年が明けてからのレース本番は、タップダンスシチーが先手を切ることとなった。
1月8日、万葉ステークス。昨年末から本格的に調整を進めていた彼女は、京都レース場にて今まで挑戦したことのない長距離レースへと挑むことになる。
直近にレースの予定がないアグネスタキオンをまた連れて、現地に赴くことも一瞬考えた鷹木であったが、今回は見送ることとした。
「さすがに今年最初のレース、それもオープン戦とはいえ有力なステイヤーが出走するとなれば現地は混雑するだろう。それに……タキオンは、カフェの方を気にかけている。」
相変わらずタキオンがタップダンスシチーの走りに注目していることには違いないものの、昨年の天竜川特別レース以降はその熱も少々収まったようであった。
天竜川特別においてタップダンスシチーは見事に勝利したのだが、その際に現地で見ていたカフェが“お友だち”の姿をレース中のタップに見いだせなかったことが関係しているのかもしれない。
強豪ウマ娘の走りに焦がれるのは誰しも同じであったろうが、タキオンが熱意を傾ける対象が単なる強さではないことは明確となっていた。
「マンハッタンカフェのデビュー戦、いよいよ1月の末に決定されたって話だからな。タキオンのことだ、きっとカフェの観察を優先するはず……」
「トレーナくん!トレーナーくん!カフェに併走練習へと誘われたよ!もちろん行くべきだねぇ!」
トレセン学園から離れない理由として、万が一にと鷹木が考えていた可能性のひとつが現実となった報せを、練習場に顔を出したタキオンが大声で告げる。
同世代の中でも実力を大いに期待されているマンハッタンカフェとの併走練習、それはタキオンのトレーニングを担当している鷹木としても当然ながら乗り気な提案であった。が、その伝わりかたが問題であった。
「……なぜトレーナーである俺に話が来る前に、タキオンの方が先んじて知っているんだ?勝手にタキオンが決めたんじゃないだろうな。」
「疑わないでくれたまえよ、私がたびたびカフェに誘いをかけていたのは事実ではあるけれどねぇ。」
担当トレーナーが居ないウマ娘同士であれば口約束からそのまま併走練習に入ることも出来るが、きっちりと専属のトレーナーがつき、しかもGⅠレースに出走することを視野に入れているウマ娘……ともなれば話は違ってくる。
トレーニングのメニューは、そのウマ娘ごとに目指すレースに最適化されてきっちりと専属トレーナーが定めている。伸ばすべき能力を考慮するのみならず、どの程度の負荷をかけ、練習に伴って必要な休息の時間数まで厳密に計算し決めているのだ。
殊に、活躍の期待されるマンハッタンカフェを担当しているのは、URA界のレジェンドたる結城トレーナーである。そのカフェのデビュー戦が今月内に迫っているとなれば、ますますトレーニングメニューは厳密に組まれているであろう。
「あぁ、俺も担当ウマ娘を疑うわけにはいかないが、まずはきちんと結城トレーナーに確認を取らせてくれ。もちろん、こちらがマンハッタンカフェと一緒にトレーニングさせてもらえるのは、願ったり叶ったりではあるが。」
「私自身がカフェからの誘いを直接受けたのだから、それで十分じゃないか。相変わらず小心なトレーナーくんだねぇ。」
結城トレーナーと練習場で顔を合わせると、毎度のごとく萎縮しきってしまう鷹木の内心を、タキオンは既に理解しきっていた。
数分後、鷹木はタキオンを連れて……正確には、早く早くと急かすタキオンに引っ張られて、と表現した方が正確な状況であったが……結城トレーナーが有する専用練習場へと顔を出していた。
マンハッタンカフェと結城トレーナーがそこでタキオンの到着を待っていたのは当然のことだったものの、エアシャカールとアドマイヤベガまで顔をそろえていたのは意外であった。
デビューを前にしたウマ娘と、既にGⅠレースを何度も走っているウマ娘とでは練習内容も違ってくる。そのため、結城トレーナーが担当しているマンハッタンカフェ以外のウマ娘は別の練習場で走っていることが多かったのだ。
さっそくシャカールの方へと小走りに寄っていくタキオンへ横目を遣りつつ、やはりこわばった表情のままに鷹木は結城トレーナーへと挨拶する。
「ご無沙汰しております、結城トレーナー。本日はアグネスタキオンとマンハッタンカフェの併走練習、よろしくお願いいたします。」
「あぁ、よろしく。カフェとの併走ということで来てもらった矢先、急な話で済まないけれど、今日はエアシャカールとアドマイヤベガも参加させてもらっていいかな。」
むろん、鷹木の側が結城トレーナーからの提案を拒む理由など無かった。
昨年の宝塚記念以降はネオユニヴァースとゼンノロブロイにGⅠタイトルを悉く獲られたとはいえ、シャカールとアヤベがトレセン学園内で最高クラスの実力ウマ娘であることに変わりはない。
こちらこそぜひ、と鷹木が頭を下げている一方で、タキオンはさっそくエアシャカールに以前の思い付きに関して告げていた。
「シャカール先輩、前に伝えた私の仮定については検討しておいてくれたかい?先月、すなわち昨年末のホープフルステークスがParcaeによって完璧にシミュレーションできるのではないかという件についてだが。」
「あぁ、忘年会の時にお前から聞かされて、俺も気になってた。GⅠに出てる連中だから、データを集めんのはさほど手間取らねェしな。」
タキオンに返答しながら、シャカールはノートPCのキーボードを叩き、既に済ませてあったシミュレーション結果を表示する。
そこには、実際のレースと同様の順位、そしてタイムまでもごく正確に表示されていた。タキオンは目を見開き、そして若干の間を置いてから頷く。
「そうか、やっぱりだねぇ。……Parcaeは実に精密なシミュレーションプログラムだ、改めて惚れ惚れするほどだよ、シャカール先輩。」
「俺が作ったんだ、当たり前だろ。今も偶にデカいレースの結果のシミュレーションを試すが、大抵の場合はエラーを吐いて結果表示しやがらねェんだけどな。去年後半のGⅠは、どれもこれもプログラムじゃ予測できなかった。」
「今回の結果で更なる裏付けが取れた私の仮説が正しければ、それは特異点が条件に含まれるため、だねぇ。ほかならぬゼンノロブロイくんが、それである可能性が限りなく高いねぇ。」
小さく頷きを繰り返しながら、タキオンは興奮を抑えているかのごとく小さく震える声で語る。
しかし彼女の発言を、シャカールはすぐさまには肯定しなかった。
「俺も試したよ、ゼンノロブロイのデータ抜きでのシミュレーションも、ついでにネオユニヴァースも抜いてのシミュレーションも。あの2名が明らかに別格だったからな……それでも、Parcaeがエラーを吐くことに変わりねぇんだが。」
「ならば、他にも容易く可能性世界に収まっていないウマ娘が居たということだろうねぇ。有馬ほどの大舞台ともなれば、解析が容易でないのも仕方ないねぇ。ところで、例の現象については変わりないかい?Parcaeが、去年の12月より後の項目を追加できないという現象は。」
「……あぁ。どう弄ろうともParcaeが受け付けねェ。原因もさっぱりだ、俺は引退なんかせずに走ってるってのによ……レース条件を入力して、手動で新たなシミュレーションを実行することだけは出来るけどな。」
タキオンはそこから先もまだまだシャカールと語り合いたい様子であったが、結城トレーナーとの話を済ませた鷹木の声によって遮られた。
「タキオン?そろそろウォーミングアップに入るぞ、せっかく最高の練習相手が待ってくれているんだ、時間を無駄にするんじゃない。」
「……しかし私が勝ったホープフルステークスは、既存の可能性に収まっていたということ……他の可能性世界で既に実現された事象であったことは、確実ということだねぇ……」
鷹木への返答代わりにブツブツと呟きながら立ち上がったタキオンの、瞳が一段と暗くなっている様を目の当たりにしたのは、彼女と向かい合っているエアシャカールだけであった。
ウォーミングアップを済ませ、練習コースのスタートラインに並ぶウマ娘4名。
条件は芝2000m、マンハッタンカフェのデビュー戦と同じ条件であり、アグネスタキオンが3月の出走を予定している弥生賞、エアシャカールが出走予定の大阪杯とも距離が等しい。
アドマイヤベガが出走予定の京都記念は芝2200mではあったが、それより短い距離でも追い込みを成功させる練習になる。
「それなりに仕上がっているようだねぇカフェ、これなら今月のデビュー戦でも調子は上々だろうねぇ。」
「私を評するのは、実際に走ってからにしてください……。」
マンハッタンカフェにすげない返答のみを与えられているタキオン。
とはいえコース外から見る鷹木の眼からも、確かにマンハッタンカフェは全体のシルエットが細身のままとはいえ、脚の筋肉量は確実に増していると見えた。
デビューから幾年も走り続け、大ベテランの域に達しようとしているアドマイヤベガやエアシャカールと比べれば、やはりタキオンもカフェも脚の華奢さは際立っていたが。
アドマイヤベガがシューズの状態を確かめつつ、結城トレーナーと鷹木の両方に向けて尋ねる。
「私たちの作戦は、前もって伝えておかなくていいかしら。何も条件の提示がないのなら、いつも通りの走りを試させてもらうだけだけれど。」
「そうだな、それで問題ない。こちらも、タキオンの一番得意なペースで行く……ということで良いでしょうか、結城トレーナー?」
「あぁ、本番同様に、スタートしてから競争相手の位置取りを判断する練習になるからね。」
練習条件についての確認を済ませ、いよいよ練習コース上にスタートの合図を告げる機械音声が響く。
〈レース計測準備を完了、位置について……用意、スタート。タイム計測を開始します。〉
トレセン学園の中でも優秀なウマ娘にのみ与えられる個別練習場は、本番同様の条件を整えられる環境にある。ゲートが開く音とともにタイムの自動計測、そして映像記録が可能となる。
スタートラインから飛び出して、先頭に立ったのはアグネスタキオンであった。
先行する相手のすぐ後ろにピタリとつけて、全体のペース、並びくる競争相手の位置を把握したうえで、自身の走りを最適化してラストスパートに備えるのを得意とするタキオン。しかし、今回は他の面々が完全に追い込みのペースであった。
カフェ、アヤベ、シャカールの3名が後ろに下げたペースでスタートしたため、必然的に先頭を走ることとなったタキオン。
「これは……タキオンにとっては、かなり慣れない状況での走りですね。自分がペースを作る位置につくのは、本番ではまずないことですから。」
「よい練習になってくれれば幸いだよ、カフェとしても、先頭に立って引っ張ってくれるのがアグネスタキオンともなれば、相手として不足はない。」
結城トレーナーは、小さく頷きながら鷹木へ返答を与える。
マンハッタンカフェは、おそらく最終コーナーあたりで先行の位置まで上がるのだろうシャカールと、最後尾で淡々と足を運んでいるアドマイヤベガに挟まれた位置にいた。
彼女が本気になって走る所を見たのは、思えばかなり以前のこと、去年の4月の末のことであった。
アグネスタキオンが、マンハッタンカフェを自分の練習場に連れてくるようになって間もなくのことであり、鷹木はごく普通の練習の一環として、併走を指示したのだった。
「タキオンもカフェも、お互いにあの細い脚でありながら、走ると本気の眼を見せていたものですから……去年はタキオンがたびたびカフェを練習に誘っていましたが、実際に併走させたのは一度きりです。」
「そうだね、鷹木トレーナーが慎重な選択を採るからこそ、こちらもカフェを任せることが出来た。同時に、だからこそカフェはデビュー前にタキオンとの併走を望んだのだろうね。」
向こう正面を駆けていくウマ娘たちへじっと視線を注ぎつつ、結城トレーナーは告げる。
最終局面で余裕を残せるようなペースを、タキオンは意識しているのだろう。残り1000mを通過した時点でのタイムを確認すれば、多少緩めのペースとなっていた。
「カフェは、アドマイヤベガについて気にかけていたようだね。」
「……えっ。」
並んでタキオンの走りを凝視していた鷹木は、結城トレーナーから脈絡なく告げられた言葉に思わず聞き返す。
それはマンハッタンカフェが、結城トレーナーの練習場を離れ、タキオンとともに練習する時にのみ口にする内容だったはずだ。
アドマイヤベガの身体に、特定の一体だけではない、不定の“お友だち”が次から次へと新たにとり憑いている様を、当のアドマイヤベガ自身に聞かせまいとして、タキオンと鷹木に対してのみカフェは喋っていた。
……が、結城トレーナーは、そんなウマ娘の隠し事を見抜くほどには十分すぎる指導経験を積んでいた。
「あの子は元より口数少ないが、アドマイヤベガが近くに居ると格段に無口になる。アドマイヤベガのことが気がかりで、そのために精神的に不安定になっていることを、マンハッタンカフェ自身は隠そうとし続けていたようだね。」
「……すみません、自分の練習場では、タキオンに対してそういったことを語るマンハッタンカフェの話を聞いてはいたのですが……。」
「いや、鷹木トレーナーに責を問おうとしているわけじゃないよ。カフェ自身、大っぴらに話されたがらないような内容だろうから。」
穏やかな目つきを結城トレーナーは、最後のコーナーを回っていくウマ娘たちに向けている。
既にエアシャカールはタキオンのすぐ背後にまで取り付いていた。あのまま、直線に向けば一気に加速するつもりだろう。アドマイヤベガも、彼女が本来得意とする、コーナーを回りつつの加速を開始していた。
「……マンハッタンカフェ自身が、ようやくこちらにも直接話してくれたよ。カフェは、自分の先輩を不安がらせてしまうのではないかと案じていたが、アドマイヤベガも彼女の言う“お友だち”の話を真剣に聞いてくれた。そして心配することはないと返した。」
アドマイヤベガであれば、自分の後輩ウマ娘の不安を拭い去るために最善を尽くすだろう。
彼女がマンハッタンカフェに送ったのが本心からの言葉なのか、取り繕った言葉なのかは分からないが、あの深い色の瞳でじっと見つめられて語られる内容には、十分すぎる説得力が伴うであろうと思われた。
「おかげで、カフェは不安を断ち切れたようだ。」
練習コースの最終直線へ向く直前、マンハッタンカフェが急加速した。
その黒い長髪が一瞬波打ち、そして物理法則を無視したかのような加速度で直線へと突っ込んでいく。
「あの時の走りだ……いや、更に進化してる……!?」
何の予兆も無く、瞬間的にラストスパートを開始するウマ娘には、競い合う者たちも反応できない。
ゴール前、既にアグネスタキオンはエアシャカールに並ばれていたが、やはり先頭で集団を引っぱり続けるポジションには慣れていなかったためか、本来の能力を発揮できていないようだった。
アドマイヤベガも当然ながらトップスピードでゴール前の直線を猛進していたが、マンハッタンカフェは捉えきれない位置にいた。
〈一着、二着……三着、四着までの着順を確認。タイム計測を終了します。〉
一着はマンハッタンカフェであった。猛追してきたアドマイヤベガが二着、得意な走りでタキオンを差しきったシャカールが三着である。
アグネスタキオンは、四着となっていた。もちろん先頭を走り続けるという不慣れなレース展開も影響していただろうが、ゴール直後にエアシャカールが気遣わしげな視線をタキオンへ送っていた様が鷹木の気に掛かった。
「タキオン?どうしたんだ、以前カフェと競った時は、かなり気合を入れて走っていたのに。」
「能力は拮抗しているはずだけれども、気持ちが乗っていない様子だったね。まぁ、本番までは充分に仕上げてくる時間はある。そちらも、弥生賞への出走を予定しているんだろう?」
訝しげな表情を浮かべている鷹木へ、結城トレーナーは声を掛けながら立ち上がり、クールダウンのために緩く走りながらコースを流しているマンハッタンカフェの元へと向かう。
おそらく、今月ないし来月中のデビューを済ませれば、結城トレーナはカフェも弥生賞に出走させる予定なのだろう。
いよいよ強力なライバルが揃いつつある状況で、アグネスタキオンの内面を掴み切れていない実感のある鷹木は、ハッキリとした焦燥感を抱きつつあった。