クールダウンを終えて、皆との併走練習から帰ってきたタキオンは、既にいつも通りの表情に戻っていた。
出来れば鷹木は、つい先ほどの表情……例の本気で走った際の気迫も感じさせない、四着に甘んじてゴールした時の表情を確認したかったのだが、高速でゴールラインを走り抜けるウマ娘の顔つきを見定めるのは至難の業である。
それに、ゴールする瞬間のアグネスタキオンは、明らかに顔を鷹木から背けるようにしていた。こちらを凝視しようとする、鷹木の視線に気づいての反応であったのかもしれない。
相変わらず単刀直入に本題へと切り込むことを躊躇う鷹木は、無難な言葉から口を開き始める。
「タキオン、脚に問題はないか?」
「心配いらないとも。さすがに慣れないペースだったから、最後に全力を出すスタミナが残せなかったのは、今回見いだされた課題だねぇ。」
直接的にタキオンの胸中を把握するに至っていない鷹木も、さすがに担当し始めて1年が経とうとする今にもなれば、タキオンが何かを誤魔化そうとしている言動には気づくようになっていた。
一言二言で済ませられるような返答に補足を付け加え、妙にタキオンの口数が多くなるのは、腹の底を探られぬようにと構えている証拠である。
普段からペラペラと喋り続けることの多いタキオンではあったが、本来は彼女自身の興味を惹いた話題について饒舌になるものであり、必要最低限の応答で済ませればいい状況にて口数多くなるのは常の反応とは明らかに異なっている。
ついでに、実際に全速力で走った後のタキオンは、怪我がなくとも脚を僅かながら庇うような歩き方となるはずだったが、それも今の練習コースを走り抜いた直後には見られなかった。
すなわち、本気で走らなかった自覚が今のアグネスタキオンには充分にあるということ……そこまで自分が気づいていることを、敢えて伝えればタキオンは面白からぬだろうと考え、鷹木は言葉を選んだ。
「本番では、確実にタキオンよりも先行する相手がいるだろうから、ペースについては気にしなくていい。ただ、前にカフェと併走練習した時と、まるで走っている時の表情が違うじゃないか。」
鷹木なりのブラフであった。走っている最中のタキオンの表情など、前述の通り詳細に見ていられる余裕など実際には無い。
しかし、タキオンが自分の表情を見せまいとして、ゴールの瞬間から顔を背けていたことだけは事実だった。鷹木はコース上をずっと凝視し続けていた時の目つきを、そのままにタキオンに向け続ける。
タキオン自身は、鷹木のハッタリに気づいていたかもしれないが、それ以上にトボける振る舞いを続けるつもりはないらしかった。もとより彼女は、益の無いやりとりに時間を費やす性格ではなかった。
背後にチラと視線を遣り、結城トレーナーと言葉を交わしているマンハッタンカフェから十分に距離を置いていることを確認し、タキオンは口を開く。
「彼女には伝えないでおくれよ、私が本気で併走練習に取り組んでいなかった、などと。私の性格をよく理解しているカフェも、さすがに怒るだろうからねぇ。」
「分かってる。だが、何故なんだ。今さらかもしれないが、ホープフルステークスで勝った時から様子が変だぞ、タキオン。今の併走練習の直前にも、エアシャカールと何やら話をしていたが、それも関係あるのか?」
「本当に、走っている私の姿をつぶさに観察しているんだねぇ、トレーナーくん。いや、今回に関しては、シャカール先輩が分かりやすく仕草を見せたおかげ、かい?」
「まぁ、それもある。」
併走練習でのゴール直後、エアシャカールは自分に遅れてゴールしてきたタキオンの方を、気遣わしげに振り返って見つめていた。
それはシャカールなりに、鷹木へとタキオンの異変を気づかせようとしての振る舞いだったのだろう。皆から離れて話し合っているタキオンと鷹木の様子を、今もシャカールがチラチラと気にしている。
併走練習中に本気をこめた気迫が感じられなかったためでもあるだろうが、シャカールの場合は練習開始前にParcaeを弄りつつ話し合っていた内容も関連していると気づいたのだろう。
「タキオンはこの練習場に来てすぐ、シャカールと一緒にノートPCを覗き込んであれこれと喋っていたな。例の、シャカールが作ったというシミュレーションプログラムに関して、何か気になることでもあったのか?」
「これは参ったねぇ、トレーナーくんは結城トレーナーとのやり取りで手一杯だと考えていたんだが。」
鷹木から目を逸らしながら、タキオンは小さく笑みを浮かべつつ返答する。
普段のタキオンは対話相手と一度目を合わせれば、決して視線をそらさない。あるいは、最初から視線を合わせていない。
思考の中を占拠している内容があったことも一因だったろうが、今のタキオンは鷹木に十分すぎるほど内面を汲み取られるだけの隙を晒している己を実感せずにいられなかった。
「……以前にも伝えただろう、私は特異点ではなさそうだ、と。」
「あぁ、確かに。タキオンが言いたかったことを、その時に理解できなかったのは済まない。」
「それは仕方ないねぇ、私自身が完璧には理解しきれていない概念なんだから。しかし、ホープフルステークスの結果を、Parcaeによって完璧にシミュレーションされてしまった、と言えば理解しやすくなるかい?」
確かに、タキオンの感じたことを把握するには分かりやすい事例であった。
去年、名勝負と謳われたレースは、シャカールの組んだシミュレーションプログラム『Parcae』によって再現しようとしてもエラーを吐く。
殊に、前代未聞の戦績を打ち立てたネオユニヴァースやゼンノロブロイが参加したレースは、プログラムによって予測できる範疇を遥かに超えた展開となったためか、飛び抜けた能力のウマ娘を抜きにしても予測が実行されない。
そんな中で、アグネスタキオンが勝利したホープフルステークスは、シミュレーションによって実際のレース展開が容易く再現されてしまったのだ。
「それで、自分は特異点ではない、と……。」
「むろん、まだ確定はしていないけれどねぇ。観測出来た事象は一例に過ぎない、試行数を増やさなければ結論は真実に迫らない。」
「あぁ、だよな。シャカール自身も、デビュー当初はParcaeのシミュレーション通りにしかレース結果が出ていなかったが、その後シミュレーションを超えた戦績を残せるようになったらしいじゃないか。」
タキオンの眼の輝きが消えきっていないことを確認しつつ、鷹木は少しでも前向きな言葉を探していた。
そもそも、今年度のクラシック路線を目指すウマ娘の中でも、昨年末のホープフルステークスを悠々たる一着で制しているタキオンが最も有力視される存在なのだ。
客観的に見れば余裕のある立場ではあるはずだったが、それでもタキオン自身が抱く不安の素は無視できるものではなかった。
「トレーナーくん、正直なところ、特異点は私でなくとも良いとは思っているんだ。既にネオユニヴァースとゼンノロブロイが可能性世界を制するほどの活躍を見せているのだし、ポッケくんもカフェも可能性の塊だからねぇ。」
「……俺は担当トレーナーとして、アグネスタキオンをレースで一着にすることが目的だ、それは常に変わらないからな。」
「だろうねぇ。ひとつ覚えておいてほしい、私にとって、特異点とは……ウマ娘レースの歴史そのものに影響し、可能性世界における既定の観測結果を逸脱する存在は……あまりに魅力的に過ぎるんだ。私が、それに『成れる』期待は、一度抱き始めたが最後、最も引き剥がされたくない希望なんだ。」
その言葉を言い終える間際、タキオンの語尾は小さく震えた。
彼女は努めて表情を冷静なままに抑えようとしてはいたが、気持ちの昂揚は漏れ出ていた。
相変わらず鷹木は、自らの認識がタキオンの有しているものと合致しているか自信などなかったが、首を横に振ることは出来なかった。
「どうであれ問題ない、間違いなくタキオンは、俺が今まで担当してきたウマ娘の中で、最も勝利に近いウマ娘だ。」
「あの世紀末覇王よりも、かい?随分と買いかぶられたものだねぇ。」
「あぁ、もちろんトレーニングをサボリさえしなければ、だけどな。オペラオーも、たびたび鏡の前で時間を潰したり、練習の合間に歌いはじめたりと、トレーニングさせるだけで大変だった。」
鷹木の働きかけによって、ようやくチラリと見せられたタキオンの胸中は、あまりに煩雑な理論の迷宮の奥に狂おしいまでの憧憬を抱く、危うい熱に焦がされ続けていた。
中継観戦の準備が出来たことを報せにエアシャカールが寄ってくるのを見て、鷹木はいつも通りの調子へと戻すためにタキオンから心理的にも一旦離れる。
それでもシャカールには、タキオンの表情に珍しく満足そうな色が浮かんでいる様は見抜かれていたが。
「おい、タップダンスシチーのレース、そろそろ中継が始まンぜ……何かあったのか?随分と鷹木トレーナーと話し込んでたみたいだが。」
「気にしないでくれたまえ、一縷の可能性に頼りない助力を約束されただけだからねぇ。」
「頼りなくて悪かったな。」
軽い言葉を交わしつつ、練習場の大型ディスプレイの前に並べられた席の方へと向かう鷹木は、去年出会ったばかりの頃が嘘であったかのように、タキオンとの間合いが近かった。
既に画面内ではゲートインが進んでいる。
〈京都レース場、万葉ステークス、芝3000mの競走です。本年は10名のウマ娘たちが出走となりました、デビューから7年目のベテランウマ娘も出走する中でありますが、昨年デビューしたばかりのタップダンスシチーが3番人気と注目を集めています。1番人気はミスズシャルダン、2年前にはテイエムオペラオーやメイショウドトウとも競った経験のあるウマ娘です。〉
確かに鷹木もしっかりと記憶している名前であった。オペラオーが無敗記録をうち立てた年の最初のレース、京都記念。ケイズドリームが骨折によって選手生命を断つことになったレースでもある。
中継画面を見つめながら、隣席の結城トレーナーからも言及される。
「ミスズシャルダンは、先行のペースが得意だったかな。」
「そ、そうですね、たしか2年前の京都記念でも、4番手か5番手あたりに陣取って、安定したペースでずっとレースを運んでいた、堅実な印象のあるウマ娘です。」
ついさっきまでタキオンと語り合っていた時の口調はどこへやら、結城トレーナーとの対話においてはすっかり委縮して硬い喋りしか出来なくなっている鷹木。
元がそんな性格であればこそ、しっかりと踏み込んでくる際にはそれだけ本気で相手と向き合う意思を固めているのだろう……と、タキオンは小さく笑みながら彼の横顔を見つめていた。
〈さぁ全ウマ娘、体勢完了です……スタートしました!まず果敢に先頭へとあがっていったのはタマモイナズマ、続いてメジロサンドラが先行争いに加わります。上り坂でのスタートとなって間もなく最初のコーナー、3000mの長丁場のためゆったりとしたペースでしょうか。3番手ダンディラッシュ、そのウチに並んでサンデーピクニック、1番人気ミスズシャルダンは5番手といった形であります。〉
タップダンスシチーは、既に集団の中に埋もれてしまっていた。逃げの作戦を採用する印象が強い彼女であったが、今回はむしろ後方、10名中6番手あたりに位置している。
シャカールはノートPCの画面と中継画面を見比べつつ、小さく頷いている。
「オープン戦とはいえ、さすがにレベルが高ェか。タップの奴、こっちのシミュレーションじゃ逃げのペースで走ると途中でバテる予想だったからな。」
「おや、シャカール先輩。既にこのレース展開はParcaeの予測から外れているのかい?」
「作戦自体がガラッと変えられちまってたら、そりゃ予測できねェよ。今年の1月以降のレーススケジュールの追加も出来ねェ分、手動で今からデータ入力をし直すのには時間がかかる、実際の結果が出るほうが早ェだろうな。」
タキオンも興味津々にシャカールの抱えているノートPCを覗き込む。
シミュレーション上では、先頭を走り続けていたタップダンスシチーが、最終直線でずるずると失速して最下位になってしまう予測が表示されていた。
〈3番人気、タップダンスシチーは現在6番手にて最初の正面スタンド前へと出てきました。逃げのペースではなく、かなり抑えて走っているようです。続きましてはトシザダンサー2番人気、その後ダイナミックウィン、スペキュレーションが並び、最後尾にサニーサイドアップ、こちらもタップダンスシチー同様に昨年デビューしたばかりのウマ娘です。各バ直線を走り切って1コーナーへと入っていきます。〉
自身とはかなり違う走り方でありながら、マンハッタンカフェはタップダンスシチーの脚運びを食い入るように見つめていた。
「タップさん、ペースがかなり安定しています……逃げの位置では、ありませんが……」
「最後の直線で加速する以外にも、自分のペースを守り切って走り抜くことでの勝ち方があるわ。長距離のレースに出走したのも、それを練習するためでしょうね。」
カフェの言葉に頷きながら、アドマイヤベガも口を開いている。彼女にとっては、常々より近くで見ていたナリタトップロードの走り方がそれにあたるのだろう。
確かにタップダンスシチーは、先頭が遠ざかり、集団に囲まれている状況でも、まるでペースを崩す様子を見せていなかった。
〈先頭は変わらずタマモイナズマ、2番手メジロサンドラ。2コーナーを抜けて向こう正面へ、集団全体がちょっと詰まって来たか、ここで1番人気ミスズシャルダンが徐々に上がってきた、5番手から4番手へ。後ろからスペキュレーションも位置を上げて6番手へ、ダイナミックウィンも続いてスペキュレーションに並んでいる。残り1000mを切りましてここから向こう正面出口の上り坂となります。〉
周囲が位置取りを変え始めても、タップダンスシチーは自分のペースを守り続けている。
むろん、片桐トレーナーと共に徹底して練習し続けた、一定の速度を維持するトレーニングの賜物でもあるだろう。彼女生来の大柄な体格が、周囲の動きに揺るがされぬアドバンテージを備えているようでもあった。
「1番人気の子が動いたから、釣られたね。周りも。」
「えぇ、それでもタップダンスシチーは焦らずに速度を守り続けています……順位は後ろから2番手にまで下がってしまっていますが。」
もはや逃げの作戦など、欠片も面影の残っていない展開。
しかし、悠々たる脚運びを続けているタップダンスシチーは、その表情こそ画面越しには確認できぬまでも、余裕の笑みを当然のごとく浮かべているものと思われた。
〈坂を上り切って3コーナー、ここで先頭を守り続けていたタマモイナズマ、徐々に下がりだして現在2番手、残り800を通過。先頭は外から上がってきましたダンディラッシュ、メジロサンドラはその後に続く形となっていますが、大外からトシザダンサー上がってきた!トシザダンサーが仕掛けました、ミスズシャルダンも外に出して前へと上がる形となっています!〉
腕を組んで中継画面をじっくりと眺めていた様子のタキオンも、いよいよ最終直線へとレースが差し掛かった際には、胸の奥から湧き上がってくる熱意を隠せずにいた。
「先ほど早すぎるタイミングで仕掛けた面々は、もはや勝機が無いねぇ!さすがに人気度上位の面々は、勝負どころを理解しているとみえる!」
「タップさんは……やはり、ペースが変わっていませんね。周囲に関係なく、速度を維持し続ける能力……見事です。」
マンハッタンカフェも、声量こそタキオンのように上がっていないものの、食い入るように中継画面越しのタップダンスシチーを注視している。
鷹木も同じく、片桐トレーナーの指導の成果に舌を巻く思いではあったが、レースの成り行きはと言えば他のウマ娘に軍配が上がりそうであった。
〈さぁ直線を向きまして、先頭はダンディラッシュ、しかし苦しいか、2番手のメジロサンドラに並ばれている!404mの直線は逃げ切るにはやや長い!1番人気ミスズシャルダンも上がってくるが、大外からトシザダンサー!トシザダンサーが追い込んできた!メジロサンドラ粘っている、しかし先頭はトシザダンサー!トシザダンサー、今一着でゴールイン!勝ちましたトシザダンサー!〉
勝利を手にしたのは、中団で堅実に脚を運び、そして完璧なタイミングで仕掛けたトシザダンサーであった。かの天皇賞春に三度出走したトシザブイの妹なだけあって、備えている能力も本物ということだろう。
が、レース中継を見終えたアグネスタキオンは、タップダンスシチーの走りについて大いに関心を抱く側面を見出したらしい。
向こう正面ではほぼ最後方まで下がっていたタップダンスシチーは、結果的に五着でゴールしているのだ。
「……シャカール先輩!先ほど、タップくんが逃げの作戦をとった際のシミュレーション結果は、スタミナ切れを起こしての最下位だった、と言ったねぇ?」
「あぁ、その通りだ。だが、実際にはタップダンスシチーは逃げの位置にこだわらずに、スタミナも切らさず最後まで走り切って、五着にまで食い込んでやがる。」
特異点、と表現するには少々控えめすぎる結果ではある。これはオープン戦であり、その中で勝てたわけではなく、五着という結果だ。
それでも、明確にタップダンスシチーというウマ娘の強さを示した結果には違いなかった。鷹木も、結城トレーナーに告げる。
「タップダンスシチーは、これまで逃げ作戦を目指してはいましたけれど、どちらかというと自分のペースを守った結果が逃げの位置になっていた、という感じでしょうか。」
「だろうね、だから今回のレースでは、先頭にこだわることなく、最後までスタミナを切らさないペースを優先したんだろう。タップの能力と、片桐トレーナーの采配が上手くかみ合っているね。」
結城トレーナーも頷いて答えた。同年代のウマ娘に1年遅れての入学、特別レースやオープン戦にてまだまだ勝てていない状況でありながら、タップダンスシチーはやはり着実な向上を示し続けている。
トレーナーとして同期である片桐の能力を見せつけられるようで、鷹木は気持ちを引き締めざるを得なかった。
一方、タキオンもまた、シャカールと顔を寄せ合いつつ、彼女なりの研究に進展を見出したらしい。
「要するに……勝てはしなかったものの、走りの判断を自らの意思と片桐トレーナーの指示で定めたおかげで、可能性世界、予測の範疇から外れたということだねぇ、タップくんは……。」
「そういうことになるな。タキオン、お前が言うところの特異点とやらにしちゃ、スケールが小さすぎる話かもしれねェが。」
「いや、十分だとも……ウマ娘の意思、いや、指導したトレーナーの意思も合わされば、可能性世界の既定による束縛を脱せるという仮説は、より現実的になるということの証明には違いないからねぇ……!」
その発見もまた、タキオンにとっては過度な期待が裏切られる恐れを伴う、希望の一種であった。
故に、彼女は自らの興奮を極力抑えつつも、顔は紅潮させていた。