時間は全能である。すべては時間の中に育まれ、時間のもとに還る。
そんな時間にもし意思があるとしたら───こんなことを考えているかもしれない。
この宇宙は様々なもので満たされている。
たとえば物質や空間がその代表である。あるいは時間もまた、この宇宙に遍く存在である。生き物の夢や魂といった霊的なものも、限りなく存在している。
過去から未来へと流れ行く『時間』───世界の変遷と歴史を、遥かなる太古から遥かなる未来まで、ただ傍にあり、眺め、存在する。
「暇だ」
誰に聞かせるでもなく、ただ呟く。『時間』は意思を持ち、それゆえに自らを自らと認識し、世界に生まれるあらゆる命を我が子のように育んで来た。
大いなる意思によって世界は生まれ、そして滅びるわけであるが、その意思を体現するものこそがこの『時間』という存在であった。
世界を創造し、いつか滅び行くまで。
健やかに命が育まれるように、致命的な滅びをもたらす歴史は書き換え。
全能たる『時間』の庇護のもと、すべてはゆりかごの中の赤子のように優しく育った。
───知能を付け、道具を作り───そして、それを争いに用いる者が現れた。
俗にこれが「戦争」という概念が生まれた日であったとする神もいるという。
争い合い、傷付け合い、互いに疲弊し、とうとう最後の一人になるまで人類は衰退した。
しかし『時間』は、あえてそれを見過ごした。
そうして人が滅び去っても、また新たな生命が後継ぎのごとく現れ、再び文明を作るからである。
神は"人間"の居る世界を"基本"としたが、その基本以外にも世界は限りなく存在する。
犬の特徴を持つ人類、猫の特徴を持つ人類、鮫の特徴を持つ人類、鰐の特徴を持つ人類、鳥の特徴を持つ人類、象の特徴を持つ人類───と、"あり得たかもしれない世界"は無限に存在していた。
あるいは、そうして存在する世界達もまた、さらなる未来においては細分化され、限りなく分岐していた。
遥かなる始まり、そして遥かなる終わりまで、あらゆる過去と未来は『時間』の
「……暇だ」
あらゆる時間そのものであるということは、すべての時間が既知ということ。
それはすなわち、いかなる未来も『時間』そのものにとっては過去でしかない、ということ。
そもそも『時間』そのものに時間の概念は意味を成さない。それが意味を成すのは『時間』の胎内にあるべきものだけで、それ自体は"時間が過ぎる"という現象とは一切無縁であった。
すべてが既知な止まった時しか見るものがないということは、その意思にとってはこれ以上ない苦痛だった。
「…………暇だ」
───光。
「ん……?」
ぼう、と輪郭の無い淡い光の集合が、『時間』の傍に近寄る。『時間』の内側に居ないということは、これは生物でも、非生物でも、ましてや物質でも無い。
では霊か何かか? これも違う。
では何かしらの新生の概念か? これも違う。
「…………へえ」
虹色の光に包まれ、ようやくその全貌───は見えなかったが、"それ"の一部を拝むことはできた。
"それ"は外宇宙に住まうもの。神と呼ぶべきか、あるいは魔王と呼ぶべきかは定かではなかった。
永久の混沌渦巻く全宇宙にぽつんと現れた秩序、またはそれをもたらした存在の窮極。
「こういうのもあるんだな~」
それを見ると『時間』は満足したように呟く。
それを聞いたのやら聞いていないのやら、光に包まれた名状しがたき"それ"も、どこか彼方へと消えていき、後には静寂だけが残った。
『時間』は永遠である。『時間』は刹那である。
矛盾するようだが、矛盾するはずの二つが共存する概念。
始まりから終わりまで続く歴史そのものでありながらも、その歴史の中でぽつりぽつりと現れては消えていく灯火の一つ一つ、それらすべてでもある。
それは結局、決められた運命の中で、決められた筋書きの中で、定められた結末を迎えるだけかもしれない。
けれどもそれを楽しむことができれば、それはもしかしたら───『超人』なのかもしれない。
永劫に回帰する円環構造は、自らの不毛さもまた娯楽にすることができるようになった。