トレセン学園の医務室において、鷹木トレーナーの存在はほとんど常連のごとき状態となっていた。
当然ながら大舞台を走り切った後のウマ娘については、全ての担当トレーナーが出走ウマ娘の脚の検査を依頼してくる。
彼らと鷹木の違う点を挙げるならば、大きなレースの直後でなくともちょくちょく検査の依頼を出すことと、今回のホープフルステークス直後には脚のみならずタキオンの全身の精密検査を頼んできたことだろう。
不安に顔色を多少蒼ざめさせている鷹木に向かって、毎度決まったセリフを告げる校医、という光景もお馴染みであった。
「何ら、問題は発見されませんでした。健康そのものですな。」
「本当、でしょうか……肉体面で問題はなくとも、タキオンが精神面で何か悩みを抱えているようなことはないでしょうか。」
「ありません。もちろん、詳細な検査のためには心療内科を受診していただくことになりますが、見たところ、あれほど明確に充実した表情を浮かべつづけているウマ娘も他におらんでしょう。」
校医から手渡された、検査結果の書類を一枚一枚捲って数値を確認しながら、鷹木はすぐに首を縦には振らなかった。いくら検査結果を見返そうと、肉体的にも精神的にも、タキオンが好調そのものであることは間違いない。
全身の精密検査となったため、長時間医務室に居続ける必要があったタキオンであったが、全く不満げな様子は見せていなかった。むしろ、検査を受けている間、とても楽しげな表情を見せていたのだ。
とはいえ、校医も鷹木が不安を抱いている理由については何となく察していた。
「検査結果だけであれば理想的な値を示してはいますが……担当トレーナーさんは、明らかに担当ウマ娘さんの様子がおかしい、と感じておられますかな?」
「……はい。その、タキオンはホープフルステークスから戻ってきて以来、ずっと心ここにあらず、といった調子で……練習をサボりがちなのは、これまでとあまり変わらないんですが、なんというか、現状に焦点が合っていないような目を、最近のタキオンは見せるようになって……。」
「単にGⅠ勝利に浮かれているというわけではない、といったところですな?」
校医は、鷹木の表情を覗き込むように見つめながら言う。毎度毎度、ウマ娘の故障のリスクを極度に気にしては相談を持ち込む鷹木の内心を、表情から読みとることは容易となっていた。
鷹木は頷く。そもそも彼がこれまで担当してきたウマ娘は、オペラオーにせよタキオンにせよ、元よりトレーナーに本心をそうそう悟らせることの無い類ではあった。
が、ホープフルステークスに勝利した後のタキオンは明らかに様子が変わっていたのだ。
「こちらの話しかけには答えはしますし、大舞台直後とはいえ来年からのレースに向けて体を鈍らせることが無いよう、軽いトレーニングを始めるよう指示すれば従います……が、彼女の関心事は常にここではない、ずっと遠い所に向き続けているようなんです。」
「遠い目標に関心が向いているのならば、例えば来年以降のクラシック三冠制覇や、その先のシニア級GⅠレースを早くも視野に入れよう、という考えに至っているのでは?」
「いや、そういう感じではなく、もはやウマ娘レースではない、別の何か全く異なる目標を、完全に視野の中央に置いているような……。」
言葉としてはまとまりの悪い鷹木の発言を、校医は黙って頷きながら聞いていた。
当然ながら、タキオン自身が本心を語らぬ限り、身近な者がいくら彼女を心配しようとも憶測を語る域からは抜け出せない。
しかし、聞き手が居るという状況が、鷹木が担当トレーナーとして感じ取ったことを、発言の形でまとめる助けにはなり得ていた。校医はひとしきり発言を聞き終えた後、おもむろに提案を述べる。
「では、今おっしゃった推測が当たっているか否か、タキオンさん自身に尋ねてみてはいかがですかな。」
「タキオンに、尋ねて……?」
「レースの勝利後に感じ取ったことであれば、何ら彼女にとって暗い思いを伴う類ではありますまい。誰よりも担当ウマ娘の近くに居て、担当ウマ娘について深く考え悩むのがトレーナーの立場である以上、検査の場ではなくウマ娘自身との対話にこそ解決を見出すべきでありましょう。」
ウマ娘が、ウマ娘レース以外のことに意識を持っていかれている理由には、確かに軽からぬ事情を伴うだろう。
しかし、校医が検査時に見た限り、アグネスタキオンはハッキリと満足げであり、満ち足りた目をしていた。デリケートな問題には違いないだろうが、担当トレーナーが敢えて言及を避けるべき話題ではないと判断された。
それは充分に懸念要素が無いことを慎重に確認したうえでの結論であったが、鷹木は随分と恐縮した様子であった。
「仰る、通り、ですね……タキオンの担当トレーナーが自ら模索しないと、解決の糸口なんて見つかるはずもない。失礼します。」
「相談ならいつでも乗りますからね。」
校医の声を背に受けながら、鷹木は足早に歩いて学舎を出ていき、タキオンを待たせているトレーニング室へと向かう。
鷹木が指示した通り、タキオンはトレーニング室の中で淡々とエクササイズバイクを漕いでいた。ウマ娘向けの中でもかなり軽い負荷に設定し、身体組織にかかった負荷の修復のため酸素を取りこんで血流を促進させる狙いである。
トレーナーが見ていない状況でも真面目にトレーニングを続けるのは模範的な振る舞いであったが、かつてのタキオンとはかけ離れた姿であった。
隙あらば他の事に興味を奪われ、練習場に姿を現さず、あるいは他のウマ娘に絡みに行き……そんな振る舞いをしていたウマ娘と同一の存在とは思えぬほど、黙々と言われたとおりのトレーニングを続けていた。
ただ、ブツブツと口元だけで何かを呟き続け、時おり恍惚に触れたような笑みを浮かべている様は、確かにアグネスタキオンであった。
「タキオン?」
「……ならば、ウマ娘が出力するとでも称すべきか……そう、かの熱狂、響き渡る期待、あれらは可能性世界の全てに共鳴し……引き寄せた設計図を、出来得る限り忠実に読み取るかのごとく……」
「タキオン……タキオン!そろそろ休憩を入れろ、一番軽い負荷でも、長すぎると逆効果だ。」
鷹木が、エクササイズバイクの前方に回り込み、タキオンの顔を真正面から覗き込んで制止するまで、タキオンはブツブツ言いながらペダルを漕ぎ続けていた。
やはり、彼女の様子はおかしかった。一応は鷹木の指示通り、エクササイズバイクから降りて休憩スペースへと向かうも、鷹木に対しては頷きも返さず、返事ひとつない。
アグネスタキオンの心をそこまで奪うのが、相当な発見であろうことは、鷹木にも十分察せていた。
(ちゃんと、聞かないと。)
彼女が思考に巡らせている内容を仮に聞かされたとしても、自分が理解できる可能性は極限まで低いということも分かっていた。ますます、自分が担当ウマ娘の理解を充分に為せていない様を露呈することになるだろう。
それでも、先ほど医務室で言われた通り、担当ウマ娘のことについて真剣に悩むべき立場にいる自分が言葉を交わさなければ、アグネスタキオンの理解には近づけない。
「タキオン。ちょっと、話を聞いてもいいか?」
「手短に頼むよ。」
タキオンは、やはり脳内で別の思考を巡らせ続けているついでといった調子で、ごく短く鷹木に返答した。
そもそも自分が尋ねたい内容、アグネスタキオンの関心が向いている先について具体的には捉えられていない鷹木にとって、手短に伝えたい内容をまとめることは至難の業であったが……ここで口を閉ざしては何も解決しない。
「今のタキオンは……ウマ娘レースの結果以外の事が、目標になってないか?」
ようやく、タキオンは自ら鷹木と目を合わせた。
焦点の合っていないような目つきは相変わらずであったが……ようやく、彼女は自分の担当トレーナーの存在をマトモに視認したかのごとくであった。
やはり他の内容に思考を割き続けているためか、すぐには返答しないタキオン。鷹木は、自分の推測がたどり着いている限りまで、言葉を継いだ。
「ホープフルステークスに勝った後、確かに嬉しそうな表情は見せてくれたが、レースの勝利を喜んでいるようには見えなかった。初めて、GⅠレースの舞台で走ったことで、何か大きな発見があったのか?前々から口にしていた、レース展開が有する可能性の“観測”とやらが出来た、とか……。」
「“観測”が出来るウマ娘は私の知る限りネオユニヴァースくんだけだ、それ自体を実行することは、私には不可能だねぇ。」
タキオンの視線の焦点が、ようやく鷹木の顔に合った。
いや、タキオンの思考のテーブルに、鷹木が同席できる位置まで移動したと表現した方が、その状況は正しかったろう。
次のレースのことや、トレーニング内容についてのみ喋ることだけでなく、タキオンの理解へと積極的に接近できるのは、ここまで付き合い続けてきた鷹木であればこそ可能な振る舞いであった。
タキオンからは、理解に期待を欠片も抱かれていなかったが、それでも鷹木の真剣な眼差しに対し、タキオンはより詳細な返答を始めた。
「私が見出したのは、ウマ娘が本気で走ることの意味、だねぇ。もっとも、まだまだごく一端にすぎないけれど。」
「本気で走ることの、意味……純粋に勝つため、というだけではない、ってことか?」
今度はしっかりと目を合わせたまま、タキオンは即座に頷き返す。
鷹木は、タキオンが考えていることを言い当てるのは不可能でも、タキオンが考えていることとして正しくない内容はかなり具体的に推測することが出来るようになっていた。
消去法で核心へと至ろうとする鷹木の歩みは遅々としたものであった。
が、他のことを全て排除して自らの思考に没頭しようとまでしていたタキオンが、真っ当な受け答えを行おうとする程度には、鷹木の真摯な思いは伝わっていた。
「むろん、全力というのは、レースに勝利するために最善を尽くすという意味を含んでいるとも。コース状況を見極めてペース配分を定める周到さ、仕掛けどころを見誤らない冷静さ、そして競争相手に競り勝てるだけの根本的な強さ、粘り、速さ……だが全力を振り絞った先にあるのは何だ?」
「それは勝利……いや、結果的な、勝利?」
鷹木の語彙力では、その時とっさに浮かんだ返答を十全には言語化出来なかった。
しかし、その返答を聞いたタキオンの眼が、一瞬だけ輝いたのは、おそらく鷹木もタキオンのたどり着いた答えと同じものを言い示していたためだろう。
どうせ自分の思考を理解することなど出来ない、という諦観とともに薄ら笑みを浮かべることの多いタキオンから、初めて鷹木は本心からの笑顔を向けられたような気がした。
「そうだとも!トレーナーくんの口にした表現は充分ではないが、なんとなく伝わったかねぇ?レース結果として現れるのは勝利ないし敗北だ、だがそうじゃない、まるで既に形成されたパーツを組み合わせるようにして、勝利の光景が完成するかのごとき経験だ、あの日、ホープフルステークスに勝利した私が実感したのは!」
「あぁぁ……こう、分かるような、なんというか……自分が作り出した勝利であるとは感じなかった、ってことか?」
「その通りだとも!今の表現、他の競争相手の皆には伝えないでくれたまえよ、きっとポッケくんなど、激怒させてしまうだろうからねぇ!」
鷹木も周囲を見回し、今の発言を聞いている他のウマ娘がいないことを確認しつつも、小刻みに頷く。
ホープフルステークスにて、タキオンにぶっちぎられて負けたウマ娘たちが、タキオンが勝利を自分のものとして感じていないなどと述べていると知らされれば、本気で向き合ったレースを貶されたようにも感じるだろう。
タキオンがそう感じたことを、鷹木が汲み取れたのは、これまで様々なウマ娘との交流を重ねてきたタキオンの言動について、必ず一度は考え込んだ経験があったためだろう。
「常々タキオンが言ってる、可能性世界ってのが実際にあるんなら、レースの結果ですら、そのうちの一つをなぞったものだと感じることがあるかもしれないな……。」
「GⅠレース、誰も手加減などするはずもなく、本気で競い合った場であればこそ、それは明確になったねぇ。ゴールラインを越えた瞬間、感じたのは新鮮さじゃなかった。既に別の可能性世界で、異なる時間の流れの中で、実現し終えたことであるかのようだったねぇ。」
鷹木が思い浮かべ得た、担当トレーナーとして掛ける言葉は「気にしすぎるな」という平々凡々たるものだけであった。
きっと、デビューから2戦目、GⅠレースを走るのも初めての状況で、自分の勝利に実感が伴わないのだろう。緊張が解けきれていない内は仕方がない、レース結果を客観的に見つめられるようになるまでは時間がかかるものだ……等々。
しかし鷹木は黙っていた。タキオンは、まだまだ語りたがっている様子だったためだ。
「機会があれば、エアシャカール先輩のParcaeをお借りして、私のホープフルステークスを再現できるかどうか試させてもらってもいいかもねぇ。可能性世界の範疇から出ていないのなら、あの日と全く同じ結果がシミュレーション結果として出るはずだ。」
「容易にシミュレーションできるかどうかは分からないけどな、少なくとも俺は、タキオンが直線前までにもっとリードを広げておかないと勝てない、と考えていたから……。」
「そうかい?私にとっては、十分に妥当な勝利であったけれどねぇ。特異点たるウマ娘は、予測可能な範囲をもっと派手に、大きく乗り越えていくものだよ。まさにクラシック三冠と宝塚記念を獲ったネオユニヴァース、そして秋シニア三冠をクラシック級の年に獲ったゼンノロブロイ、のようにねぇ!」
その実例を出されては、鷹木も黙って頷くしかなかった。
どちらも、事前の評判を更に超えた偉業を成し遂げた、今年もっとも話題に上がったウマ娘である。あの域まで到達すれば、まさに自分の実力、自分が作り出した勝利であると確信できるというものだろう。
多少の興奮とともに目を再び輝かせたタキオンは、すぐさまいつも通りにノイズの走ったような目の色を取り戻した。
「けれど、私は特異点ではないのかもしれないねぇ。」
「……え?」
「いや、気にしていないさ。私がそうでなくとも、少なくとも現役に、十分すぎるほど強いウマ娘、可能性世界を自力で生み出し得るウマ娘が居るのだからねぇ。」
知らぬ間に、予定していた休憩時間は過ぎていた。タキオンは立ち上がって、再び鷹木が組んだメニュー通りに、トレーニング機器の並んでいるところへと向かう。
彼女の横顔がはっきりと寂しげであった理由を、鷹木は懸命に理解しようと頭を働かせ続けていたが、やはり察せぬままであった。