ホープフルステークス、その出走前に、タキオンは鷹木トレーナーから、脚の精密検査結果、および次の本番レースへの影響を鑑みた上で「本気で走っても構わない」と告げられる。それはタキオンが独りきりで走っていた時には決して得られなかった、客観的な立場からの全力疾走許可であった。
当然ながら、翌朝からニュースに上がる話題は有馬記念一色に染まっていた。
ゼンノロブロイ、勝利。その短い文言が示す内容は、あまりにも大きく輝かしい。
6年前、バブルガムフェローが達成して以来の、クラシック級ウマ娘による天皇賞秋制覇。4年前、エルコンドルパサーが達成して以来の、クラシック級ウマ娘によるジャパンカップ制覇。4年前、グラスワンダーが達成して以来の、クラシック級ウマ娘による有馬記念制覇。
そして、2年前テイエムオペラオーが達成した秋シニア級三冠を、クラシック級ウマ娘が達成するという事態は、当然ながら前代未聞の大偉業であった。
「どこを見ても、ゼンノロブロイの名前が出てこないことがないな……そりゃ当然か。」
むろん鷹木も、あのおとなしそうな、常に縁の厚いメガネをかけて静かに読書を続けている、どちらかと言えば目立たないウマ娘が、これほどの栄冠を手にしたことには賞賛の念を抱かずにいられない。
と同時に、本日行われるホープフルステークスについて、ほとんど話題が上がっていない現状に何ら思うところが無い、というわけにはいかなかったが。
「仕方がないことではあるんだろうけどな、知名度だけで比べれば、有馬の出走ウマ娘の方がはるかに上なんだし。」
トレセン学園の中で、世間に名を知られていないウマ娘と担当トレーナーがどれだけ居て、どれほど心血を注いで努力を続けているか、世間一般にほぼ伝わる機会が無いのも致し方のないことだろう。
すべては結果で示される……鷹木は宿泊していた旅館の部屋を出て、レース出走直前のウマ娘が最終調整を行うため、宿泊場所に併設された練習施設へと向かった。
阪神レース場、芝2000m内回りコース。
これまでの練習でタキオンには繰り返し伝えてきた通り、直線で一気に爆発的な加速を発揮するだろうジャングルポケットに対抗するため、最終コーナーを回り切る前に先んじてリードを取っておく作戦である。
しかし、その作戦の成否は相当にウマ娘自身の判断力に委ねられていた。アグネスタキオンはどちらかというと差しの位置から、前を行く競争相手の状態をじっくりと見極めて動くのが得意であった。
最終直線に向く前に、ジャングルポケットに対しリードしておくためには、コーナー出口で集団がばらけるより前にブロックされないよう抜け出す必要がある、ということだ。
当たり前のことだが、いかにデータ収集や分析を重ねても、レース本番に競争相手がどのようなコース取りとなるのか事前に予測することはできない。
「タキオンの頭脳、判断力をもってすれば、臨機黄変に対戦相手の位置を把握しつつ、抜け出すルートを自力で見出せるだろう……ここは信じるしかないな、トレーナーの立場として。」
その点において、ウマ娘の中でも賢さが飛び抜けていることに関しては充分に信頼できるタキオンを疑う余地はなかった。
ただ、鷹木には別な心配事もあった。それは本番前の調整を終えたタキオンから問いかけられた際にも、決断しきれていない部分に残されていた。
「さて、昨日も尋ねたと思うがトレーナーくん、私は本気で走って構わないのだね?」
「……あぁ、もちろんだ、ジャングルポケットにとっても、初めて同年代のライバルと競うレースなんだ。間違いなく、向こうも本気で来る。」
アグネスタキオンの脚が普通よりもずっと故障の不安を大きく抱えているため、デビュー戦では最終直線でスピードを控えるように伝えていた鷹木。
しかし、それと同じ指示を、GⅠレースであるホープフルステークスで伝えることは出来なかった。むろん、全力を発揮しなかった結果、勝てなかった場合に残る悔いの大きさもある。
ウマ娘にとっては一生に一度の大舞台、そこで走ること自体がレースの道を志した者の目標となるレースで、力をセーブすることなど指示できるはずもなかった。
そのように自らへ言い聞かせている鷹木の胸中を見越してか、タキオンは小さく笑みながら返答した。
「分かったとも。私とて、レースの時刻が近づくほどに昂りが抑えきれないようだからねぇ。しかし、伝えておくべきことが一点ある。」
「……なんだ?」
「少なくとも私は来年、クラシック級の中央GⅠレースは獲っておきたい。むろん他のレースにも価値はあるが、しかし三冠に数えられる舞台は別格だからねぇ。最低限そこに到達する前に、脚の限界を受け容れる気はないよ。」
タキオンが述べたことは、ウマ娘が志す内容としては至極当然ではあった。今日のホープフルステークスもGⅠタイトルとしては大きなレースだが、クラシック三冠を構成するレースのほうがより強く、深くURAの歴史に勝者の名が刻まれるだろう。
だが、自らの引退が他の同期のウマ娘よりも早まる可能性について、強く予感した彼女が言うからこそ、こめられている意味は重かった。
それはタキオンなりの我儘でもあった……GⅠレースに向かうウマ娘へ、脚の故障を防ぐためにとはいえ、レースでは全力を出すななどとトレーナーが指示できるはずもない……そこまで彼女は理解していただろう。
ゆえにこそ、タキオン自らが判断して、必要がなければ全速力に到達する前に走りを緩めるという選択肢を予め告げていたのだ。
鷹木は首を横に振らなかった。もちろん、アグネスタキオンが選手生命を縮めるほどの負荷を徒に脚に掛けることは避けられるべきであったし、タキオンが全力を出さずとも勝つ可能性は十分にあったためだ。
しかし、ジャングルポケットが想定以上の成長を遂げていたら、そうはいかない……だからこそ、鷹木は確信をもって最終的な指示を下す事が出来なかった。
〈天候は晴れ、絶好のレース日和となりました、午後の阪神レース場。世間は昨日の有馬記念の興奮も冷めやらぬといった状況でありますが、本日はホープフルステークス!今年デビューしたウマ娘たち、すなわち来年クラシック級へと上がるウマ娘たちからも目が離せません!札幌ステークスでの堂々たる勝利、ジャングルポケット、そしてデビュー戦における余裕は本物か、アグネスタキオン、さらには1番人気、エリカ賞では3バ身もの着差を見せつけての勝ちとなりましたクロフネ。続々とゲートインが進んでおります。〉
パドックに姿を現した時は、なかば眠そうな表情まで浮かべていたアグネスタキオン。
鷹木は彼女が完全な仕上がりであることを知っていたが、観客席からの歓声はやる気十分といった振る舞いのジャングルポケットが現れた時の方が大きかった。
「タキオン……観客席の盛り上がりを観察するにしても、実際のレース中の熱狂でなければ意味がない、とでも考えているんだろうな……。」
辛うじて部分的にではあるが最近理解できるようになったタキオンの思考を想定しつつ、鷹木は長い袖をフラフラと揺らしながらゲートへ入っていくタキオンの姿を見つめていた。
彼女のレース前の振る舞いが、人気度に影響を与える心配はしていなかった……レースにおける純粋な戦績こそが、ウマ娘を十全に語らしめることはこれまで散々に理解してきたためだ。
〈全12名、ゲートイン完了……スタートしました、揃ってのスタートとなりました、これから1コーナーへと向かいます。まずブラックタイガー、出を窺います、それからスターリーロマンス、まだ各バ、ポジションが定まらない様子です。どうやらスターリーロマンスが先手をとる模様、マイネルエスケープ2番手、続きましてジャングルポケットはコースウチ側の3番手といったところであります。〉
最も警戒すべき競争相手、ジャングルポケットは先行の位置についていた。
追い込みを得意とするジャングルポケットであったが、キングヘイローやアグネスデジタルからの指導を受けて、今回は前につく作戦としたのだろう。
最終直線で加速する前に引き離す、という鷹木がタキオンに与えた作戦は、ますます失敗できぬものとなった。
「そりゃ、自分の弱点を克服するために練習はしてきてるよな……ジャングルポケットが前方寄りにつけてるってことは、事前にリードを取るためにタキオンは更に早めに上がっていかなきゃならない。」
タキオンは、中団のやや後ろに位置していた。2枠というコース内側からのスタートとなったおかげで、外を他のウマ娘に囲まれながらもほぼロスする要素なくコース序盤を走れている。
全力を出す条件は既に整っていた。あとは、コース内側に押し込まれた状態から、タキオンがいかにして抜け出すかであった。
〈クロフネは5番手に上がっていきました、トーアコマンダーはその外、その後にブラックタイガーは中団、アグネスタキオンが並んで7番手あたりであります。ウチからはコウセイロマン、あとはダブルフェース、エービーウィザード、最後方にユーセイプライムといった形で、2コーナーを抜けていきます。先頭はスターリーロマンス、リードは1バ身半ほどとなっています。〉
アグネスタキオンは自分の走りを最大限に発揮する条件を、しっかりと保っていた。速度も変動無く、安定感と共に維持され続けている。
人気度上位のジャングルポケット、そしてクロフネも落ち着いた走りを続けていた。それだけに、他のウマ娘たちの走りには動揺が相対的に目立つようでもあった。
「プログレスパレスとトーアコマンダーが上がっていったか……まだ仕掛けたって勢いではないが、あちらも人気上位の追い込みを意識してのことだろうな。」
末脚が印象に残るアグネスタキオンやジャングルポケットのみならず、クロフネもまたゴール前の直線で競り勝つ強みのあるウマ娘である。
それだけ、事前にリードを確保しておこうとする作戦は多くの出走ウマ娘が選ぶ勝ち方であった。多少の付け焼き刃で、ジャングルポケットらに勝てるとは到底思えなかったが。
「……レース中に位置取りを調整しているぶん、スタミナは浪費しているだろう。」
既に鷹木は、ジャングルポケット以外の競走ウマ娘に警戒の念を向けてはいなかった。
意識の外に置いた面々の中から飛び出して来たウマ娘に勝たれたとしたら、むしろ諦めもつく。そのようなことがまず起きないほどに、レースの水準は高いのだ。
〈マイネルエスケープ2番手、そして3番手4番手にトーアコマンダーが外、プログレスパレスがウチ側に並んでいます。その後5番手追走の形でジャングルポケット、クロフネが横並びとなっています。その後ろにアグネスタキオンとなっています。中団から少し離されているでしょうか、アグネスタキオンの前には3バ身ほど開いています。残り1000mを切りました。〉
実況が告げた通り、アグネスタキオンとジャングルポケットの間には大きく隙間が開いていた。バ群は、まるでジャングルポケットより前半と、タキオンより後半の組で分かれたような形となっている。
これこそまさに、トレーナーが事前に作戦として告げようがなく、走っているウマ娘自身の判断で為せる勝ち方であった。
「だよな、タキオンをマークしてる連中は、ピッタリと後ろにつけるんだからな……つまり、タキオンの前を走ることを決めたウマ娘から引き離されれば、それだけ前へと抜け出す隙間は増えるってわけか。」
鷹木は独り言とともに納得しつつも、本番のレース中の判断で勝つためのルートを確保するタキオンの頭脳に、感服せずにはいられなかった。
自分をマークしているウマ娘を把握し、自分に先行しようとするウマ娘を把握した後、スタミナを確保するついでに多少走りを緩める。
引き離され過ぎて、追いつけなくなる心配はなかった。ゴールラインを超えるまでに追いつける圏内であることは、常にタキオンの脳内で計算され続けていただろう。
〈スターリーロマンス1番手、リードは1バ身、変わりません。マイネルエスケープ2番手、3番手には外にトーアコマンダー、ウチにプログレスパレス、ここも安定した形のままであります。さぁじわっとクロフネ動いていきました、800を通過、ジャングルポケットは前から6番手……その後ろ、アグネスタキオンがクロフネを見るように前へと上がってきました、アグネスタキオンが上がってきました。〉
3コーナーに入り、クロフネと同時にアグネスタキオンが動いた。
ジャングルポケットは既に先行の位置についているためか、コーナーで焦って動こうとはしていない。
「やっぱり、最大限の強みである直線での加速を活かすつもりだな。しっかりリードをとっておけ、タキオン。おそらくクロフネも同じ考えだ。」
独りでブツブツとつぶやいている鷹木の声がコース上に届くはずもなかったが、タキオンは鷹木の考えている程度の内容などすっかり理解しきっている、とばかりにさらに前へ出ていった。
先ほど中団に開けた隙間のおかげで、タキオンの前をブロックする競争相手はいない。クロフネのすぐ外側のコースへ出たタキオンは、ますます加速しながら最終コーナーを回っていく。
その身軽さ、直線と変わらぬ脚の運び。
一時は脚に負担がかかるからと矯正させかけた走りであったが、今はタキオンのこの走り方であればこそ、直線同様のスピードで前方のウマ娘を追い抜くことが出来ているのだ、と理解できた。
〈残り600を切りました、スターリーロマンス先頭、2番手にマイネルエスケープ、クロフネも動いて行った、その外にアグネスタキオン!ジャングルポケットもすぐ後ろ、直線に向けて前へと上がる備えをしているか!今度は、クロフネ先頭か、一番外側に、アグネスタキオン!ジャングルポケットはすぐ後ろだ!間もなく直線に向きます!〉
「リードが短すぎる……!」
鷹木は思わずそう呟いた。上がってきたタキオンに反応してか、クロフネもまたタキオンのすぐ内側に並び続けて加速していた。
そのためか想定より大回りで最終コーナーを回ることとなったタキオンは、無理な加速を避けたためかジャングルポケットに対してリードを広げられていない。
最後の直線に向いた時、実況が告げた通り、ジャングルポケットはタキオンのすぐ後ろに居た……あそこからであれば、ジャングルポケット最大の武器である直線の加速が入る。
タキオンは全力で走るしかない、ジャングルポケットにほぼ並ばれて、それで勝てるかどうか。
そればかり考えていた鷹木は、そこから先、コース上で起きたことに現実味を見出すまで、かなりの時間がかかった。
〈クロフネ先頭か……外からアグネスタキオン!アグネスタキオンが先頭だ!物凄い加速だ!あと2番手クロフネですが、ジャングルポケット追い込んでくる!さぁクロフネを交わす勢い!ジャングルポケットが2番手に上がった!だがアグネスタキオンには届かない!アグネスタキオン、完全に独走状態だ!強い!強い!アグネスタキオン先頭!圧勝です!アグネスタキオン一着でゴールイン!〉
アグネスタキオンがゴールした瞬間、ジャングルポケットは2バ身以上引き離されていた。
タキオンが本気に近い走りを見せた場面は、鷹木もトレーニング指導中に幾度か目の当たりにしていた。ネオユニヴァースを相手取った併走練習でも、同様の速度で最終直線を駆けていた。
だが、今のレース、目の前を最大速力で突っ切っていったタキオンの走りは、完全に別格であった。
ただ、これまでに出していなかった本気を見せたというだけでは説明のつかない、まさにタガの外れたような能力の解放であった。
同時にこみあげてくる心配、タキオンの脚が今の加速に耐えられたのかという点も相俟って、鷹木は顔色を蒼ざめさせ、動悸を激しくしていたが……ゴール後のタキオンは、この上なく嬉しそうであった。
本気で走っていい、そうトレーナーが太鼓判を押したおかげで、今まで開かなかった瞼が大きく視野を得たかのごとくであった。
本気で走っても脚が砕けないという保証を得たことも、本気で走るべきレース場を得たことも、思えば生まれて初めてのことだった。
だから、初めてのことに気づけた。
「そうか、これか、単なる昂りではない、この事実、この状況だ……実際に走らねば、分からぬものだねぇ……私たちウマ娘が行きつく所は……いや、もっと、もっと速くなければ……」
このホープフルステークスに勝った以上の、より大きく、より高みに位置する目標へ着実に近づいたという歓びであった。
彼女の眼は、恐ろしく晴れ渡った青空を見つめていた。視線はその先へと貫いていた。背後で息を切らし、遅れてゴールしてきたウマ娘たちの存在など、視界には入っていなかった。
タキオンの激走を讃える大歓声も、仮に鷹木が傍に寄ってきて何か話しかけたとしても、彼女の耳には届かなかっただろう。
アグネスタキオンは、遂に探求対象の片鱗、ウマ娘を導き、生きつく涯の一端を掴みかけていたのだ。