までの熱気をむしろ冷ましたかのごとく、身を背もたれに預けた姿勢で中継画面を眺めていた。
「安心して見ていられるねぇ、タップくんのレース運びは。着実に必然を積み重ねていくじゃないか。」
「油断はできないだろ、あのボヘミアンチェリーって奴は、タップの後ろにピッタリつけてやがる。」
たしかにジャングルポケットが指摘した通り、レース前からタップダンスシチーへの警戒を高めていたのだろうウマ娘はすぐ背後にてマークし続けている。
が、その作戦こそが、本来のレースで見られるべき走りであった。逆に言えば、他の面々は、既にタップダンスシチーと互角に競う舞台に居ないと評して同然であった。
〈向こう正面に入ります……先頭はトウキョウマンボ、しかし2番手タニノサイレンス少し後ろに下がって来たか、3番手のキンショーテガラも順位を4番手、5番手へと下げている。ここで上がってきたタップダンスシチー、そこにボヘミアンチェリーもついていく!まだ残り1000m近くはあるぞ、かなり早いタイミングで仕掛けたのでしょうか!〉
確かに画面上は、タップダンスシチーが一気に2番手にまで躍り出たように見える。が、鷹木は中継画面を見つめながら、首を横に振った。
「いや、あれは周りの連中が速度を緩めたんだ。タップはずっと、予定通りのペースのまんまだ、あのまま勝てるんじゃねーか!?」
「そうね、おそらく、今のままのペースを続けていてはゴール前の上りでスタミナが枯渇すると判断したのでしょう。」
キングヘイローも、同じ見立てであった。先頭を逃げ続けるウマ娘は1番手をキープしているが、おそらくスタート直後の無理な加速でもうスタミナ限界が近いだろう。
タップダンスシチーはそのまま先頭のウマ娘の背後について最終コーナーを回り切り、直線を向くと同時にスパートをかけた。
もはや他のウマ娘たちはズルズルと後ろへ下がっていくばかりであったが、唯一、タップダンスシチーのペースに合わせて追い続けていたボヘミアンチェリーだけがついてきていた。
〈さぁ最後の直線!タップダンスシチー、一気に先頭へと躍り出た!続く2番手、ボヘミアンチェリーが追う!残り200を切った!タップダンスシチー先頭!続くボヘミアンチェリー!3番手との差は圧倒的だ、5バ身ほど開いている、しかしタップダンスシチーは更に差を開いていく!強い強い!これは圧勝だ!タップダンスシチー、一着でゴールイン!勝ちましたタップダンスシチー!デビュー以来の勝利を飾りました!〉
タップダンスシチーは二着のボヘミアンチェリーに対して1バ身以上の差をつけ、そこから更に5バ身の差が開いてようやく三着のウマ娘がゴールしてくる。
結果としては、タップダンスシチーが片桐トレーナーと続けてきたトレーニングの成果が最良の形で実を結んだレースとなった。
……が、アグネスタキオンは、ジャングルポケットをも引っ張り込むほどの観戦前の熱量が、既になぜか冷めてしまっていたのかそそくさと立ち上がって練習場所へと戻っていく。
鷹木も立ち上がりつつ、しかしタキオンが招いた面々を放っておけず中腰の姿勢のままに呼びかける。
「おい、タキオン?」
「どうやら、タップくんは特異点ではないようだ。いや、むろん、確かに強いウマ娘だがね、彼女が勝つのは必然の条件が揃った時だ……。」
またしても独自の理論を呟きながら、アグネスタキオンは自ら練習場へと向かう。
かつてのサボり癖を思えばトレーナーとしては喜ばしい変化であったが、それはさておきタキオンによって観戦に招かれるだけ招かれて放っておかれているジャングルポケットとキングヘイローには頭を下げねばならなかった。
「すまない、またタキオンの気まぐれが発動したみたいで……。」
「いちいち頭下げんな、今さらだ。」
「えぇ、それにこちらとしても、タキオンさんの観察眼の鋭さを実感させていただく良い機会でしたし。では、鷹木トレーナー。次はホープフルステークスの場にてお会いしましょう。」
キングヘイローも立ち上がり、ジャングルポケットを連れてこの場を去っていく。去り際、ジャングルポケットがタキオンの背に投げかけた視線には、強い闘志の光が宿っていた。
彼女らがジャングルポケットの出走レースに、フューチュリティステークスではなくホープフルステークスを選んだ理由は、早々にタキオンと決着をつけたいためではないかとも思われた。12月初頭にデビューするタキオンが直近で出られるのは、ホープフルステークスの他にない。
が、そのジャングルポケットが出走しなかったフューチュリティステークスにて、一つの悲劇が起きることとなる。