GⅠレースが行われるような全国各地のレース場周辺には、トレセン学園がレース出走ウマ娘たちのために現地でのトレーニング施設を用意している。
阪神レース場の周囲は市街地ゆえにそうそう広大な敷地を確保できるものでもないのだが、都心に巨大な敷地面積を占有しているトレセン学園にとっては多少のトレーニング施設を用意する程度、造作もないものである。
とはいえ、流石にウマ娘レース場と同等の広さではなかったが。今、アグネスタキオンは人間用の陸上競技トラックを器用に走り抜けていた。
ちょうど5週したところで脚を緩め、さらに1週流してクールダウンさせつつ鷹木のもとに戻ってくる。
「タイムはどうだったかねぇ、まるきり本番とは異なる条件だが。」
「さすがにウマ娘レース場とは条件が違いすぎる、全力で走れたわけではないからタイムはさほど縮んではいない。だが、狙ったレーンから外れることなく走れていた点で充分だ。」
人間用の競技場は、ウマ娘の身体能力ではあまりに狭すぎる空間であり、ほとんどのトレーナーは担当ウマ娘のウォーミングアップのために用いる程度である。
が、レーンごとに白線が引かれて区切られているコースは、正確なコース取りを意識して走る練習に相応しいだろうと鷹木は判断し、タキオンを走らせていた。
殊に、直線とコーナー、それぞれの走りを切り替えることなく同じ走り方で抜けようとするタキオン。遠心力でコーナー外側に振られれば、そのままにロスとなってしまう。
今の走りにおいて、タキオンは綺麗に白線のラインからはみ出すことなく、スピードも落とすことなくコーナーを抜けていた。この練習の意図を十分に把握しているタキオンだからこそ、的確な技術の確認となっていた。
「明日のホープフルステークスでも、ジャングルポケットのコーナー攻略技術は他のウマ娘よりも飛び抜けている。最終直線に入る前に集団に囲まれていても、器用に抜けてくるだろう。」
「分かっているさ、かねてからの作戦通り、だねぇ。」
そこから先を、タキオンは口にしなかったが、トレセン学園に居る間に鷹木と幾度も繰り返した練習内容は、今さら声に出すまでもない。
キングヘイローの指導を受けてかなり向上したとはいえ、ジャングルポケットはコーナーでの速度が抑え目であることに変わりはなかった。彼女が直線に向いた後、一気に加速して突っ切っていくのを最大の武器としていることは疑う余地もない。
鷹木は、タキオンには最終コーナーを回り切る前、早めに仕掛けるよう伝えていた。先行の位置、ジャングルポケットが加速し始める前に十分なリードを得ておくことが、鷹木が見立てた勝利の条件である。
むろん、ジャングルポケットが想定を超えるスピードでコーナーを攻略して来れば話は変わってくるが……それ以上は、もはや明日、実際にレースが始まってみないことには分からない。
少なくとも今、他の出走ウマ娘とも鉢合わせる可能性のあるこの場所で、明日の作戦についてペラペラと喋らないことが最低限の備えであることに違いはなかった。
「それよりも、だ!いよいよだねぇ!有馬記念!」
「自分の出るレースが明日に迫っているというのに、もう有馬記念のことばかり考えてるのか。余裕があるのは良いことだが、気を抜きすぎるんじゃないぞ。」
「マジで頼むぜ、タキオン。明日、お前に勝ったは良いが、本調子じゃなかっただなんて言わねーでくれよ?」
練習施設の休憩スペースへと向かう廊下、会話している鷹木とタキオンの背後からジャングルポケットの声が投げかけられる。
阪神レース場の最寄りのトレーニング設備が限られている以上、彼女と遭遇することも十分に想定の内である。タキオンも鷹木に並んで振り向き、ジャングルポケットと付き添っているキングヘイローにも挨拶した。
「やぁ、ポッケくん!それにキングヘイロートレーナー!キミたちも有馬記念の観戦に来たというわけだねぇ、ここの設備に置かれている中継画面が十分な画質を備えていることを共に願おう!」
「相も変わらずタキオンさんは余裕綽々、といったところですわね。ご自身が明日、ジャングルポケットさんと競うホープフルステークスについて、まるで心配している様子が無いというのは。」
「その、まぁ、いつも通りの調子、というか……。」
余裕たっぷりなタキオンの言動を挑発的なものとして受け取っているのだろう、ぎらついた光を宿して直視してくるジャングルポケットの視線が刺さるのを、鷹木は感じながら言葉を濁した。
さきほどタキオンの述べた懸念は杞憂に終わり、このトレーニング施設の休憩スペースには最新型のモニターが備え付けられていた。ここでウマ娘レースを観戦することは、普段から想定されているのだろう。
中継番組にチャンネルを合わせたとたん、飛び込んできた実況席の様子も高精細な画質で拝むことが出来た……ちょうど、メイショウドトウが実況席のテーブルに水のボトルを倒したところであった。
〈すっ、すみません、すみませぇん……!フタを閉めたつもりだったんですけどぉ……。〉
〈あぁぁ、気になさらないで、こちらで片づけますので。メイショウドトウさんはスペシャルウィークさんとのトークをお続けください。〉
〈はい!場はお繋ぎしますので!そ、そういえば、こないだオペラオーくんから聞いたんですけれど、ドトウちゃんは最近ネコちゃんを飼い始めたんだとか……。〉
有馬記念、広大な中山レース場に詰めかけた数万人もの観衆の前で、机の上に水をこぼした様の実況や、解説の常連となっているスペシャルウィークが思いついた咄嗟の場繋ぎとしてあまりにも他愛無い近況の話が始まっている。
流石にメイショウドトウがゲストで迎えられた時にしか拝めない光景であり、観客たちもレース発走時刻が着々と近づいてくる緊張感を多少和らげながら笑い合っていた。
彼女が紹介されるくだりは見逃した面々ではあったが、メイショウドトウが今回の実況席に呼ばれる特別ゲストに選ばれたことはすぐに理解した。
「ふたたびかの特異点、テイエムオペラオーの姿を拝めるかと思ったのだけれどねぇ。最近、大きなレースの実況席には呼ばれないのかねぇ。」
「引退後、どんなことを続けるかはウマ娘の意思次第だからな。ドトウは頼まれれば断りきれないのだろうし……オペラオーは、ずっと劇作にこだわっていたから、もしかするとその道に向かおうとしているのかもしれない。」
実際のところ、鷹木もまた、この一大レースの実況席に、オペラオーの姿を見ることが出来ないかと期待していた部分もあった。
昨年の初冬、引退を余儀なくされた骨折の治療のため入院しているテイエムオペラオーを見舞いに行き、それきり直接会う機会も無いままであった……あれからもう一年以上になる。
オペラオーの側も、鷹木が新たな担当ウマ娘の指導に忙しくしているだろう、と察して邪魔しに来ないよう意識しているのだろう。
……あるいは、オペラオー自身が鷹木に与えた、担当ウマ娘GⅠ連勝の軌跡があまりに重すぎる呪縛となりかねないことを、しっかり自覚しているのかもしれない。
自分の存在に縛られることなく、今後も長くトレーナー業を鷹木には続けてもらいたい……テイエムオペラオーならば、そこまで考えていたとしても不自然ではない。
画面内では、あくまで単なる繋ぎとしてスペシャルウィークが持ち出した話題に、ドトウなりに真剣に答えている言葉が続いていた。
〈はいぃ、正しくは、お外で暮らしていたネコさんが、ふらりとやって来られただけなんですけどぉ……なんとなく一緒に暮らすようになったので、私もお世話してあげてますぅ。〉
〈メイショウドトウさんの飼っておられるネコちゃんのお写真は、公式ウマッターでも時おり上がっていますね!えーと、では、今回の有馬記念についてのお話もうかがっていきましょうか!〉
実況アナウンサーがどうにかスタッフの手を借りつつテーブルの上を拭き終わり、トークの軌道修正を行っている。
メイショウドトウがこの場に呼ばれた理由は、言うまでもなく昨年の有馬記念覇者であるためであろう。
世間の評としてはテイエムオペラオーが引退したおかげだの何だのと言われていたが、さすがにスペシャルウィークや、ウマ娘レースを長きにわたって見続けてきたベテラン実況アナウンサーはドトウの能力を純粋に評価していた。
〈去年は見事な末脚で、先行策での逃げ切りによって勝利を飾っていましたね、ドトウちゃん!あの時はあわや、アドマイヤベガさんに差される間際という熱すぎる展開でした!〉
〈えぇ、メイショウドトウさんが引退された後も、アドマイヤベガさんは活躍を続け、今年の春の天皇賞での栄冠をつかんでおられます。メイショウドトウさんは、今回の有馬記念、どうご覧になるでしょうか。〉
〈はいぃ、やっぱりアヤベさんは強いですぅ。それに、トップロードちゃんも……トゥザヴィクトリーさんも、アヤベさんの後ろまで来てましたから、今年もきっと順位はかなり上のほうですぅ。〉
当然ながら、メイショウドトウは自分と競い合った面々の能力を高く評価している。
アナウンサーとスペシャルウィークは深く頷きながら聞いていたが、一般の観客たちから上がる歓声は最大級というわけにいかなかった。世間一般の声、人気順を反映した1位は、もはや新たな世代のウマ娘に与えられているのだ。
むろん、アナウンサーは会場の大部分が求めている話題をもきっちりと持ち出した。
〈たった今仰った面々も根強いファンの多いウマ娘ですが、今回の有馬記念、1番人気の座はゼンノロブロイが獲得しています。トレセン学園2年目、クラシック級の年でありながら、天皇賞秋、そしてジャパンカップにて連勝し、この有馬記念での走りにも大きな期待が懸けられています。〉
〈クラシック級での有馬記念制覇ともなれば、グラスちゃん……グラスワンダー以来の快挙です!しかも、それが秋シニアGⅠ三冠となれば、前代未聞ですよ!〉
ついスペシャルウィークが呼び慣れた名を出してしまったが、ここでゼンノロブロイが有馬を勝てば、4年前にグラスワンダーが勝利して以来、クラシック級ウマ娘の有馬制覇である。
当然のことながら、秋シニア三冠をクラシック級ウマ娘が獲るなど、これまでにない偉業となる。年間無敗を達成したテイエムオペラオーも秋シニア三冠は獲っているが、それは自身もシニア級ウマ娘となっての年の話である。
待ち望んでいたウマ娘の名が出され、大いに沸きかえる観客席。メイショウドトウも何か話題に参加しなければと考えたのか、彼女なりにゼンノロブロイについて知っていることを述べた。
〈私ぃ、去年、入学したばかりのゼンノロブロイさんをお見かけしたことがありますぅ。校庭のベンチでずっと本を読んでおられましたぁ。すぐ隣にカラスさんが飛んできて止まっても、気づいてませんでしたぁ。すごい集中力ですぅ。〉
〈な、なるほど……。その集中力がレースでも活かされて、これほどの戦績を達成しているのかもしれませんね!〉
〈えぇ、普段のごく物静かそうな印象から、レース時には猛然と前を目指す気迫ある走りが繰り出されるギャップも人気となっております、ゼンノロブロイ。続きましての2番人気はネオユニヴァース、こちらも今年度の三冠達成ウマ娘、新たな世代が頭角を現すといった印象の強い、今回の有馬記念であります。〉
スペシャルウィークがどうにかドトウの持ち出して来たエピソードを拾い、実況アナウンサーが出走ウマ娘についての紹介に繋ぐ間も、ドトウのマイペースなトークに癒されたのか観客席では笑いが散発していた。
いよいよゲートインのためにコース上にウマ娘が出てきた時、ここまで黙って画面を眺めていたアグネスタキオンが傍らの鷹木へボソッと告げた。
「新たな時代の扉は、この有馬にて早くも開かれるのかもしれないねぇ。」
「……え?」
相も変わらず、即座にはタキオンの意図するところを掴み切れず、気の抜けた返答しか出来ていない鷹木。
彼の凡庸な思考力が数秒のうちに必死で解釈し、おそらくタキオンはゼンノロブロイあるいはネオユニヴァースが勝利すると確信しているのだろうと鷹木は判断した。
そこまで考えついた上で、担当トレーナーとしてウマ娘にかけるべき言葉は、やはり平凡そのものであった。
「あぁ、新しい世代が先輩たちを追い越していくのは当然のことだ。タキオンも、来年からはさらに新たな世代の一員として活躍するんだ。」
「……そう願いたいねぇ。」
タキオンの表情は変わらず、視線は鷹木の方を向かず中継番組の画面を見つめるばかりであった。
彼女が他のウマ娘の能力に打ちのめされるような性格ではなく、むしろ自分以外のウマ娘の活躍を喜ぶ性質であることは、鷹木にも分かり切っている。現に、この有馬記念の観戦も、自分が出走する明日のホープフルステークスを差し置いて心待ちにし続けるほどだ。
そうであればこそ、タキオンの眼の色が晴れきっていないことの説明はつかなかった。